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刀工天国の伝説と考察


そもそも天国は実在するか?

天国とは、大宝年間に活躍した刀工で、小烏を鍛え、草薙を鍛えたという逸話を持つ刀工とされます。日本刀の祖であり、初めて刀に銘を刻んだ人物です。(逸話や伝説によって様々ですが、このあたりは大体共通事項かと)

……結論から言えば、
『大宝年間』に『あの小烏丸』を鍛えた『天国という銘を打った刀工』は存在しないと言えます。
この事は恐らく、それこそ小説並に変化球に富んだ来歴が存在しない限り、揺るがない事実だと結論出来ます。


何らかの理由で、
「西暦1200年前後に天国という存在が創作された」と見て良いでしょう。
しかし、例えば
「小烏丸を作刀した謎の人物を、天国と名付けた」
「宗近にいたはずであろう師を、天国と名付けた」
「大宝年間に奈良に住んでいたであろう刀工を想像し、天国と名付けた」
「この世に必ずいたであろう、太刀と呼べるものを初めて作った者を想像し、天国と名付けた」
といった可能性はあります。その人物はその意味において、確かに実在した天国と言って良いでしょう。

つまり、天国という刀工の実在性の是非を問われた時の答えは、
伝説通りの刀工は存在しないが、何を以てそれを「天国」とするかで、天国は存在すると言ってもいい。
というような歯切れの悪い言い方になります。



但し!それはそれとして、
じゃあ、天国の伝説を洗いざらい調べて、有る事無い事全部を精査出来たら、そこから浮かび上がるものがあろう。
例えその先に我々が思う天国がいないとしても、天国に仮託された「日本刀の祖」という概念が背負ってきた、偉大な尊さが、素晴らしい歴史が、より浮かび上がるはずではないか。
その真実を積み重ねたその先に、
刀の神が、刀の祖が、いるはずではないか!
その名こそ、刀祖天国であろう!!!!
それこそが、私の愛である!!
というのが、私の歴史研究における、刀祖天国への基本的な姿勢です。



江戸期~の刀剣研究者には、「天国は何人もいた」「平安後期~鎌倉時代以降にいた」という結論を導く解釈がありますが、
これは、天国が作刀したとする作品の全て、逸話の全てが真作である前提に立っており、やや好意的解釈であるように感じます。

私が天国という存在を探すのは「天国という名を冠した者」の中にではなく、
どちらかといえば「西暦700年にいた刀工」「初めて日本で刀(刀剣)を外反りにした者、舞草刀、毛抜型太刀、太刀を作ったもの」の中に探しています。
何故ならば、
「大宝年間には鍛冶師がいて刀を打っていた事」
「かつて日本で最初に太刀を造った刀工がいた事」
「最初に小烏を打った、草薙を打った人物がいた事」
は絶対に間違いがない事だからです。

最終的には、
そもそも天国が背負う様々な伝説のバックグラウンドまで追っていければと思っています。

天国の足跡、逸話

天国の作刀(とされるもの)と考察


本阿弥光心押形集の、江戸時代より物議を醸し続ける押形

・草薙剣(崇神天皇期の写しまで含むと2作)
・小烏丸(幾つかある。伊勢家の小烏丸を実見した水心子正秀は刀工としての立場から「出来はおらしがねを数遍鍛へたるものと見えたり」と批評してい、それをして鎌倉期以降の作刀と言う説があるが、ずく押しは平安期にはすでに存在する可能性がある)
・古今伝授大和国天国御太刀(非公開で全く不明)
・亀戸天神社の宝刀(菅原道真の佩刀)
・山名八幡宮の宝刀(両刃の直刀。鎌倉時代末とされるが、される理由をまだ知らない。ただし、小烏丸をおろし金で作られている=おろし金ということは鎌倉末期に違いない、という勘違いがある場合、これがずく押しのものであれば、同様の解釈で鎌倉期のものと判断した可能性があるのではないか。あれ?これもしかして?あれ?結構遡れたらどうしよう?まさか・・)
・成田山新勝寺の宝刀(千葉県成田市の新勝寺に霊宝として伝わる刀剣。平将門の乱の平定のため開祖寛朝が朱雀天皇より賜ったものが同寺に伝わったと伝えられる)
・阿紀神社明細帳にある天国製作の剣(長二尺一寸。宇陀郡神戸村大字追間縣社阿紀神社に奉納)
・談山神社宝物記にある二振りの刀(一つは長一尺九寸八分の白鞘で、今井住枚村五良右衛門知貞が奉納した。もう一刀は長一尺二寸八分で白鞘。伝来所由不詳)

