このライブ以来、私は生まれ変わりを信じている。(ヨルシカ「盗作」ライブレポ)

※ヨルシカのライブ「盗作」のネタバレを大いに含みます。
※内容はうろ覚えな部分を多く含むため、正確さは保証しません。間違ってたらごめんなさい。

概観

東京公演1日目に行った。
かなり人が多くて驚いた。グッズ列とか前回のライブ「月光」のときとは比べ物にならないくらい長かった。キャパも相当増えているから当然といえば当然だけど。
ライブはやはりヨルシカらしいスタイルだった。MCなし、アンコールなしのぶっ通し。観客は自分の席に座って、ただただ圧倒されるばかり。
曲たちの合間にn-bunaさんが書いたであろう小説の朗読が挟まれた。正確に覚えているわけではないのでここには書かないが、それぞれにちゃんとタイトルがついていた。
アルバム『盗作』『創作』のインスト曲を除く全曲と、朗読で構成された1時間半だった。それでもその内容が濃すぎて3時間くらい拘束されていたかのように感じられた。

小説とは別の意味での「盗作」

入場者全員に「生まれ変わり」というタイトルの小冊子が配られた。中には短編が書かれている。(『負け犬にアンコールはいらない』の初回限定版についてくる小冊子と同じタイトルだけど、同じもの?自分は確認するすべがない。)
10/2追記:同じものらしいです

短編の内容をざっくり要約する。

百日紅の木が見える田舎の小さなバス停で、ある女の子が幽霊と出会う。
毎日その幽霊と話すうちに、その幽霊が生まれ変わりを信じていること、そして誰かを探していることを知る。
こんなバス停で待つよりもっと都会で探したほうが良いのでは、と不思議に思う女の子に幽霊は「その人が生まれ変わっているなら、きっとここにくるだろうから」と伝える。
そのとき、女の子の口が別の意思を持っているように動き「私もあなたを待っていました。」と告げ、幽霊は「そうか、君だったのか」と言い消えてしまう。

これが今回のライブの大前提として存在している。

ライブ中の語りの内容は、小説「盗作」に出てくる音楽泥棒(この際、盗作おじさんと呼ぼう)が夢の中で妻がまだ生きていた頃の思い出を振り返る、というものだ。

小説でも盗作おじさんと妻の思い出がまばらに描かれてはいたが、メインのストーリーは母の作ったガラス細工を壊す少年との話だった。楽曲制作のオリジナル性とその価値、心に空いた穴を埋める破壊衝動についての話。

そして、今回のライブで語られる文章は、小説で詳細には描かれていなかった妻との話を深掘りしたものになる

盗作おじさんと妻が、二人が出会ったバス停に集合して、隣町に花火を見に行く。

「暑いね」と言いながら歩く二人。途中、下りの電車が事故で止まっているということで、二人は歩いて山を越えることにする。道中、妻は盗作おじさんに「小さい頃、幽霊に出会ったことがある」と話す。その内容は短編「生まれ変わり」の内容そのものである。つまり、「生まれ変わり」のなかに出てくる女の子は幼き日の妻だとわかる。

幽霊は上の方を見上げていた、という妻に「雲を見ていたのかな」と盗作おじさんが聞くと「いや、多分、百日紅を見ていたんだと思う」と返ってきた。その言葉にドキッとする盗作おじさん。その後、花火を見ている間もずっとその百日紅のことを考えてしまう。

その後、バス停まで帰ってきて月光に照らされる百日紅を見たとき、盗作おじさんの頭に前世の記憶とも呼べる何かが稲妻のように走る。
(「月光」に行った人ならわかると思いますが、ここのn-bunaさんの朗読の抑揚のつけ方は明らかに月光のときのそれを意識していて、この前世の記憶がまさしく月光のときのもの、つまりはエイミーのものだということを示唆しています)

そうして盗作おじさんは、自分が妻と幼少期に出会って成仏した幽霊の生まれ変わりであり、前世で妻と出会っていて、再び彼女と今世でも出会って結ばれることができたのだと悟る。そして、もしそうであったらどれだけ美しいことなのだろうと。

もし、自分の魂が前世から受け継がれているものだとしたら。彼女への思いで歪に形作られているとしたら。

この世にある自分の魂、それはまさに、盗作である。

ざっと内容をまとめると、こんな感じだったと思う。多少記憶の捏造による補完が行われているかもしれない。
10/2追記:Twitterにて、語りを速記で書き起こしてくださった方がいました。感謝。

つまりは、小説における「既にあるメロディを盗んで作られた音楽」という意味での盗作ではなく、「前世の魂の強い思いを引き継いで形作られている盗作おじさんの存在そのもの」という意味での盗作がライブでは語られていたのだと思う。

小説「盗作」とライブ「盗作」は、『盗作』の楽曲たちにそれぞれ別の方向へと奥行きを持たせるものとも言えるだろう。

爆弾魔と「生まれ変わり」

幽霊は百日紅を見上げていたんだと思う、という妻の言葉に盗作おじさんがドキッとしたのはなぜだろう。

アルバム『盗作』には「爆弾魔」が再録されている。この曲では百日紅の花を爆弾に見立てて歌っている。僕個人としては、盗作おじさんの思いを表した「爆弾魔」と、その前世である幽霊の思いを表した「爆弾魔」と、二つあるということなんじゃないだろうかと思っている。
前者が『盗作』に収録された「爆弾魔 re-recording」で、後者が『負け犬にアンコールはいらない』に収録された初期「爆弾魔」である。

つまり、前世の幽霊の魂が今世の盗作おじさんに受け継がれていて、その強い思いが溢れた結果できた作品が「爆弾魔 re-recording」なのではないか。そして、この曲こそ今回のライブで語られた意味での「盗作」の象徴的存在なのだ。

