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壊れないポケット

「この曲、何でしたか?」、聞こえるかどうかわからないくらいの声を出す。
言ったとたん、山にかかり始めた霧の中に、突進しそうになる。
隣に立つその人は、無視できるレベルの私の声を拾い上げ、「〇〇」と映画のタイトルだけをつぶやく。
その声を私は、壊れることのないポケットにしまった。

いつもは無視する同窓会の案内を、捨てようとして見直す。
卒業してからもう40年か~、行くとしたらこれが最後のチャンスかもしれない。
数日考えて、「出席する」に〇印を付けた。

会場は遠い。
時間を持て余さないよう買い求めた「ダヴィ
ンチコード 上」を取り出し、むさぼるように読みふける。
誰にも何にも邪魔されず読んでいる、そんな自分に驚きながら。

ホテルに前泊し、同窓会では会えない友と再会を果たす。
会いたい人にはもう会ったので、当日はもうどうでも良かった。
立食形式は苦手だし疲れるなぁ~、と参加したことを後悔し始める。
昔話をしていると、聞き覚えはあるが私のアルバムには入れていない声の主が、突然話しかけてくる。

「好きか嫌いか」の分類はできないが、「合うか合わないか」なら「合わない」に入るその人は、こちらのことはおかまいなく自分のことをまくしたてる。
「あなたの家広い?空いてる部屋ある?」
「もう子供もいないから、部屋は空いてるけど・・・」、と答えながら不安になってくる。
「じゃあ今度中国人連れてそちらに旅行に行くから、泊めてね」
「う、うん」
面と向かって、嫌とは言えない自分に腹が立つ。

早々とその場を離れた私に、他の人からの情報が入ってくる。
「泊めてね」と言った彼女の夫は、かつて私が「壊れることのないポケットに入れた声」の主だそうだ。
その声の主が古都で教師となる情報をキャッチした彼女は、先回りして自分も古都に就職したらしい。
『彼女みたいなタイプが好みだったのなら、私なんかの出る幕じゃなかったんだ』と、思い出がぐにゃりと歪んでいく。

片思いとも言えない、シフォンのようなかすかな手触りを大切にしてきた自分が、少し可哀そうだった。

彼女がさっき話していたことを思い出す。
「そんなにいつも旅行していて大丈夫?」と聞いた時、彼女はこう答えた。
「大丈夫よ。夫は『お前なんかいてもいなくても・・・』って言ってる」、と。

ただの冗談かもしれないし、おのろけなのかもしれない。
もし本心だとしても、そういう相手を選んだのは本人なんだもの。
ぐにゃりと歪んだ思い出に、砂をなすりつけられたようだった。

帰りの列車で読破しようとしたけれど、「ダヴィンチコード 下」の途中で、駅に着いてしまった。
カタカナの名前が覚えられず、何度も読み返して確認するので、時間がかかるのだ。
もう若くはないことを思い知る。

壊れないポケットは中身を全部出して整理して、要らないものは車窓にばらまいて帰路についた。


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