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出張で来た久しぶりの都会。
地方都市なので都会というほどでもないが、田舎者の夕子にはそれでも十分きらめいて見える。
研修が早めに終わったので、少し街を歩いてみる。
あてもなく本通りから逸れた通りを歩くと、色あせた写真のような店が現れた。
古臭いショーケースには、変哲もないコーヒーカップの食品サンプルが置かれているだけで、他には何も無い。
ここにしよう、夕子はそう決めるとドアを押す。
ちょっと渋めのマスターがいるのかと思ったが、カウンター内にいたのは中年の女性で、自然と目が合う。
白髪交じりの髪を二本のおさげにしていて、誰かに似ているなぁ~と思うが思い出せない。
メニューは「コーヒー」だけらしく、メニュー表も壁の張り紙もなんにもない。
コーヒー通ではないので、おそるおそる「コーヒー」と注文すると、女性がちいさく頷いた。
香ばしい香りが漂い始めたので、カウンターに目をやる。
今時めずらしいサイフォンでコーヒーをいれてるのが見え、研修で疲れた神経が緩むのを感じる。
窓をぼんやり眺めていると、コーヒーが運ばれてきた。
どこにもありそうなカップを口に運んでいると、ピアノの曲が流れているのに気づく。
暗過ぎず明る過ぎず、早すぎず遅すぎず、気持ちを揺さぶり過ぎず心地よい。
良い選曲だと、おさげの女性のセンスをありがたく思う。
ふと目の前のソファーに目が留まった。
古臭い深緑色のゴブラン織りの生地が夕子の瞳に映った。

うん?ここはどこだ?
目の前にはピアノがあり、誰かが弾いている。
小さい高齢の女性がそばにいて、なにやら教えているようだ。
その後ろで古臭いソファーに腰かけているのは、どうやら夕子のようだ。
それにしても単調な曲ではないか。
単調を通り越して、まるでメトロノームと化している。
几帳面に音符を音符のままに音が出せるとすれば、こんな感じになるのだろうか?
強弱もなくあるはずのリズムもない、その音からは「私は音です」というお知らせしか伝わってこないのだ。
譜面台に立てた楽譜の中の音符を漂白して、ただのインクの痕跡となってしまったようで、もはやメロディーすらなくなっている。

身体が右に傾き椅子から落ちそうになった夕子がビクッとして身体を起こすと、目の前の飲みかけのコーヒーが目に入った。
自分が眠っていたことに気づき、姿勢を立て直す。
客は他にいないから、自分が眠ってこけそうになったのを誰も見ていないことにほっとする。
まださっきのピアノ曲が聞こえたので、そんなには眠っていなかったのだと思う。
そう思いながら曲に耳を傾けた。
うん?
この曲、というかこの音符は記憶のどこかにあったようだが・・・。
あっ、と夕子は心の中で叫んだ。
さっき居眠りしながら聞いていたあの音、あの音を漂白前に戻して、メトロノームじゃない引き方をしたら?
そうしたら今聞いている曲になるのではないか、と気づいた夕子は、思わず声を上げそうになった。
長年解けそうで解けなかったパズルが解けたような、そんな瞬間だった。
おさげの女性に、「この曲はなんていう曲ですか?」と聞いてみる。
「ショパンの雨だれの曲ですよ」と、少しおさげを揺らしながら振り向き、女性が答える。

あの日ピアノを弾いていたのは、幼馴染みのわこちゃんだった。
いつも一緒にピアノのレッスンに通っていたのだから。
そう言えば、わこちゃんはいつも同じだった。
表情も同じ、歩く速度も同じ、感情の起伏もなかった。
そう、あの日のピアノの音みたいに、メトロノーム化しているのが、わこちゃんだった。
それにしてもわこちゃんが弾いていた曲が、「雨だれの曲」だったなんて。
ショパンもびっくりだと思うが、あの曲に旋律があったと気づいた私は、呆然としていた。
メトロノームよりメトロノームらしいわこちゃんは、その後音大に進学したのだった。

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