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持たない主義者のばーちゃんちを片付けた記録

94歳になろうか、としていた祖母とその家の話。

物心ついたころには半同居のような形で、私の毎日には祖母の存在があった。
質素倹約とはこのことか、とその生活っぷりはある意味始末のいいものだった。

入ってくる物は使い切り、気に入らなければ徹底的に断る。
遠足やら修学旅行のたび、手ぶらなのも何なのでよくある土産物を手に帰ったものだが嘘か誠か「もったいないから」を常套句にたいていのそれはつっかえされた。

とにかくビリビリと割いて捨てる姿、かと思えばちり紙は何度も何度も使い倒す。
彼女の価値観は最後まで基準がわからなかったが、戦争での被災体験は大きな影を落としていたんだとは思う。

さて、そんな彼女が晩年を送っていたのが築50年になる二階建ての一軒家。
3人の子どもたちを育てあげ、祖父が他界してからというもの、その老後はそれはそれは静かに、かつ電車のごとく時間通りに毎日を見送り、加齢とともに年相応、もしくはそれ以上の低空飛行を続ける日々だった。

彼女の暮らしに沿うように、家具のレイアウトもどんどん変わり、布団での寝起きはさていつまでだったのか、気づいたころには介護用ベッドが幅を利かせ、傍にはポータブルトイレが悠々と佇んでいた。

それらの活躍も虚しく、だんだんと自力での寝起きや身支度、デイサービスへの通勤(?)も難しくなっていった彼女は老人ホームに入ることになる。

あれもこれも、と何でも持ちたがるタイプではなく、これだと決めたものをとにかく使い切る、ある意味一点(豪華)主義だった彼女が出ていった部屋には最低限の生活用品だけが残された。

それでも娘たちが不要になって返してきた食器やら、彼女自身の衣類や布団だけでも一軒家の一階はそれなりに詰まっていた。

惜しまれながらも遂に彼女が本当の意味で旅立ったあと、それらは残されたこどもたちによって一気に処分されることになる。
残して目にしても悲しくなる、と言う思い、残しておいて何になる、という思いの両方が入り混じった複雑な作業だ。
あと少しこれを使う姿が見られるはずだったのに。

それでも孫の私からすれば、あれもこれもと何もかもが使われもしないのに埃やカビを被って詰め込まれたまま皆の心のしこりになるより、空間ごと清々しくなったほうが心から祖母を懐かしむ余裕が生まれるように思える。
ネガティブな意味での執着を持ち続けなかった父や叔母にはその点では非常に感謝だ。
ばあちゃんに似て始末がいいのは3人とも共通している。

全てがなくなる訳では決してない。

6畳の和室から、日々踏み倒した庭への踏み台、レトロな洗面台、変わることのなかった土壁、あらゆるところから未だに彼女を想い出す。

悲しいという感情かと聞かれると疑問だ、というのが正直なところ。
3人の子どもたちに比べると自分の感情がとてもドライに感じられる。
ただ自分でも自分のことを珍しいと感じていることは間違いない。

多分、友人のお母さんの葬儀に参列した時の方が感情が揺さぶられた。

そんな不思議な感覚と向き合いながら片付け続けた祖母の家。
みんなが来るならぶち抜こう、と気乗りしない父をせっついてあらゆる戸を外し埃を払い続けた。

どうせなら、彼女がいたころにこうしてやればよかったのに、と思えるくらい埃まみれだった空間はみずみずしく風通しの良い空間に変化し、これなら従兄弟やひ孫たちも十分入るじゃないか、というくらいに一階部分は一体化した。

客用の布団やら座布団に季節用品が詰め込まれた2階。

「人間で言えば、アメリカまで行く距離じゃない?」

母による正確なんだか、そうでもないんだかの感想だ。

普段よっぽど用が無ければ足を踏み入れない2階に私と息子が上がると、まず飛び込んで来たのはカジュアルに目の前を横断するダンゴムシだった。
その話をすると母の口から謎の例えが付いて出た。

庭では見るけど、なんであんなところに?

全員の疑問をよそにダンゴムシは消えた。

ついに許可が降り、布団を2階から放り投げるというダイナミックなアクションを起こせることになった。

息子が喜ばないわけがない。
座布団用の段ボールを破壊しては下で待つ母へ向かって投げ落とす。落ちた様子を身を乗り出して見送り、また繰り返す。

ちょくちょくそれをしたいと言っていた私を静止していたくせに、いざそうなるとこれもこれもと投げろと布団を引きずり出してくる父。

そうこうしているとついに2階の2部屋は空になった。

後に残ったのは埃アレルギーの幼児、満身創痍の老夫婦、地味に腰を痛めたアラフォーの孫。

さっぱりしている方だ、と讃えられる祖母の家でもこの始末だ。

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