走れメロス・ディオニス王について

新たな考察なんて無理

「走れメロス」についての書評、考察はもう世に出尽くしている。

 今回書評を書くにあたり、誰とも被らない考察をしてやろうという意気込みで活動を開始した。しかし、”これは天才的かも!”という発想をしてみても、ネットで調べると同じような意見がゴロゴロ転がっていた。この現象を6回繰り返し、私はいったん意識を飛ばした。

 意識が回復してから、小説の最後にある(古伝説とシルレルの詩から)という記述を思い出し、今度は原典にあたってみることにした。これは、1700年代に活動した、フリードリヒ・フォン・シラーの「人質」という詩である。読んでみると、太宰は原典をかなり改変しているということに気づいた。”あれ、原典と比較したら新しい考察が出てくるんじゃね?”と思い、相違点をWordにせっせとまとめてみたが、これも既に皆やっているということに気づき、私は再び失神した。

 “もう書くのやめようかな”と、しばらくイジけていたのだが、自分の貧相な発想力と決別し、考察などはやめて事実積み上げ型の評論というスタイルでいくことにした。本当は発想力系の人物になりたかったのだが、もう手遅れだ。仕方がない。

ディオニス王

 さて、気を取り直し、ここからは暴君ディオニスについて、一点突破で書いていく。ディオニスは暴君ではなく優秀な為政者である。というのが私の評価である。

 小説に出てくる老爺の話によると、ディオニスは世継ぎや妻、腹心のアキレスを殺している。市民はこれを仁義に反するとし、王を非難している風情であったが、果たしてどこに問題があるのだろうか。

 仁義による政治といえば、孔子をはじめとする儒家である。そして儒家の割を食ったのが、法家である韓非子である。韓非は、仁義による政治の前提に、人民が素朴で明日の生活もままならないような環境をおいてる。
 つまり、欲望の根源となる財産・余剰が生じない程度の社会環境が、儒家政治の成立条件であるということだ。メロスが買い物に来たシラクスの街は、祝宴用のショッピングが出来る時点で、どうみてもそんな環境には思えない。
 仁義による儒家思想よりも、きちんとした法制度を敷く法家思想が必要な社会に到達していることが想定される。

 また、この時代、妻は王の驚異になり得たというのが韓非の見解である。結局のところ妻は他人であり、自分の子供がほかの妾よりも劣りそうな場合、世継ぎにする以外自分の生きる道がないからである。
 王の地位安定は、国家にとっての重要事項であり、たとえそれが家族であっても、障害となりうるならば、その排除は必要事項の一つだったのだ。

 老爺はさらに続け、派手な暮らしをしている人々を、王は殺してしまうと嘆いている。何が問題なのだろうか?シラクスは傭兵を国家の礎にした軍事国家である。軍事的に成立した国家にまず何より必要なのは、経済の振興による基盤強化である。そんな中で国富を貪る臣下および上級国民の排除は、国策として問題があるとは思えない。それも、人質を差し出せば許すという、ともすれば甘い縛りのもとで行っている。王の心の内はどうあれ、施策だけを見ると市民優先の良政であるという評価になるのではないか。もはや儒家政治に寄っているとも言える。

 ディオニス王の優秀さはこれにとどまらない。メロスとセリヌンティウスを許すことによって、自分の人気を再燃させることに成功している。国のことを考えない臣下たちの抹殺という目的を果たしたうえで、民衆には仁愛の大切さを納得させているのだ。なんと、あれだけ相性が悪いと言われている、儒家思想と法家思想を両立させてしまった。

 また、ディオニス王はメロスが帰ってこなくても、セリヌンティウスを無罪放免としていたのではないか、というのが私の見解である。二人が殴りあっているのをいったん静観しているという様子からも、王の冷静さが見て取れる。(原典ではすぐに二人に駆け寄っている)。どちらにしろ、王にとっては勝ち戦だったのだ。

 さらに、王は群集を馬鹿なままにしておくという、老荘思想の実現にも成功している。これは、言葉尻だけ捉えると粗暴な話に聞こえる。しかし、老子が言いたいのは、知識を与えすぎると人民はあれこれ思い悩み、不幸になってしまうということである。民衆は、メロスとセリヌンティウスの感動劇場を無批判に受け入れ、拍手喝采をして物語を締めくくる。ディオニスは民衆に馬鹿なままでいるという幸福を与えたということだ。

 優れた為政者というのは、互いに相容れない性質を己の中に合わせ持つ者のことである。それが私がこの物語を読んでつくづく感じたことであった。


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