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生きるための自殺論④ 善良な悪魔と対峙する

生きるための自殺論④ 善良な悪魔と対峙する

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 前回の第3回では、自分のなかには善良な悪魔という、悪気はないのだけれど無限に自己否定の言葉を投げかけてくる存在がいるということについて書いた。今回では、その善良な悪魔とどのように向き合っていけば良いのか、ということについて考えてみたい。
 善良な悪魔はいわば義娘に嫌なことばかり言う意地悪な姑のような存在だ。部屋をぴかぴかに掃除した後にどこからともなくやってきて障子の格子に指を滑らせると、自分の指の腹についたかすかな埃を見せてきて、あらまだここに汚れが……と言ってくる。とにかく厳しくて、一見正しいことを言っているように見えるぶん反論するのが何となく難しく、ただただあなたを落ち込ませる厄介な相手だ。
 だからこの善良な悪魔の言葉をいちいち真面目に聞いていては安心して生活することがままならない。この声に全て従っていると、たいていの人はいつかキャパシティオーバーを起こしてしまい、あるとき身体がまったく動かなくなる。そして自分は何もまともにできない駄目な人間だと思い込んでしまう。
 そして実際、僕がまさにそのような人間だった。僕は実はかなり良い加減でだらしない人間である。洗濯物をよく溜めてしまうし、遅刻癖があるし、仕事では確認をしないで進めてしまい後で面倒なことになるということをしょっちゅうやっていた。それに僕の住んでいる地域ではペットボトルはラベルとキャップを外した状態に分別して捨てる必要があるのだが、いつも面倒臭くてそのままの状態で袋に入れて捨ててしまうし、プラスチックゴミも燃えるゴミと一緒に捨ててしまう。
 でもそんな僕も、組織のなかではいつも真面目で良い人として認識される。いつも面倒そうな顔をせず仕事を手伝ってくれるし、ハードワークするし、ちょっと抜けたところはあるかもしれないけれど、上下関係を重んじるちゃんとした人だ、という評価を受けることが多い。多いというかほとんどどこでもそうだ。僕のなかに住まう善良な悪魔は対人関係において特に厳しいらしく、忙しいときなどに誰かに仕事を頼まれてちょっと断りたいなと頭のなかで思っていても、いつも僕に向かってこう言ってくる。君の帰りが少し遅くなるだけだというのに、どうしてそんなこともしてあげられないの? 君はそれをしない時間でいったい何をするというの、と。
 これまでの人生でこんな人を見たことはないだろうか。いつも沢山の仕事に追われて忙しそうなのに、何かを頼んだら嫌な顔ひとつせず何でもやってくれて、周囲の人間からは好かれているけれど、誰も見ていないところでほんの一瞬疲れた表情をしている、というような人を。それは僕だ。どうやら悪魔にすっかり魂を巣食われてしまった人間の姿というのは、他人の目には善良な人間として映るらしい。にもかかわらず本人は、自分はろくでもない人間だという思いを絶えず抱えている。善良な悪魔が否定しつづけた結果出来上がった自分のろくでもない人間だというイメージを何とか払拭しようとして、無限に努力をしてしまうのだ。そしてその結果、どこかのタイミングで電源が切れたみたいにプツンと力が尽きてしまう。
 だからまずは善良な悪魔との上手な付き合い方を見つけなければならない、というのが僕にとっての喫緊の課題だった。そしてその一歩目は、まず善良な悪魔が自分自身ではなく、自分のなかに住まう別の自分だということを認識することだった。前回でも書いたように、多くのひとにとっては善良な悪魔と自分が一体化してしまっている。だから悪魔の声は自分の声として聴こえてくる。そうなると、その声を相対化することが非常に難しくなる。自分のなかで悪魔がもはや王様になってしまっているからだ。だから全部の言葉が鶴の一声で、全部の言葉がそのまま行動規範になる。そこには反抗もなければ議論もない。善良な悪魔から実際の行動の間にはとんでもなくおっかないアウトバーンが走っているから、ポルシェなんかよりもずっと早いスピードでこうしなさいという言葉がビューンと走り抜けてゆく。だからまずはそこに検問所を設営しないといけない。 
