ルックミーというウマ娘のお話
Twitterに投稿したルックミーという創作ウマ娘の数年後のお話です。先にそちらをご覧になる事をおすすめしますhttps://twitter.com/nicenature1988/status/1432996461545877505?s=21
またやってしまった。担当ウマ娘の出走したレースをテレビ上で観ていたら、いつの間にか時計は15時を示している。集中するあまり、空腹であることすら気づかなかったようだ。
テレビの再生停止ボタンを押し、昼食を求め財布片手に学園を後にする。この些細な移動時間の間にもウマ娘のことを考えてしまうのはトレーナーの性だろうか。
中央でトレーナーをするようになってからはや9年。未だに一流のウマ娘を輩出できない無名の中堅トレーナー。現在担当するウマ娘も未だに未勝利と状況は芳しくない。このままだと、あの子ーーー新米の頃に担当した彼女の二の舞になってしまう。
『トレーナーさん。どうして私は走ってるんでしょうか』
あぁ、一度思い出すと、彼女との日々がフラッシュバックしてしまう。
模擬レースでの彼女の末脚に一目惚れしてスカウトした。1着ではなかったものの、他にもスカウトしてきたトレーナーはいたようだった。だが、「1番必死にスカウトしてくれたのはあなただったので」と快く俺とのパートナー関係を了承してくれた。
天真爛漫ないい子だった。しどろもどろでなんとか言葉を紡いだ俺のアドバイスを、ふむふむと大きく首を縦に振ってメモを取って聞いてくれた。
メイクデビュー、彼女は2着だった。上出来と言える結果だったが、次は絶対1着を取ります、と涙ながらに言う彼女を見て、この子と一緒ならきっと…と、俺には何の力もないくせに大層な夢を見た。
そして、彼女はこの1着の壁を一度も超えることができずに引退をした。皮肉な事に、着順のみで見れば、彼女が最も輝いていたのはメイクデビューのレースだという事になる。
以降彼女とは連絡を取れていない。数ヶ月おきに近況を聞くメッセージを送信したが、いつまで待っても返信は無かった。
これまでの9年間、彼女より戦績の良かった担当ウマ娘はたくさんいる。けれど、俺の胸の奥深くに刻まれているのはいつだって彼女の名前だった。
彼女は今、どこで、何をやっているのだろうか。
それを、俺が知る権利があるのだろうか。彼女の夢を、クラシック三冠、G1レース勝利、G1レース出場、重賞レース出場、レースで1着、と妥協して妥協して妥協して掲げた目標すらも叶えることができなかった俺が。
そんな俺の思考は一旦中断された。昼にしては遅すぎる時間帯ということもあり、殆どの飲食店は閉まっていたのだが、ひっそりと佇む定食屋に『営業中』の札がかけられていた。そうだ、俺は昼を食べに来たんだった。今のお腹の調子だとご飯を食べられるなら場所はどこでもいい。
「っしゃいませー!」
暖簾をくぐると、元気のいい声が2つ返ってくる。しゃがれた男性の声と少し若めの女性の声。親子で経営してるのだろうか。
いかんせん初めて来たお店なので、ルールのようなものが分からない。少し戸惑いつつ入り口付近のテーブル席に座ると、店員がお冷とピッチャーを持ってきてくれた。
「…あ。いえ、メニューは壁に書かれているのでお決まりでしたらお呼びくださーい!」
なぜか少し戸惑っていたようだが、すぐに切り替え弾むような声で店員がそう言い、ぱたぱたと正面にあるテーブル席に座り、俺の頭上にあるテレビを観ていた。ニュース番組のようで、はぇ〜だの、ほぉ〜だの露骨なほどに声をあげつつ視聴している。どこかで聞いたことのあるような声なのだが、気のせいだろうか。
流石にこの時間帯だと他に客はいないようで、店員の彼女も休憩がてら仕事をしている様子。キッチンにいる調理担当であろう彼を除けば、俺と彼女の一対一だった。
