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fukukozy
ゾンビとゾンビ その4
「哲学的ゾンビ」という言葉を聞いたことがある。
【言動や社会性の面でも、生理学解剖学的にも普通の人間そのものだが、内面的な思考を持たないという、思考実験上の存在】だそうだ。
この言葉の提唱者によると、「喜怒哀楽など様々な感情を表出したとしても、それは内的な情動にの発露ではなく、機械的な反応・演算の結果として出力しているにすぎないが、現実の人間がそのような存在でないと証明することはできない」とある。
山田さんと友里さんと話していると、人間と話している気がしなくなっている。
暖簾に腕押しなら、まだかすかに暖簾に触れるし、暖簾は元々手ごたえがないと思っているので、生気を吸い取られるほどにはならない。
いつも笑顔の山田さんと話していると、生体反応のない物体と会話しているような感覚しか得られない。
黒曜石の瞳の優しい語り口の友里さんと話していると、実在する周囲のものと一切のかかわりを持たない、3Dの美しいだけの物体と会話しているような感覚しか得られない。
これは現実なんだろうか?
これは白昼夢ではないのだろうか?
全く変化しない貼り付けたような笑顔と、ただの煙のような美しさにはさまれて、夕子は経験したことのない不気味さを感じていた。
だけど、まてよ?
この二人がゾンビなら、ゾンビとお近づきになっている自分も、ゾンビなのではないか?
お近づきになれそうな何かが、自分の中にあるのだということを、夕子は否定できないと思った。
ゾンビとして生きることは、生きるのが少しだけ楽になるのかもしれない。
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