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友と呼ばれた冬~第31話

 9時台はもうピークが過ぎているとは言え、普段は空いている電車を利用している俺にとっては混雑しているように思えた。
 車内は一日の活力を充分に備えた乗客しか居ないように見えた。鬚も剃らず、シートベルトのかかる右肩辺りだけが擦れたスーツを着ているくたびれた俺は、さぞ場違いに見えていることだろう。

 密集して熱がこもった車内に、足元から上がってくる温風が追い打ちをかけて気分が悪くなりそうだった。
 短い時間で乗り換え駅に到着するのがせめてもの救いだ。1月の冷え切った外気で正気になり、再び押されるように乗り込むことを2度繰り返した。

 西早稲田駅を降りて新宿営業所に到着したのは9時56分だった。予定通りに会議が始まるなら残り4分だ。会議が早く終わることも考えられるし、長居するほど目立ってしまう。
 梅島から連絡が来たらすぐに行動に移ったほうがいい。

 営業所の前に設置してある自動販売機でホットコーヒーを買い、必要以上に熱い缶を冷ますかのように手の中で転がして立っていた。事務所や車庫からは塀に隔たれて見えない位置だ。

 携帯電話を取り出してアプリを起動し、GPSが機能していることを確認した。問題ない。
 
 画面に梅島からのSMSが通知された。

「会議開始、所長出席」

 時刻は10時きっかりだった。

 缶コーヒーを右手で持ちながら営業所の敷地内へゆっくりと入って行った。昨日の乗務を終えて帰庫したドライバーたちが車庫で洗車をしているが、まだそれほど台数は多くなかった。

 湯気が出ていないところを見ると冷水で洗車をしているようだ。日陰で洗車をする者には辛い作業だ。同期の者が居ると厄介だったが幸いなことに知った顔は見当たらなかった。
 2階建ての事務所の脇にある駐車場に、梅島が教えてくれた黒色大型高級ミニバンを確認した。

 乗務員の自家用車での出勤は認められていないため、そこに駐車されているのは役職や事務員の車だけだ。5台分のスペースしかなく全て埋まっていた。これが所長の車に間違いないだろう。
 所長と会った時、応接室に向かう途中に会議室があったことを思いだし、事務所の2階を見上げて位置を確認した。まずいことに駐車場の真上が会議室だ。会議中に窓から外を眺める者は居ないと信じるしかない。

 気をつけなければいけないのは洗車をしているドライバー達に注目されることだ。洗車をする車庫と駐車場は少し離れているため、ドライバーが用もない駐車場辺りを歩いているのは不自然だった。
 同じ制服を着ているにしても人数の少ない営業所では目立ってしまう。

 俺は左手で携帯電話を持って耳に当て、電話をしている振りをしながら駐車場へと向かった。右手に持った缶コーヒーをこれから飲むように振ってみせながら、ゆっくりと歩く。
 1階の喫煙所から外を見ている者が居た。一瞬、俺に視線を合わせたが、すぐに灰皿に目を向けた。不審がられてはいない。

 所長の車の後ろに回り込み、缶コーヒーを地面に置いてジャケットのポケットからGPS発信器を仕込んだキーケースを取り出した。
 すぐに地面に仰向けになりバンパーの下に肩甲骨の辺りまで身体を潜り込ませた。大型ミニバンの車高の高さが幸いした。
 下回りが新車のように汚れていないのは千葉の細かい性格によるものだろう。

 黒く塗装された剥き出しのシャーシを指先で静かに撫でてみると少しざらついているだけで、金属の冷たい感触が伝わってきた。ここがラバー素材で塗装されているとマグネットが働かない。

 右手を伸ばしてシャーシの裏側にゆっくりとマグネットを近づけた。振動で作動する防犯装置が付いているかもしれない。強力なマグネットを付けるときは振動に気をつけないと危険だ。
 引っ張られるような感覚に抵抗してゆっくりと近づけると、シャーシにマグネットがしっかりと付きキーケースが固定された手応えがあった。

 身体を引き出そうとした時、近づいてくる革靴が見えた。スラックスの色と質感からドライバーが着る制服だと判断できた。
 振動を与えない様にゆっくりと身体を引き出した。

「何やってんだ?」
「これ落としたら転がっちゃって」

 俺は車から少し離れ、ジャケットについた汚れを払いながら、右手に持った缶を振って笑ってみせた。

 「所長の車に傷でもつけたら大変だぞ」

 初老のドライバーは呆れたような顔をして笑いながらトイレの方へと去って行った。

 駐車場を離れ出入口に向かいながら、俺は缶コーヒーを開け緊張して乾いた喉に流し込んだ。まだ充分温かい。

 ブラックだと思って買ったコーヒーは甘ったるい味がした。

 唯一のミスだな。

 ゆっくりと営業所を出て駅へと向かった。俺を見咎めみとがめて声をかけてくる者は居なかった。
 駅に着くまでに甘い液体を飲み干し、通り沿いの自販機のゴミ箱に投げ入れた。
 疲れ切った身体には悪くない味だった。


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