新卒で入社した会社を、一年足らずで辞めた

思えば就職活動の時点で間違っていた。「文系大学生の就職先は営業職しかない」と誰から聞いたかも分からないアドバイスを信じ込んで業種をしぼり、そろそろ就活しなくちゃという焦りの中、オンライン開催だからという理由だけで参加した合同会社説明会で唯一知っていた企業の業界にしぼった。

面接では理想の自分を演じた。自分の理想…というより、会社にとっての理想的な人材。人と話すのが好きで、人に寄り添う事も好きで、人と親密に関わる仕事がしたい、と。

就職活動は楽だった。もちろん、数多の企業からお祈りメールをくらったが、なぜか「まぁそうだよなぁ」というメンタルでいた。業種、業界を極端に絞っていたためesや面接で話す内容(就活の軸、ガクチカ自己PR、業界業種を選んだ理由等々)はほとんど同じ。なまじそれなりの大学に入っていたおかげで、esの突破率は高かった(そもそも実力主義の人柄採用で学歴フィルターはなさそうなところばかりだったが)。志望理由も3つほど用意し、2つは使い回し、もう1つは企業理念に共感しましたのゴリ押しでいけた。使い回しすぎて台本は空で言えたため、面接前日に企業のホームページをみて企業理念を頭に叩き込むだけで立派な就活生になれた。

周りが狂おしいほどどうしようもない友人ばかりだったので、そんなやり方でも私が1番真剣に就職活動に取り組んでいた。むしろ高々と就活とはなんぞやと講釈をたれていた。だから間違いに気づけなかった。別に友人が悪いと言いたいわけではない。私の視野がハムスター並に狭すぎた。ハムスターは可愛いから許されるけど、私は可愛くないから許されない。

就職活動時の私はいわゆる意識高い系になっていた。純粋な私は社会人に羨望の眼差しを送っており、どうせ働くならたくさん稼げるとこ、ブラックでも構わないから給料が高いとこ、と。ちな、前職の月残業は60時間くらいいってた気がするが(正確な残業時間が分からないのが恐ろしいよね)、一部周りの友人も似たようなものだったし、社会人とはそういうものだと受け入れている。

ともかく、意識が高かったから、私は営業職でもやっていけると思っていた。

最終的に4社くらい最終面接まで進んだが、最初に内定を出してくれた企業に就職することにした。楽しかしてないのに、とほほ〜…もう就職活動はこりごりなのりゃ、と思っていたから。

その後、私にも漏らさず内定ブルーというものが訪れた。意識が高い私はどこへやら、急に営業マンとしてやっていける自信がなくなった。ここへ来て初めてopenworkを閲覧し、業界の悪い噂ばかりが目に入ってしまった。冷静に考えればああしたサイトに集まる意見は全て会社に対し不満を持つ人が残したものだ。満足している人はそもそもそうしたサイトに書き込みをしようとも閲覧しようとも思わない。

そして、そもそも私は人見知りであることを思い出した。もちろん、どの職種でも人当たりが言い方が好まれるが、人と話す事がメインの営業職で人見知りは致命的だ。意識高い就活生だった私は、面接用に作り出した人柄がそのまま私に当てはまると思っていたのだ。

正確に言うと、私は内弁慶だ。身内の集まりだと本来の自分を出すことができる。バイト先ではバイトリーダーとして頼られていたし、自分で言うのもなんだがムードメーカーとして重宝されていた。だがそれは店長以外は全員年下か同年代という気遣いの必要ない状況下で、自分はそれなりに色々なことができる、優れているという自意識があったから。何も分からない新人状態で、上司やお客様含め基本的には年代が上の人と仕事をすることに対しては不安しかなかった。

何やってんだ私は、と思った時にはもう遅い。今更別の業種、別の業界を志望するのは難しかった。無論、内定が決まったのは大学4年の4月か5月だったのでいくらでもやりようがあったが、面倒くさいと感じてしまった。もう内定が出ているというのに、尚も就活をする意味が分からなかった。私に営業は無理だ、と思いながら、営業から逃げる選択をしなかった。逃げずに立ち向かうと決めた。文面だけ見れば私は覚悟を決めたハイパーイケメンだが、現実はお察しである。

