普通の感覚

さて、今回は半分紀行文の形で書いていきたいと思います。

今までいろんな人の話を聞く機会がありました。その中で、「きっと皆さんのように普通の方であればこう感じる(考える)わけですが〜」、「普通の人はこういう風に考えますが、障害があるとこう考えます」という表現をされ、参加した多くの方々が共感されていました。しかし、そこで思うのです。

本当に、「普通」であるみんながみんな、そのように感じるのか?と。また、そのように皆が感じることは誰かが証明したのか、と。

今の現代社会で、「普通」という、明確に調査や証明された結果が世の中に当たり前に共有されているわけではない曖昧で不可解なものが、「異常」か、そうでないかの線引きに使用されていることは、誠に残念なことであります。

私は、「普通」という感覚の立場も理解しつつも、「普通ではない」考え方の立場も充分に理解ができます。つまり、「どちらの立場の言い分も分かる」のです。

なので、自分は、「どちらにも分かりやすいように」話したり、文章を書いたり、説明したりしています。しかし、今の社会の現状は、マジョリティである「普通」の感覚である人の考えがあたかも「正解」であるように表現し、「普通ではない」考えを、ある種の「例外」のように話す傾向があります。しかし、いろんな人が生きているこの共生社会では、どちらの考えも、「考え」として尊重されなければいけません。異常かそうでないか、そんな線引きをしてしまっている時点で、無意識のうちに優劣をつけてしまうという差別を行ってしまっているのです。

また、例えば「普通の感覚がわからないため普通の行動がとれない人」「普通の感覚が分かっているため普通の行動がとれる人」「普通の感覚はわかるが普通の行動をあえてとらない人」を、上記で説明した社会通念では区別することができるでしょうか?そう考えると、普通という概念で人を線引きすることは、かえってその人自身の理解を妨げていることになるのです。

上記3つめの方が、異常であるならば、日本は優秀なトップがいない、分厚い中間層のみの分布になってしまうでしょう。


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