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雑記41 科学の時代の響き

 二十世紀の初頭から、われわれが今生きている現在までを、音楽史では「近現代」という曖昧な名前で括っているが、もちろんその名称の曖昧さはしょうがない事だ。だがわれわれの時代が後の人間にから、何かしらのそれらしい名前を貰う日が来るのはそう遠くないだろう。次代を代表する音楽のいくつかはもう多分存在している。ただわれわれがその存在に気づいていないだけさ。

 ともあれロマン派音楽がもたらした、あまりに行き過ぎた人間主義に歯止めをかけるように生まれた新しい音楽、果たしてその特徴をどう捉えればいいのだろうか。より客観的な科学の時代を象徴する音楽。1800年代の後半になるとパリで万国博覧会が開かれるようになり、人々の意識の中で世界は一気に狭まった。1889年のパリ万博に作曲家クロード・ドビュッシーが訪れているが、これはとても音楽的に重要な出来事だと思う。パリ万博はそれまでヨーロッパにとってまったく未知だった世界中の文化を集め、それを展示した。柵の向こうでさまざまな国の人間が自分たちの国の暮らしを演じてみせたんだ。日本からは最初、芸者たちが参加し、彼女らの普段の暮らしぶりを披露している。うううん、生きた民俗資料館とでも言った感じかね。ああ、行儀の悪い言い方をするならまるで動物園だね。ちなみに1900年にはかの有名な川上音二郎一座も参加し、看板女優の貞奴は一世を風靡した言われている。この時、インドネシアから招かれた音楽家たちがガムランを演奏し、その音楽を書き取ったドビュッシーの手になる譜面のメモが残っている。この時耳にしたガムランの響きはそれ以降のドビュッシーの作風に大きな影を落とす事となる。

 作曲家たちは取材を始めたんだ。西洋の外側に。飽和して出口の見えなくなった西洋の音楽に異文化の音で風穴を開けようと目論んだって訳さ。アジア、アフリカ・・・世界中のさまざまな地域の音が次々に西洋の音楽に取り込まれてゆき、ついにはケチャなどというあたかもバリ島の伝統音楽のようにでっち上げられた西洋の音楽までが現れた。うん、まるで怪しい海外旅行のパンフレットみたいだね。エキゾチズム万歳ってなもんさ。作曲家たちは自身の内面を掘り下げて行く代わりに、外の世界に目を向け始めたんだ。

 新しい音、そいつは空間の広がりの中に求められただけじゃあない。ロマン派の作曲家たちが過去の作品に興味を持ち、その研究を始めたように、時間的な意識の広がりまでもが創作に大きな影響を与え始めた。バロック時代の作風に沿って新しい曲を書いたり、果ては古代ギリシャやローマに題材を求めたり。より客観性は強まり、過去や異文化からの引用や、パロディとしての音楽が次々と現れた。うん、まるで音の百科事典てな感じだね。

 さてこれから淘汰ってものが始まるんだ。客観性を重視するという新しいスタイルの、その中で書かれたいくつかの素晴らしい作品だけが時代を表す記号として残り、それらの作品群により後の人々がこの「近現代」という大雑把な名称の代わりに、皆が納得できるような名前を与えてくれるだろう。そんな日はもう遠くないような気がしている。

 しつこいようだがもう一度繰り返す。新しい時代の音楽はもうすでに、そこかしこに芽生えている。私自身は脳味噌に黴の生えた古い音楽家として過去の音楽に縋りつく事しかできないが、私などの理解をはるかに超えた優れた作曲家たちの手になる新しい響きが、新しい世代の人々の欲求に応えるべく新しい世界を満たすだろう そしてその響きが人間の存在を強く肯定するものである事を強く願う。

 ともあれここに書き並べた二十余りの雑文は、私がこれから書こうと思っている音楽史の大雑把な概要だ。多分この十倍ほどの分量になると思うが、書籍化に耐えうるような内容の西洋音楽史をこれから書き綴っていこうと思っている。お読みくださった方には申し訳ないのだが、私はこの二十余りの雑文をほとんど朧げな記憶のみを頼りに書いた。多分怪しい部分がそこここに見つかると思う。もちろんそれらの曖昧さをそのまま放っておく訳にはいかないさ。という訳でこれからは一日の半分以上を図書館の住人として過ごす事になるだろう。一日の半分?そう、残りの半分は遺言代わりの協奏曲に創作に費やすんだ。できればその創作により三途の川の渡し賃ぐらいを捻りだす事ができればと、そう思っている。


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