まともになる恐怖

 リアルが安定して数ヶ月経つ。
 受験が近くなってくるともういい加減「逃げたい」「死にたい」なんて言ってられないから、結局頑張るしかないのだ、という結論に落ち着いて、まあ受験生らしく勉強しまくりの夏休みを過ごしている。
 クラスは2年生のときより随分と過ごしやすいし、行事を通して青春しているし、好きな人のことはなんだかんだ言いながらもまだ好きなままで、同じクラスになれたから接点はそれなりにあるし、遠足の班が一緒だったりした。
 つまり今、現実を享受するので精一杯なのだ。早い話、文字通りの意味で“リア充”ということになる。この期に及んで不幸ぶっても仕方ない。
 しかし、不安になる。充実することで前ほどの情熱を失ってはいないか。創作をするうえで必要な“飢え”というやつを。実際お前は好きな人とちょっとうまくいってるから、クリエイターにはならずに家庭人になる未来を妄想しているじゃないか。そんなぬるい奴だったか、お前は。
 もちろん、現実というのはそんなに甘くはない。好きな人への想いは実らずに儚い片思いは桜と共に散る、そんな卒業式を迎えるのが目に浮かぶ。しかし私は思ってしまう。好きな人と結ばれるより、創作で大成することの方がよっぽど見果てぬ未来だと。
 電撃大賞に送った小説が読まれずに一次落ちしたのだ。某小説投稿サイト経由で応募したから、それも仕方ないだろう。だけど、その小説は自分の鬱屈とか怨念とか私生活とか寂しさとか、そんなものを詰めに詰めたものだった。血肉で、魂で、自分自身だった。結果はこのざまだ。私は、見向きもされない。その程度の価値なのだ。
 不特定多数の中から世間に見出される、実態のふわふわした“何者”ってやつになるのは難しい。きっと、誰か一人の“恋人”とか“友達”とかそういう、はっきりと名前づけされた肩書きを背負うよりも。
 そんなことを思い知らされて、めらめらと燃えていた激情は見る見る小さくなっていった。再び燃え上がるのに必要な、実生活での満ち足りなさとでも呼ぶべき燃料を失い、戸惑っているのが現状だ。
 文化祭では高校生活最後の文芸部誌を出す。締め切りは七月の末。内容を考えているが質量を伴うテーマが思い浮かばず、何かの助けになるかと思って久々にnoteを書いてみた。どれだけ頑張って文芸部の活動に勤しんでも趣味程度にしか受け取られないのが現状で、正直辛いけれど。最後くらいは読んでる奴ら全員見返すような物語を書いてみたい。私はまだ、狂い続けてやるからな。覚えておけよ、私を有象無象だと思い込んで無視した、全ての人類たちよ。


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