嫌だったら転職すればいいと簡単に思っていた。まぁ、3年は続けるかぁと楽観的に捉えていた。結果としてこの考えが、私に甘えを生んだ。


入社後、研修期間は楽しいと感じていたと思う。周りは同期だけなので、私は素を出すことができた。まじ社会人だるいよなぁ、朝早すぎだよなぁ、あ〜大学生に戻りてぇ〜、とぐちぐちと言いつつ、商品知識を頭に叩き込み、早く配属されてお客様に説明したいぜ、と第二次意識高い期を迎えた。

配属後。お客様を前にしても何も話す事ができない。人見知り云々関係なしに、『仕事として』お客様と話す覚悟が足りていなかった。私の一言一言が、お客様にとって会社を測る指針となる。私が好印象な青年なら、会社も好印象となり、逆に悪印象を与えてしまえば会社の印象も悪くなる。必要以上にそのことを考え過ぎてしまい、何も話せなくなった。

人と話すのは好きだ。誰かを笑わせるのも好きだ。だが、私の話やお笑いは基本的に自分を下げることによってバカにしてもらうものだった。いわゆるイジられキャラだ。お客様相手にそんな話ができるわけがない。「実は私股間にメス入ってて30万円するちんちんを持ってるんですけど〜、まだ使ったことないんですよねぇ!これじゃなんのためにメス入れたか分かんねーよ〜つって!女性に入れたことはないのにメスは入れられてるとはこれいかに!?」なんて言えるわけがない。同様に、周りを下げる笑いも得意だったが、「あれ…奥さん頬のぶつぶつやばいっすねぇ!ほら見てください旦那さん!クレーターかと思いましたわ!化粧厚塗りした方がいいっすよ!」とか言ってしまえば本当に訴えられる。

少し慣れてきてからは雑談は楽しく出来るようになったが、商品の話になると慌てて先輩に同席してもらった。私が話すより先輩が話す方が合理的だと思った。会社のことを気に入ってもらうには、私よりも知識や経験の豊富な先輩に頼るべきだと。実際、お客様との関係作りやアポ取りの部分は新人に任せ、その後の商談の際は新人は先輩に同席してもらう、といった新人成長のための暗黙のルールがあったが、初めっから説明を放り投げて助けを求めたのは私くらいだろう。結果、成長する機会を失い、いつまで経っても独り立ちできなかった。

案の定、年代が上の人との関わり方が分からなかった。大学ではサークルには所属していたものの、コロナの影響で2、3回生はほとんど活動していなかったため、先輩と関わることがそうなかった。

配属から数日経ったある日、上司からご飯に誘われ、奢ってもらえた。最大限感謝を伝えた。加えて、『お調子者だが可愛げがあってどこか憎めない新人』になろうと思い、「ご飯奢っていただきありがとうございます。またお願いします」と笑顔で伝えた。私の頭の中では、上司が「おいまたってなんだよまたって〜!」とニコニコしながらツッコミを入れてくださっていたが、現実は「……おん?」と不満げに返された。慌てた先輩が「またご飯行きましょうってことだよな!な!」とフォローを入れてくださり、私は舐めた態度を取っていたことに気づいた。あまりにも距離の詰め方が下手くそだった。相手を選ぶ事を知らなかった。そもそもそれまでお調子者要素も可愛げ要素も憎めない要素のなかった私に、「また奢ってください」的なニュアンスの事を言われたら「なんだコイツは」と思われてしまうのも無理はなかった。私はより一層、「私らしさ」を出すことが出来なくなった。

人は我を出すことでより一層魅力的になれるのだと思う。外行きの仮面を張り付けたままだと、人から嫌われない、当たり障りのない対応しかできない。だが、その我が常軌を逸脱していたり、出し方を間違えると周りに距離を置かれてしまう。私は見事に常軌を逸脱しており出し方を間違えたのだろう。

その影響かは分からないが、私は必要以上に人に気を遣うようになった。例えばアポ取りの際、お客様は悩んでいるようだった。普通の営業マンであればあと一押しと饒舌になるだろうが、私は(悩んでいるから口を挟むのはやめよう)という思考に陥っていた。結果、お客様は後日また返答しますと帰ってしまい、めげずにテレアポを狙うも「ゆっくり考えたい」と逃げられた。悩んでくださっている時点で少なからず私や会社に興味や好感を覚えてくださっているのに、一押しをすることができなかった。グイグイ行ったら嫌われる、と、グイグイ行ったこともないのに決めつけていた。失敗してもいないのに失敗を恐れていた。

