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悪い男

「彼の結婚式の前の日に、私から言ったの」
ワークショップで出会って間もない妙さんが、休憩時間に突然話し出す。
「あの子と結婚する前に私を抱いて、って」
「抱いて」という言葉にドキッとして、思わず目を伏せる。
「彼のことが本当に好きだったから、どうしても抱いて欲しかった」
淡々とした語り口の妙さんの顔に、私はよろよろと視線を移動させる。
「彼は抱いてくれたけど、その日から辛くて辛くて辛くてたまらないの」
妙さんの表情も声も波立ってはいないけれど、感情なんかでは表せない妙さんの痛みが、キリのように私を突き刺す。

「悪い男よ、彼は」と、妙さんが自嘲気味に言う。
「それからずっと、私と関係を続けているんだもの」

やすやすと私のバリケードを乗り超えた妙さんは、分別が服を着て歩いているような私に批判させる要素を与えない。

「そんなろくでなしの男なんて、やめちゃいなさい!」
いつもなら瞬時に出る言葉も、妙さんには放てない。

ワークショップで同じグループになったというだけの、年も離れた妙さんの話は、私の理解の範囲を超えていたけれど、パステルカラーの水彩画のようで、どろどろした混ざり気も、奥に潜む悪意も駆け引きも、何もないのだと、それだけはわかった。

「どうしてあの子なの?って彼に聞いたら、『お前は一人で生きていけそうだから』って言われたわ」
そう話す妙さんの顔は、痛みで歪みそうだった。

「未来を台無しにしないで、違う人生をスタートさせてちょうだい」、と私の分別が爆発しそうになる。

どんな慰めも、どんな共感も、妙さんには無意味なのだ。
月日が経っても、薄まることのない痛みがあるのだと、妙さんに教わった気がした。

幸せとは真逆の、不孝にしか存在し得ない愛に生きる選択もあるのだと、妙さんに教わった気がした。

暗い底無し沼に入って行く妙さんを、引き止めることが出来るものは何も無い。
奈落に堕ちる人をただ見ているだけなのは、罪になるのだろうか。

ルール無しには生きられない私に、打算のない愛がわかるはずもなかった。




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