 そのために僕はまず善良な悪魔を君と呼ぶことにした。呼び方を決める。それは自分と他人を分けるための一番単純な方法だ。もしあなたが同様にこれを実践するなら名前をつけてあげても良いかもしれない。アクマちゃんでも、デビル君でも、何でも構わないと思うがとにかく呼びかけるときの名前や呼び名を決めてあげることで自分とその存在を区別することがずっと簡単になる。
 呼び名を決めたらその善良な悪魔の声に返答をしてみる。大事なのはとにかくそれが自分ではなく他人の声だと認識するということだ。たとえばこう書いていると僕のなかの善良な悪魔は、文章があっちにいったりこっちにいったりしてわけがわからない、とか、同じことを別の言い方で何度も書いてしまっているじゃないか、とか、比喩がよくわからないとか色々いってくる。でも僕は、君はそう思うんだね、とだけ言って相手にしない。それってあなたの感想ですよね、という言葉みたいな感じかもしれない。実際、善良な悪魔は感想しかいってこないのだ。感想であればそれをいちいち相手にする必要は全くない。
 そうして善良な悪魔を自分から切り離すことができたら、今度はその声が聴こえてきたときに少し議論をしてみる。でも単純な一対一の議論ではだめだ。なぜなら善良な悪魔はとにかく弁が立つからだ。自分の嫌がるところを知っていて、しかもとにかくよく喋る。だから慣れないうちは捨て身で議論に臨んでしまうと、宮台真司みたいにとめどなく嫌なところをひたすらついてくるその善良な悪魔の言葉にタコ殴りにされて終わりだ。だからやられてしまわないための対策を準備した上で議論をする必要がある。
 その具体的なやり方は、第三者を交えた3人で議論をするという方法だ。3人というのは、自分と善良な悪魔と、それから自分より賢い誰か、だ。こう書いてもよくわからないかもしれないが、僕はいつもこんなふうに頭のなかでイメージをしている。まず椅子が三脚置かれた部屋がある。右手の椅子に善良な悪魔が座り、左手の椅子には僕が座っている。そして真ん中の椅子には、自分より賢い誰かを司会役に座ってもらう。僕の場合はいつもカフカを置いている。小説家のフランツ・カフカだ。僕は『カフカとの対話』という本がとても好きで大学生の頃から何度も繰り返し読んでいるのだが、これはグスタフ・ヤノーホというカフカの弟子みたいな人が、カフカの死後に彼との交流について記した本だ。その本を何度も読んでいるうちに頭のなかでカフカをイメージできるようになった僕は、何かに迷ったときに頭のなかのカフカに訊ねてみたりするようになっていた。なのでカフカを僕と善良な悪魔の座る二つの椅子の間に置いた真ん中の椅子に座ってもらう。でもこれはカフカのような作家でなくても別に良くて、自分より賢い人であれば誰でも良い。自分の友人でも、大学教授でも、兄弟でも、誰でも良い。とにかく理性的な判断ができる人物であれば良い。
 その準備ができたら善良な悪魔が何かを言ってきたタイミングで、頭の中でその部屋へと移動する。悪魔は僕に向かってどんどんひどい言葉をぶつけてくる。お前はろくでなしだ、お前は頭が悪い、お前には感謝が足りない、云々。そこで司会役のカフカに割り込んでもらう。でも本当にそうでしょうか、とカフカは善良な悪魔に言う。彼——というのはつまり僕のことだが——は間違いを犯すときもありますが、それはいつもそうだというわけでもありません。ひとのことを気遣う行動をしたことはこれまでにも何度もありますし、感謝の気持ちだってちゃんと持っています。頭だってそんなに悪いとも言えないのではないでしょうか。抜群に良いというわけでもないかもしれないですが、大学だって卒業しています。あなたがそんなことを言う根拠とは何ですか。そんなふうに反論をしてもらうのだ。
 そうしていると善良な悪魔はなかなかこの議論に勝つことができないということをだんだん悟ってゆく。それも当然だ。善良な悪魔がいってくる否定的な言葉はたいてい理不尽な、相手を痛めつけたいだけの言葉にすぎないからだ。だから冷静な第三者に入ってもらうことで、それを善良な悪魔に理解させることができる。そして自分自身でも善良な悪魔がいっていることがたいてい理不尽なことだということを理解するできる。これはこういう作業だ。もしかすると、こんなことをするのは頭がおかしいと思う人もいるかもしれないが、これは本当に効果があるのでぜひやってみてほしい。
