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農業のやりがいについて

昨今では人に感謝するされる事も少なくなり人の有り難みも希薄になってきました。
格差社会、貧富の差の根本であり、指標となる金でしか物事を測れなくなったのが原因だと思います。
またインターネットの普及により誰もが情報を手に入れ易くなりました。
例えば、貧富の差があまりない時代、親の収入も似たり寄ったりの時代では、自分より学があり収入もある教師は尊敬の対象でありました。
子供を教育するにしても自分のない知識では教育できず、知識のある教師に頼る方が我が子の為でもあった訳です。
しかし今はどうか。
教師よりも収入の高い親も増えてきたし、私立中学なんかも台頭して来たせいか、学校ヶヶの評判や名声が第一となり、それをインターネットを通じて分かるようになって来ました。
結果並みの教師は尊敬される事もなく有り難みを感じない存在に失脚しました。

教師だけでなく様々な職種で感謝が消えていきました。

私も劣っている所を別の所で昇華させ生き延びようとした能力主義に傾倒した人間だったので、感謝の意味があまり分かりませんでした。
実際、会社員時代も指導してくれる上司に対しても仕事の一環だろうと思い上がって特別感謝する事もなく、教えてくれたには必死に応えようと結果で示す方法しか知り得ませんでした。
故に上司と部下の私の仲は埋まりませんでした。
また、仕事を覚えても褒められる事もなく、仕事の対価は無味乾燥に通帳に数字が印字されるのみです。
それが私も普通だと思っていました。

そして私はやりがいを感じなくなりました。
自分の仕事の取り組み方にも問題があったのもその時気が付きました。

その時私の脳裏に浮かんだのは快活に働くアスパラ農家さんでした。
やりがいを感じているから約5年も畑を荒らす事なく勤めれたし、終身まで農業を続けるような事も仰ていました。

と同時に私も年老いてきたのか肉よりも野菜が好きになっていました。
私の野菜好きの共感覚から勝手に消費者の心を想像したら、きっと農業は人に喜ばれる仕事だろうと思いました。

私は今まで利己的に生きてきました。
だから誰の利益にもならない小説が頭に浮かび離れませんでした。
私は利己を追求できるほど強い人間ではありませんでした。
云わば意志薄情の人間でした。
やはり人との繋がりがなくては生きられない人間でした。

その反省もあって自分が社会と関わっていくならば、人に喜んでもらいたい。
その笑顔を糧に農業に携わっていきたい。
会社員時代みたいに社長ばかり幸せで、他の社員は青ざめた陰惨の表情で、殺伐とした空気が垂れ込む環境にはもういれない。
他人も幸せになって自分も幸せになりたい。

以上より農業には利他的になれる幸福が存在するのではないかと考察しました。
まずは農業を足掛かりにして利他的に生きる喜びを、他人と接する努力をしていきたいと思います。

今日も最後まで読んでいただきありがとうございました。



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