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生きるための自殺論① 自殺へ至るまで

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生きるための自殺論①

僕は2023年11月12日に自殺を試みた。
だが失敗に終わった。だからこの文章を書けている。

 自殺に至るまでの道のりは長かった。正直なところ、最初に自殺を明確に意識したタイミングもわからない。いまTwitterで確認してみると、少なくとも2021年5月には死ぬことについて呟いているのをみると、おそらくそのころから意識をしていたのだと思う。自殺未遂の約半年前だ。
 当時の僕はほとんど生活を仕事によって支配されていた。大丈夫だとは思うが、もしも職場がバレてしまうと困るのであまり具体的なことは言えないが、忙しい時期などは◯◯日間連続で出勤していたときがあった。宿直勤務もある仕事で、月の平均の残業時間はとーーっても長かった(笑)。もしものときのために具体的な数字は書けないが、たぶんこれを読んでいるひとがいま想像した数字よりも絶対に大きい数字だと思う。勤務時間中は常に忙しいというわけではなく、ただその場所にいることが必要という面もある仕事だったので、いつも何かに奔走されていたわけではなかったが、月曜日に出勤し、次に自宅に帰ることができるのが金曜日だったりする——しかも次の日には午前中の勤務がある——ということがよくあった。そういうことがあると、へとへとで家に帰り着いてから全身の力が抜けてしまうような感覚に襲われることがあった。
 しかし、それでも仕事が嫌いというわけではなかった。むしろ意外と好きだった。職場の同僚とも仲が良かったので、人間関係や職務内容でストレスが溜まるということもあまりなかった。ただ僕が働いていた職場は結構特殊な場所で、そのため僕の仕事内容も少し特殊なものだった。本来の自分の仕事とは違うこともやらなければならないことも多々あり、そのために自分の時間がどんどん吸い取られていった。同僚からは、いつも「いつもいるけどちゃんと休んでる?」と訊かれることがよくあるほどで、僕は誰よりも職場にいる人間だった。でも、仕事についてはあまり具体的に書けないので、この辺にしておく。

 当時の自分を思い返すと、少しずつ死に迫っていっていたと思う。それはほとんど自覚できないほどゆっくりだった。だから自分がもう死ぬ他ないという世界に入ったそのことにさえ気がつけなかったのだと思う。これを読んでいる人は、なぜ仕事を辞めなかったのか、なぜ仕事を休まなかったのか、と思うのではないかと思うが、当時の自分はそんなことは全く考えていなかった。というのも、当時の僕は甲斐性がないというか、我慢強くないということにコンプレックスを強く感じていたので、この仕事を始めるということになったときに、これは絶対にやめないぞ、と強く心に決めていたのだった。僕は昔から部活もアルバイトも長続きがしたことがない。なので、そのような自分からある種脱却しようという試みでもあった。だから「辞めるときは死ぬときだ」というふうに思っていた。その言葉ははじめ比喩的な響きを持っていたはずだったが、気づけば文字通りの意味だけになっていて、いつしか僕はその言葉に囚われていた。辞めたいなら死ぬほかない。でも死ぬのは嫌だから明日も頑張ろう、というふうだった。それがいつからか、もう頑張れないので死ぬしかない、に変わっていた。