盗作おじさんがドキッとしたのは、百日紅をきっかけに自分の心の一部が妻の遭遇した幽霊の思いとシンクロしていることに気付き、自分の生まれ変わりを悟ったからではないだろうか。

実は、小説「盗作」でも、既に生まれ変わりについては仄めかされていた。

彼女は生まれ変わりを信じていて、もしかしたら前世じゃあ一緒だったのかもしれないって、よく話したもんだった。
(中略)
俺があの「月光」の話をすると、彼女はいつも恥じらった。
あれを弾くと涙が出てくる、というのは彼女の言葉だ。
どうしてかはわからないけれど、涙が出る。
ピアノは独学で誰に教わったわけでも無いのに、誰かが教えてくれた様な感覚がする。

この疑惑が限りなく確信へと変わるのが今回のライブだった。きっと、二人の前世はエイミーとエルマに違いない。

ずっと、盗作おじさんの妻が7つも歳上であることが引っかかっていた。それは、妻が7歳の時に幽霊と出会って成仏させて、その幽霊が生まれ変わったのが盗作おじさんだったからなのだろう。そうして二人はまた、そのバス停で巡り会うことになる。美しすぎる物語。

『負け犬にアンコールはいらない』の発売時のインタビューにこんな部分がある。

──1曲目のタイトルが「前世」ですし、アルバム全体を通して「生まれ変わる」がテーマになっているように感じます。メロディも1曲目と最後でリプライズしていて。
よくわかっていただいてうれしいです。全体としては、簡単に言えば前作の「言って。」に出てくる“私”が、何度も生まれ変わりをした先でもう一度「雲と幽霊」の“僕”と出会う話が前提にあって、そのコンセプトのもとに今作の曲も作っています。インスト曲にも世界観を補足するポエトリーを付けていますし。

ヨルシカ「負け犬にアンコールはいらない」インタビュー より

これを読むと、ヨルシカ楽曲は一貫して一つの世界観が根底にあるのだとわかる。

アルバム『盗作』が出たとき、エルマとエイミーの物語は完結して、新しいコンセプトが始まったのだと思った。しかし、小説では少年との物語にスポットライトが当てられていたばっかりに気づかなかっただけで、実はこの『盗作』にもこれまでと共通する「生まれ変わり」という世界観が存在する。

ライブの感想

もう、最高な時間だったとしか言いようがなくて、自分の人生のうちライブ中の時間だけ切り取ってどこかに保存して飾っておきたいくらいで、とにかく上に書いた内容以上に演出もライブ映像もパフォーマンスも語りの細かい情景描写も、すべてが煌めいていて、とにかくひたすら感動していた。

演出とライブ映像について。
盗作の時に上から吊るされていたオブジェには圧倒された。春泥棒の時は本当に桜の花びらが舞っているのだと錯覚させられた。昼鳶の映像はなかなかに刺激的だった。花人局の映像は曲に忠実な表現で哀愁を漂わせていた。春泥棒の緑混じった桜の映像には目が釘づけになった。

パフォーマンスについて。
全体的に原曲をアレンジした演奏、歌い方が多くて、月光のときに比べるとライブ自体を楽しむ余裕が演者さんたちからより伝わってきた。

1曲目の春ひさぎからAメロあたりでメロディを少し変えていたし、他にもオリジナルのイントロを付け足してから曲に入ったものがいくつもあって、これこそライブだよな、という感じだった。春泥棒のCメロのボーカルの間に挟まる各パートの短いソロフレーズも原曲とは別物で、楽しませてもらった。嘘月なんかも大幅に演奏にアレンジが加わっていたけど、原曲のラスサビのピアノフレーズが好きすぎるのでそこだけは本家のままで聞きたかったという個人的な惜しさはある。ライブではかわいい響きでポップな曲調に変わっていた印象。

suisさんは月光のときよりも明らかに歌が上手くなっていた。低音と高音、裏声と張った声など変幻自在で、本当に唯一無二のボーカル。スキル的に上達して余裕が生まれたのか、持ち前の表現力がより一層光っていた。時折、前かがみになってマイクに感情の原液を流し込むように歌っていた。

演奏陣も楽しそうにパフォーマンスしていた。レプリカントの時のはっちゃんさんのヘドバンが激しすぎたり、盗作の時のn-bunaさんがオーバーな動きが気持ちよさそうだったり、見ていて尊かった。

語りについて。
n-bunaさんの魂のこもった声にドラムの重低音以上に心を揺らされた。目を凝らしてギリギリ文字が見えるくらいの席にいたので、その全てを記憶に残せていないことがとても悔しい。普通に文章としても読みたい。いつか短編集みたいなのを出してくれないかなあ、出してくれないんだろうなあ。

最後に

花に亡霊の映像で、次から次へといくつも咲く花火を見て、「夏だ」と率直に思った。

コロナの影響もあって夏らしいことを何にもできなかった自分にとっての夏が、確かにそこに存在していた。

ライブの終了とともに、幽霊となってさまよっていた自分の夏が消えていくような、そんな感覚がした。

まるで、「そうか、君だったのか」と告げて、泡となった彼のようだった。

今日感じたこと、成仏した思いを全て引き継いでこれからを生きる自分もまた、ライブ「盗作」の生まれ変わりなのかもしれなかった。

別に魂を引き継ぐのは前世からだけとは限らない。

このライブを見て、きっと今の自分の心にはn-bunaさんやsuisさん、ライブを作り上げたメンバー、スタッフ全員の魂が引き継がれている。

そしてその魂は、これからの自分の創作、ひいては人生にまでも必ず影響を与えるだろう。

このライブを心に宿したまま生きていく自分の人生、それはまさに「盗作」である。





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