見出し画像

Ⅰー27. 南部の女性捕虜と青年突撃隊:ホーチミン市(1)後編

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(27)
★2013年12月19日~12月29日

見出し画像:ホーチミン市枯葉剤被害者の会の表札

4.南部の女性捕虜

今回の調査では、女性捕虜だった4人の元女性女性革命戦士にインタビューすることができた。既婚者は⑥タムだけで、あとの3人は未婚である。

⑥タム(女、1950年生まれ)
南部ベンチェー省の出身。解放区で生まれ育ち、11歳で革命に参加。1967年にサイゴン市内で活動を始める。市内と戦区との繋ぎ役をしていた。1968年のテト攻勢第一波の時は、現在のホーチミン市第4区で戦闘した。第二波の1968年5月5日に捕まった。タムの小隊は12人で、部隊の服を着て銃を持って路上にいる時に彼女ともう一人が捕まった。第4区の警察に連行され、さらに取り調べ所支部に送られ、厳しい拷問を受けた。全裸で吊るされ、タバコの火をつけられたり、電気を手や乳頭に当てられたり、陰部にウナギを入れられたりしたが、革命に累を及ぼさないように部隊とはぐれて道に迷っただけだと言い張った。こわかったが、革命の利益を守り、自分の気概を保ち、家族に迷惑をかけられないとの思いが強かった。その後、本部で取り調べがおこなわれ、留置場に入れられた。1968年12月、軍事裁判所で「ベトコン」だと認定され、捕虜収容所に収監されることになった。解放区で捕まっていれば、すぐに捕虜だと見なされるが、タムはサイゴン市内で捕まったので、根掘り葉掘り尋問された。もしアジトをばらしていれば「ベトコン」だとして殺されていただろうし、ウソのアジトを教えても敵がそこで「ベトコン」を見つけられなければ同様に殺されていたであろう。

最初はビエンホアの収容所に入ったが、1969年3月にビンディン省クイニョンにあるフータイ(Phú Tài)収容所に送られた。ここは、南部で女性捕虜を収容する唯一のところであった(筆者注:男性の捕虜はフークオック島に、政治犯はコンダオ島に送られた。フータイ収容所は1967年6月に設立され、パリ協定による捕虜交換が1973年2月15日におこなわれるまで904人の女性捕虜を収容した。ほとんどが17~22歳の未婚女性。以上、Tuổi Trẻ Online,18-05-2022)。

収容所では、パリ協定に規定されている捕虜の扱いが守られていなかった。頭はシラミだらけだった。看守にレイプされ性病にかかった女性もいた。韓国兵にレイプされたことがあり精神的発作が起こす人もいた。敵に帰順した捕虜を使って帰順しない捕虜を殴らせることもあった。女性捕虜たちは改善のための闘争に立ち上がり、各種の相互学習もおこなわれた。1973年2月に捕虜交換でビンフオック省ロクニンで釈放された。その後、解放区に戻り、解放映画社に勤務したが、時々、発作が起きて、その時は男の人の力でも体の震えを抑えられなかった。同年12月に撮影カメラマンと結婚した。

⑦ミン(女、1948年生まれ)
市内クチ県の出身。1960年からクチと都心との連絡工作に従事。グエン・ヴァン・チョイ(Nguyễn Văn Trỗi)(筆者注:1964年5月、南ベトナムを訪問中のマクナマラ米国国防長官を暗殺しようとして捕らえられ処刑された)と一緒に市内に潜伏していたことがある。1964年、タバコに巻いた文書が発見され、捕えられる。まだ年少だったので釈放されたが、アジトが露見したので、市内工作からは外された。救急医療を学んだ後、1966年にクチの軍医療隊に派遣された。1968年、クチに枯葉剤が散布され、あたりは雨が降ったように濡れ、翌朝、森は雪が降ったように真っ白になった。同年4月、出張工作中に爆撃にあい、大やけどを負い、9か月寝たきりになった。1969年4月にクチに戻ったが、7月まで診療所は敵のレンジャー部隊から攻撃を受け、一緒の医師は死亡し、ミンは負傷し捕らえられた。