運良く、契約寸前まで行ったお客様が音信不通になった。仲良くなっていたと思い込んでいたため、かなりショックだった。そういう客も多い、と先輩から慰められたが、そうした(嫌な言い方をすると)裏切りに耐性のなかった私はひどく落ち込んだ。そして、お客様が不安に思っていたことを聞き出せなかった私のせいだと思い込んだ。

「素質くんは弟みたいだ」とまで言ってくださったお客様を悪く言うことはできず、自分が悪いと思い込む方が幾分か楽だった。裏切りを意識せずに済むから。

私は人に優しすぎた。これは悪い意味で、だ。容姿は下の中から下の上で、声はゲロブタキモオタボイス、努力もせず抜きん出た才能もない、唐揚げを作るのが上手い以外何も持ち得ない私がアイデンティティを確立し人から好かれるためには、優しくなるしかなかった。優しい人、という称号は努力せずともちょっと意識を変え周りを見渡す力を身につければすぐ得ることが出来る。周りを気遣い、人が嫌がることを進んでやれば、それだけで私は優しくなれる。この「優しさで好かれたい」という承認欲求が、仕事ではひたすら悪い方向に働いた。

何か嫌がってそうだから少し距離を取ろう、言いたくなさそうだから聞くのはよそう、と一歩踏み出せず、その上これはお客様のためだと言い訳をする。お客様の状況だと他社の方が合っている、ということも言ってしまいそうになった。初めから売り込みを警戒するお客様には、当たり障りのない対応をした。思うに、営業マンは嫌われる覚悟も必要なのだと思う。踏み込みすぎて嫌われても、その失敗を糧にではどれだけなら踏み込めるか、というのを模索する。そうして線引きをして初めて押し引きの戦略が身につき、営業マンになれるのだと思う。

何より苦痛だったのはテレアポだった。B to Cの業界だったので、顧客は一般人だ。向こうにコンプラは無い。

電話が繋がると基本的には「もしもし」と不審がる声が返ってくる。企業名を伝えると、さらに声のトーンが下がる。興味ないです、の一言で電話が切られる。それだけならまだいい。きっと私がお客様の立場であっても同じことをするだろう。ひどい時には企業名を伝えた時点で即切りをされた。更にひどい時は、概ね人に放ってはならない暴言も言われたりした。運が悪かったのか、私はそうしたお客様に当たる事が多かった。いつしかテレアポは怖いものだと思うようになり、電話を持つ手が震えた。何度もコール音が鳴り、不在である事が分かるとホッと一息つき、そしてまた震える手でダイヤルをプッシュする。

これも人と話す練習だと、いつかは慣れると自分に言い聞かせ、テレアポを続けた。そもそも新人だったのでテレアポがメインのアプローチ手段だった。すごく優しいお客様に繋がり、話だけは聞いてもいいよとアポを取る事ができた。ウキウキで上長に報告し、頑張ったなと褒められ、これまたウキウキでスケジュールを入力する。自席に戻り、あぁ、まだテレアポしなくちゃならないんだ、と絶望する。

テレアポも新人の間だけ、今だけの我慢だと思えば耐えられた。だが、役職を持っているおじさんもテレアポをしているのをみて、これがこの業界にいる限り永遠に続くのかと思った。耐えられないと思った。

いつしかテレアポも、その多くの時間を『やったフリ』に費やすようになってしまった。嫌なことから逃げたい、という社会人失格の思考の元、同時に転職を視野に入れ始めたため、「どうせ辞めるからいいや」と業務をいい加減にこなすようになった。

当然アポもほとんど取れず、いい加減「新人だから仕方ない」とは思われなくなった頃。上司(異動を繰り返したため配属当初とは違う上司)に呼び出され、「なぜこの業界に入ろうとしたのか?」「どんな営業マンになりたい?」と聞かれた。私は本音を話す事ができなかった。叱られる、軽蔑されると思い込んで、話せなかった。

本音を話していたら、今とは違う未来だったかもしれない。上司は人生の先輩だ。「なんとなくで入ってしまった」「私は営業には向いていないのかもしれない」と話せていたら。相談に乗ってくれていただろう。おそらく上司は、やる気がない私に気づいていて、それでも見捨てずに、見るからに忙しい自分の時間を割いて、私に向き合ってくれていたのに。