日替わり定食、唐揚げ定食、アジフライ定食。迷うが、ばっぱと食べられるのがいいし、オムライスにしよう。そう思いつつ、注文するために店員の顔を確認したところで、俺の動きが完全に止まった。
しっかりと見ていなかったため気づかなかったが、彼女は尻尾、耳が生えた馴染みの深いウマ娘だ。レース場で見かけることの多いウマ娘がヒトと同様に働いているのは珍しい話ではない。彼女たちの中には走るのが苦手(ウマ娘基準)な子もおり、端からレースへの道を選ばない子も少なくはない。頭脳はヒトと同等ながら、運動能力に大きな違いがあるため、重宝されている方だと思う。
この店員はまだ若い。そちらのタイプのウマ娘…ではない事は一目で分かった。彼女はレースの経験があるウマ娘だ。というのもーー
「……あ、やっと気付きました?トレーナーさん。こんなにアピールしてたのに」
ぴこぴこと耳を揺らす彼女の名はルックミー。俺が育成を担当し、一度も勝利を経験させることが叶わなかったウマ娘だ。
「さて、お話しますよトレーナーさん!久々に会えたんですし、積もる話もあるでしょう!」
注文したオムライスの最後の一口を放り込み、口の中でそれを咀嚼しながら財布に手をやると、見計らったかのようにルックミーが飛んできて、開口一番に、みるからにうきうきしながらそう言った。彼女の真っ直ぐな瞳を受け、俺はぎこちなく時計を確認する。
「いや、俺そろそろ戻らないと…」
「おじさん!アイスクリーム一丁!」
「あいよ!」
「私からのサービスです。アイスを食べ終わるまで時間が出来ちゃいましたし、少しお話しましょうか」
「強引だなぁ」
「あの頃の私とは違いますからね」
ルックミーが小さく笑う。俺は上手く笑えていただろうか。
なぜ彼女は俺と話をしたがるのか。彼女からすれば俺は夢を壊した張本人と言える。煙たがられてもおかしくはない。それなのになぜ。俺に何を言わせたいのか。
なんて、考えなくてもわかる。
「…ごめん。君を勝たせてあげられなくて」
不自然なほどすらすらと言葉が口から出ていった。彼女が俺に求めているのは謝罪だ。彼女に適したトレーニングを伝授できなかったのは俺だ。勝てずに苦しむ彼女に声一つかけられなかったのは俺だ。走るためにトレセン学園にやってきた彼女から走ることを奪ったのは俺だ。
ウマ娘は一年に1500人程度出走登録がなされる。その中で超一流と言われるのはほんのひと握りだ。それ以前にトレーナーが見つからず、一度だってレースに出走せずに引退する子だっている。
だが、ルックミーには俺というトレーナーがいた。俺が彼女に猛アピールをした。彼女は俺の指示を忠実に守ってトレーニングしてくれた。しかし、彼女は勝てなかった。この場合、責任はウマ娘にあるのだろうか。
いや違う。責任はトレーナーにある。どれだけ一流のウマ娘でも、担当トレーナーがいなければその才能が開花する事はない。俺たちトレーナーにはその才能を、その才能が目に見えないものであったとしても引き出すようにトレーニングをする義務がある。
サイレンススズカのトレーナーはこれを完璧に理解していた。無謀だと言われた大逃げを教え込み、サイレンススズカを『異次元の逃亡者』と呼ばれる逸材に育て上げた。
ルックミーには間違いなく才能があった。当時は新米だった俺ですら気づくような才能が。
一流となったウマ娘には決まって一流のトレーナーがいる。当初は一流とは言えなかったウマ娘でも、一流のトレーナーがつけば想像以上の戦績を叩き出す。前者はシンボリルドルフやトウカイテイオー、後者はナイスネイチャやナリタタイシンなど、挙げれば枚挙に暇がない。
ようは、ウマ娘が一流になるかどうかというのはトレーナーの手腕にかかっている。裏を返してしまえば、入学当初は一流だと期待されていたウマ娘でも、担当するトレーナーが三流四流だと、才能を発揮できずに終わってしまう。
ルックミーが、そして俺が、そうだった。