※ちなみに、
頼朝が奉納したという、
天座(あまくら、あまざ)の作とされる刀が、茨城の大宝八幡宮にある。
この八幡宮は大宝に創建されているという・・・大宝・・・!!
(この人物が、もし西暦700年初期の人物なら、あまくらと読むべきかもしれない)
※ちなみに、
長崎県指定有形文化財として、神息、神気の刀が保管されている。

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天国(および神息天座)の作刀とされる多くが曲刀であり、
もし西暦700年代に作刀した事が事実なら、舞草刀どころか、蕨手刀1型が登場する以前に、いきなり外反り曲刀を用意していた事になる。(曲刀については別記事)
それを成り立たせる事は難しい。
唐以前の中国王朝はもちろん、朝鮮にも靺鞨にも突厥にも室韋にも契丹にも渤海にも、外反り曲刀が存在した形跡がない。
かなり飛躍した物語を想像しない限りは、日本ユダヤ人王国説並に電波な説となってしまう。

多くの研究者が、この圧倒的事実を前に、
「大宝にこの刀を作れた可能性って万に一つも無いよね・・・」と崩れ落ちる事になる。そこで、
『天国』という銘を打つ刀工集団がいたのだ。
『天国』と名を持つ刀工はいたが、この時代ではないのだ。
『草薙』を打った刀工も『小烏』を打った刀工も、天国と銘を切ったが、別人なのだ。
という考えに至らざるを得ない。
(天叢雲については別記事)

天国の逸話と考察

新築されたばかりだった2021年の天国が使ったとされる井戸。ここに社伝が置かれており、微妙に郷土誌にある記述が違うので一応。万が一私がこの井戸のデザインを手掛けていたら、大極殿のような荘厳なものばかりデザインした事だろう。良かった。

逸話についての詳細は別記事(今は覚書をそのまま転写・・・)

【宇陀群誌】
稲津神社
[社伝]崇神天皇六年畏神威鏡造石凝姥命之孫改鋳鏡天目一箇神之孫改造剣移此二種宝大和国宇陀郡「一」以為「ニ」護身「一」而置同殿其自「ニ」上古「一」所「レ」伝神鏡及霊剣ハ即チ附「ニ」皇女豊耜入姫「一」立「ニ」神籬干大和笠縫邑「一」以祭「レ」之右霊跡當社境内有之文武天皇御宇此霊地水ニ依リ天国刀剣ヲ造其居所ヲ称「ニ」字鍛冶屋「一」今為「ニ」小字「一」存在云々。と
[神皇正統記崇神天皇條]神代の鏡造り石凝姥の神の初子をして鏡をうつし鋳しめ天目一箇之神の初子をして剣をつくらしむ大和の宇陀の郡にして此両種をうつしあらためられき。
[神明鏡上三]崇神天皇六年己丑神代の鏡を石吋すべし凝姥の神裔子を召て移鋳天目一箇の裔子を召剣を造大和国宇陀郡にて作し也此両種を移て大内の守とし給うと。
[本朝神社考巻一]神皇正統記載。崇神帝。漸畏「ニ」神威「一」勅「ニ」鏡造石凝姥神之孫。「一」改「ニ」鋳鏡「一」。天目一箇神之孫。改「ニ」造剣「一」移「ニ」此二種宝於大和宇陀郡「一」。以為護身。而置「ニ」同殿「一」云々と。
[二十二社本{香n崇神「乃」御宇「一」初「免摩(か攣にまだれ?」天波」同殿「仁」座給。此「乃」御時「波」神代「乎」去「事」漸遠「天」霊威「仁」畏給「天」石凝姥「乃」裔
召「天」大和国宇陀郡「仁[右]天[左]」神鏡「乎」令「二」「天」鋳改「一」「免」護「レ」身璽澄給。此「乃」時。天及聚雲乃剣「毛」同「久」鋳改「無」是「波」天目一箇神「乃」裔「乃」造也云々と。
何れも宇陀郡とのみにして、地名を詳記せざるも當神社の棟札によれば、此神社なる事を證(証の旧字体)すべし。今尚神社の前方、町餘(余の旧字体)を隔てて桜樹の老朽せる側、圓柱の稲津と書せるあり。往時の石鳥居の跡にして桜は右近の桜と言い伝う。境内の大なりしを知るべきなり。氏子数は三十二戸にして例祭日は毎年陰暦9月9日なり。