 死のイメージは夏頃にはもうはっきりと自分の中にあった。当時はもう見るもの全てが死を象徴しているように感じていた。(怖いものがみたい人は僕のツイートを遡れば何個か変なものが出てくると思う。もう消しているのもたくさんあるが、さっき見返すと、死神をみた、というツイートまでしていた。)たぶんおかしくなっていたのだと思う。当時のことはなぜかあまり覚えていないが、ひとつだけはっきりと覚えているのは、夏の一番暑い時期に、仕事からの帰りに路地を歩いていたときのことだ。その日は仕事が昼で上がりだったので、僕はコンビニで昼食を買って帰り道を歩いていた。その瞬間、歩いていた路地の光景がなぜか死の世界のように思えたのだった。死の世界というのが何かは自分でもよくわからない。それが死後の世界ということなのか、何なのかはわからない。頭がおかしくなった人間の感じることなので話半分くらいで聞いてほしいが、とにかくこの道をまっすぐ進んでゆくと、自分は死ぬと思った。思ったというか確信した。なので僕は立ち止まって、路地に立ち並ぶ家の壁にもたれた。心臓が激しく鼓動していたのと、暑さと緊張のせいで汗が止まらなかったのと、路地のどこかの家にいる犬が僕に向かって激しく吠え続けていたのを覚えている。しばらく待っていると、だんだん落ち着いてきて、死の世界という直観が、全くの妄想に過ぎないと理解することができた。でも、その道を通ることは怖くてできなかった。僕は一度来た道を戻り、普段とは違う道で家に帰ったが、その死のイメージはその後もずっと残り続けていた。
 それから秋口になると、もう死を確信している段階だった。この先には死があって、それを避けることができないというような感じだった。たぶんそれは普通のひとが80歳か90歳ぐらいで自分は死ぬということを意識しているのと同じような具合で、自分はこの一ヶ月か二ヶ月後には死ぬことになるだろうと思っていた。それは決定事項で、感覚としては、自分はいま電車に乗っていて終点に死という駅がある、という感じだった。途中の駅で降りることはできるのだが、その選択肢は自分にはない。あとは、その瞬間に向けてやるべきことをやる、という段階だった。
 僕は少しずつ死のための準備を進めていた。その頃にはもう首吊り用のロープは購入していて、毎日インターネットで、確実に自殺を成功させる方法や、できるだけ苦しまずに自殺する方法、また自殺者が死ぬ前にしておいた方が良いことなどについて調べていた。部屋を片付け、遺書を準備し、自分の仕事をできるだけ引き継ぎやすいよう整理し、口座凍結に備えて貯金を全部引き出しておくなどした。ロープの結び方を調べて、部屋の突っ張り棒に結びつけ、いつでも実行できるようにしておいた。突っ張り棒と言うと簡単に外れてしまいそうな感じもするかもしれないが、僕の部屋にあったのは、市販のものではなく備え付けの突っ張り棒(物干し竿?)で、そもそも突っ張り棒と呼ぶのかもよく分からないのだが、そのステンレス製の棒の両端は壁の中に埋め込まれているものでかなり頑丈だった。ただそれでも、耐久性への不安は完全に拭えなかったので、リハーサルというかテストのようなことは何度かしてみたりした。まず椅子の上に立って首をロープにかけ、でも途中で抜け出せるように両手をロープと首の間に差し込む。それから椅子から足を離し、棒に全身の体重が掛かるようにする。そしてその状態から、実際の場面を想定して、身体を振って暴れてみる。いくら手を差し込んではいても、途中で苦しくなってくるので、しばらくしたところで椅子に足を戻す。そして棒を確認すると全く曲がっておらず、首吊りの最中に折れる心配はなさそうだった。これで準備は万端だった。
 死ぬための準備が整うと、あとはいつ死ぬかというだけの問題だった。でも当たり前だが、死ぬのは怖い。だから毎日仕事から帰ってくると、死にたいという感情と死にたくないという感情の間で揺れ続けていた。その頃は家に帰ると、YouTubeでなぜか世界史の出来事や偉人に関するゆっくり解説の動画をずっとみていた。自殺未遂をしてからはそんなものは一切見なかったし、普段も全く見ないし、もっと言うともう近いうちに死ぬのだから知識など蓄えても何の意味もないのになぜかそんな動画を飽きずにずっと見ていた。それから情報収集のために、当時の僕にとっては失敗例である自殺未遂から生還した人の動画やネット記事もたくさん見ていた。列車に飛び込んで半身付随になった人の動画や睡眠薬の過剰摂取で胃洗浄を行なったという人の記事、また深夜の公園で首吊りをしたが途中で人に見つかって救出されてしまったという記事を見たのを覚えている。