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「普通のお母さん」になれなかった私が手に入れたもの。

お風呂場の床にクレンザーをまいて、手に握ったブラシでこする。
四隅、壁と床の境目、タイルの目地。
浴槽のエプロンの下も古歯ブラシを差し込んでゴシゴシ。
もういいな、と思えるまで、十分に満足するまで、こする。
満足すると、気が済んで落ち着いて次の作業に取り掛かることができる。

毎回の掃除の手順は決まっているけれど、ふと目についた汚れに手を付けると思いがけず時間をとってしまうことがある。
通常なら30分で済むところが、気づくと1時間近く経っていることもある。

それでも回る一日の密度。
誰にも、何の予定にも追い立てられない生活。
主婦だった頃は叶わなかった生活。

主婦だった頃はいつも急いでいた。
常に時間を計算し、手順を確認し、無駄や失敗がないように入念に準備する生活をしていた。
私は要領も悪いし行動も作業も遅い。
1人の時間を作ってじっくり考えないと間違った判断をしてしまうことが多いし、臨機応変に対応することも苦手だ。
だからこそ、計画や事前準備が重要だった。
何より、「丁寧にやりたい」という欲求が強かった。

でも、家事と二人の子供の世話をする上では「丁寧さ」よりも「効率」を求められる場面が多かった。
忙しいママは掃除も料理も手抜きしていい。
完璧じゃなくてもいい。
頑張らなくていい。
楽して時短しよう。
子供との時間を楽しもう。
自分の時間を大切にしよう。
そんな言葉が周りに溢れていた気がする。

そうか。そうだよね。
手抜きしていいんだ。
完璧じゃなくていいんだ。
自分を許して甘やかしていいんだ。
そうやって、それらの「楽になるアドバイス」を受け入れようとした。

でも、違う。そうじゃない。
私は、手抜きしたいんじゃない。
完璧を目指したいわけでもない。
許されたいわけでも、甘やかされたいわけでもない。
ただ、満足するまで十分にやりたいだけなんだ。

その望みを叶えるということは、家族と過ごす時間よりも家事をする時間を優先するということだった。
私にとっては、子供たちと過ごす時間よりも十分に掃除をする時間の方が大切だった。
その時間を確保することで、自分を保っていた。
そんな自分にコンプレックスを持ち、ずっと責め続けた。

「普通のお母さん」なら、子供たちとの時間を最優先にしたいと思うはず。
実際、周りのママ友はみんな、子供を含めた家族との時間を心から楽しんでいるように見えた。
そして、家事も上手に手抜きをしながらもきちんとオシャレにこなしていた。

ひとりで家を出てから当時の気持ちをかつてのママ友に打ち明ける機会ができたとき、自分もまた周りのママ友から同じように見えていたのだと知った。
そうかもしれない。「普通のお母さん」のフリをしようとしていたから。

ひとりになってからも、家事の効率は考えている。
掃除も洗濯も料理も同時進行する。
けれどそれは、自分以外の誰かや何かの都合に合わせたものではない。
純粋に自分が満足するための「効率計算」なのだ。
これができるようになって、自分のペースで呼吸していると感じられる瞬間が増えた。

ひとりになってから失ったものはとてつもなく大きかった。
私のために辛い思いをした家族の気持ちも承知している。
辛いことも悲しいことも不安なこともたくさんある。
けれど、自分の内側の声をじっくり聴ける環境にある今の私は間違いなく、当時一番欲しかったものを手に入れている。



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