【奈良県史5神社】
八坂神社
稲戸集落中央にある万行寺の西北に鎮座する旧村社で、須佐之男命・天照皇大神・稲倉魂命を祀る。「菟田野町史」に慶応二年の棟札によるとして当社境内で、崇神天皇の六年石凝姥神孫が神鏡を鋳造、天目一箇神孫が神剣を造り、神田で作った良米を大廟と大社へ奉納したとあり、文武天皇の代この霊地の水で天国が刀剣を造った。ためにこの地を鍛冶屋敷と称すという。元禄十六年(1703年)の検地に、牛頭天王社地として境内山林四反壱畝拾四歩などとある。
 本殿は素木の神明造板葺で瓦葺の覆屋がある。例祭は7月九日と十月二十日。当社所蔵の御湯釜に元禄四年(1691)四月吉日奉納銘があり、石造り手水鉢は鎌倉期の五輪石塔の地輪を転用したものとみられている。

【高取町史、高市郡神社誌】
高取町史・・・・天国三輪神社のことについて特に情報なし。たかばね神社は元は高取山の山頂にあったのが移されたという情報あり。

【奈良県高市郡志料】
刀工天国の遺構と称する尼ケ谷
高取町大字清水谷の南○吉野郡に隣接せる所民家五六の一集団あり。之を尼ケ谷清水谷の一小字と称す。此の地に天国三輪神社と称する一小祠あり。今は無格社たるも、かつては村社に列せられ、社地数百坪を有し、幽遠の境老樹枝を交(?)え極めて森厳の霊地たりしも数年前神社合併の事あるや、此の社亦高羽神社に合祀せられ、今や域内の巨木悉く伐採せられ御神体と称するかれたる杉の老樹と倒壊に瀕せる拝殿とは纔かに(わずかに)往時の面影を留むるのみにして頗る(すこぶる)荒廃を極む。されど里人はこれこそ我国古今に通する刀工界の泰斗天国か守護神の奉祀せる所として尊崇甚だ厚かりき。なお尼ケ谷なる地名は天国ケ谷の転訛にして、往昔天国此に住居し、幾多の名刀を鍛えしと伝う。天国三輪神社の東南二十間許の所に、焼刀の井と称して清冽なる水を湛うるあり。又、神社と井戸との中間に天国鞴場の跡と称し、付近の土質と異れる所一坪許あり。毎年11月15日には鍛冶を職とせるもの遠近より来たり焼刀の井水と鞴場の土とを採取して帰るもの少なからずという。鞴場の跡は客秋豪雨ありし時、山崩れの為その大部を埋没せられしも猶ほ認め得へし。なおそれ迄鞴場の上に一株の柏木ありて、毎年1月には之に七五三縄を張り神酒を供し祭祀を絶たさりしと云う。明治維新前後までにはここに天国鍛冶鞴跡なる立て札ありしこと此の地の舊(旧)家東氏所蔵の記録に明らかなるのみならず、古老の常に語る所なり。東氏は此の地より発掘せし素焼きの壺及び食器の如きものを藏し又曾て天国に関する幾多の記録を藏したりしも、心なき人のために其の多くを失せられ今は少許の記録を有するのみ。就て見るに左の如きものあり。
天国刀工之事(右の(下の)所謂天国伝書なり)
1、人皇四十二代文武天皇御宇に剣を刀に作らせ給うと勅命に依る鍛冶穿鑿(せんさく)有所當国宇陀之住野依國太郎と申すもの其の昔人王十一代垂仁天皇御宇に力量之人野見宿禰之後胤也此者を被召刀可作と勅命あり国太郎恐れ入り身不肖之者え勅命難有りと謹而御請申上何卒名剣打たんと思う或夜夢想によって妻子を隔て此の山中に引籠朝暮心を盡す(尽くす)といえとも分明難成依而天へ祈誓をかけ頃は大宝元年仲春不思議に白虎願出汝刀打たんと思う事神妙也某合槌可打と打によって刀無造作に成就す是天国と号す則ち日本刀工の初白狐と申者稲荷大明神の化身なり其後本地十一面観音の仏体を願し奉物也
とあり。なお左(下)の如き記事なる紙片あり、参考の為に(玄玄)ここに之を掲く。

