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おとなの手遊び

人は無意識のとき、手が「グー」じゃなく緩い「パー」になっていて、指と指もくっ付いていない。どうしてなんだろう。
なんたる星1月号の迂回の連作手遊び禁止』の感想を書いていきます。

ゆっくりと力をぬいて息を吐き指先はほんとうにありますか

痛みや痒みでもない限り、身体の部位が「ある」ということを意識して生活していない。意識することは、愛情だなと思う。ほんとうにありますか?という聞き方をされると、不安になる。ビット数の少ないゲームの会話のよう。

空港が全部乗ってる薄い板をひきずるように手をつないでいる

空港が全部乗ってる薄い板、持つところあるのかな。ひきずるように手を繋ぐ、って言い方が面白くて、引っ張るでもなく、ひきずられてる方の「自分への興味のなさ」が伝わってくる。誰かと手を繋ぐと、手の存在価値がグッと高まる。グッと、と文字を打つとき、手に微力なチカラが入るね。

白鳥がひたすらにいる湖で何も決めないままにしている

「手」が出てこない一首。ひたすらにいる、の「に」の具合悪さが、一首全体の不穏さにも繋がっていると思った。主体は湖畔にいるのか、それともボートか何かに乗って湖の真ん中にいるのかが分かりにくいけど、湖畔から見てるより、白鳥に囲まれている方が大変なので、面白いのは後者読みかな。

解像度上げたいときに回したいつまみがあって上がらないけど

あー、そのつまみ回したい。ちょっと重たいやつね。上げたい、回したい、という希望をことごとく無下にする結句の言いさしが最高です。

関係がなかったおにぎりに三つある角にはそれぞれ関係がなかった

四角い箱に入ってるピザは丸くて、それを三角に切り分ける理屈も面白いけど、おにぎりの三角のそれぞれの関係性のなさも、よく考えたら面白い。ただ、「関係がなかった」のリフレインがあまり効果的ではないように思えて残念でした。

にぎらない版もあることを仄めかしにぎりこぶしは土壁に飛ぶ

ロケットパンチを想像してしまった。でもにぎらない版のやつでしょ?突き指しちゃいそう…。

リズムよく手遊び禁止を課せられて校庭でする四限体育

手遊び、いろんな手遊びがあるけど、禁止にされるほどの手遊びが、ここのクラスでは流行っていたのではないかな。しかも、リズムよく、禁止を課せられる。それが体育の授業として成り立っている?という、不和、が、怖いし面白い。

夢、明日、勝利あたりを摑み取る手で詰め放題の落花生を

実体のないものを掴み取るときの感触、それこそ手応え、みたいなもの。それがあの落花生に落とし込まれている。あの、ぼつぼつとしていて、ぽそぽそとしていて、まるっこいフォルム。絶妙な気がする。夢も明日も勝利も、どのくらい掴んで良いかなんて決まりはなくて、上限も下限もないはず。でも、落花生の詰め放題は、いずれ「はいここまで〜」がくるので、リアルの怖さみたいなのがまとわりついている。

ぼっとぼと落ちてもおかしくないように見えるけれどねヒトの指って

外側じゃなく、内側からの見た目、ほんとそう。(手のひらをまじまじと見るナイス害)
自分の手、両手ともますかけだから、手のひらさえもぼっとぼと落ちそうに見える。「ヒト」がカタカナになっているので、どこか幻想的で、ぼっとぼと落ちるヒト科ヒト属ヒト、の絵も描ける。

ゆうやけを見ててゆるんだグーの手に余った飴を入れてくる人

夕焼けを見ててゆるむ手の愛おしさハンパない。その、緩んだスペースには夕焼けも入り込んでいるはずで、そのままでも十分この人は赦されているのに、飴を入れてくる人、というもうひと回り大きい(夕焼けをも凌駕する)愛おしさが、手の隙間のスペースの小ささとのギャップを生んでいて、わー!となる。一番好きな歌でした。

すべてをひっくるめての手遊び。手という言葉で遊んだ連作でした。
冒頭での疑問、解けた気がします。なぜ人は無意識のときに手を開いているのか。誰かにこの手で遊んで欲しいからなんだと思います。