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過程の100点よりも現実の1点

映画「何者」の初日舞台挨拶に行きました。
というわけで
以下ネタバレ(大きなネタバレはないので見るかどうか迷ってる人は読んでもいいかも)




「何者」を見終えた時

私はなんだろうか。と思った。
私は何で、誰で、これからどこに向かって歩いていくのか。どう生きるのか。
どう生きていくのが正しいのか。
どう歩いていくのが一番みっともなくないのか。


Twitterにはいろんな人がいる。

意識の高さをひけらかすかように呟いてみたり
持論を出していかにも正しいようなことを呟いてみたり
自分は他人とは違う、と理解されないようなことを呟いてみたり

だけど
誰もお前のことなんか気にしてないよって
高みの見物してる人が案外一番多いんじゃないかと思う。

上映後、原作者の朝井リョウは
「書いてて、誰もが観察者だと思った。一億総拓人みたいな」と言った。

本当にその通りだと思う。

今の時代、観察しないで生きていくほうが難しい。
圧倒的情報量と引き換えに見たくなくても見えてしまうものがあるからだ。

そうなると
どうしても半歩引いた斜めから人を観察するようになるし
眺めた人を自分のことはさておいて「サムイ」と失笑したりする。
まるで何者かになったかのように。


だからこの映画は
主人公の拓人に一番共感するのだろう。



「何者」を見て
何が正しいのか分からなくなった。

だっていろいろグサグサ言われるのだ。

過程を出すなとか出せとか
痛くてサムい姿を見せるなとか
痛くてサムくても、そうやって生きてくしかないんだとか

映画の前半部分で
こう生きるのが正しいんだと思った矢先に
後半部分で
いや、そうじゃない、こうだ!って気付かされたり

映画の中で迷子になる。

おいおい、どっちに行きゃいいんだ
正解を教えてくれよ


しかも上映中は
自分の中にある隠しておきたい部分を洗い出されて
もう、痛くて痛くて仕方ない。

私じゃん。これ私のことじゃん。

そんなんばっかりだ。


劇中に「頭の中にあるうちは何だって傑作なんだよ」っていうセリフがある。

いや、もうこれは本当に
グサグサくる。痛い。

頭で考える文章や写真・絵の構図って完璧だ。自分の中では100点でそれ以上はない。
でも実際に外に出してみたら全然上手くいかなくて
発信するのを思いとどまって、完璧になるまでそれを追い求めてみたりする。

でもさ
完成するまで待ってたら発信するのはいつになるの?


自分の中にあるだけじゃ「作品」にはならないのだ。
出さなきゃ誰にも点数をつけてもらえない。
出して初めて「何か」になる。

人でも同じじゃないだろうか
140字に収まるツイート一つとっても
発信することをやめたらそれは何にもなれないし
誰も自分が何者かなんて語れない。

何者かになれるほど自分を出してなんかいないだろ。
もっと痛くて恥ずかしくてサムくてみっともなくていいんだって。
認めてほしくても見止めてもらえるほどお前は何も出しちゃいないんだって。

外に出した「何か」の評価が1点とか2点だとしたって
何も出さずにただその時を待ってる奴なんか
表面上では0点なんだから。

それを「何者」でひしひしと感じた。


結局
この映画は一つの正しさを言いたいのではなくて
どれも間違ってて、どれも正しいよってことが言いたかったのかなと思う

私たちは
自分が正しいと思う方向を貫いていくしかないし
たとえそれが間違いだったとしても
若干の軌道修正を加えながらその道が正しかったと胸張って生きていくしかない。


「何者」はダメな自分を気付かせてくれて、肯定してくれた。
迷子にはなったけど
なんだか行く先の方向が定まったような気がして
上映後はモヤモヤと同時に晴れ渡るような気持ちになったのだ。



私は
「何者か」になれるだろうか

私が考える
「何者」ってなんだ。



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