結局、私の本音を話せたのは退職を決めた後だった。

上司はやんわりと退職を止めてくれた。「成功体験もしていないのに決めつけで辞めるのは勿体無い」と。仰る通りだったが、一度辞めると決意してしまった私は考えを改めなかった。楽な方へ楽な方へという意識しかなかったから。苦笑いしながら「もっと早く相談して欲しかった」と言われた。これもまた、仰る通りだ。「俺がお前にもっと成功体験をさせてあげれたら良かった」とも言われた。それは違う。先輩に同席するなどして成功体験を目の当たりにするチャンスを自ら捨てたのは私だ。何度か異動を繰り返した私だが、最後の上司が1番私に気を配ってくださり、頼りやすかった。

けれど、1番やりづらかった。私なんかに期待させてしまい、申し訳なくなった。かといって放っておけば好き勝手サボるだろうし、本当に扱いに困る人材だったと思う。

もちろん、それ以外にも理由はある。けれど、辞めた後に会社のことを好き勝手言うのは違うだろう。いずれにせよ辞めた1番の理由は『私に営業の世界は向いていなかったから』だ。こんなの、就職活動の時点で分かっていた。誰のせいか、なんて言うまでもない。私のせいだ。なんとなくで業界に入り、失敗を恐れるあまり我を出せず、入社前から転職を視野に入れていたせいでいつでも辞められるというメンタルでいた。理想的な新人の対義語が私。結果として挑戦をすることが出来ず、学びを得ることもできず、何も出来ない私(何かをするつもりでもないくせに)は給料泥棒だとただでさえ低かった自己肯定感が底辺に達した。

在職中に転職活動もしていた。ありがたいことに、何社から内定もいただいたが、全て断ってしまった。それが本当に自分がやりたいことか分からなくなってしまった。そもそも、自分に向いている職とはなんなのか。

執筆活動は好きだ。ありがたいことに、X(旧Twitter)やpixivではたくさんの人に二次創作を見ていただいている。だが、仕事に活かせる能力かと問われると、そこまでの文章力は持ち合わせていない。そもそも扱っている題材が二次創作だ。すでに魅力あるキャラクターに、どこかで見たことあるような魅力的なシチュエーションを組み合わせる。シチュエーションはありきたりかもしれないが、いわゆる本家の個性的なキャラというバックボーンがあってこそより一層輝くのだ。個人的な意見だが、「別にそのキャラじゃなくてもよくない?」と思われたらそこで二次創作は破綻するのだ。私の文章力は二の次で、口調や性格等、いかにキャラをそのキャラらしく表せるかが求められる(勿論私の表現力では解釈違いも多々あるだろうが)。

話がめちゃくちゃ逸れちゃった( ;  ; ) 

ともかく、キャラありきの執筆のため、やはり業務には向いていない。

振り返ると、私は人生の分岐点をいつも『なんとなく』で決めていた。そしてその『なんとなく』が運良く上手くいっていた。高校は、なんとなく家から近い進学校に行こうと思った。私にとっては難易度が高かったが、勉強だけは得意だったようで無事入学をすることができた。大学も、なんとなく一人暮らしがしたいと思った。すると両親に「なら良い大学に行ってくれ」と言われたので、関西圏の難関私立大学…その中でもなんとなく名前がカッコいいからという理由で立命館大学を選んだ。やはり勉強は得意だったようで、ギリギリだったが無事に合格ができた。

就職活動にしてもそう。前述したように、なんとなくで企業を選んだ。だがそこで初めて「なんとなく」で選んだせいで失敗をした。さらに言うと、「なんとなく」で成功しこれまで積み上げた学歴を捨て、実力主義の世界に身を投げ出してしまった。

もう「なんとなく」で失敗したくないと、私に合った企業を探すよう努力した。だが、「なんとなく」で生きてきた私に最適な職業というのがなんなのか分からなくなった。私が何をしたいのか分からなくなった。私の強みがなんなのか分からなかった。

見かねた両親が、漠然とでいいので人生グラフを作ろうと提案してくれた。何歳で結婚して、子供は何人欲しくて、何歳で昇格して、何歳で年収何百万に到達して…というのを、縦軸が人生の幸福度、横軸が年齢のグラフに書き込む。

私は何も書けなかった。結婚したいとも思えないし、子供が欲しいとも思えない。昇進したいとも思えない。ただ、それなりに楽しく生きていればいい。趣味は風俗通いとギャンブル。なんだコイツ。若者が持っていい趣味じゃないだろ。