彼らは皆、いま死なずに生きていることのありがたさや幸運、また生きていることの素晴らしさを語っていた。でも当時の僕にはそれは全く響かなかった。むしろいかにも嘘らしいと思っていた。自分の中で死ぬことは確定していたので、それと反対のことを言われるのが煩わしかったのかもしれない。当時の僕は、自殺することは全く悪いことだとは思っていなかった。むしろ自分で選んだ選択ならば肯定されるべきだとも思っていた。何なら今でも少しはそういうふうに思っている。自殺が悪いことだと頭ごなしに否定する人は生きている人だけだ、と当時の僕が書いたメモにはある。つまりはそういうマインドだった。死ぬことを頭から否定し、手放しで生を礼賛するのは思考停止であり、自分で死を選んだ人間は、もし死後の世界があるのならきっと満足しているだろう。そう思っていた。
 そんなことを考えながら、いつも夜中の3時か4時まで起きていた。眠れなかったわけではなく、仕事で疲れて仕方がなかったが、最後の方は毎日何とかして今日死にたいと思っていて、その実行のために起きていたのだった。なぜかわからないが、僕はできれば4時から5時の間に死にたいと思っていた。2時や3時では早過ぎるような気がして、6時になるともう朝だという気がして死ねないという気持ちがあった。だからそれまでの時間はただ起きているためだけにYouTubeを見て、考えごとをしたりして、時間を潰した。でもあまりにも疲れていたためにたいてい気がつけば眠ってしまい、ハッと目を覚ますともう朝の仕事に行かなければならない時間で、外が明るいのを見て、ああまた今日も死ねなかったと思う、ということを何度も繰り返していた。
 夜の時間には自分が死んだらどうなるだろうということもしきりに考えた。親は悲しむだろうか、友人は悲しむだろうか、仕事は大丈夫だろうか、など。でもどれも大した問題には思えなかった。仕事は誰かが何とかするだろうし、周りも誰も悲しまないのではないかと僕は思っていた。正確には、とりあえず最初の一週間程度は悲しむかもしれないが、半年や一年もすればみんな忘れるだろうという気がした。そして何事もなかったかのように世界は回るだろう。でもきっと周りの人間はみんな驚くだろうとは思っていた。できるだけ死ぬことを悟られないようにしていたからだ。もともと周りの人間に気を遣われたりするのが嫌な性格なので疲れていてもしんどそうな顔は絶対にしないようにしていたが、特に死ぬ直前の一ヶ月は特に明るく周りに接していたと思う。ある種のハイな状態に近かった。それは一つには、自分が死んだ後にそれに気がつくことができなかったと自分自身を責める人が出るのは嫌だったからだった。自分の死が誰かの責任として残っていくことはどうしても避けたかった。またもう一つは単純に自分がもうすぐ死ねるのだと思うと頑張ろうと思えたからだった。たとえるなら、連休前の金曜日のような具合だった。もう次の日のために体力をセーブする必要もないし、これが終わるとあとは長い休みが待っている。長い長い休みが。そんな具合だった。
 そしてやがて自殺を試みる日がやってきた。その日は別に何ら他の日と変わらない1日だったが、家に帰った瞬間に、ああ絶対に今日だなと思ったのを覚えている。そこからずっと恐ろしくてたまらなかった。執行を告げられた死刑囚の気持ちはこんな感じなのだろうかと考えたりした。それに実際、僕にとってこの自殺は死刑のようなものだという気持ちもあった。もっと能力があれば、もっと頭が良ければ、もっと精神的に強ければ、もっと道を間違えなければ、こんなことにはならなかっただろうに、とそれまでに何度も考えていたからだった。でももう今さらどうにもならないことだった。この自殺へ至った理由は何から何まで自分の責任であり、その責任を取るのが自分であるのは当然である。こんなどうしようもない人間はそういない。死んで当然だ。そう信じて疑わなかった。