天国なる刀工の事は右の記録及「古今銘盡大全」京都仰木伊織菅原弘邦か寛政年間に著したる書又は「新刀辨疑」安永年間鎌田三郎藤原魚妙の著等に見え、或は崇神天皇の御代宝剣を鍛へ賜りしと云い、文武天皇の御代御用を勤めたりと云い、或は平氏重代の宝物たる名刀小烏丸を作りたりとなし(無論同名異人ならん)名たちたる刀工と称せらる。尚いずれの書にも宇陀郡の住人たりといい、現に宇陀郡野依村其の遺跡を存す。なお「古今銘盡大全」には高市郡住の刀工のことを記せるも全く別個の人物たり。則ち刀工保昌五郎(保昌五郎貞宗)及び其の系統の人を以て高市郡住の刀工となせり。高取町大字上子島七本杉の東方にカヂヤ谷、阪合村大字栗原より高市村大字稲淵に通するアサカヂは何れも古来刀工のありし所と伝えらるる所あるも刀工の誰の住居たりしや固より知るべからず。尼ケ谷変化して天国の住居せし所なるや否や今之を明らかにするを得ず。学者の考証を待つの外なし。唯、里人か天国の遺跡と信ぜるのみ。尚此の地の人か口碑として伝うる所によれば、天国のありし頃、吉野川の鮎を鬻ぐ(ひさぐ・・・うること)ものありて毎朝必ず其の数尾を天国に贈る、天国其の厚意に報いん為思いを凝らして一刀を作り、之を興へしに刀に鮎の香あり、焼き刃を見るに鮎の上下する模様現れしという。里人か如何に天国を崇拝せしことの深きを察するに足らん。天国に関し古書に見えたる一二を記さん。

新刀辨疑)前略素盞鳴尊八俣乃大蛇を討ちたまい其の尾に當り神剣少し闕たり(欠けたり)尾の中より一つの剣を得給ひ奇しき剣成とて天照大神へ勧め奉らしめ給う是を天のむら雲また草薙の剣と號け(名付け)給う、是等をや剣を相るに始とや云へき歟(か)、其むら雲は神宝の三の内にして此国かきり那(な)く護らせ給う大器にして申すも中中お曾(そ)禮(れ)多き事なり
扨(さて)人皇十代崇神天皇の御宇に至りて神宝と同じ殿におはしまさん事を恐れさせ給いて
天目一箇神の裔孫大和国宇陀郡の人天国と云うものをして寫し(写し)鍛えしめ給ひ、神代より伝わるむら雲は天照大神へ収めさせ給いけり(中略)扨(さて)後の宝剣は安徳天皇崩御の時、西海に沈めり、予(鎌田三郎太夫藤原魚妙)按ずるに世に人々の知る所の天国は四十二代文武天皇の御宇大宝中の人にて崇神天皇より数百歳の後にして同人にてあらさること明らか也、大宝の天国も大和宇陀郡と云うなれば天目一箇命の裔孫代々先祖の業を伝えて天の一字を伝え来たりて後の宝剣を造りし人も天国と云いしなれども文武天皇の御宇までは都ての工匠其姓名を記すことなかりし故大宝の前の天国は世にしらさるなるへし(下略)
其巳前天国の外にも上工幾許(いくばく)も有らんなれとも求知すべき途なし古代良工神気神天座中古宗近安綱
實守行平粟田口の吉光国吉古備前の数人承知の番鍛冶其後正宗義弘有て世に称す其外京鎌倉大和備前の国々の上工枚挙するにいとまあらす(下略)
文武天皇詔制あってより以来天国神息等造る物に其の名を必記す事に成りてその正と奸とを分別す下工は其の名を記すはなしと見元正天皇御宇養老頃より桓武天皇御宇延暦間は天国一門神息等多し。
家君常に門弟子に数えて曰く新刀を相せんこと尤則とすへし今の所謂古刀は天国宗近は暫おき先備前粟田口也云々
とあり。
因みに保昌五郎に関し、古今銘盡に記事あり参考の為左に之を記さん。
(以下略)

【THE SAMUAI SWORD A HANDBOOK】
西暦700年頃、大和の刀工・天國が最初の侍の刀を作ったという伝説がある。歴史的な確証はないが、現在見つかっている最古の刀は、900年頃の宝亀の刀工・安綱にさかのぼることができるので、この伝説は理にかなっているといえるだろう。天國は、当時、天皇や武将の刀を作るために雇われていた刀鍛冶の頭目であった。ある日、アマクニと息子のアマクラが店の戸口に立って、戦場から帰ってきた兵士たちを眺めていた。天皇は通り過ぎたが、これまでのようにアマクニを認めるようなそぶりを見せなかった。天國は、このような仕草を、自分の努力に対するねぎらいの言葉と受け止めていた。その時、ふと、帰ってきた兵士の半数近くが折れた刀を持っていることに気がつきました。
アマクニとその息子は、その刀の残骸を集めて調べました。どうやら、刀の鍛え方が悪いのと、硬いものを叩いて折れたのが主な原因のようです。天皇の微妙な叱責を思い出した彼は、目に涙を浮かべながら「こんな斬り合いに使われるなら、折れない剣を作ろう」とつぶやきました。この誓いを立てて、アマクニ親子は鍛冶場に閉じこもって七日七晩、神々に祈り続けました。そして、アマクニは手に入れた砂鉱石の中から最も良いものを選び、それを精錬しました。このように、二人は不可能と思われる作業を地道に、ひたすら続けていった。30日後、疲れ果てて歓喜の声を上げながら、二人は湾曲した片刃の刀を完成させました。他の刀鍛冶たちは、二人を狂気の沙汰と思ったが、二人はその刀を研ぎ澄ました。その後、アマクニとその息子は作業を続け、多くの改良型刀剣を作り出しました。翌年の春、再び戦がありました。一、二、三、二十五、二十六、二十七、三十、三十一......」と数えていました。すべての剣が無傷で完璧な状態で戻ってきたのです。天皇は、「さすがは刀鍛冶だ」と微笑んだ。この戦いで失敗した刀は一本もない」。天國は喜び、改めてすべてが正しく、人生が充実していることを実感した。(この伝説は大和の国の鍛冶屋に伝わるものである)。

