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「わかりあうこと」について

 使っているmacの、deleteキーが突然使えなくなった。

 普段あたりまえのように使えていたものが突然使えなくなると、なかなか困る。そして、ありがたみを実感する。なーんて、よくあることだ。


 上の出来事とはまったく関係なく、近頃「人と人はわかりあえない」と心から感じることが、ままある。これはまごうかたなき事実だ。

 いや、違う。正しく言えば、「人と人は本来わかりあえるものの、その目的を達成する為には半端じゃない労力・時間・覚悟が必要なので、ほんとうにわかりあいたい相手は選ぶべきである」ということだ。スナフキンも言っていたが、みんなを相手にしていたら時間なんていくらあっても足りやしない。人生は短い。

 わたしは基本的に淡白だし、他人に興味がない(先日も稽古場にて、敬愛する広田淳一さまから「めぐちゃんは自己愛が強いね」と言われたばかりだ。その瞬間は意味がわからずただ首をかしげたが、今ではなんて正しい表現なのだと頷くばかりだ)。どうしてここまで他人に興味がもてないのか自分でもわからず、「どうすれば他人に興味が湧くのか」ということに興味をもち続けている。


 人と対話をする場合、だからわたしは基本保守的だ。

 人と面倒事を起こしたくないのだ。少しでも意見が食い違えば、相手は(情熱をもってわたしに向き合ってくれる人は少なからずいるので)それをなんとかわからせようと数多くの言葉たちを駆使してわたしに向き合ってくれる。

 わたしは正直、その段階で一歩引いてしまうのだ。言葉の多さに辟易してしまう。わたし自身、「必要最小限の言葉だけで、シンプルな自己表現をする」ことを美徳としているきらいがあり、よく喋るひとがいやなのだ。訊いてませんよ、あなたの意見は、と思っちゃう。

 人は、各々自分が正しいと信じている。実際そうなのだ。世界基準の正しさなんて存在しないので、自分が正しいと信じることが最も正しい。けれどわたしには、「自分の意見が正しい」と相手に伝えるだけの言葉と経験(すなわち説得力)を持ち合わせていない。つまり、コミュニケーションから逃げている。


 鈴木光司さんの、こんな言葉がある。

 『 花は美しいというと「美しくない花もある」という人が出てくる。そのクレームを想定し「美しい花もあるが美しくない花もある」と書く。それはもはや言う必要のない文となる。全ての人が納得する文では表現にならない。勇気が必要なんだ 』


 わたしは、まさにこれなのだ。自分が発した言葉の後に続く相手の台詞を勝手に忖度し、本来表現したい目的からほど遠い言葉をチョイスしてしまう。あとは、「わたしはAだと考えるが、Bと考える人もいるだろう。その場合を鑑みて、B派から批判がこないような先手を打った表現をしよう」というような。まあ、しょーもない、言葉の浪費である。しかし、なかなか逃れられない。勇気が要るからだ。


 そもそも、わかりあおうとするならば、わかりあえないことを念頭に置いて向き合うべきだ。だから、自分の意見がどんなものであれ相手にそのままぶつけられる。自分も、ぶつけられることができる。

 ちゃんと自分が傷ついて、相手を傷つけることができる。それこそが、対話ではないのか。それこそが、相手と向き合うことではないのか。

 様々な可能性を鑑みて言葉をチョイスすることは、どこにだって溶けこめるだろうが、どこにも刺さらないだろう。Bという意見があることは踏まえた上で、あえてそこを無視してAと発言する勇気をもつことだ。

 勘違いしたくないのは、なにもわたしが「Aだ」と発言したからといって、「Bを否定している」ことにはならない、ということである。ここがごっちゃになっている人が、わたし含めとても多い気がする。あー、生き辛い。椎名林檎が唄っているとおり、「どうして歴史の上に言葉が生まれたのか 太陽 酸素 海 風 もう充分だった筈でしょ」だ。まじでそう思う。

 けれど椎名林檎だって実際それを日本語という言葉を用いて表現しているのだから、人間に生まれたからにはわたしたちは言葉と共生する覚悟をもつべきなのだ。ゆっくりでいい、言葉の手綱を引く訓練を重ねるのだ。



 はー、洗濯機もピーと鳴いているので、今宵はこのへんで。

 しっかしまあ、delete使えないのほんっと困るな。



  ✴︎ BGM : Suchmos「STAY TUNE」

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