 その日は深夜の一時ごろに外へ出た。散歩をしたい気分だった。そして自分のアパートから何も考えずに歩いていると、いつの間にか実家の近くまできていることに気がついた。そこで最後に実家を見ておこうと思ってそっちの方に歩いてゆきながら、自分の子供時代のことを思い出していると、なぜか急に涙が出てきた。その頃はもう涙など枯れ果てたかのようにどんなに悲しかったり辛かったりしても涙は出なかったのに、そのときは自分でも驚くほど、溢れるように涙が出てきた。どうして自分はこんなことになってしまったのだろう。どうして自分はこんなにダメなのだろう。親に本当に申し訳ない。周りに申し訳ない。死にたくない。でも死ぬほかない。そう考えていると、涙が止まらなかった。そんなに嫌なら死ぬのをやめれば良いのに、と今の自分なら考えるが、そのときはそんなことは微塵も考えなかった。しばらくすると涙は止まり、それと同時に決意が固まった。家に帰ったら最後の確認をして、首を吊ろうと思った。
 そうして家に帰ると、Twitterの通知がきていた。それは中島智さんという芸術人類学者で僕が勝手に師匠だと思っている人からのメッセージだった。実はその前日に、死についての質問をDMで送っていて、それはダメもとで送ったものだったのだが、なんとその返信が来ていたのだった。僕が送ったメッセージと中島さんからの返信は下の画像のようなものだった。


 いま読むと自分の質問の文章に思わず笑ってしまう。まず長すぎる(笑)。それにやたら過剰でうるさくて、真剣な調子で書いている割に、どこか自分の意見を否定してもらいたがっているような、そんな印象がある。でも当時の僕は真剣にこんなふうに考えていた。死ぬということが自分のどうしようもなさをみんなが仕方ないね、と許してくれる唯一の免罪符のような気がしていたのだ。
 こんなふうに死を美化することが当時の自分には必要だったのだと今では思う。自殺するということは、たぶんひとが思っているよりもずっとエネルギーとモチベーションがいることだ。だから変な言い方かもしれないが、多少元気がないとできない。おそらく丸一日肉体労働をしてへとへとになったそのすぐ後に自殺をするということはかなり難しいのではないかという気がする。自殺をするためには、何というか、若干の気合と体力が必要なのだ。というのも自殺をするには死に対する恐怖心を乗り越える必要があるからだ。しかし一方で、死へと自分を押しやる現実世界の圧力がある。その合間に挟まれて、そこからえいやっ、と飛び出すのが自殺だとすれば、そのえいやっのための少しのエネルギーと決心がいる。その決心の方を後押しするために自分が作り出した考えが、死は美しくて善いものだ、というものだったのかもしれない。
 いずれにしても、それに対する中島さんの返信が僕はとても好きだ。死は凡庸なもので、まるで毎日身体から排出されたウンコのように当たり前のもので、ありふれたものだ、という。その一方で生は善きことではないが、非凡である。生きていることそれ自体は素晴らしいことではないかもしれないが、それはとにかく人間を超えている。それは人間が善いとか悪いとかいちいち評価するようなことではない。
 いま読めばこれは当時の自分よりも深く刺さってくる。でも当時の自分はそんなにわかっていなかった。返信がきたことだけがありがたくて、内容もあまりちゃんと読めていなかった。だから中島さんから返信が来るなんて死ぬ前のプレゼントだな、というくらいにしか思っていなかった。もっと言うと、まともに文章など読める状態ではなかったのかもしれない。これから死刑執行が行われるというその直前だったから。
 それから実際に自殺を行うまでの数時間は何をしていたのかあまり覚えていない。たぶん首吊りの方法についての確認をしたと思うが、それ以外の時間は全くといっていいほど覚えていない。もしかすると、ショックで記憶の一部が飛んでしまったのかもしれない。