【小烏丸】【渡瀬氏論文中抜粋】
天国 大和国宇多郡者也。平家重代之小烏と云太刀造之銘云々。大宝三年天国と打。三尺六寸五分。すかたは長太刀のゑをきりたるかことし。ゑの身みしかし。此太刀をこからすと。なつけられる事は。桓武天皇南てんにまし/\て。こくうを御らんしけるに。おのつからくもの中より。からすとひいて。其時御笏をもつて。まねきめされけり。からすちよくめいにしたかつて。とひくたり。御座の御へりにくちはしをかけて。そうし申さく。我これ太神宮より。けんの。御ししや。まいれりとて。はねつくろいして。まかりたつけるか。ふところより一の太刀をおとしととめり。。からすのふところよりいたしたる物なれはとて。すなはち。こからすとめされけるとなり。一説如此。〈利永本銘尽〉

天国 大和国宇多郡のものなり。へいけ重代のからすとゆふ太刀これかつくる。めいには大宝三年天国とうつ。二尺六寸五分。すかたななきたのゑをきりたるかことし。つかの身みしかし。此の太刀をこからすとなつけらるることは。桓武天皇なんてんに御座あつて。こくうを御らんしけるに。雲のなかよりからすとひいつの。御さのへりにくちはしをかけて。奏して申す。我はこれ太神宮より劔の御つかいにまいれりとて。とひたちけり。そのふところより。一の太刀をおとしたり。からすのふところよりいてたる物なれはとて。すなはち小烏とてされけり。〈鍛冶銘集〉

天国 ……ヤマトウタノ郡ノ住人ナリ。仁王四十四代文武天王ノ御時代ノカジナリ。平家重代ノコガラストイウ○剣コレヲサク。メイニワ大宝二年八月廿五日天国ト打。カノツルキワ。二尺六寸五分也。ナリハ。ナキナタノツカミヲキリタル。ミシカシ。此タチヲコガラストナヅケタルコトハ。クワンム天王ナンデムニギヨシユンアリケルニ。クモノ中ヨリカラス一ドビワタリケル。ソノ時御カド御シヤクヲモツテ。マネカセタマイケレバ。 カラスチヨクニシタカイテトビクタリ。 御センノミハシノ上ニ居申。ワレワコレ。伊セ大神宮ヨリ剣ノ御ツカイニ参タリトテ。スナハチドビサリケリ。ソノアトニ。カラスノフトコロヨリ出タルニヨリテ。コガラストメサレケリ。カノドウサクノツルキ。 三浦ノ一門ワダノヨシモリサウデン。 又木枯ヲコガラスト一説モアリ。平家ノ重代トモキリトテメイブツナリ。〈直江本銘尽〉

天国 大宝年中鍛冶也。宇多郡住。平将軍貞盛ヨリ平家重代の小烏作者也。三浦和田三郎持之。又此作太刀足利武蔵守義氏所持之。此太刀ヲ小烏ト名付タル事ハ。桓武天皇南殿ニ御座在テ。虚空ヲ御覧スルニ。空ヨリ烏飛出。御笏ヲ以召サレケル。烏勅命ニ随テ飛サカリ。御前ニテ口ハシヲカケテ奏シ申サク。我ハ是太神宮ヨリ釼ノ使ニマイリタルトテ。羽ツクロイシテ一ノ剣ヲヽトシタル間。小烏ト名付タリ。……〈宮元盛本能阿弥銘尽〉

天国 大和国宇多郡ノ者也。大長七年丁酉。御即位ノ門ヲハ文武天皇ト申。神武ヨリ四十二代也。大宝年中ノ御宇也。平家重代ノ小烏ノ作者。名ハ大宝三年天国ト打。二尺六寸五分也。スカタハ長刀ノ中子を切タル如シ。柄身ミシカシ。此太刀ヲ小烏ト名付ル事ハ桓武天皇南殿ニ御座時。虚空ヲ御覧スルニ。一ノ烏舞遊。御門御笏ヲ以招キ給フ。勅ニ随テ飛来。御座ノ御ヘリニコロハシカケテ。剣ノ御使ニ参レリト云テ飛立シカ。懐ヨリ一ノ太刀ヲ落タリ。故ニ則小烏ト名付也。……〈長享銘尽〉

