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ゆめがなくなる

 学校の先生になりたい、アイドルになりたい、詩を書く人になりたい、アルフィーの近くに行きたい、東京で働きたい、水族館、映画関係、小説家、客室乗務員。いろいろなりたいものがあったし、おれは勉強するのが好きだった。そのための学校に行くことも学校のことを調べることも好きだった。

 大好きな母がいなくなってもうダメだーと泣き暮らしながらも新しいゆめを見て変なメイクをして前髪も固めて就職活動をしていたけれど、一年もしないうちに父がいなくなってもう本当にダメになってしまった。

 母の看病のために同じアパートに引っ越してきてくれた兄が、おれがただ泣いてばかりいる間に遺産のことや葬儀のこと、大体を仕切ってくれていた。おれは兄に言われた時間に部屋を出て兄の車に乗っているだけ。もちろん全部の手続きに立ち会ったけれど、正直この辺りの記憶はすごく曖昧で全体的にぼんやりしている。その時の兄26、今思うとすごい。ドラマにあるような遺産相続の争いもあったりして、こんな時でも助けてくれる人ばっかりじゃないのだなと世知辛い思いも沢山した。

 いろんな手続きや争い、実家の片付けをしているうちに、はいまた法事。10日おきに親戚が集まってお墓参りをして飲み食い、そして次は母の一周忌、父の次の法事の打合せ。本来ならば毎度わざわざ集まってくれてありがとうございます、なのだろうけれど、さすがに。準備、親戚の集まり、支払いでまたぐったり。田舎だからか電話一本、メール一本、ネット送金では済まず何事も出向いて、では明日11時でお願いします、ありがとうございました、と回らなければいけない。その度にお茶をいただき、小一時間世間話やら。本当にこれみんなしてる? ずっと地元にいるのはさすがに気が滅入るので、アパートと実家を二人で行ったり来たりしてまた泣いて寝て。飲んでまた泣いて。

 時間薬というけれど、その時のおれは時間が経って悲しみが薄れて、それと一緒にお母さんがいないこと、お父さんがいないことに慣れてしまいたくなかった。なんならずっと悲しんでいたかった。

 そんなおれだったから、なかなか前を向くことができず、新しいゆめを見るどころか大学にもほとんど行かなくなってしまった。もちろん行く気はあって、自動車学校にも行く気はあって予約も入れるんだけど朝になるとどうにも行けない。ギリギリまで踠くも結局キャンセルしてしまい、少しほっとするもすぐに自己嫌悪。自動車学校はアパートから徒歩5分、こんなこともできないならもうおれなんて何もできない。ゼミだって何回も休んで卒業だってどうなるのか、もし卒業できたとして就職活動もやめてしまったしもう何にもなれないじゃん。ヒノ(彼氏)のことだって、酔っ払って泣きながら電話したり泣いて気を失ったり、心配させてばっかりでしんどい思いさせてるだけじゃん。

 あぁおれって本当にだめ、せっかくいっぱい勉強させてもらって沢山ゆめも見てきたのに。もうゆめを見るどころか、ただ悲しみの中にいたくて、けれどそれもきつくて、命を絶ちたいわけじゃないけれど、そう長く続かなければいいなと思ってさえいた。

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