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【鑑賞メモ】企画展『水俣病を伝える』(みんぱく創設50周年記念)

みんぱく創設50周年記念・企画展『水俣病を伝える』は小規模でシンプルながらも多くのひとに観てほしい展示だ。内容は必ずしも目新しいものではないかもしれない。もともと水俣病に興味があったり、実際に水俣を訪れ、相思社(水俣病センター相思社)の方々の話を聞いたり、展示を見たりしたことのある方なら既知のことばかりかもしれない。しかし、この企画展の素敵なところは、リサーチをした企画者(平井京之介・国立民族学博物館教授)の一人称の語り口と水俣のひとりひとりの顔から、水俣が見えてくることだ。

展示は水俣病だけで語ることのできない水俣があることに焦点を置きつつも、理不尽かつ経済至上性の必然とも言える水俣病が、何にも代え難い水俣の営みのなかにある要素として語られていく。キュレーションは企画者の一人称の体をとりながらも、水俣病を語り継ぐひとたちひとりひとりの顔を見せ、ひとりひとりが語っていく展示と言ってもよい。

いささか技術的なことを言うならば、ひとりひとり(相思社のスタッフであったり、長年水俣を記録してきた写真家であったり)や活動を紹介する映像が2分前後でまとめられていて、展示全体に程よいテンポ感を与えているので、現代美術のこの手の展示でありがちな鬱陶しさがない。小学生もスルスルと観ることができるだろう。これらの短い映像では、語られる言葉や情報よりも、そのひと自身の顔というか、人となりというか、素の人物像が際立つように編まれているところが軽やかでよい。現在、あるいは、かつて、水俣という土地で、水俣病という事実と歴史を背負いながらも、前向きに明るく生きている/生きていたひとたちがクローズアップされることによって、過去から現在、そして未来まで脈々と動き続けている水俣の今日性が立ち現れてくるかのようだ。

キャプションにおいては企画者の本音というか、「非当事者」としての率直な感想を忍ばせているところが興味深い。相思社が設立した水俣病歴史考証館を紹介したキャプションでは「手作りなだけに、内容に一方的と思えるところがあり、」と書かれていたり、あるいは長年、相思社のスタッフとして活動してきた人物を紹介するパネルでは「話題によっては活動家としてのスイッチが入ることがある」というような記述もあって、企画者が長い期間の参与観察において関係性を築き上げてきたことがうかがえる。

展示の冒頭では水俣の美しい自然を捉えた映像が2つ紹介される。続いて石牟礼道子の『苦海浄土』冒頭原稿から水俣の営みが活写されたテキストが現れると、いよいよ文化人類学的なアプローチとでも言うのだろうか、様々な道具などモノによって水俣を見せ、地域社会の階層構造にも触れつつ、水俣病を知るための基礎的な資料等へと誘われる。そして展示はいつしか、ある「当事者」家族の生き方に焦点が合っていく。そこでは「水俣病だけではない水俣」と「水俣病の水俣」がどちらも後景化することなく重なり合い、わたしたちの焦点は「水俣」を中心に更に外へと拡大していく。

極めてオーソドックスな、文化人類学的な見地を交えた淡々とした展示ではあるが、良い意味で形式的な意図を持ったキュレーションだ。当然ながらフィクション的な切り口やアーティスティックな表現を使った展示ではない。しかし、「水俣病だけではない水俣」という導入を設定し、水俣を空間的時間的に捉える視座を与えたことによって、この展示にはイマジナリーな余地が挿入されたと言えるだろう。それは例えば、現代美術が得意とするところの、観る側に想像性を喚起させたいがための補助線としてのそれだ。

こうした展示を見てしまうと、例えば美術館は何ができるだろうかと考えてしまう。あるいは、いま、社会事象と向き合い、世界の不合理に「正義」の鉄槌を下したかったり、「対話」を作りたかったりするアーティストたちのなかに、この展示に比肩する作品を見せることのできるひとはどれくらいいるだろうかとも。

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