 もちろん善良な悪魔も簡単には引きさがらない。第三者を置いたとしても、その反論を無視して自分を否定する言葉を言うことをやめないだろう。でもそれでも問題はない。大事なのは、その悪魔が吐く言葉は他人のもので、必ずしも正しいものではないのだ、ということを自分自身で理解し、自己否定をする声とちゃんと距離をとることだからだ。逆にいうとそれを理解することさえできれば、ほとんど危機は去ったといってもいい。でもとはいえ、これを完全に理解して完全に悪魔と距離を取るということはかなり難しいことだ。もっというと、たぶんそれは完全には不可能なことなのだろうという気もする。というのも、先にも書いたように、自分と善良な悪魔は合体してしまっていて、それはある意味では人間の表と裏のようなものだからだ。自分と善良な悪魔は、ひとつの同じ口から違う言葉を吐き出す。だから、その言葉が自分の言葉なのか、善良な悪魔によるものなのか、判断が難しいということがあるし、それに善良な悪魔もいろんな攻め方を知っている。たとえば、今日は頭が痛いけど仕事を頑張ろう、とあなたが思ったときそれは善良な悪魔があなたに扮した言葉であるときもある。ちょっとしんどいくらいで休むなんて情けない、という自己否定を悪魔が巧みにカモフラージュしたものであるかもしれないからだ。でも実際のところ、それは自分自身か悪魔か、どちらからの言葉かははっきりわからない。それくらい、ときには微妙な仕方で悪魔は攻めてくることがあるということだ。
 いずれにせよ、これは結局のところ距離感の問題だ。第3回でも書いたが、善良な悪魔は正しいことも言うので、その言葉通り実践すれば上手くものごとが運ぶ場合もある、という側面もある。だから最終的に目指すべきは、どの意見をあなたが聞き入れて、どの意見を聞き入れないか、という悪魔との向き合い方をコントロールできるようになることだ。そしてそれはそのときどきの自分の体調や気分といったうつりかわるものとの兼ね合いもあるだろうから、相手がこうくればこうといったような一冊のルールブックを作ることができるというものでもない。それはケースバイケースでやっていくしかなく、だからこれには練習による慣れが必要だ。でもこれは最初の記事でも書いたように技術だから、やり方さえわかっていれば必ず習得できる。少なくとも僕はこの技術をある程度習得して、いまも日々上手くなっているという実感がある。
 別に無理に脅かそうとするわけではないが、逆に言うとこの技術がないと何かを始めて上達するとかそれを完成させるということは非常に難しくなってくるのではないかと僕は思う。たとえば僕はこの記事を書き始めるずっと前から、小説家になりたいと思って小説を書こうと何度も試みてきた。はじめて小説を書いたのは大学一年生の頃だったが、それからつい最近までひとつの小説も完成させることはできていなかった。書き始めては途中で自分の小説は駄目だとうんざりしてそれを破棄するということをそれはもう何度も何度も繰り返していた。数万字も書いた小説を捨てたことは一度や二度ではない。そこまでいったら普通は完成させても良さそうなものだが、僕は途中で自分の書いたものを読み返すと、これはとても読んでいられないクソみたいな代物だと思って全部捨ててしまいたくなるのだった。でも自殺未遂を経験した後、この善良な悪魔と対峙するという方法を習得してからは、はじめてひとつの小説を書き上げることができた。それは僕にとってすごい感動だった。そしてもしかしたらこの方法で小説にかぎらず大きなボリュームのものを書くことが自分にはできるかもしれないと思って書き始めたのが、今回の連載だ。もちろんこうして書いているいまだって善良な悪魔はあれこれいってくる。これはもはや考察じゃない、とか、誰がこんなものを読むんだ、とか、文章が下手すぎる、とか、改行のタイミングが変だ、とか、もう相手にし出すと止まらないくらいだ。でもそれくらい言われても僕は対悪魔戦闘術の黒帯くらいは持っているので、余裕でやり過ごすことができる。僕は自分がすごいと言いたいわけではない。僕は全然凄くない。10年近く小説を書こうとしてきてそれでも書けなかった人間が凄いわけがない。ただ単純に技術を習得しているというだけだ。だからもしあなたが何かをやり遂げたり、作り上げたりしたいと思うのなら、この技術は役に立つと思うし、それを身につけることはさほど難しいことではないと思う。この技術の応用編については、第6回の記事でさらに深掘りして書いてみようと思っている。