俺が彼女の才能の芽を潰した。もしあの時、ルックミーが俺でない別のトレーナーを選んでくれていたら、少なくとも未勝利のまま引退する事はなかっただろう。いや、なかったと断言できる。
謝っても許される問題じゃない事は分かってる。けれど、俺には謝ることしかできない。今なお力不足の俺には、謝ることしか。
そう、思っていたのだが
「…1番に出る言葉が謝罪ですか?」
「え?」
「もっとこう…最近どうしてるんだ?とか、いつからここで働いてるんだ?とか、そういう世間話みたいなのを期待してたんですけど」
見当違いも甚だしい、というように、ルックミーは不満げに鼻を鳴らした。予想外の返答に言葉が出ずにしばらく続いた静寂は、ルックミーが、トレーナーさんがそういう話をしたいなら良いですけど、と前置きをしたことにより終わりを迎えた。
「多分これ10000回くらい言ったと思うんですけど、レースで勝てなかったのは私の実力です」
「違うよ。俺が君の才能を伸ばせなかっただけだ」
「この言い合いも10000回くらいしましたね!せっかくですし決着をつけましょう。じゃあ、トレーナーさん…って、ふと思ったんですけど、トレーナーさんって今は私のトレーナーさんじゃないですよね。お名前で呼んだ方が良さげですか?」
「いやいいよ。トレーナーの方が呼ばれ慣れてる」
「ではトレーナーさんで。トレーナーさんは私のどこを才能って言ってくださってるんです?」
ルックミーのどこが才能といえるのか。それは、残り数百メートルで見せる凄まじいーー
「末脚、だよ。あの追い上げは君にしかできない才能だ」
「なるほど。って、散々言われたのでそうだろうとは思いましたけど。なら私の考えが正しいことが証明できそうです。ちょっと待っててくださいね」
そういうとルックミーはキッチンの方へと消えていった。数秒後、片手にとっくり、そしてアイスの入った器、もう片手に大きなジョッキを持ってやってくる。
「あ、これはサービスのアイスです。置いときますね」
「あぁ、うん」
「さて本題です。このとっくりとジョッキはウマ娘AちゃんとBちゃんです」
「……え?」
「正確にはそれぞれのウマ娘の身体能力ゲージ、て感じですね。この容器に並々に水が注がれると、それ以上はどれだけ頑張っても速く走れない、という上限だと思ってください。入学当初のウマ娘はこの容器に何も入っていません。トレーナーさんはこれらの容器にお水を注いであげることでウマ娘ちゃんの潜在能力を伸ばしていくというわけです」
「分からないけど、分かったよ」
俺たちが、容器、つまりウマ娘をトレーニングすることでこの中に水が溜まっていく、つまりウマ娘が成長していく、という認識でいいのだろうか。身体能力の成長率、その限界はウマ娘それぞれに差がある。これらの容器のように、個体差があるのは当然のことだ。極論かもしれないが、全員の身体能力の限界が同じであり、全員が限界まで成長したとするならば、レースは全てのウマ娘が横一列でゴールすることに…いや、ほとんどのレース場では内枠を取った子が勝利する完全な運になる。この容器に水が満タンに入った状態が限界点であり、全盛期ということらしい。
曖昧な返答に少し頬を膨らませていたようだが、ルックミーはそれらにゆっくりと水を注いでいく。とっくりはひたひたになるまで注ぎ、ジョッキには半分ほど水を注いだ。
「さて、トレーナーさんに問題です。ウマ娘AちゃんとBちゃんがレースをしました。どっちの子もすごくやる気に満ち満ちていて、注がれたお水、すなわちトレーナーさんの教え、今現在の実力を最大限に発揮してくれます。勝つのはどっちでしょう?」
ずずずとふたつの容器を机の上を滑らせこちらに渡してくる。容器に入った水をそのままウマ娘の能力、実力とするならば、答えは明白だった。
「ジョッキの方が勝つんじゃないか?確かに半分しか水は入ってないけど、とっくりの水の倍以上は入っているし」
「すごいすごい、さすがトレーナーさん!大正解です!」