フータイ収容所では、帰順工作に従わないと気を失うまでなぐられた。たえず暴力で共和国旗への敬礼を強制させられたが応じなかった。80人部屋に130人が詰め込まれ、南京虫が沢山いて血を吸われた。体中に疥癬ができた。月経の時が最も苦しかった。苦しくて物が欠乏していたが、改善をはかり、団結して闘争した。有刺鉄線を鉛筆代わりにして、相互に学習した。帰順した人は多かったが、904人は帰順しなかった。

1973年2月に収容所の904人が一度にロクニン(ビンフオック省)で釈放された。捕虜交換時、最初の200人は女性服があったが、あとの人は男物の服しかなかった。飛行機から降りて解放旗を見た時は、二度目の人生だと感じ、嗚咽をおさえきれなかった。健康が回復すると、元の部署に戻った。

元女性捕虜だった4人

⑧ベー(女、1946年)
出身地不明。1964年に革命に参加し、最初は軍隊の衣服を仕立てる業務に従事。1967年から別動隊の工作に関わる。1968年のテト攻勢第一波から第二波にかけての時期、味方がサイゴン放送を攻撃して帰る時にロンタインでもう一人と一緒に捕まった。首都工作に行く時は、捕まった時に言う文句を用意していた。兄を探しに来たと言い逃れ、3日後に釈放された。その後、所属部隊と北部から来た人たちで第二波の準備会合があったが、ベーが捕まった時に白状しなかったということで、ベーの連絡ルートは維持された。

その後、医療の研修をバーリアで受け、第4中団の前方手術隊に配属された。1969年のテトの時、再び首都工作に呼び戻された。テト攻勢後、南部の別動隊勢力は壊滅状態にあったためだ。トゥードゥックの南で首都工作をしながら、医療工作にも従事した。1969年11月、米不足のため米を運んでいる途中で捕まった。

ドンナイの第2分庁舎へ連行され、さまざまな拷問(電流を体に流す、大量の水、トウガラシ水、石灰水を飲ます、ウナギを陰部に入れるなど)や虐待(虎の檻や暗い壕に閉じ込める)を受けたが、単なる民工だと言い張った。それから第3軍団の捕虜収容所へ連れていかれた。ここでは帰順者も一緒で、帰順者からいじめを受けた。

その後、フータイの収容所に送られた。帰順者と捕虜を別置するように要求して、約3か月、「陽ざらし」措置を被ったこともあった。食事の余った米粒を乾かして隠し、闘争に備えたりした。1973年に捕虜交換で釈放された。ベーは、戦場で捕まったので捕虜扱いになったが、自分の属していた省であれば(身元がわかって)殺されており、捕まったのが他省で幸運だった、と言う。釈放後、引き続き首都工作に従事。2007年に退職。

⑨ビン(女、1952年生まれ)
市内第9区の出身。1968年5月、革命に参加。解放区で低レベルの救急医療を学び、負傷兵の世話をした。1969年11月、敵はテト攻勢後に反攻し、トゥードゥックは激戦地だった。ビンは負傷兵と更地にいるところをヘリに発見されて攻撃され、負傷し、捕まえられた。ロンビンの病院に送り込まれ、米軍によって治療された。頭蓋骨が欠け、人工肛門が取付られる大怪我を負った。その後、ドンナイの第2分庁舎に連行され(ここでベーと会う)、取り調べ後、共和病院に送られた。

治療後、フータイの収容所へ。幸い、市の別動隊の人たちと一緒で、彼女らの庇護のおかげで生き延びることができた。また、革命の教育で意志が堅固になった。1973年に捕虜交換で釈放。釈放後、「点検」があり、収容所内での闘争成績により入党することができた(1974年)。現在も第1類の負傷兵で介護者が必要。頭の傷はよく痛む。2007年に退職。

◆元捕虜への待遇
タムによれば、恩給では収容所内にいた期間も工作期間に算入される。元捕虜は毎月70万ドンの手当を受給する(調査時)。あと負傷した人は負傷兵手当と非健康手当を受給。元捕虜への差別はない。互いに収容所内で何をしたか知っているからである。

