声高な正論と生きづらさ『道徳教育は本当に道徳的か』

1.紹介・あらすじ

 教育学者、松下良平著。現在の道徳教育に疑問を投げかける内容。道徳の教科化やテスト化が進むなか、道徳教育のあるべき姿を、過去の例などを参照しながら述べている。特に重要な点をまとめたい。


 筆者は、道徳が「市場の競争」から身を守るために生じるものと、呼びかけー応じる関係(親しい)に関係にある人間と価値を共有することで生まれるものがあると考えている。前者は主に、他人の利益を尊重し、自己犠牲によって利他主義的な意味を持つ。後者は、自分の利益の追求を他者にまで広げる、自己愛の他者への拡張の意味を持つ。簡単な例をあげよう。
 最近Twitterで"映画館でスマホを使う人がいる"というのをみた。どうやら、"マナーだからそんなことはしないでほしい"とのことらしい。これは、自らの"映画を邪魔されずに見たい"という自分の欲望を守るための主張であり、前者の例にあたる。一方、今年は台風が多く各地で大きな被害をもたらした。被災地では復興が進んでいる。そのような場所で進んでボランティアに行くことは、明確な自己に対する利益がない点で、後者の例といえる。


 筆者は現代の道徳教育は前者の自己犠牲を伴う利他主義的な考えによって成り立っているとしている。とても簡易にいうと、"ルールによる道徳"であるといことだ。
 昨今のいじめ問題をみるとわかりやすいと思う。学校はいじめ対策として生徒になにかしらの道徳教育をおこなっているわけだが、その内実は「いじめはしてはいけない」「仲間外れにしてはいけない」「無視はいけない」など、ルールじみたものばかりである。

 著書のなかで筆者は、"ルール"の道徳と価値観の一致による道徳どちらが大事である、どちらかがいけないなどの極端な意見は述べていない。しかしながら、このままの道徳観・道徳教育では、ルールだけを偏重する非情な世のなかになるとして、自己犠牲を重んじ利他的になることだけが善とされる現在の道徳教育に警告を促す。


2.感想

 ちょっと難しいことばが多く、読むのに苦労した。「イジメはだめ」のような一方的に押し付けられる説教まがいな何かや、小学校のころにあった「こころのノート」はなにかしっくりこなかったが、やっとそのころの違和感が理解できた。
 確かに、ルールに厳しい生きづらい世の中になってきている実感は私もある。Twitterでは正論で特定のだれかを叩くのにやっきになる人が多くみられる。彼らは"正論"を声高に叫ぶ。
 少し前にイートイン脱税が話題になった。食品などを軽減8%で購入し、解放されているイートスペースなどで食べる行為である。ルール上は外食にあたるので、税率は10%であり、軽減税率で会計すると脱税にあたるといった理論だ。
 ここでは、イートイン脱税の是非を述べたいわけではないので、言及は控えたい。ここで述べたいのは、正論を振りかざす人が増え、生きづらい世の中になったなあということである。


 たった2%なのだが、国を成り立たせるためには、自分の資産を削ってでも納税するべきだ、という自己犠牲的な考えが徹底しているからこのような正論が強く訴えられているのだろう。

この考え方の裏には、自分の資産はできればなるべく納税したくないという思いが隠れているのではないだろうか。ルールによる道徳、自己犠牲を良しとする道徳を徹底しすぎると、逆に自己中心的な思考に陥っているように感じられさえする。

現代の生きづらさ全てが"道徳"のせいとはいわないが、今の"道徳観"がその一端を担っているのは確かである。

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