俺の答えにルックミーはパチパチと手を叩き
「そして、このウマ娘Aちゃんが私、というわけなんです」
と、とっくりを指でつまみ伏し目がちに笑った。
「私の限界はこれだったんです。トレーナーさんは私をいっぱいいっぱいまで成長させてくれました。けれどその限界に到達したのが、他の子よりもすっごく早かった。無論、悪い意味で、です。超早熟型の上、その成長の果てをすぐ迎えてしまった。これ以降トレーナーさんがどれだけ私にお水を注ごうとしても……」
「あ…」
「ほら、溢れちゃうんですよね。直接私の力にはならないんです。なぜなら私がこれ以上成長するだけの器がないんですから」
ルックミーがまた立ち上がり、台拭きを持って溢れた水を拭きあげ、座り直した。
「この限界って、トレーナーさんに見えるわけがないんですよ。その時になって初めて本人が感じるんです。これ以上はどうあがいても強くなれないって。トレーナーさんが言ってくれた私の才能、末脚だとか、位置取りが上手いとか、スタートが上手いとかいうのは、ゲームでいうスキルみたいなものなんですよ。いくらスキルが豊富でも、身体能力の壁を越えられるほど便利なものじゃないんです。ベテランの子はその経験からたくさんのスキルを持っています。それでも全盛期を迎えた子には簡単には勝てません。なぜなら、当たり前ですがベテランの子の身体は衰退していき、一時はこのジョッキがいっぱいになるくらいの能力があっても、ヒビが入って水が流れでていっちゃうので」
「……」
「ま、私はあの時全盛期だったんですけどね?…時たま、限界を超える子もいます。それはその子の、その子にしかない才能です。私にはなかった。…もう少し簡単に言いましょうか。トレーナーさん、ポケットなモンスターのゲームって知ってます?」
「あぁ、育成したモンスターを対戦させるゲームだよな?」
「そうです。モンスターのレベルの上限って普通は100じゃないですか。でもね、私のレベルの上限は20とかそこらだったんですよ。トレーナーさんが頑張ってトレーニングをしてくれて、私は上限のレベル20に到達しました。でも、そんな私がはかいこうせんとか打っても、レベル50の相手にはほとんどダメージがないんです」
納得したくはなかったが、納得せざるを得なかった。1番苦しかったはずの彼女自身がそう言っているのだから。同意も反意もすることができなかった俺は、すでに半分ほど溶けていたアイスクリームにスプーンをいれ、意味もなくくるくると回しながら彼女を見ていた。
「さっきも言いましたけど、これって可視化されてるものじゃないんですよ。パッと見てこの子はレベル100が上限だな、とか、レベル20が上限だな、なんて分かるわけないんですよね。これって他のスポーツでも言えるんですよ。例えば高校野球で活躍した選手が将来性を見込まれてプロ入りしました。血の滲むような努力とそれに伴ってついた実力で手にした結果です。けれど、中には高校野球の時点ですでに成長の限界に到達してる人もいるんです。プロの世界は甘くない、って、こういう意味の言葉でもあると思うんです」
そう言うとルックミーは、喉が渇きました、と続け、ジョッキに入った水を喉を鳴らして飲み始めた。ジョッキを空にすると、勢いよく机に叩きつける。
「ですので!トレーナーさんは全く悪くないんですよ。むしろできる限り、最大限尽くしてくれました。トレーナーさんはすっごいトレーナーです。唯一の失敗は、担当するウマ娘を間違えたってことですね」
「…やめてくれ。俺は君の担当になった事に関しては一度だって後悔してないんだから」
「…そう言ってもらえると嬉しいです。あ、アイス溶けちゃってますね。代わりの持ってきます」
アイスの入った器を持ってまたもやキッチンに消えるルックミー。話をしつつも仕事を優先しているのが文字通り目に見えて分かる。
