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相続争いをしても死んだらそれまで

 先日書いたとおり、父親が死んだ。
正直に言うと、いまだに父親が死んだ実感がまったくない。父親は生きているあいだ、40代のころから
「俺はもうすぐポックリ逝くからよ、あとは頼むでぇ。」
と、言っていたけどそのたびに母親から
「そう言ってる人ほど、細く長くしぶとく生き延びるから大丈夫よ。」
と、突っ込まれていた。まぁ、たしかにその通りだった。父親本人もあっちが痛ぇ、こっちが痛ぇ、と言いつつ細く長くしぶとく80代まで生きた。しかも身体は弱っていったけど、頭はしっかりしていて意思疎通がハッキリとできていたからなおさら死んだことを実感できないのかもしれない。

 父親のことを書くことで、自分の気持ちを整理しながら亡くなった事実を消化しようとしているのだと思う。そんなわけで父親の人生を書いてみる。


 終戦直後、父親は裕福な農家に生まれた。姉が2人、兄が2人いる兄弟の末子として生まれた父親は、4番目に生まれた次兄との年齢差が10もあったせいか遅くにできた末っ子として可愛がられて育った。そんな父親の実家はその地域では地主と呼ばれる立場だった。
 広大な農地を所有していた実家は大きな屋敷のほかに納屋と蔵があり、その当時は農耕馬や牛を飼っていたので、大きな牛舎もあったと聞いている。自宅の敷地を囲むようにぐるりと柿の木が20本近く植えられており、秋には赤く熟れた柿を収穫しては干し柿にするのが女性たちの仕事だった。広い庭には栗、山椒、唐辛子、ミカン、ゆずの木まで植えられていた。そのほかに広い梅畑、茶畑、竹林もあった。生活に必要な食料も道具も家畜も、ほぼ自給自足できるほどの土地を持っていた。

 父親の実家はその地域で権力と財力があって、農協とも古くから太いつながりがあったらしく、女性が嫁ぐにはそれなりの家柄と財力がある娘でなくては釣り合わないと言われていた。父親の父、私の祖父は嫁探しの条件として高貴な血筋で容姿端麗で、子供を何人も産める健康な身体で、若ければ若いほど良いという条件で探したそうだ。そして嫁いできたのが父親の母、私の祖母にあたる女性。
 たしかに祖母は・・・ブスではなかった。かといって積極的に褒められるような美人でもなかったけどね。しかし高貴な家柄のお嬢様として育ったせいか、とにかくプライドが高かったと聞いている。

 祖母の実家は大事に育てた娘を嫁がせるにあたって、裕福な豪農といえどもたかが田舎の農民に舐められてたまるかと考えたらしく、祖母の嫁入り道具に『ミシン』を持たせた。当時は『ミシン』なんて見たことも聞いたこともないうえに、たとえ知っていたとしても庶民には手が届かない最新鋭の自動機械だった。初めて『ミシン』を見た父方の親戚一同はビックリ仰天したという。祖父をはじめとした親戚一同は結婚式そっちのけで『ミシン』を取り囲み、祖母が『ミシン』の針に糸を通すところから、実際に雑巾を1まい縫い終わるところまでジッと見入ったそうだ。
 それを見ていた祖母の両親は、狙い通りに実家の財力と人脈の広さを見せつけることができて非常にご満悦だったとか。
 今の感覚でいうなら、田舎の農地で開催された結婚式に、祖母実家の親戚一同がいきなりプライベートジェット機で結婚式場へ直接乗りつけてきたのと同じぐらいの価値があったそうだ。


 祖父は結婚してから耕運機や田植え機など、積極的に農業の機械化に取り組んだ。農業の発展こそが地域の発展につながるという考えで、固定電話の設置も地域で一番早かった。
 今では想像つかないことだけど、実家の近所の人たちの名刺には実家の電話番号が勝手に書かれており、しかもそのあとに「呼」と書かれていた。
 この「呼」って何だろうと思ったら「呼び出し番号です。」の略を表していたのだ。
 たとえば実家の3軒向こう隣のAさん宛てに電話がかかってきたら、実家の誰かがAさんの家まで走っていってAさんを呼んでくるという事だった。
実家から道5本向こう側の、明らかに遠い商店宛てにかかってくることもあり、実家の電話番号が自宅、近所、地域一帯の各商店の電話番号として使われていたのだ。
 こんな感じで隣近所のプライベートがぜんぶ筒抜けだったけど、それが当たり前の日常であり非常時の助けあいや防犯に役立っていて、まさに古き良き時代そのものだと感じた。


