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友と呼ばれた冬~第44話

 あれから郷田の電話は鳴らなかった。

 大野は全ての始まりだったあのクレームの日のことを思い出していた。

 あの日、成田を送り届けたらそのまま仕事を切り上げて帰庫するように、千葉から指示を受けていた。
 事務所に入ると千葉の姿が見当たらなかった。当直の事務員に聞くと「応接室だ」と言われたので行ってみると、郷田と千葉が備え付けのパソコンの画面を見ていた。

「ノックくらいしないか!」

 ばつの悪そうな顔をした千葉が怒鳴りつけてきた。郷田はすぐに席を立ち、こう言って出て行った。

「あの女のことは気にすることないですよ、大野さん」

 その時は何のことかわからず、郷田がそこに居たことも大して気にかけていなかった。

「あぁ、ありがとう」

 今思えば、何気なく郷田に言ったその一言がいけなかった。

 千葉との面談を終えて応接室を出ると、郷田が待ち伏せていた。
 話があると言う郷田に着いていくと、成田のクレームは仕組まれたことで、まさか大野にまで被害が及ぶとは思っていなかったと、謝ってきた。

 周りに誰も居ないと言うのに郷田は芝居がかって辺りを見回してからこう言った。

「男手一つで娘を育てるのは大変だろ?これから金もかかる。客を脅していい稼ぎになる方法があるんだ、一枚噛まないか?」

 千尋を立派に育てると亡き妻に誓って頑張ってきたんだ。犯罪者になって千尋の人生を台無しにすることなどあり得なかった。

 考えるまでもなく断ると、郷田は人が変わったように豹変して罵った。

「お前も俺の敵なのか!さっきの言葉は嘘か!」

 郷田の騒ぎに千葉が駆けつけ、人払いをするとこう言った。

「仕事を続けたければ郷田の話は誰にも言うな。娘を路頭に迷わすなよ」

 優越感に酔いしれたような千葉の顔は今でもはっきり覚えている。

 所長も一枚噛んでいるのか。

 自分が厄介な立場になってしまったことを知った。
 ダメだ、絶対に俺はこいつらの仲間にはならない。所長と郷田の悪事を暴くことができれば……。

 念のため千尋を義母の家に住まわせて、注意深く社内に目を光らせた。
 千葉が事故でもクレームでもない車両からSDカードを抜いていることに気づいたのは、大野と同じように歌舞伎町を得意とする石井と喫煙室で一緒になった狂ったような暑さの夏の午後だった。

 その日、歌舞伎町から国立府中のラブホテルまで客を乗せた石井は、後部座席で睦み合うむつみあう男女の客のことを、ラブホテルまで待てないのかねぇと呆れたように愚痴を言っていた。

 石井がロッカールームに行った後タバコを吸い終えて出ようとすると、千葉が駐車場に現れて石井の車両からSDカードを抜き出していた。
 千葉はデスクに戻ると引き出しからUSBメモリを取り出し応接室に籠った。

 石井は事故やクレームがあった話はしていなかった。
 念のため、あとで石井に確認したが、軽微な事故もクレームも特別なことは何も起きていなかった。

 車内映像を抜いてUSBメモリに保管しているのでは?
 あの中に証拠がある。

 千葉のデスクからUSBメモリを盗んだ翌日の乗務中に無線室から予約のメッセージが入った。
 場所は瑞穂ふ頭。予約名は「大栄警備保障」だった。

 予約は時間と場所によって、確実に間に合う位置に居る車両に無線室が割り当てて配車される。
 数時間後の横浜の予約が何故自分の所に配車されたのか?

 不審に思った大野はすぐに休憩に入り、パーキングに車を入れて自宅へと戻った。
 USBメモリの中身を確認している時間はない。ノートパソコンとインターフォンの細工を済ませ、千尋へのメモを残して真山に託すしかなかった。

 迎車で到着した瑞穂ふ頭で待っていたのは郷田だった。

 真山さんなら見つけてくれる。あのUSBも、この場所も。

 
 入口のドアを解錠する音に大野は現実に引き戻された。

 冬の陽はすっかり落ちていた。ボロボロの遮光カーテンから差し込んでくる港内のオレンジ色の灯りに、ドアのすぐ下に横たえた脚立が鈍く光っていた。

 やり合う体力はない。とにかくここから出ることが最優先だ。

 ドアがゆっくりと外側に開いた。
 顔を出したのは千葉だった。

 電気のスイッチを押そうと室内に足を踏み入れた千葉は、大野が押さえていた脚立に躓いてつまづいて前のめりに倒れこんだ。

 大野は被っていた毛布を剥ぎ取ると、うつ伏せに倒れている千葉の頭に被せて馬乗りになった。

「な!なんだ?大野か!?」

 毛布の下からくぐもった声が聞こえてくる。
 倒れた拍子に千葉が持っていたビニール袋からペットボトルが転がり出ていた。

 思わず手にして千葉を殴ろうかと考えたが、暴力でやり返したら同類になってしまう。

「や、やめろ!わ、悪かった、大野。違う、郷田の指示なんだ、私はこんなことをしたくなかったんだ」

 大野の躊躇ちゅうちょを見透かしたように千葉が叫んだ。

 尻の下で暴れる痩身の男に虫酸が走った。何処までも保身に走るうす汚い男。

 両膝でうつ伏せの千葉の肩を押さえ、床に転がるペットボトルを拾い上げ、冷えた水を喉に流し込むと身体に少し力が戻った気がした。

 出るぞ、ここを。

 立ち上がってドアから外へと飛び出した。 
 千葉の怒声が聞こえる。

 新鮮な空気も開けた空間も今の大野にはどうでも良かった。ただこの忌々しい場所から出来るだけ離れたかった。

「大野!待て!」

 毛布を剥ぎ取ったのか、はっきりと千葉の声が聞こえた。
 恐怖で足がもつれそうになる。

 走っているつもりだったが、思うように足が動かない。見えない水を掻き分けるかのように大野は必死で、ただそこから遠ざかろうとした。

 すっかり冷えたコンテナに右半身をぶつけながら、寄りかかりながら、ただ前へと進み続けた。
 コンテナの角を曲がると遠くに守衛室とゲートが見えた。
 青い車が止まっている。
 あそこまで。あそこに。

 気がつくと膝をついて、必死で腕だけを動かし這っていた。
 タイヤが鳴る音が聞こえ、ヘッドライトが猛スピードで迫ってきたところで、大野は意識を失った。


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