アイス、新しいのください!構わんが、お前が2個分の代金を払うんだぞ。えー!?1個分でいいじゃないですかケチー!という会話の後、心なしかとぼとぼと新しいアイスを届けに来てくれた。
「…お父さん、ってわけではないよな?」
「あぁ、はい、赤の他人です。私、現役時代に何回もここに通ってたんですよ。もし私がレースと縁を切る事になったらここで働きたいなってずっと思ってたんです。って、働き始めたのはつい最近ですけどね。しばらく実家の方に帰ってたので」
私のおすすめはチキン南蛮定食です、とメニューを指差しルックミーが言った。できれば注文する前に言って欲しかった気もする。
「アイスに関しては食べなかった俺が悪いんだし、お金は俺が払うよ」
「いえ、これはサービスなので!トレーナーさんがそこそこ貧乏って事は私も分かってますよ」
「耳が痛い…アイス代を払えないほどじゃないけどね」
2度もアイスを無駄にする必要はないと、俺はアイスをかきこんだ。そんな俺をルックミーは片手で頬杖をつきながらニコニコと眺めている。
一呼吸置いて、俺は話を再開する。
「君の言い分は分かったよ。でも、たとえそれが正しいとしても100%君が悪いというわけじゃない」
「トレーナーさんはどうしても自分を悪くしたいんですね!」
「だってそうだろ?俺は焦って君に無理なトレーニングを言い渡したり、ころころと戦略を変えたり、出場させたレースの距離だって目まぐるしく変えてしまった。俺が君に一つの脚質、距離に専念させていたら、最低でも1勝は出来たはずなんだよ」
全て事実だ。彼女を勝たせてあげたい。彼女のスケジュールで無理なく出られるレースは全て出走させてあげたい。その一心で彼女をめちゃくちゃにした。逃げから追込まで、1200mから2600mまで。これは言い逃れようのない事実で、否定する気もさらさらない。
それなのに
「…あのですね、トレーナーさんは私をなんでも言う事を聞く奴隷か何かだと思ってたんですか?」
「…え?」
「いくらトレーナーさん相手でも、私がそれは違うなって思ったらはっきり言います。言わなかったってことは、私も納得してたんです。言っときますが、誰よりも、それこそトレーナーさんよりも勝ちたいと思ってたのは私なんですから、少しでもその可能性が高くなるならなんだってしますよ」
ルックミーがそれを認めてくれなかった。
「まぁ、どうしてもトレーナーさんが自分が悪いって言いたいなら、良いですよ。けれどその場合は私も悪いです。50:50でどっちも悪いです。焦って迷走するトレーナーさんと、同じく焦って脳死で肯定ウマ娘になっていた私、どっちも」
そう言ってルックミーは微笑んだ。彼女の発言に関して俺に何も言わせない、黙って受け入れろ、という笑顔にも見えた。
彼女は俺を恨んでると思っていた。だから連絡をよこさないのだと思った。その事をそれとなく伝えたところ、あ、携帯変えてデータ吹き飛んで全部初期化されたんですよ、となんともないように新しい連絡先を教えてくれた。
彼女は俺を恨んでなどいなかった。むしろ、ただちょっと脚が速いだけで、レース終盤にちょっとだけ頑張れるだけの自分を、『ウマ娘』として仕上げてくれた、と言ってくれた。それはトレーナーさんにしか成しえない偉業だと。
いつしか調理を担当していた彼も会話に参加し、今でもルックミーはトレーナーの話をする、なんならお客様相手にもしている、こっちが恥ずかしくなるからやめてほしい、なんて話をしてくれて、本人には言わないでくださいよ!とルックミーが恥ずかしそうに俺の耳を両手で塞いできた。
そうして吹っ切れたように振る舞うルックミーを眺めていると、事あるごとに彼女を思い出し、自責の念に苛まれていた自分が馬鹿みたいに感じて、自然と笑みが溢れた。それを見たルックミーが、あ、久しぶりにトレーナーさんがまともに笑ってくれた、と、声のトーンをまた一段と高くした。