天国 大ほう年中のかぢ也。へいけぢうだいのこがらすといふたちのさくしやなり。此たちを、くわんむ天皇、なんでんに御ざありて、こくうを御らんぜらるるに、くもの中よりからすとびきたり、御しやくをもつてめされければ、ちよくめいにしたがつて、御まへのつちにくちはしをかけてそうし申すやう、大じんこうよりもつるきのつかひにまいりたりとて、このたちをおとすといふ。かるがゆへにこがらすといふ一せつあり〈享禄比写刀剣書〉

天国 大宝年中文武天皇御宇鍛冶也。平家重代小烏云太刀作者也。号小烏由緒者。将門平新王追罰之時。為副将軍陸奥守貞盛朝臣東国進発。作太刀帯之処。将門以平法之術。 今分身八騎之時。 一人之甲天辺ニ小烏居間切之故也。 亦此作足利武蔵守義氏持之。亦三浦和田三郎持之。古本云。天国者。帝釈御作村雲剣ヲ。人皇代ニ大和国宇多郡而天国鳫之為宝剣由也。日本記我之鍛冶銘雖無之。天国宇多郡住人也。其旨銘尽教本在之。無不審此事ヲ帝釈御作村雲剣同事ト。我之にて古人住之。尤信用之。後ニ奥州下云々。〈佐々木本銘尽〉

一 号小烏之由緒ハ。将門追討之時。将門以兵法之術。全分身八騎之時。一人ノ甲ノテヘムニ小烏切レハ間。如此号云々〈芳運本銘尽〉

武家の刀剣にまつわる伝承は、刀剣伝書の作られ始めた鎌倉期からあったと考えられるが、軍記に取り入れられていくのはもっと時代が下ってからのように思われる。名剣の物語は古態本ではなく、後出の本文により詳細に記される。「太平記」になると古態本の段階からまとまった形で見られるようになる。となると、「剣巻」の成立は南北朝を遡らないと見える。そしてその成立の下限は、屋代本の書写年代が応永頃とされていることや、長禄四年には単独で流布する『剣巻』(長禄本平家剣巻)がみられることなどから、室町初頭を下らないと言えそうである。

『観智院本銘尽』「大宝年中」の項目では、平家一門の宝刀として伝えられる小烏丸の作者と記載されている。

弥源太殿御返事
・・・又御祈禱のために御太刀(おんたち)同(おなじ)く刀あはせて二つ送り給はて候。此の太刀はしかるべきかぢ(鍛冶)作り候かと覚へ候。あまくに(天国)、或は鬼き(切)り、或はやつるぎ(八剣)、異朝にはかむしやうばくや(干将莫耶)が剣に争(いか)でかことなるべきや。此れを法華経にまいらせ給う。殿の御もちの時は悪の刀、今仏前へまいりぬれば善の刀なるべし。


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(草薙に関する者はさらに膨大なはずで別記事&収集中)

激しく要約すると、白狐と刀を打ったという宗近に近似する逸話、鮎の波紋の逸話、31人に刀を作った逸話のほかは、刀剣書や、各神社仏閣の社伝に奉納品として語られるものが大半。

天国について残る文献の現状の最古は1228年。
天国の逸話が展開されるのは室町後期辺りから、特に江戸期に組み立てられたものが多い・・・しかない、と判断せざるを得ない。
天国は、一次資料が完全に存在しない。全て後世に「ぽん」と出てきた逸話上の存在だ。

・・・正直、江戸期は刀剣にしても剣術にしても家系図にしても歴史にしても、胡乱な創作、権威付けの贋作、大ボラが異様に増える時期であり、「天国」「小烏」が一気に有名になるのもこの時期なので、割りと暗澹たる気持ちになる・・・

生まれた逸話も、後世のものである可能性が限りなく高い。

「700年に天国がいて、いわゆる太刀を造った10世紀前後にも天国がいたのだ。急に皆に知られたのは、秘匿された伝説が何らかの理由でその時期から解禁されたのだ。実は隠れた家系や集団にずっと受け継がれていたのだ」
という好意的解釈はどうしてもし難いものがある。
例えば、受け継がれきた伝統があるというには、
蕨手刀→舞草鍛冶の台頭から連綿と系譜が流れて「外反り曲刀の成立」の流れが存在し、日本各地に同様の曲刀を作刀した例が増え始める中で、
「700年代の畿内の刀工達が打った刀」と「10世紀以降の姿としか思えない小烏丸」あるいは「大和伝」の間に、受け継がれていると自負できる程の特殊な個性が共有されているとは解釈し難い。