 とにかく僕は、4時を過ぎたころに首を吊った。これを真似する人が出てきても責任を取れないので方法については詳述できないが、まず椅子の上に立ち、首を吊ってからできるだけ苦しくないよう失神をする準備をしてから、勢いよく、ほとんど倒れ込むようにしてロープに首をかけた。
 目まぐるしく色んな映像が流れていたというのを何となく覚えている。内容は覚えていない。ほとんど夢と同じような感じだが、普通の夢と違うのはそれが激しく動いていたことと、何となく映像全体が赤っぽかったということくらいだ。映像が動いているのはもちろんだが、カメラもまた激しく動いているような具合だった。だからその映像がどんなものなのかは判然としないが、とにかく目まぐるしく動いていた。おそらく激しく暴れていたためにそのような見え方をしていたのではないかと思う。赤っぽかったのは、眼球に血が集まっていたからなのではないかと思っている。助かったとわかったときにあれが走馬灯というものなのだろうかとも思ったが、もしかすると違うかもしれない。いずれにしても、その映像を見ていると、ある瞬間に強く肩を打つ感覚に襲われた。それから何かが落ちた大きな音がして、気がつくと僕は尋常じゃないくらい咳をして、その咳の合間に思い切り息を吸い込んでいた。僕は昔、喘息になったことがあり、その症状が一番強く出るときにはほとんど呼吸困難になり、咳をしながら何とか息を吸うというふうになったのだが、そのときのような具合だった。何が起きているのか全くわからなかった。床の上でひとり暴れ回りながら、ぜえぜえと息と咳を繰り返していた。でもそれがやがて落ち着くと、僕は立ち上がって、ほとんど無意識に電気をつけて部屋の姿見の前に立っていた。そして自分の顔と身体がそこにあるのを見て、生きてる、と言った。本当にいま思い返すとそんな自分に笑ってしまうが、自分が生きていることに驚いていた。元の場所に戻ると、相当暴れたのだろう、物干し棒は根元から折れていて、床に転がり、それが刺さっていたところの壁の一部ごと剥がれていた。僕は唖然とした。何度も確認したはずの耐久性だったが、まさか根元の方が折れるとは考えてはいなかったのだった。
 だが、それからはまるで憑き物が落ちたかのような気分だった。なぜか分からないがもう死ななくて良いという気分になった。なぜならもう一度死んだのだから。結局、その数週間後にまた別のかたちで自死への思いが高まってくるのだが、とりあえずそのときは何もかもから解放されたような思いだった。死にかなり接近したからだろうか、未遂から数時間の間はどこか神聖な気分に浸っていたような気がする。だからそれから朝になって、会社にしばらく休みたいという連絡をすることができた。それまでは休むと言うことなんて全く考えられなかったのに。すると、それは想像していたよりもずっとすんなり受け入れられ、さらに働きすぎていたことを心配していたのだとさえ言われた。それから僕は仕事を休職することになった。
 それから休職期間の間に、自殺について何度も考えることになった。もしこれを読んでいる人に自殺未遂経験者の方がいるのであれば、おそらく共感してくれるのではないかと思うが、自分の中に二つの感覚が同時に流れているという感じが僕にはある。それは自分がいま生きているという感覚と、(比喩的な意味で)もう死んでいるという二つの感覚だ。これは前向きに捉えるならば、自分は一度もう死んだようなものだから自由に自分の思う通りに生きようというふうに考えられるが、反対に捉えると、死ぬべきだったのにいまもまだ生きている、ということになる。後者の考えが自分の中に湧き上がると、厄介なことになる。なぜあのとき死ななかったのか、絶対に死ぬべきだった、と自分が自分に言うのだ。言ってみれば、自分という死刑囚が執行に失敗したので娑婆の世界に解放されているような具合だ。誰もがそうするべきではないと強く言うだろう。その目線が自分自身にある。だから自殺未遂後の不思議な神聖な気分がなくなると、またすぐに自分は死ぬべきだという感情にしきりに襲われるようになった。正直にいうと、いまでもそのように考えることはある。自分が死ななければならないと考えていた原因は仕事ではなかった、というか、仕事だけではなかったのだと、そのときようやく気がつくことができた。そこから自分自身が死に至った本当の原因と向き合おうと思うようになった。ちょうど休職していて時間もある。そしてそこから考えた自分なりの考えがある程度まとまってきたので、このnoteに書いていこうと思った。僕はあまり頭の中だけであれこれと考えられる方ではないので、いちどどこかでアウトプットする方が上手くいくのではないかと思ったのだ。