 やがて祖父が亡くなり、後継ぎである長男がすべてを引き継いだ。
江戸時代から続く先祖代々の墓守と、地域行事の采配、地域に農業で尽くしていく義務を引き継ぐかわりに、実家の権力と財産をすべて継ぐことになっていたからだ。
 長男もそのつもりで学校を出たあとは就職をせず、祖父と一緒に農業関連の集まりや、地域の寺や神社などさまざまな方面に顔を出して人脈を作っていき、完全に農業1本な生活をしていた。そして長男も嫁をもらい、娘と息子ができてそれぞれが成人したころに実家を建て替えた。
 江戸時代に建てたと言われている豪農屋敷は、バリアフリーな近代設備をそなえた立派な日本家屋に生まれ変わった。


 この頃から少しづつ歯車が狂っていった。
実家を建て替えたあと、長男と次男の関係がおかしくなっていったのだ。
それは長男と年子で産まれた次男が、親父(祖父)の遺産を法律通りに5等分しろと言いだしたことが発端だった。このとき、二番目の姉である次女が流行り病で亡くなっていたので6等分ではなく、5等分と言ったのだ。

 その少し前に次男が、三男である私の父親に金の無心に来ていたことがあったけどそれも前兆だったのかもしれない。借金を依頼された父親は、たとえ兄弟であろうと金の貸し借りは絶対にしないとハッキリ断った。
 しかしそれで諦めるような次男ではなく、その後も何度もしつこく頼みに来たという。ついに根負けしたのか父親は兄である伯父に訊いた。
「いくら必要なんだ?」
「50万・・・。」
「50万で足りるんか?」
「うん・・・100万。」
「100万でいいんだな?本当に足りるんか?」
「じゃぁ、200万。」
「分かった。200万だな。これ以上は出せねぇからな。分かったな?」
「あぁ、分かった。」
「よし、この200万はくれてやる。返さなくていい。」
「いいのか?」
「あぁ、いいとも。そのかわり! この金を受け取ったら二度と俺に金を借りにくるな! 俺の女房と子供たちにも一切かかわるな! 今ここでその旨を一筆書いて両手の指ぜんぶ拇印押してけ!」

 わたしの母親はそのとき父親が言ったことを教えてくれた。
「お父さんはね、あれ(伯父)はなんだかんだ理由をつけてまた借りにくるから今のうちに縁を切っといた方がいいって言ってたのよ。たかが200万でこの先、何十年も疫病神と縁が切れるならそれに越したことはない。安いもんだってね。」

 たしかにそれっきり伯父一家に会うことはなかった。年末年始やお盆の墓参り、季節の行事で実家へ行くと、いつも伯父一家だけが来ていなかった。
あとから聞かされたことは、伯父一家は来ていなかったのではなく、来られなくなっていた。

 伯父は、長男が継いだ親父の遺産を母親と長女、長男、次男、三男の5人で法律通りに分けてくれと言いだし、おもに母親と長男 vs 次男の争いになった。しかし遺産そのものが農地であったことや、土地の利権など複雑な事情が絡み合って泥沼の争いになり、最終的に次男は母親から縁切りを申し渡されて二度と実家の敷居を跨げなくなったという。そのうちに伯父は酒におぼれていき、最後はアルコール中毒で亡くなった。


 伯父は兄である長男に嫉妬していたらしい。
当時の社会は完全な家父長制度であり、長男至上主義だった。次男以下の男子は長男のスペアでしかなく、長男が生きているかぎり次男や三男には何の価値もないという扱いだった。次男にとって長男は、年子で産まれてその差はたったの1年しか違わないのに、先に産まれたというだけで家も土地も財産もぜんぶ奪い取っていく憎らしい存在だった。それだけでなく長男が引き継いだ農地は会社勤めと違って、畑に苗を植えておきさえすれば毎年確実な収穫が得られて、それらは正当な利益としてどんどん貯まっていくし、貯めた金で実家を最新式バリアフリーの日本家屋に建て替えたことも嫉妬の一因だった。
 一般庶民が手軽に車を持てる時代になったときも、農地の一部をつぶして企業や地域住民に格安の月極駐車場として貸し出し、地元民からさらに尊敬されるようになったことも嫉妬をあおる一因となったそうだ。