「そういう刀工集団がそこにいたのだ」
というのであれば、鍛冶集団として700年から連綿と天国と銘を切るものがいて、それが太刀を作りうる三百年後も存在していたのなら、その銘刀が現存していなすぎる。例えば正倉院にあって然るべきだ。(目上の人に献上する場合に銘を切らないということがあったらしい・・・本当か調べてみる。もう・・・)
大宝律令が完成し正式に施行されるにあたり、一日未満で到着するであろう畿内の天国にそれが伝わっていないとは考えにくい。しかし、天国という銘は正倉院に痕跡が無い。(八剣宮が最後の頼み・・・)
平安期後期になって、周りでは刀工個人の銘を打つのに、ずっと「工房」の銘を打ち続けたのかという話もある。

そもそも、日本刀の始原をどこに見るかについても、
日本における太刀の成立に近い存在は、舞草鍛冶縁の鍛冶師であるようにも思える。




この時点で、
「最初に小烏と号する刀を鍛えた天国がいるが、平安期中期以降の人だ」
「最初に小烏と号する刀を700年代に鍛えた天国がいるが、これは直刀であり現存しない」
のどちらかにしかならないが、

前者であれば、
「じゃあもう、大宝年間の人ってのは嘘じゃん」という話で、
後者であれば、
「じゃあもう、銘尽で語られる小烏と全部関係ないじゃん」
としかならない。

唯一!
私がなんとか蜘蛛の糸と思っているのは、
大宝で天国が天叢雲の写しを造って奉納した逸話だ。
熱田社にまつわる社記も恐らく後年のものであり、どのみち怪しいにせよ、
この時期に草薙を盗まされたという日本書紀における逸話とよく呼応している。
八劔社をはじめ、文武期~元明期の平城京を置く際に、神社への刀の奉納があった可能性は非常に高く、
その際は「一流の刀工」がその作刀にあたったはずである。
それが「天国」であっても良いんじゃないか!!!
天国と銘が打たれても良いんじゃないか!!!

ちなみに、非常に興味深い「野依国太郎の逸話」について、
太郎という名前を史上で確認できる最初は嵯峨天皇の幼名、というのがウィキにあるが、もしそれが本当なら、その年代は800年初頭であり、結構ニアピンしている。
ただ、700年前後の人名で、太郎とついた人物は今のところ私は知らない。


天国の祖の、国振立命や、その近辺にある物部、ニギハヤヒ、スサノオ、フル、フツ、なんていう、電波説ばっかりでソースを探るのが容易じゃない御柱達も、どんどん調べていきたい。


天国の居地とされる地と考察

天国の居地として伝説が残る場所は、私が知る限り現状二箇所。どちらにも、21年の冬辺りに直接取材に伺った。(ウィキペディアから研究がスタートし、それにこの地の事が書いてあったのですが、これを最初に書いた方はどんな方だったんだろうか)

はじめに
 天国三輪神社の行き方について調べる為に高取町社会福祉協議会の方々にコンタクトを取った際は大変皆様に厚意を下さり、資料もわざわざ頂きました。本当に気持ちの良い素晴らしい方々で感謝してもしきれません。
 また、宇陀市の神話と歴史を考える会のご担当者様からも役に立つお話を伺いました。
 お礼は受け取れないと言う事でしたが、とにかく必ず報いる所存です……
 はからずも、取材でコンタクトを最初に取った時は、天国三輪神社の例大祭の同日、縁を感じずにはいられませんでした。
 きっと呼ばれた人間達には何かの使命があるのだと、勝手に思うようにしてます。
(呼ばれた人間があと8人くらいいて、揃うと何か地球を救うビームとかが出されるようになるのではないか・・・)

居地

1つ目・奈良県宇陀市菟田野稲戸にある、稲津神社とその近くにある、屋敷跡とされる地

(詳細、歴史等は別記事予定)
・八咫烏神社があったり、八咫烏の逸話がやたら多いのは宇陀のほう。(小烏丸との関係は・・?)
・水銀がとれたという。
・1917年刊行の宇陀郡史にて、稲津神社や住居の項目でやたら天国の話を書いているが、天国の住居、井戸の謂れやエピソードがない。
・宇陀は奈良の古い土地で、昔からの土着民が住んでる。(神武のエピソードまで遡る豪族)
・稲戸は古墳が多く、当時の寺もある。墓地の可能性?(平安期以降で寺の僧兵に刀を提供した)
・国の始まりは大和の国、郡の始まりは宇陀郡、という言葉もあり、古い豪族がここを居地としている。

