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漫筆

こちらは以前自己紹介ページに記載していた記事です。
やや長文で扱いにくいため、この度分割し編集を加えたもので、特に新しい情報はありません。
※ 既読の方は画面を閉じていただきますよう、お願いします


学生の頃から、完全な理系の環境に身を置くことが多かった私。
学生〜会社員時代を通して、
事実や根拠にこだわった科学至上主義の人たちの中で生活していました。
もし仮に、占星術やタロットなどという話を私がしたならば、
その瞬間に周囲から人がいなくなったでしょう。

私はと言えば、ふと目にした書籍の影響で、
高校生時代に初めてナノの世界について真面目に考えるに至りました。
その書籍は"魔術"について真面目に語っていたもので、
「魔法を発動させるために必要となる魔法陣の精度は非常に高い」
という話で・・。

書籍を間に受けて考えると魔法陣の作成は原子スケールでの話になるため、
何これ、手では絶対描けない代物じゃん..
「..まって…"魔法陣"って….描くのめっちゃムズイじゃん…(驚)!!」
となるわけです。

ーそんなこんなで紆余曲折を経て、
結局大学ではナノスケールの理論物理学を専攻していました。

(↑このへんが、思春期が人生に与えるノイズの恐ろしさよ泣・・って感じですが、もちろん魔法陣の話だけが後を引いたわけではありません。
会った人の名前はもちろん、顔の見分けがつかないほどの生来の記憶力の乏しさもシッカリ後を引いております。)

量子力学や統計力学、数学などの知識が必要とはいえ、理論物理はノートと鉛筆一本さえあれば、誰でも無限にも思えるその世界に触れることができるということを、私は先生やお世話になった方々から教えてもらいました。

(ちなみに先生はいつも「一銭もいらないんだぞ?こんなに金がなくてもできる学問って他にある!?」と興奮気味に言っておられました)

朝から晩まで計算ばかりで、毎日生徒としても1人の人間としても罵倒されながら指導いただきながら密度の高い時間を過ごしていたあの頃、ノートに広がる演算子の羅列がそのまま物語になってしまうような、不思議で美しい、ある意味とても神聖な世界を教えてもらったと今では思っています。
当時よく"計算過程は物理過程"と表現されていましたが、これは計算で成り立たない現象は現実世界でも起こらないことを意味します。(本質を捉えていないコンセプトで計算することは物の"理"自体をねじ曲げていることになる)

こういう環境下では「言いたいことがあるなら手を使え」(口を開く前にまず自分で計算しろ)という雰囲気があって、私は不出来な生徒でもあったことから軽々しく意見なんてとても言えませんでしたが、学部内に漂う「口先野郎は許さない」とでも言わんばかりの"実直さ"が私はとても好きでした。

私にとって、理論物理学という学問は人間一人一人がその手で(一行一行計算して)切り開いてきた道であり、小さくも大きな人間の力を尊敬とともに思い出させるものです。
たとえそれが人間の欲深さ、愚かさ故の業であったとしても・・

長々と話してしまいましたが、何が言いたいかというと、今でも物事の道理に立ち戻って考えることは私の世界観の根幹をなすもので、どんな状況でも、精神世界を旅していたとしても、現実を離れて私たちは生きられない。そう私は思っています。現実をごまかすようなスピリチュアルにも賛同しかねます。ただ、科学でまだ証明できていない事実もあって当然だと思うんです。その余白を持ちながら物事を見ていくことも、私には面白く思えます。

私たちが生きているこの世界って、ままならないところなんですよね。何十年生きても、この世にはわからないことがたくさんあります。私たちは、家族のことも、目の前に立っている人のことも、時には自分の姿さえも分からなくなってしまう。そして私たちが最も辛くなる時。それは、なぜ今自分がこんなにも苦しいのか、そして残酷にも思える出来事がなぜ自分の身に起きているのかが分からない時ではないでしょうか。

私は、今では占星術も物事や人間の輪郭を掴むための一つのツールだと思っています。物理学のように道理を追求したり原理を解明するような類のものではありませんが・・エンジンの原理を理解していなくても、私たちは望んだ時に車に乗れる。そんな感覚と言ったらいいでしょうか。
占星術は「死ぬまで研鑽を積むもの」とよく言われます。それは、私たちにとって経験は常に更新されるものであり、学ぶことが尽きないから。
私もこの社会を生きつつ、奥深い世界を更に深く学びながら旅できたらいいなと思います。


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