妄想の日本史6

磐余彦がヤマトに侵攻したとき 
周囲の国々の強力な抵抗にあい 
一族は 磐余彦の強い指導力のもと 
一致団結して 国を守らねばなりませんでした

富国強兵を合言葉に 磐余彦は国造りに励みましたが
打倒浪速を実現することなく 亡くなりました

奈良盆地は 四方山に囲まれ 水源に恵まれた
水田に適した土地で 
磐余彦とその子孫たちは 最新の鉄器の工具を使って 
土地を開墾し 稲作面積をどんどん拡げて行きました

その時 発生する残土は 
低地に捨てられ 池湖は埋められ
また 河川に大量に流されました

米作りが琵琶湖周辺まで広がると 
その残土は 琵琶湖に捨てられ 淀川を通り 
大坂湾に至り 大坂湾を埋め立ててしまいました

湾岸を基盤とする 浪速の国には大きな打撃で
逆に 大和の国は 耕作面積をどんどん増やし
崇神天皇のころ 力関係が逆転しました

磐余彦の子孫たちは 彼の遺志を継いで 
磐余彦以下同文
富国強兵に専念しました

崇神天皇の時 
周囲の国々との戦いに勝ち これを従えて
磐余彦の野望は ここに達せられました
崇神天皇が 大和王朝の初代国王です

仁徳天皇の時 水田作りは 最盛期を迎え
残土処理は 低地は埋め尽くされ 
川に捨てるのも限界になりました
そこで 墓の土を盛ることにしました
開墾場所から緩い斜度で 土を運び上げ
高さが限界に達したとき 
斜めの場所を 綺麗に整地すると
前方後円墳の完成です
後円の部分に棺を入れるとき 
前方の部分で盛大な儀式が催されました

米作りは全国各地に広がり
それに伴って 
前方後円墳も 全国各地に広がりました

この時代 日本列島には いくつかの王朝がありました
九州には筑紫王朝 大和王朝 諏訪湖の諏訪王朝 
鹿島香取神宮の関東の王朝 東北の王朝

このうち 
記録に残された 九州と大和の二つの王朝を
中心に 日本の古代史は進みます

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