彼女が俺に求めているのは謝罪なんかじゃない。そう思うこと自体、彼女への侮辱のようなものだ。彼女が必死に、本当に必死に必死に、俺を信じて走り続けた日々を、1番近くで見ていた俺が否定する事になる。
だから俺が彼女に送るべき言葉はーーー
「…ありがとう、ルックミー。俺の担当ウマ娘になってくれて」
ようやく出てきてくれた感謝の言葉を受け、彼女は目を丸くしていた。言葉選びを間違えただろうか、と思ったが、そういうわけではなさそうだ。
「…トレーナーさんにありがとうってすっごく久々に言ってもらえた気がします」
「そりゃ、数年ぶりに会ったんだからな」
「いえ、そういう意味じゃなく。レース時代を通してあんまり言われなかった気がするんですよ。ごめん、は1421回聞きましたけど」
「…カウントしてたのか?」
「途中からですけどね。やけに多いと思ったらこんなに言ってたんですよ。1500回に到達するのが先か、私が引退するのが先か、どっちなのかな〜なんて思ってたりしました」
「…後悔、してるか?引退した事を」
志半ばでウマ娘を見送った経験のあるトレーナー全員が聞きたくても聞けない事だ。ある種の禁句ワードのようなものになっているが、今のルックミーになら聞いてもいいんじゃないかと思った。彼女の事だ、きっと悔いはないです、のような事を言うのだろうと思っていたのだが
「そりゃしてますよ、後悔」
と、少しだけ耳をひくひくとさせつつ、あっけからんと言ってみせた。
「『君は充分やってくれた。頑張ってくれた。けれど、誰にだって引き際はある。そこを見誤らないのも、俺の仕事だと思ってる』この言葉、覚えていますか?」
「あぁ。最後のレースの前日の、俺から君への引退勧告だ。結果はどうあれ、もう全部終わりにしようって」
「あの時の私、本当に苦しかったんです。とうの昔に自分の限界が来てたのは分かってた。他の子は私の限界を当然のように越えていく。けれど、私のために、トレーナーさんのために、勝てないまま終わりたくないって。でも想いに対して結果が結びつかなくて。私は何のためにトレセン学園に入学して、何のために走ってるんだろう、なんて考えてました」
「君が普段の調子じゃない事は分かっていた。日に日に言葉数が減っている事も。それなのに弱音を吐く回数が増えていた事も。けれど、俺は君に何も言えなかった」
「何も言わない優しさもあると思うんですよ。ま、それが私のプレッシャーになってたのも否定しませんが。おっと、トレーナーさんの大好きな『俺が悪かった』案件ですね」
「…そう言えばいいのか?」
「いえいえ、私は一貫してトレーナーさんに謝罪を要求しませんので。で、ですね。その時はこう思ったんですよ。あぁ、やっとこの地獄から解放されるって。もう苦しまなくってすむって」
地獄、か。あながち間違いじゃないのかもしれない。勝ちたい、それだけのために身を削る彼女に、勝利の女神は一度だってチューをしてくれなかった。
メイクデビュー後、新人を特集した雑誌にルックミーが掲載されていた。これを見てるとやる気が出るんです、と事あるごとにページをめくりにへらにへらとしていた彼女だが、その雑誌が埃を被るようになったのはいつからだっただろう。
彼女への期待の目は着実と減っていき、耳を塞ぎたくなるような声だって聞こえてきた。それでもルックミーはレース後、1人レース場に残り、観客席に深々とお辞儀をした。そのお辞儀は応援してくれた人への感謝なのか、罵倒する人への謝罪だったのか。
気分転換に描いたという勝負服のデザイン画。ロクに俺に見せずに半透明のファイルに挟み、棚の奥へ仕舞っていた。簡単には取り出せないように。そのデザイン画が何の意味もなさない事に気づき始めていた…いや、気づいた上で描いたのだろうか。
ウイニングライブでの、1着用のダンストレーニング。一通り踊り終えた彼女がろくに呼吸も整えず、私がこのダンスを踊る日は来るのかな、と小さく呟いたその声を、俺だけは否定するわけにはいかなかった。けれど、あの時の俺はそう声をかける事はできなかった。
