東京都知事選と民主主義の未来

 先日、東京都知事選挙があり、結果自体は大方の予想通り現職の小池都知事が当選したのだが、SNSが今までよりも強力な力を持つこと、そして大げさに言えば、民主主義の危機を示したのである。
 まず、候補者のポスター掲示板のスペースの大部分を占領し、販売することが起きた。これ自体は他の立候補者に影響しないのだから、民主主義に対してそんな大きな問題ではない。むしろ、それを規制しようとすることが民主主義の崩壊につながるのである。例えば、供託金を引き上げて1億円にしたとしたら、主要政党の応援を受ける候補かインフルエンサーしか立候補できなくなり、実質的に被選挙権が与えられないことになる。恐れる事態は、当選目的ではない人が立候補しまくることで、その度に規制が強化されていき、「当選するつもりのない人は立候補資格を与えない」みたいな恣意的に運用される可能性がある法律が作られることだ。権力者によってロシアのように反体制派を立候補させないためのものとして悪用されかねない。このような規制は今のところ生まれそうにはないが、インターネット上の過激な意見をみれば、今後その人達によって民主的に民主主義が壊されないとも言えない。選挙に関する規制は運用する人の意思が関与しないものであるべきで、候補者の乱立を防ぐにはある人数以上の推薦人を立候補の資格とすることくらいしか、やりようがないのではないか。これによっても完全に防ぐことは困難であるが、それよりも自由に立候補できることの方が大切だ。目立ちたがり屋が何人か出てくるのは仕方ないし、SNSの時代は正に目立つことがそのまま金につながる時代なのだから、確実に出てくる。
 次に、カリスマ的な政治家についてである。カリスマという表現が的確かわからないが、その人の政策ではなく、その人自体に信仰心のようなものとして魅せられるということである。もちろん、こういう種類の政治家はたくさんいたし、世の中には意見がなくてその人に信頼して投票する人も一定数のが普通だが、そうは言っても政党や圧力団体の応援がないと当選しなかったので、政策は重要な要素だった。特に議院内閣制で天皇制の日本では、カリスマ的な政治家の出現しにくく、個人の独裁を防ぐことになった。最高の権威を天皇が持っているので、総理大臣の権威は薄く、逆に天皇には権力が与えられない。総理大臣であっても、宗教指導者のようになるのは困難で、独裁者が出現しなかったのである。事実、東条英機でさえ、戦局の悪化で求心力が低下して退陣させられている。議員内閣制で有権者と総理大臣の間に議員を挟むことで、熱狂ではなくより冷静に判断する仕組みにもなっている。しかし、このような仕組みがSNSの時代に機能を失いつつあるのではないかと思われる。SNS上では自分と似たような意見としか出会わず、熱狂が過熱されやすく、教祖になりやすいのである。政党を作るのも容易になり、少数政党は現にいくつかあるし、これからも増えていくだろう。つまり、次第に内部で先鋭化した少数政党の影響力は増大し、こういう政党は譲歩すると支持者に失望されるので妥協できず、政治は混乱する。どの政党の支持者からも支持されるような政策の中身がないカリスマ的な政治家が要請されるのである。今回の都知事選では石丸信二氏が立憲民主党と共産党の支持を受けた蓮舫氏を上回った。石丸氏は攻撃的で支持者を熱狂させることに長けている一方で、政治主張の中身がない。テレビのインタビューを見る限り、簡単な質問にもまともに答えておらず、政策がない新しいタイプの政治家なのだ。支持者のうち一定数はこれを見て見限るだろうが、中にはインタビューのやり方を非難する石丸全肯定な人も存在する。ただ、SNSは政治によい影響も与えている。それを述べるとまた長くなるので今度まとめようと思う。
 この記事を書いている途中で新しく思いついたこともあったので、少し変なところはあるかもしれないが、許してほしい。

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