理想主義の敵は現実主義ではない気がする、という話

擬態する理想主義者

現実主義の忌避すべき資質は理想主義なのかもしれない
(現実主義者じゃない私にはよくわからない)が、
私が与する理想主義の敵は、決して現実主義ではない。

創造性に長けるとか、個性抜群☆とか褒めすさえられても、
そんなもので飯が食える一部を除いて、
大抵の理想主義者は、成熟とともに現実主義を纏うようになると思う。
その姿勢が「理想主義は実利がない・お金にならない・現実社会で苦労する」的な偏見を覆さず、なんなら再生産していることに、あてもない罪悪感を抱きつつ、私もそうしている。(擬態は得意分野👍嬉しくない👍)
その甲斐あってか、はたまたFe優勢だからか、計画性の気質ゆえ(理想主義はふわふわお花畑という世間のこれまた偏見を前提としてね)か、いずれなのかはわからないけれど、周囲の目にはばっちり現実主義に映るらしい。

が、ここまでうだうだ書いてきてお分かりの通り、
わりと生粋の理想主義者だと自覚している。

初めてMBTIを受けて、その診断を読んだとき、
そうそう、そうなのよ!と思った点は数知れずだったけれど、
外面は現実的な、知に足の着いた超理想主義者という記述には
特に感動した覚えがある。
これは他のどんな性格診断でも、近しい他人も、自分自身さえも、上手く言語化できていない、私の根っこにある姿勢だったからね。

ひとまずの結論と、両者のイメージ像

この衝撃を受けてから、
現実と理想、現実主義と理想主義について、頭の隅で考え続けてきた。
結論は出るわけもない。
し、自己理解の演繹で導く結論は往々にして己と他者理解の限界になってしまうから意識的に避けているきらいすらあるのだけど、
ほんの初歩の思索を終えたところで、脳内整理をしておきたい。

暫定ではあるものの、私の主張として、まず
(少なくとも私が価値を見出している)理想は、現実と対置されるものではない、ということは声大きめで言っておきたい。

現実がここにあって、理想は天空・不可視・現実と対置・無計画・甘い無秩序的なのが、世間の(特にアンチ理想主義者の)イメージなのかな、と思う。
でも、私にとってその2つは固く結びついている。引っ張り合っているというか。
現実とは過去の山積であり、今ここ。(これは同じ。)そして理想は、その「今ここ」からのびる、細く長く、ちくちくする草木が生い茂っていて、見通しが悪く、いつも天候不順な道(延長線)の先にあるもの、みたいな。(例え下手だな)。断じて宙に浮いてなぞいないし、持続可能な理想がカオスなわけないだろう。

イメージを伝えるのが下手すぎるので、もう少し抽象的な活字で補足。笑
理想なき現実はありえても、現実なき理想はありえない。
理想を理想たらしめるのは、現実認識あってのことであって、
現実に立脚しない理想は、妄想だと思う。
壮大な理想もあれば、矮小な妄想もある。
問題は現実との距離ではなく、
現実を認識しているか、ないがしろにしていないかということだから。
それぞれの志向は対置されるものじゃないと思う。

対置じゃないならどういう関係?

理想を目指さなくなれば、現実はいつか朽ち果てる。
理想なんか手放せば幸せになれるとか、夢を追っても云々と言われるけど、
人間だもの、それらを最後の一滴まで頭と心から追い出せるわけはなく、
そうする必要もない。
つまり、程度の差こそあれ、理想は、絶対に全ての人の中にある。

なのに、そのどちらを強く志向するかによって、
何故か急に「どちらか」という二者択一を迫られ、緊張関係が出来上がる。これが結構長いこと気になっていた。
気になっていたというか、理想主義者としてのこの居場所の無さはなに…?というおぼつかなさと、反感と。しかしその矛先が必ずしも現実主義者でないことへの戸惑い。そんなとこだった思う。