勝負の世界は残酷だ。勝利は1番頑張ったウマ娘に、1番準備してきたウマ娘に訪れるのではない。努力がどうのなんて関係ない。1番早くゴールしたものが勝者なのだ。
2着以下のウマ娘にはドラマが無い、というわけでは決してない。彼女たち一人一人にそれぞれの物語がある。だがしかし、スポットライトがあたるのはいつだって1着を取ったウマ娘だ。
「あぁもちろん、レースは勝つつもりで挑みましたよ。勝ったとしても負けたとしても、私は私の呪いから解放される。なら勝った方が気持ちいいじゃないですか。ウマッターで意気込みも呟いたりしましたし」
「あのアカウント、まだあったぞ」
今でも、彼女のウマッターアカウントは残っている。日に日にフォロワーは減っていってはいるが、これから先何年経ったとしても、決してフォロワー数がゼロになる事はない。
「はい、そのままにしてます。レースを走っていたルックミーはそこにいたっていう証拠で残しておこうかと。一応私にも、ほんの数人だけファンはいたんですからね?」
ひっそりと発表されたルックミーの引退後、数は多くなかったが、労いの言葉が書かれたファンレターが届いた。少し落ち着いたら読みます、といっていた彼女だが、この様子だと隅々まで読んでいるだろう。
「で、レース結果はお察しの通り。でも、レースが終わった時は清々しかったんですよ。今持つ全力で負けたんだから悔いはないって。そうして私は引退したはずでした。完全にレースから身を引いたものの、日を追うごとに、もう少し続けていたら勝てたんじゃないか、トレーナーさんに勝利をお届けできないままでいいのか、なんて悶々と考えるようになって」
「俺も、そうだったよ」
彼女の引退後、しばらく眠れない日々が続いた。本当にあのレースで終わらせてよかったのか。ルックミーという逸材を、未勝利ウマ娘という不名誉な称号を残して引退させて良かったのか。
「勝ってたら、こうはならなかったんじゃないかなって。負けたくせに呪いから解放なんて考えが浅はかでした。いつまでも私の心を蝕み続ける」
「今も、後悔してるんだよな」
「あの頃ほどじゃないですけどね。過ぎた事にああだのこうだの言っても意味がないって気づいたんです。後ろを見ながら歩いてたら、前って絶対に見えないんで。私はこの先ずっと、この呪いと共に生きていく。でも、それは私が選んだ道です。そういう意味では悔いはないのかもしれません」
けれど、あの時の俺とルックミーは引退を選んだのだ。それが正しいと思っていたのだから、きっと正しかったんだろう。
「強いな、ルックミーは」
「一回もレースで勝った事ないですけどね!!日が経つにつれて大人になっただけですよ。いい大人のくせについさっきまで勝手に何年も前の担当ウマ娘の事を思ってしょぼくれてるのもいたりしますけど」
「ぐうの音も出ないよ」
「それだけトレーナーさんは優しいってことです。トレーナーっていう数年で教え子が変わっちゃう一期一会の職業なのに、ずぅっと私のことを考えてくれてたんですから。それって、トレーナーをやる上で1番大事な要素だと思いますよ。そのままのトレーナーさんでいてください」
「ありがとう」
そう言うとルックミーは口元に手を添え、ありがとう…ありがとうと俺の言葉を反芻するように呟いた。そしてぽんと手を叩くと、名案ですよと言わんばかりに捲し立てる。
「いい事思いつきました!これからはトレーナーさんのありがとうもカウントしていきます。絶対にごめんの数を超えましょうね!」
「何十年もここに通い続けて、きっと超えるようにするよ」
分かりました!1日1回ありがとうを言ってもらえるとすると、4年目が来る前には超えるかな?と指を折りながら計算するルックミー。