★北部の男性捕虜については、Ⅰー21.ハノイ市にある「捕虜となった革命戦士博物館」:戦争の記憶の「社会化」、を参照していただきたい。

元女性捕虜4人と(ホーチミン市枯葉剤被害者の会の事務所にて)

5.南部の青年突撃隊

北ベトナムで青年突撃隊が創設されたのは抗仏期の1950年であるが、南部で創設されたのは抗米期の1964年4月である(「南部解放青年突撃隊」)。
北部の青年突撃隊については、Ⅰー4.青年突撃隊の元女性隊員の悲哀、を参照していただきたい。北部の青年突撃隊については、女性が隊員の大多数を占めていたこと、男性隊員は履歴上の問題があったこと、戦後、多くの女性隊員が結婚できないという社会問題が発生したことなどが主な点として挙げられる。

⑩ヒュウ(男、1949年生まれ)
南部ティエンザン省出身。郷里は一時占領地区。しかしヒュウの家は革命家族であった。ヴィンロン市の高校で学んだ後、1967・68年は解放区の生徒や低学歴者を教える教員となる。教科書はなく、識字教育が主。その後、解放区には南部二級師範学校ができた。1967年に結婚した。1968年に南部青年突撃隊に参加した時に妻は妊娠中で、子どもに会えたのは解放後であった。ティエンザン省団は青年に参加を呼びかけ、青年突撃隊の任務は戦闘奉仕と戦闘の2つであると説明していた。1965年当時、南部の解放勢力側の軍隊はまだ強力ではなかった。東南部では3個師団(第5・7・9)のみで、その頃の青年突撃隊の主要任務はその3師団への奉仕だった。ヒュウの所属部隊は第9師団の第2中団に奉仕した。主な活動地域は、東南部、カンボジア東北部であった。

南部の青年突撃隊にも制服は一応あったが、北部のものより簡素で、布をサイゴンから買い、カンボジアから服を送った。青年突撃隊は軍隊の後方支援が主な任務であるが、南部の青年突撃隊の場合、戦闘に参加することもあった。1968年のテト攻勢第一波では、青年突撃隊もサイゴンでの戦闘に加わり、多くの人が犠牲になった。また戦闘時、青年突撃隊は負傷者の搬送もおこなった。ヒュウ自身は、テト攻勢第一波の時は地方にいて参加しなかったが、第二波の時は参加した。

隊員の過半数は女性で、生活費のみ支給された。支給されないこともあり、歯磨きや石鹸などを購入できただけであった。輸送は運搬用自転車を使った。プノンペンで売っているフランス製のものを改良し、500キロの荷物を運ぶことができた。米の運搬をしていたが、食糧不足で空腹の時もあった。武器は、AK、B40で、時には迫撃砲もあった。

ヒュウは1970年に負傷し、治療中に部隊や家族と連絡が一時途絶えたことがある。家族は死んだと思い位牌を作り、妻はあやうく他の男と再婚するところであった。1971年にはカンボジア領内のラオス国境地方まで行った。国道9号線・南ラオス作戦(1971年)の時、メコン川西側で南部補給用の自動車道路を建設した(ラオス国境からコンポンチャムまで約200キロ)。1972年、米軍撤退をにらんで、ほとんどの隊員は武装公安に配置換えになった。ヒュウは青年突撃隊に残った。彼の部隊は捕虜交換者の受け入れを任務とし、ヒュウは捕虜たちを対象とする文化補習学校の教員となった。1974年はサイゴン近接地区で活動し、1975年のサイゴン解放には大隊長代行として参加した。

解放後、第3区を接収した。それから第5区の役人となり、その後ホーチミン市の裁判所に異動し、1985年に同市民事裁判所の副所長や所長を務め、1999年には最高裁判所判事となった(2009年まで)。

⑪ティエン(男、1944年生まれ)
市内クチ県出身。1959・60年に地方工作に参加し、見張り、伝単配り、文書運びなどをしたが、最も多く参加したのはトンネル掘り(クチ・トンネル)。とりわけ1962・63年頃。昼間はふつうに働き、夜に集まりトンネル掘りをした。トンネルは最初は秘密壕であったが、それらと防空壕をつなぎ、外から出入りできるようにした。トンネルは民たちが掘ったが地表への出入り口は幹部がつくった。掘った土は森の中に薄く撒いた。田んぼに捨てると敵に発見されてしまうからである。