2つ目・奈良県高市郡高取町にある、旧天国三輪神社
(詳細、歴史等は別記事予定)
・天智~文武までの都と近く、南へ向かうまっすぐの道の途上(宇陀に比べ二倍近く距離が違う)
・天国神社芦原は芦野群生地に名付けられるもので、かつ芦からは褐鉄鉱がとれる。(鉄不足で自前で用意する際にこれを利用した?)
・高取山で森林伐採を禁止する令が676年に出されている。(もしかして、木炭にしてた?)
・江戸時代段階で、ここを天国三輪神社として鍛冶屋が集まって祭っていた。焼き場という土の色が違う場所があるという。
 天国作刀の井戸なる井戸も残る。当時の出土品もあったという逸話が残る。
・渡来人が多くいた=東漢氏、波多氏(巨勢氏縁。渡来人ではないが、朝鮮半島との外交に従事した氏族)

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これら二箇所に共通していることは、どちらも、天皇の薬猟をする所領であったこと。

奈良県宇陀市菟田野稲戸にある、天国が鍛冶をしたとされる地は、飛鳥京、藤原京と距離的に遠く利便性が悪い。
しかし高市市高取町の天国三輪神社からは北に一本道が通じていて距離も近い。

鍛冶は基本的にとてつもなく公害が発生するため、都から離れた土地に置かれがち。(宮殿近郊の大規模施設が最近発見されたけど)

700年代はもちろんその後の1000年代まで、当時の刀工ないし大鍛冶が、
砂鉄から積極的に製鉄を行っていたとは考えにくい。
もし仮に、これらの地でやっていたなら、山は一瞬で丸裸になり、それでも原料として砂鉄が足りない。
恐らくはここで鍛冶をしていたのなら、製鉄まではせず、基本的に朝鮮や中国王朝等からの舶載鉄、吉備等で産する鉄を素材にし、小鍛冶集団がそこで鍛冶をやっていたはずだ。

それを考える時、海から運ばれた土地に近い、高取町がより利便性が高い。


ちょっと思うのだが・・・資料的にも歴史的にも、実は高取町のほうが、「天国の居地だ」と声を大に出来そうというか、少なくともここを打ち捨てられた状態にするのは、絶対に良くないと・・・なんとかしないと・・・


最後に


天国の実在性についてはそもそも非常に怪しいが、しかしながら「宇陀」「高取町」に鍛冶師が古くからいた可能性はあると思われる。
郷土誌にある通り、高市郡に住した保昌五郎を天国のモデルとした可能性も大いにある。保昌の祖國光の国の字は、刀工銘に用いた例としては最古の例である。

天国とはそもそも、日本刀を権威化する上での架空の存在である可能性は低くない。
高すぎるといって良い。
本阿弥光徳が秀吉に命じられて以来、刀剣は投機的価値が付与されたが、しかしながらそうされるに足る評価が刀剣にすでに為されていたことは間違いない。草なぎ、髭切、レガリアとして多くの刀剣が扱われているのが証左である。
最古の銘尽ではすでに1,350年には「天国」という存在が認知されていた事になり、
1228年の弥源太入道殿御返事には天国の名がすでに登場している。
熱田本記なるもの、郷土記なるものがいったい何なのかは不明だが、とはいえ多くが1200年代を過ぎてからの書から天国の名が登場しているが、
大宝の天国の消息は、現時点で一切無い。

現状で云うならば、
「天国とは、鎌倉期前後以降に創作された架空の刀工」であるといえる。

刀剣書にある「天国が日本刀の体裁を造り、それが大宝年間の頃」であるわけがないことは発見される史料からも明らかで、
いずれにしても、
「刀剣書や伝説に描かれた通りの天国という人物」がいた可能性はほぼ0であるとしか言いようがない。

しかし。
実際問題、
「大宝年間には鍛冶師がいて刀を打っていた事」
「かつて日本で最初に太刀を造った刀工がいた事」
「初めて小烏、草薙を打った人物がいた事」
は間違いがない。

天国という刀の偉大なる祖を、現世に召喚する為には、

「天国」という伝説ではなく
「大宝年間に刀を打っていた人物は何者か」
「最初に太刀を造った存在は何者か」
「草薙や小烏を打った人物は何者か」を考える逆転の発想が必要だ。


私は、何をもって「天国」とするかを考える時、
日本における太刀の成立、曲刀の成立の傍らに存在する者をして「天国」と考える。

それは、大和に住んだ鍛冶師かも分からないし、蝦夷の鍛冶師かもしれないし、唐人か、渤海人か、遼人か、女真人か、遥か西域の人たちかもわからない。

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