 伯父がおかしくなったのは、じつは長女と三男の境遇も関係していたかもしれない。
 わたしの父親は三男で長男次男とは10歳も離れていたせいか、相続関連は最初から部外者扱いだったらしい。父親も学校を卒業すると同時に家を出て実家にはほとんど関わらなかったそうだ。そして天性の才能を生かし、高度経済成長期の勢いに乗って株式で大成功を収めた。自分の息子2人分の私立大学の費用と、娘である私の私立高校の学費、それにプラスして家族5人が食べていくのに困らない生活費も稼いでいたから、それなりの収益があったんだと思う。しかしその後はリーマンショックのときに大負けして、貯めこんだ財産の95%を吐き出さざるを得ず、借金をしなくてすんだだけでもラッキーだったという有り様まで叩き落された。
 伯父はリーマンショックの前の稼ぎっぷりだけを見ていたせいか、自分が見下していた弟がそれだけ稼げるなら俺も同じように稼げるはずと言って、株式の売買に手を出した。しかし明らかに素人の伯父が稼げるはずもなく、かなり大きな損失が・・・。
 父親に金を借りに来た理由も
「おまえが株なんかに手を出すから俺が損をしたんだ! 責任とって俺の損失分をおまえが払え!」
というムチャクチャな言い分だったそうだ。


 伯父の姉である長女は、実家よりも資産や知名度がやや劣るけどそれなりの土地持ちの農家へ嫁いだ。そこで一男一女に恵まれたころ、嫁ぎ先が持っていた土地のひとつが高度経済成長期にとんでもない高騰をした。
 この時点で土地を売ればお金持ちになれると長女は思ったが、土地の持ち主である長女の舅はなぜか土地を売らなかった。地価がもっと値上がりするのを待っているのかと思ったが、売るのではなく貸し出すタイミングを狙っていたそうだ。数年後、さらに値上がりしたその土地に大きなショッピングモールを建てる構想が出たのをきっかけに、ショッピングモールを所有する企業に土地を貸し出すことが決まった。そして様々な手続きを経たのちに、長女の嫁ぎ先は土地成金と呼ばれるようになった。
 たとえショッピングモールの売り上げが多少下がったとしても、土地を貸しているかぎり確実に不労所得を得られるわけだから、嫁ぎ先の生活水準は1段も2段もグレードアップしたと聞いている。

 この話を聞いた伯父は地団駄を踏んでくやしがったという。
長男は実家の権力と資産を受けつぎ、姉である長女は土地成金にのし上がり、見下していたはずの弟は株式で成功して悠々自適な生活を送っている。4人兄弟のなかで自分だけが落ちぶれているという事実が焦りとくやしさを掻き立てた。どうにか挽回したいのに、どうにもならない現実に押しつぶされて酒に逃げ、ついに親父の遺産を法律通りに分けろと言い出した。


 母親と長男 vs 次男の相続争いは、次男が不利であることは誰の目にも明らかだった。次男本人も分が悪いことは分かっていたけどいったん言い出したからには、もう引くに引けなくなってしまったのではないだろうか。
 手を変え、品を変え、屁理屈をこねては言い分がコロコロ変わり、話し合いの席には必ず酔っぱらった状態で参加してきたという。
 最初は法律通りに分けろと言っていたのが、姉である長女はもう嫁に出たんだから遺産を受け取る資格はないと言い、弟である三男は株式でがっぽり稼いでいるんだからこれ以上、金も遺産もいらねぇだろと言い、姉と弟の浮いた遺産分はオレの嫁と子供によこせと言い出した。