 今回は僕が自殺を試みたことについて書いたが、次回以降はなぜ人が自殺をしたいと思うのか、またどうすればそう考えないでいられるのか、ということについて少しずつ書いていければと思う。最初にも書いたが僕は専門家ではない。ただの文章を書くことが好きな一般人で、ただ自分の体験としてこうすれば良いのではないか、という程度に過ぎない。ただ、一つ思うのは、自殺ということはあまり人に話せないものだ。僕自身、これまで一人にしか自殺未遂をしたことを話していない。だからだろうか、自殺について当事者からの具体的な細かい話を読んだり聞いたりするということはあまりない。本にしてみても、自殺をするな、とか、自殺予防、とか専門家が書いた自殺に至るメカニズムみたいなものが多い。インタビューなどに出てくる自殺未遂経験者も、生きていて良かった、と生を礼賛する文脈で語っていることが多いという気がする。人生は素晴らしい、だから皆んなも死なずに生きましょう!というふうに。でも僕は、先も書いたように、いまでも死ぬことへの誘惑から完全には逃げきれないでいる。それに死を目の前にした人にそんなポジティブ一辺倒な励ましは効果がないということも知っている。自殺したい人にとっては、死が救済で生は地獄だと思っているからだ。そんな人に向かって、人生は楽園だと言っても頭のおかしな人にしか思えないのは当然だ。
 だから僕はもう少し視点を変えて、死にたいと思ってしまう人にとって、生きるためには技術が必要だと言ってみたい。自分を否定する他人や自分と上手く接する技術。明日からキリスト教をあなたは信じてください、そうすれば人生楽しいですよ、と言われて、わかりました、と従う人はいないだろうと思うが、僕にとっては、人生は素晴らしいから生きた方が良いよ、と言われるのもこれと全く同じことだ。宗派が違うのだ。人生を礼賛する神様を僕は別に信じていない。だからその神様の言葉は理屈がなければ信じ難い。でも、こうすれば苦しいけど何とか生きやすくなるかもしれないですよ、という技術であれば、簡単に受け取れる。信仰心がない人でも、車の運転の仕方であれば、必要ならば学ぼうと思うだろう。それと同じで、僕は技術についての話をしようと思う。生きるための技術。次回からはその具体的な方法について書いていこうと思う。今回は想像していた以上に長くなり過ぎてしまったけれど、次回以降はまだもう少しマシだと思うので、ここまで読んでいただけた方はぜひ次以降も読んでいただければ嬉しい。

 それに加えて、これは可能なひとだけで良いのですが、資金援助をしてくださるとありがたいです。というのも僕は長い休職期間とその後の失職のためお金がほぼ全くないからです。どれくらいお金がないかと言うと、昨日もう少しで部屋の水を止められそうになったくらい(笑)。このnote自体を有料にしても良いかとは思ったのですが、僕のフォロワー数からしてそうしたら誰も読まないだろうし、それにこの文章が必要な人に届くには無料の方が絶対に良いだろう、と。正直あまり期待はしていませんが、この記事とそれに続く記事が有益だと思った方や、単純にこの活動を応援してくださる方がいらっしゃれば、下のボタンから記事の購入をお願いします。ちなみに「ここから先は〜」の部分には何も書いてありません。記事は全文無料です。よろしくお願いします。

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