本当に、強い子だ、この子は。同じように引退したウマ娘が彼女のように笑顔を見せてくれるとは到底思えない。自身の夢が手に届く環境にいながら、手を伸ばすことが叶わなかったのだから。責任をトレーナーに押しつけて泣き喚く子を、俺は何人も見てきた。俺たちトレーナーはそれを黙って受け入れるしかないと思っていた。
しかし、彼女はあろうことか自分に実力がなかっただけだと言ってみせた。ただの同情のようなもので言っているわけではない。しっかりと彼女の理論を用いてその理由を説明してくれた。
本人には言えないが、今でも彼女は俺のせいで勝てなかったと思っている。けれど、それでいいんじゃないか。俺は俺が悪いと考え、ルックミーはルックミーが悪いと考えている。どちらが悪いというのなら、どちらも悪いという事にする。これだけ平和、というか、円満な関係はないのだから。
後悔は残っている。俺にも、ルックミーにも。けれど、俺たちはそういう選択をした。取り返しのつかなくなるような後悔をするくらいならと、今ある後悔を選んだ。そういう選択をするべきだと思った。だから俺たちはその事実に文句を言わないし誰にもその選択に文句は言わせない。
正直言うと、まだまだ話し足りない。彼女に会った時とは真逆の心境に思わず苦笑してしまうが、それでも俺にはやるべきことがある。今、俺が最も気にかけなければならない子は彼女ではないのだから。その事も、ルックミーが気づかせてくれたわけだが。
「ありがとう。また君にあえて本当に良かったよ」
代金を机に置き、グッと伸びをしつつ立ち上がる。ルックミーも慌てたように立ち上がった。
「もう帰っちゃうんですか?」
時計を見るとすでに定食屋に到着して1時間と30分ほど経っている。今日は担当ウマ娘はオフの日だが、トレーナーの俺まで休息をするというわけにもいかない。今では何ともないように振る舞うルックミーだが、レース時代には俺が想像できないほど苦しんでいた。今の担当の子に同じような思いをさせるわけにはいかない。
ルックミーは定食屋のすぐ外までついてきてくれた。先ほど俺が払った代金を握りしめつつ。先にお金をレジを通してからの方がいいんじゃないか、と聞いてみると、トレーナーさんをお見送りするのが最優先です、とはにかんだ。
世間話でもしよう、という誘いから始まった一連の出来事だが、昔話に花が咲いてしまい、自分たちの近況について話す事を忘れていた。けれど、それはまたの機会でいいだろう。おそらくこの定食屋には週5程度来ることになるのだろうから。それも、他の客が少なく、彼女と気兼ねなく話ができる15時くらいに。
「次来てくださる時はもっとサービスしますね!あ、そういえば今の担当の子の調子はどうなんですか?」
「デビュー以降勝利はないんだ。2着は何回か取ったんだけど」
「あ、なら私の何千倍も可能性はありますね」
こうして自分でネタにしているのを見るとちょっとヒヤヒヤとしてしまうが、彼女が気にする様子はないのでなんとも言えない笑顔で答えた。
「…あ、それじゃあ、その子に一回も勝てなかったダメ先輩からのアドバイスを伝えてもらっていいですか?」
「もちろんだよ」
「こほん、私からのアドバイスは二つです。一つは、満足の行くまで走り続けて欲しい、どんな結果でも決して諦めないでほしい」
「諦めない…」
「諦めるのは簡単で、それが1番手っ取り早いのかもしれません。けれど、諦める事はあくまで最終手段です。他に手があるなら迷わずそっちを選んでください」
「分かった、伝えておくよ。もう一つは?」
そう聞くと彼女は長くためを作り、そしてーー
「ウマッターでエゴサはしない事!投稿した本人が数秒後には忘れてるような文章に無駄に傷つくことになりますので!」
彼女の満面の、トレセン学園時代に一度も見せてくれなかった100点の笑顔は、俺の瞳にしっかりと映っていた。
ルックミーというウマ娘のお話 完
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