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道端の花を撮影するとき、「恥ずかしい」と感じますか?

早朝散歩実行。

朝5時台に起きたのは久しぶりだった。
ここ2週間ほどは目が覚めるまで寝ている生活が続いていた。

桜並木が続く近所のバス通りに出ると、ウォーキングをしている年配の方々とたびたびすれ違った。
この時間なら誰もいないだろうと思っていたのでちょっと意外だったのと同時に、「皆さん偉いな」と素直に尊敬した。

幼馴染に送る写真を撮ろうと、良いアングルを探して歩いた。
でも、すぐ近くを歩く二人組の女性のおしゃべりが気になって仕方がない。
私以外にも犬の散歩をしながら写真を撮る女性もいたのに、私は彼女たちが近づくたびに何となく恥ずかしくなってしまって、なかなかシャッターを切ることができなかった。
歩く方向が一緒だったので、桜並木の終点まで距離を保ちながら彼女たちが脇道へそれていくのを待った。

道を折り返して再びチャレンジ。
ところが、今度は往来する車やバスが気になってしまう。
何台かやり過ごしてようやく1枚目を撮ることができた。その後も数人とすれ違い、車も何台も通り過ぎたけれど、2枚、3枚と撮るうちに慣れてきて、ピントやアングルを調整する余裕もできた。

道端で写真を撮るとき、多くの人は「恥ずかしい」という感覚を持つことはないのだろうか。
私は、散歩中に見つけた知らない花の名前を調べるために写真を撮りたいといつも思うのだが、どうしても「恥ずかしい」という気持ちに負けて諦めてしまう。
稀に勇気を出すこともあるが、何とか人目をはばかろうとするので時間もかかり、挙動不審になってしまう。

一方で、撮影している人を見かけることは珍しくない。
その姿を見ると、とても微笑ましく温かい気持ちになる。
同時に、「この人は周囲が気にならないのかな」と思う。
羨ましいな、と。

こんなこんな小さなことで人目を気にしてしまう自分を変えなければと思ってきた。
こんな風だから先へ進めない、何も変えられないのだとまで思いつめてしまっていた。
とてもとても些細なことだけれど、もしかしたらこれもHSPの特性の現れなのだろうか。
ふと思い当たった。

散歩から帰ってきてからはちょっとした達成感に満足してしまい、その後に外出する気がなくなってしまった。
家にはいくらでもいられる。
最低限の家事をする以外は、ネットを観たり本を読んだり、気が向くとテレビをつけてみたりする程度。
家ヨガや簡単なお菓子作りが加わることもあるが、趣味というほどではない。
そして、一日中考え続けている。
「何を」と一口には言えない、いろいろなことを。

この数日で目にした、HSPに関するいくつかの情報が効いているのかもしれない。
「HSPであるということを認めていい」と、初めて自分に許可を出せた感じがする。

HSPであるかどうかはあくまで自己診断によるものなので、「自称HSP」というレッテルを「人生から逃げるための道具」にしてしまいたくなかった。
HSPであってもなくても、自分なりの生き方を探していかなければならないのはみんな同じだと思っている。
でも、今のところ自分はそのための努力や行動を何も起こせていない。
それをひたすら責める日々の中でずっともがいていた。
その膠着状態に、ほんの少しだけ変化が起きた気がする。

外で写真を撮るときに周りの目が気になる。
家にいるのが一番楽で安心できる。
ならば、できるだけその感覚を尊重できる環境を整える方法を考えていい。
「周りを気にしない自分になる努力」や「なるべく外に出る努力」は、したければしてもいいけれど「しなければならないこと」ではない。
そう思えたら、フッと楽になった。



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