 そんな次男を母親はなんども諫めた。そもそも遺産の大半は農地だから簡単に分けられるものではないのだ。
 農地からの収益もぜんぶが長男のふところへ入るわけではなく、まず広大な農地の固定資産税を払わなくてはならない。それから墓守りの管理費用、寺や神社への寄付、地域行事への寄付と管理費用、農協や地域での付き合い、農地や農機具の次年度の運営費用の確保、不作に対する備えの費用、子供たちの教育費など、固定費が大き過ぎるのが現状である。
 はっきり言えば実家の純利益は年収300~400万円ていどしかなく、これで食べ盛りの子供2人を抱えた5人家族で暮らしていかなくてはならない。
 もしこれが大型台風などによる天候不順で不作になれば大幅な収入減となり、純利益が100万円以下になることもあるのだ。たとえ不作になっても、基本的な固定出費は変わらないので次年度が赤字確定になるだけ。
 農家だから食費がかからないだけで、そこらへんの平凡なサラリーマンよりもはるかに厳しい生活なのだ。
 実家の建て替えも長男が家を継いでから、子供2人を育てながら自分でためた貯金のみで建て替えたのであって、遺産は1円も使っていない。だから実家を建て替えるのに23年もかかったのだ。しかも建て替え費用で貯金の大半がなくなったため、農業も普段の生活も綱渡り状態に陥っている。

 これらのことをコンコンと説明された次男も、ようやく『実家には分けられるだけの現金がない』ことを理解した。
 分かってくれたかと、母親と長男がホッとしたのもつかの間、ならば分けられるものは土地だけだと理解した次男はさらに暴走した。
 農地を売って金にしろ!から始まり、毎月確実な利益がでる月極駐車場の土地をそっくりそのままよこせと言い出し、ついには土地をくれねぇならおまえの命をよこせと、カマやクワを振り回すようになってしまった。


 この相続争いをどのように収めたのかは聞いてないから知らない。
しかし伯父は祖母から縁切りを申し渡されて実家に顔を出せなくなったと、あとから聞かされただけだった。
 そんな伯父がなぜか祖母の葬式に来ていた。祖母の葬式が実家の大広間で執り行われているあいだ、白髪頭の男性が実家の居間に座り込み、酒をよこせ!酒を持ってこいと大声をあげて騒いでいるのを見た。それが例の縁切りされた伯父だと知ったのは2~3年後に伯父がアルコール中毒で亡くなってからだった。そのあと伯父の家族がどうなったのか誰も知らないし、消息も聞こえてこないから完全に縁が切れたのだろう。


 あれから20年以上経ち、祖母も伯父も、伯父の兄であるもうひとりの伯父も、そして父も死んだ。
 結局、わたしたちも父親実家と縁が切れた。父が死んだから縁が切れたのではなく、長男である伯父が亡くなったあと、伯父の嫁と父が伯父の遺産をめぐって争ったからだ。

 父は、伯父が2人の子供を育てながら農業収入だけでは生活していけないほどカツカツになっていく現状を見かねて、農業以外の収入を得られるように株のやり方を教えた。そのときに最初の元手として、いくらかの金を貸した。父も、今の伯父の生活では返せないことも分かっていたし、だからこそ貸すというよりあげたつもりだった。株の利益で生活を立て直して、5年後、10年後に余裕ができたら少しづつ返してくれればいいと思っていた。
 しかし日本経済が戦後最大の不景気で落ち込んだり、リーマンショックが起きたり、天候不順が続いて農業収入が3年連続で赤字になってしまうなど予測不可能なことが続いた。もはや金を返すどころか、固定費用を払うための借金が膨れ上がるばかりだった。

 それでも伯父は農家としてのプライドが勝ったのか、先祖代々の農地を売ることはしなかった。その結果、伯父から父への金の無心が、それも確実に返せるあてがない借金が増える結果となってしまった。
 例えるなら、最初に貸した元手が10万円だとしたら、そのあとに貸した分の合計金額が100万円に膨れあがったような状態といえば分かるだろうか?

 そして伯父が亡くなったあと父が伯父の嫁に、あとから貸した分はもう返さなくていいから伯父の遺産から元手の分だけを返してほしいと申し入れたことから、また遺産をめぐって争いが起きた。

 
 この相続争いの結果も聞いてないからどうなったか知らない。しかし父の葬式に来たのは父の姉一家だけだったから、そういうことなのだろう。

 身内の相続争いをみると、ほんとうはお金持ちにならない方がある意味、幸せなのかもしれない。
 宝くじで3億円当たると良いよねとか、当たったら何に使おうかと言っているときが、じつは一番幸せなんじゃないかと思う。

 今さらながら、父親の 「ろくでもねぇ。」 が聞こえてくるようだ。

 
                       おわり





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