この時の私は精神的にかなり参っていた。自分がなぜ生きているのかすら分からなかった。それなりに成功していた人生で初めて明確な失敗をし、自分の能力の低さに絶望していた。私のせいで私のせいでと自己肯定感が低くなっていた。わけもわからず泣きながら車で帰宅し、涙が収まってから自宅に入る。食事も風呂も億劫に感じていたが、明日も仕事があるため無理矢理腹につめ、なんとかシャワーを浴びる。ただ、鬱になっていたわけではないと思うので、悲劇の自分を演じて酔っていたのだろう。そうして周りに甘えていいと自らを肯定したのだろう。現実から逃げ続けていたのだろう。

見かねた両親が休みの日は何をしているかを聞いてきた。それを充実させようという意図だろうが、私は何もしていない。家でぼーっとして、調子がいい時はソシャゲをプレイして、YouTubeを観て、友人に誘われたらapexをして、たまに飲みにいく。生産性のあることは何もしていない。

さらに見かねた両親が、私の良いところを話してくれた。笑顔が素敵、面白い、頑張り屋さん、まじめ、優しい。高校の頃から長い長い反抗期を継続している私は、自分の話をほとんど親にしなかった。反抗期真っ只中の高校は受験勉強だと部屋に閉じこもり、大学は一人暮らしでほとんど実家にも帰らない。社会人になってからも、夜遅く家に帰ってきては惰性で夕食と風呂を済ませ、自室でソシャゲのデイリー消化に励む。親の知っている私は、中学の頃、まだ可能性が無限にあり希望に満ち溢れていた頃の私だ。今の私は違う。笑顔はンチャア…みたいな擬音がつくおもんない奴。無気力で頑張ることもせず、全てから逃げ出して、逃げ続けた結果何も持ち合わせておらず、なんとか優しくはなれた。

私は泣き出しそうだった。でも変にプライドが高いため我慢した。ようやく、親にまで心配をかけていると知った。自分では気づかなかったが、この時の私はほとんど笑顔が無かったらしい。にも関わらず、自分の事を話そうとせず、様子がおかしいことに気づいた両親が話しかけるとぶすっとつっぱねていたらしい。

そのくせ最後は親に泣きついた。「仕事を辞めたい」と。100%自分のせいだというのに、メンタルをズタボロにして。厚顔無恥も甚だしい。私は私が大嫌いだ。こんな人間、周りにいないで欲しいと思う。こんなのが周りにいたら、間違いなく全力でぶん殴る。メリケンサックを装着し50メートルくらい助走もつける。法の裁きを受けてもいい。こんなやつ、いない方が世のためだ。だが、唯一私で良かったと思える点は、あまりにも親に恵まれたことだ。両親は、ダメダメな私を「息子だから」という理由だけで愛してくれている。

現在私は職にもつかず様々な資格取得のために勉強をしている。自他共に認める私の強みとして、『勉強は出来る』ことがあったから。TOEIC、MOS、簿記やFPなど。資格取得に専念し、色々な資格を勉強していく中で興味がある分野を見つける、というのが私の人生を充実させるために親と話し合った結論だ。要するに、ただのニートだ。両親はこんな私を飼ってくれている。

早く職に就かねばと思う。人として終わっている私は、初めのうちはニート生活に心を躍らせていたが、想像以上にやる事がない。ともなると、こんな事してていいのか、と自分の未来に関して不安ばかりが募っていく。

なんとなく、やりたい職業も見えてきた。だが、なんとなくでいってしまえばまた失敗をするだろう。ゆっくりと時間をかけ、自分が納得のいく形で、もう一度社会人をやれたらなと思う。尚も生きる意味は漠然としているが、どうせ生きるのならより良い人生を送ろうと楽観的に捉えるようにしてからは心持ちが楽になった。

この言葉は好きじゃないが、人生は長いのだ。私が進んでいるこの人生は、枝状に分岐している人生において、最善の選択ではない。もう最善の道には戻れないかもしれない。けれど、このままだともっと悪い道へ進んでしまうことは明白だ。

私は変わらなければならない。私が大嫌いな私を少しでも好きになれるよう努力しなければならない。だというのに、こうしてダラダラと身の上話を執筆しているので、やっぱり人はそう簡単には変われないのかもしれない。

けれどもやっぱり、私は変わろうとする私を信じようと思う。まずは、私が私を信じることから始めよう。

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