考え始めて少し経ち、ある仮説を立てた。
理想主義が、現実主義よりずっと足蹴にされるのは、
理想主義の障壁として、
その気のない=勇気、行動力、アウトプットなどを伴わない理想主義(「妄想主義」)が強力に存在しているからではないか、という仮説。

ふわっふわの理想主義(妄想主義)が跋扈すると、
もれなく、理想(を語ること)全てが冷笑に付されるようになってしまう。
世の中、少なくとも表面上は現実主義者が多いが、生きてれば妄想主義としかいえない、未熟で不健全な理想主義者に出会うこともあった。理想に、成熟と健全という尺度を持ち込む前は、彼らを見て「こりゃマズい…口当たりがいいだけで、これは何も変えないし、現実主義に劣る」と危機感と嫌悪は募り、それは理想主義者たる自己(への)嫌悪になってしまっていた。
でも、先に書いたように嫌悪していた理想主義は、妄想主義であり、
私が価値を見出したそれではなかった。この区別が出来るようになって、価値がずいぶんと非対称に置かれた二項対立から解放されたように思う。

いろいろ穴のある、そして何より他人に理解されない次元の仮説になっていることは自覚しつつ、それでもこの仮説でずいぶん楽になった自分がいる。

理想主義ミソジニーを超えて

私は、生粋の理想主義の中ではあるものの、
計画性・合理性など現実主義の重要項目を蔑ろにはしない(少なくともそのつもりはない)。MBTIの結果も、それの証左だと思う。
健全×成熟の現実主義には敬意しかないし、
協働させてもらいたいと常に思っている。

そして、決して両者は敵対関係などではないのだということを証明して生きる人間になりたいと思うようになった。

いわば"理想主義ミソジニー"に抗って生きて行くことは、
二択でこっちになってしまった以上必至だし、逃げるつもりはない。
己の理想主義的側面に投げられる石を、「いやいや私実はそっち側なんですよ」と手もみして、"許して"もらうようなことは決してしない。ダサいことこの上ない。

ただ、
成熟した現実主義は、理想を鼻で笑うことはないし、
成熟した理想主義は、希望を常に携えながら現実において透徹する。

理想主義を"浮ついた社会不適合"よろしく馬鹿にするのは現実主義の、
現実を醜くて粗雑で向き合うに値しないと目をそむけるのは理想主義の、
不健全かつ未熟な類に自分は過ぎないと自分で宣言してしまうようなもの。

現実主義は世界を支え守り、理想主義は世界を進めていく。どちらかだけでは世界は崩れる。

みたいなことを、生き方でわかってもらえるような人間になろう、と思った。万能にはなれなくても、両性具有みたいにはなれるんじゃないかと。

すまん、何が言いたいのか見失ってしまったけれど、
理想主義者を笑う風潮ってめちゃくちゃ危ないと前から感じていたのに、
それはコロナや戦争やショッキングな事件など、
苦しい現実が続いているここしばらくでその傾向は強まっているように見えて。
誰にも届かなくても、何かを変えるようなものは生み出せなくても、
自分のために、理想主義の価値をここに置いておきたかった。

なんだか不完全燃焼なので、とりあえずShip itするけど、また加筆しようかな。

超・余談

ずっと先延ばしにしていた眼科に行った帰り道、
6,7歳くらいのおかっぱ頭の男の子が、
住宅街にあるちっさな神社で手を合わせ、
目をつぶって何かを祈っている姿に、足が止まった。
写真に収めたくなるほど、神々しさすらある後ろ姿だった。
あのちっちゃい身体で、何を必死に願っていたんだろう。
叶うといいな。私も願ってる。


年末ですね
ただでさえ師も走る忙しさなのに、濃厚接触者になったり、クリスマス商戦でいつもよりバイト稼働していたら、予定が後ろ倒されてつっめつめ&タスクもてんこ盛りのまま、気づいたら今年もあと3日なんてことになっていて震えてます

お仕事の方も、お休みの方も、
どうか心安らぐ瞬間をもてますように

おやすみなさい🌙


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