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雑記39 古典派からロマン派へ?そいつはただの戯言かも知れないぜ

 小学校、中学校と、音楽の授業が大嫌いだった自分は、ほとんど音楽教師のいう事など聞いてはいなかったが、そんな私でも何となく憶えている事がある。音楽の歴史の中で古典派、ロマン派という時代区分があり、古典派の代表的な作曲家であるベートーヴェンがしだいに作品の中に表題等の言葉を用いるようになり、やがてロマン派音楽が誕生したというような歴史観を教わったように記憶している。もちろん今の私はそんな俗説をまったく信用していない。ベートーヴェンが仮に他愛の無い表題を用いたとしても、それによって彼の創作の方法が言葉に引き摺られて行ったという痕跡はまったくみられないからだ。ただ音楽の商品化が進み、表題というものがその経済活動に置いて、効果的な役割を果たしてであろう事は容易に想像がつく。そもそも古典派(実はその時代に活躍した少数の作曲家たちを「派」という言葉で括る事にも抵抗がある。その点についてはまたいずれ)とロマン派が並び立つものだとも思っていない。

 中世以前より音楽には二つの大きな対立項があった。それはカントとソナタというものだ。カントとは歌、キリスト教の黎明期にあっては聖書の歌詞を彩る要素として音楽は存在した。一方ソナタはソナーラというイタリア語に由来する、演奏するという行為を意味する言葉だ。つまり歌詞というテキストに依存する事なく純粋な音の運動を追求する音楽としてソナタは発展した。誤解を恐れず、いささか乱暴に言い放つならば、古典派はソナタ、ロマン派はカントに象徴されると言っても良いだろう。

 そして今の世の中を見渡しても、音楽というものは歌詞にぶら下がる旋律というものとして捉えるのが一般的なのではないだろうか。長い事、西洋音楽の仕事にどっぷりと漬かっていると、言葉のない所謂器楽曲というものの存在を当たり前のように思ってしまうが、器楽曲、やはりそれは少数の好事家によって支えられたものにすぎないように感じる。

 優れた歴史学者のカール・ダールハウスはロマン派の音楽が15世紀に始まるオペラから地続きであるのに対し、古典派は同時期に、特別な地域社会(この場合啓蒙主義が広まるウィーンを中心とする今でいう南ドイツ一帯)に現れた現象だと説明している。

 古典派に属するといわれる作曲家たちがひたすらに追い求めたのは、音が言葉を必要とせず、自立するために必要な独自の形式だった。今、われわれは当たり前のようにソナタ形式という言葉を口にするが、もちろん彼らの時代にはソナタ形式などという言葉すら存在しなかった。古典派の作曲家たちにとって、彼らが用いた音楽のフォルムとは随時新しく変化し続けるものだった。だが、やがて新しい形式の探求は19世紀の半ばで終わりを告げる。つまりソナタ形式というものが完成したんだ。(実際1840年代には初めてソナタ形式という言葉が用いられた)。完成した?そうさ、完成してしまったんだ。残念ながら。つまり完成したという事は閉じられるという事だ。かつて形式とは、作曲家たちによって獲得され、刻一刻と音が進んで行く推進力によって、生き物が成長するように変化し続けてゆくものだった。でもそいつは完成した事によって、ただの雛型、それらしい旋律を配置するだけの可愛らしいお弁当箱に成り下がったのさ。

 要するにソナタや、交響曲がオペラや歌曲に呑み込まれていった、それがロマン派という時代さ。例えばロマン派交響曲の代表作と言ってもいいだろうベルリオーズの「幻想交響曲」。ベルリオーズの頭の中にある物語にそって書かれたこの優れた作品は、だが到底交響曲と呼べるものではなく、歌詞のないオペラだと捉える事ができるだろう。ともあれ物語=言葉にそって音を配置してゆく、この流れはやがてリヒャルト・シュトラウスによって交響詩という形で結実する。

 そもそも古典という言葉が表しているのは古代ギリシャの概念だ。バッハに触れた前項に続いてもう一度ややこしい言葉を使う事を許していただきたい。この世界を把握するために、純粋な音響による作品を作ろうと努めたのが古典派と呼ばれる作曲家たちなのだとそう言いたい。例え時代としてのずれがあろうとも前項で扱ったヨハン・セバスチャン・バッハ、彼ももちろん広い意味での、そして本質的な意味での古典派の作曲家なのだと信じている。

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