本気出してコミュ力おばけになってみようとした

 コミュ力おばけがいる。私の職場にもいた。背がスラッと高くショートカットがよく似合う、いつも微笑みを浮かべた彼女。
 私より3つ年下の彼女は、誰からも愛されていた。皆、彼女と話したくて、吸い寄せられるように集まっては、心底楽しそうに笑い声をあげている。

 ご多分に漏れず、私も彼女といると饒舌になりジョークもバンバン飛ばせて、まるで自分が自分じゃないように明るく楽しく過ごせた。
 人たらしというのは、彼女のような人のことを指すのだろう。結婚後、しばらく家庭に籠もってカオナシになっていた私は、本気出してコミュ力オバケになろう…というのは言い過ぎだが、せめて周囲に不快な思いをさせない人間になりたかった。
 人間になりたいだなんて、それこそ本当にカオナシみたいだが、好かれたいとか認められたいとかより、可もなく不可もなくな存在になりたかったのだ。

 こうして私は、日々家事育児仕事に勤しみながら、自己啓発本やらコミュ力アップやら、雑談力、会話術、心理学、脳科学、哲学などなどありとあらゆる情報をかき集めた。
 会話力がアップすると聞いて、ラジオも欠かさず聞き続けた。
 こんな努力を続けた結果…ドゥルルル…ジャン。今でもカオナシである。
ひな壇の芸人さん達なら、ズコーッとコケてくれるところだろうか。

 沢山の情報から学んである程度、誤魔化すことはできても所詮上っ面の付け焼き刃なコミュニケーションに過ぎなかったのだ。
 ただ、いくつかわかったことがある。コミュ力オバケな彼女とカオナシな私の決定的な違いは、他者への興味と視線の向かう先だ。
 彼女は他者への興味を欠かさず、視線も他者へ向いていた。
 対して私は自分にしか興味を持たず、視線を自分にしか向けていなかった。
 こんな簡単なことに何で気づかなかったんだろう。そして、コミュ力オバケな彼女を羨み、その長所が彼女を苦しめることもあることに浅はかな私は思い至らなかった。

 長所が不利益をもたらすこともあると教えてくれたのは、私が敬愛するコラムニストのジェーン・スーさんだ。
 ラジオから流れてきたその言葉に、私はギョッとした。短所は長所の裏返し。ネガポジ辞典などネガティブなワードをポジティブに変換する等はよく耳にしていた。
 それなのに私は、長所が不利益をもたらすこともあるとは思いもしなかったのだ。
 
 他者評価がほしかっただけの自分。それに気づいて、もういい加減、他人軸で生きるのはやめようと思った。
 他者に気に入られようと承認欲求オバケになっていた私は、イイネをほしがるのではなく、ただ淡々と自分のやりたいことをやろうと素直に思えるようになった。
 本気出してようやくそんな当たり前のことに気づけた話でした。

 

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