 いずれにせよ、善良な悪魔との対峙において大切なことはまずその存在が自分の中にいるということを認識すること、そしてそれと自分を切り分け、悪魔が言っている言葉を場合に応じて上手に取捨選択するということだ。悪魔といえども自分のなかにいるのはあくまでも善良な悪魔である。だから変な言い方かもしれないが、その存在を愛することだ。愛するとは、相手がたしかにそこにいるということを認めて、その存在が言うことをちゃんと聞いてやる、ということだと僕は思う。何でもかんでも従順に言うことを聞くというのは、相手の話を聞いていないのと同じだ。善良な悪魔は、自分のなかの他者ではあるが、やはり自分自身である。だから自分の言葉を真摯に聞いてやる、というつもりで聞けば良いというふうに僕は思う。もしかすると、それが真の自己受容ということなのかもしれない。

 ということで今回の記事はこのあたりで終わろうと思う。うすうす勘づいている人もいると思うが、この連載は純粋な考察というものからだんだん外れていこうとしている。今回の記事にしても、考察と呼ぶにはあまりに感覚的に過ぎるし、あまりにいい加減すぎる。次回は「もう自殺するほかないというあなたへ」という記事で、僕はこれを既に途中まで書いているのだが、その考察から外れてゆく様相というのは次回以降さらにその色を濃くしている。そういう意味でも、この一連の文章は、僕にとってはもはや考察というものではなくなってしまっている。これは広い意味で小説だという気が僕にはしている。僕はどの記事の文章についても事前のメモをほとんど用意しておらず、だからいまもこうして即興で思いついたことを書き殴るようにして書いているのだが、自分でも自分がいったいどこへ向かっていっているのか全然わからない。はじめは誰かにとってのヒントになればと思っていたが、今ではむしろ自分にとってのヒントを自分に与えようとするかのように書いているところがかなりある。もうほとんど自己療法だ。なので­­­­——そもそもそういう人がいるのかもわからないが——この連載を何か自分にとってのヒントとなることを期待して読んでいる人がいるのなら、その点については(今後は特に!)あまり期待しないでほしい。たぶんヒントが必要な方は、当たり前すぎてわざわざ言うことではないかもしれないが、図書館か本屋さんにでも行って、もっと専門的で体系的な本を読んだ方が良いと思う。この後は怖いものが見たい人だけ読んでくれれば良いと思う。
 いずれにしても、僕は最後まで書き続けるので物好きな方はこの無茶苦茶な走路が最後はどこに行き着くのかを一緒に見届けてもらえればと思う。何の役にも立たないかもしれないが、そこそこ面白い具合になってくれるのではないかと僕は期待している。

 それから、これは毎度のお願いで恐縮なのですが資金援助をしてくださる方はぜひともこの記事や連載の購入をお願いします。既に10人以上の方が購入やサポートをしてくれて、本当に驚くべきことに7000円もの売上になっている。自分からお願いをしておいてこんなことを言うのも何なのだけれど、世の中には変わった人が結構いるものだなあと思っている(笑)。いや、本当にありがたいかぎりです。
 ただひとつ問題があって、読者の方から教えてもらったのですが、なんとこのnoteの売り上げは7月にならないと入金ができないらしい。この調子で行けばこの連載で得たお金でしばらくは生活ができるかもしれないと思っていたのだが。そこで、これを読んでいる人に詳しい方がいれば、できるだけ早い時間で入金ができるnoteでのお金の受け取り方を教えてほしいです。コメントでも、それが難しいならTwitterのDMは解放しているので、何か知っている人がいればぜひお願いします。どれだけお金に困っているんだよ、というツッコミを受けてしまいそうですが、まあ相も変わらずジリ貧という状況なので(笑)。
 何はともあれ、いつも読んでくださりありがとうございます。いつもと同様に「ここから先は〜」の部分には何も書いてありません。全ての記事は全文無料です。よろしくお願いします。

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