ドライな終末感

柞刈湯葉の書く、ドライな終末感が好き。
「横浜駅SF」にあるやつ。
それだけ。
乾いててサラサラしてて、なんか清潔なのよね。
もちろん実際の世界の週末はぜんぜん清潔じゃないと思うけど。
上下水道とか止まってね。
ウォシュレットもなくてね。
ゴミの処理機能が止まってるからね。
その辺で匂ってるよね。
あと感染症がすごいよね。
風呂もそんな入れないしね。
だから現実にはありえないし、作者自身も別に「廃人の好みに合わせて、清潔でドライな終末感を書いてやろう」とか思ってないと思う。
当たり前だよね。
でもこっちが勝手にそう読めるだけの余地はあるのね。
ドライで清潔だなぁって。
清潔でドライだなぁって。
電気ポンプ銃もいいよね。
「ぽん」って間の抜けた音がするのに、殺傷能力エグイところもいいよね。
こういうのもドライな終末感を出すのに一役買ってると思うんだけどね。
どうだろね。
人の命の終わりとか、重要な人物が大きなケガを負うとか、そういう「重たい」とされる場面で、ぽん、って間の抜けた音がするのね。
人の命なんて世界にとってはどうでもいいからね。
価値を見出してるのは人間の勝手だからね。
そういう残酷な真実みたいのが、ぽんって非情に軽い音から伝わってくるのね。
重大な結果が、荘厳な前奏の後で、心の準備を整えた後にやってきてくれるとは限らない。
世界は世界のやり方で、世界のノリで、終わりを届けにやってくる。
なんかそういう感じがする。
そういうことを思い知らされてる感じがする。
思い出させられてる感じがする。
そういう本てあまりない気がする。
知らんけど。
そんなに本読んでるわけじゃないから。
でもない気がする。
みんなすごい演出するじゃない。
登場人物が死ぬシーンとかさ。
鬼滅とかすごくない?
漫画と小説はまた違うのかもしれないけどさ。
今思いついたからさ。
対照的な感じがするから。
鬼滅で人が銃で撃たれたりしたらすごいエモく描く気がする。
「あぁぁぁっ!」
みたいな。
でも柞刈は違う。
ぽん、だから。
スルスルっといくよ。
湯葉みたいにね。
あっと思ったらもう食道すり抜けてるよ。
えっ、今俺食べた?
みたいな感じよ。
えっ、今撃たれた?
みたいな感じよ。
でもそしたら、柞刈作品には全く熱がこもっていないかというと全くそんなことないのよね。
砂粒に過ぎない個人が、世界を揺るがすことがある。
個体の矮小さ、無意味さを直視しているからこそのエモさがあんのよ。
自分が砂粒のような小さな存在に過ぎないとして、
でも大きな変化とは砂粒の重なりによってある日突然、偶然に起きるなら、
自分がその最後の砂粒でない保証なんてどこにもないのよ。
そういう風に考えることで、我々は自分の存在に意味と価値を見出すことができる。
まぁちょっと強引かな?
作者は別にそんなつもりないかね?
個体に意味持たせようとか思ってないかね?
まぁでもそういう読み方をしても許されるような雰囲気は感じたんだけどね。
違うかね。
ああいう書き方ってやっぱり生物学やってる人だから思いつくのかね。
すごいよね。
俺は初めて見たけどね。ああいうの。
ほかであんまり見たことない。
心に残るよね。
紙で読んだ後、やっぱりあの世界観に何度も触れたくなって、オーディブルで何回も聞いちゃうよね。
まぁこれ今時間ないから、「横浜駅SF」のほんのわずかな面にしか触れられてないけどね。
ほんとはもっといろいろあるからね。
旅小説としての横浜駅SFとかね。
それはまたいつか。
無駄に長くてすみませんね。
推敲とかしてないからね。
無料のブログだしいいでしょ。
ダメかね。
でも頭から見直したらそんな字数ないわ。
よかった。

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