1964年、サイゴン政府の徴兵を逃れるため、青年突撃隊に参加した。最初、タイニンに行き、南部の青年突撃隊の設立大会に出席した。この大会にグエン・チー・タイン大将が出席し、青年運動として北部での「3つの準備運動(①戦闘、②武装勢力入隊、③祖国が必要とすることは何でもし何処にでも行く)」にならって、南部での「5つの突撃運動(①敵の力を大きく削ぐ、②従軍しゲリラ戦争に参加、③民工と青年突撃隊に行き、前線に奉仕、④政治闘争し、徴兵に反対する、⑤農会での農業生産)」を発動した。青年突撃隊成立以前は民工(軍事物資の運搬などに従事)しかなく、ティエンも何度か民工に行っていた。

米軍の本格的介入が始まると、青年突撃隊はさまざまな物を運搬し、時には軍隊に先行して壕を掘り、戦死者・負傷兵の搬送をした。軍隊と似た制服はあったが、多くは支給されず、自前の服装をしていた。1970年、カンボジアで敵と交戦し、爆撃であやうく部隊ごとやられるところだった。死と直面しても恐れたり逃げたりした人は少なかった。ジャングルで一番怖かったのは、マラリア、ヘビ、飢えであった。思いやり、助け合い、同隊の情がなければ生きていけなかった。

ゴ・ディン・ジェム政権への嫌悪感があった。アメリカが来て、多くの女性が売春するようになった。「平定」計画の時、サイゴン政府は農民に土地か命かの選択を迫った。南部の農民は土地を失うのをよしとはしなかった。

1972年に青年突撃隊の隊員の多くは武装公安に転じたが、ティエンはとどまり文化補習学校の教員を務めた。その後、ホーチミン市共産青年団で工作し、新経済区建設への動員をおこなった。現在(調査時)、ホーチミン市第6区青年突撃隊元隊員会の主席。

ティエンによれば、戦争中に犠牲となった元隊員の30%はまだ遺骨が見つかっていない。捜索するための正確な名簿と地図がなく、関係者の記憶だけが頼り。北部では、遺骨が見つかっていなくても、部隊や青年突撃隊に行ったことをみんなが知っているので、烈士の家族だと認定される。しかし南部では、明確な物証がないと認定されない。

ホーチミン市の街頭

⑫ホアン(男、1948年生まれ)
南部カマウ省出身。1967年に青年突撃隊に参加。南部の青年突撃隊はふつう各省ごとに1個大隊があるが、死傷者などで不足になれば、他省から補充した。テト攻勢でサイゴンの部隊が不足したので、カマウ省から補充されてホアンは東南部に移動した。常にB52の爆撃の脅威にさらされていたが、特に1969年にビンフオック省に接したカンボジア領内の「聖域」にいた時が激しかった。ホアンの部隊の30~40人が爆死した。

1972年に男性隊員のほとんどは東南部で武装公安に転じ、女性隊員は捕虜交換工作に従事。女性隊員はその時に捕虜と知り合い結婚する人が多かった。そのため北部の女性青年突撃隊員と異なり、未婚率は5~7%と低い。1972年にホアンは「青年」紙に異動。1977年に解放映画社に移り、2008年に退職した。現在(調査時)は南部解放青年突撃隊連絡委員会・副常務。

⑬スアン(女、1949年生まれ)
南部カマウ省出身。郷里は競合地区から解放地区になった所。1962年から革命に参加したが、最初は小児文芸隊。その後、師範学級で学びながら文芸隊と青年工作に従事。カマウでは枯葉剤散布で森が枯れていた。青年団が植樹をしても、また散布された。カマウ岬地方で2年余り教鞭をとった。1967年にチャン・ヴァン・トイ県にある青年突撃隊事務所に総合秘書として勤務。テト攻勢で1968年2月に東南部に移った。1Cのルートでカマウからカンボジアを通ってタイニンまで3か月かかった。途中、中隊長と副中隊長は、テト攻勢の第一波で味方の犠牲が大きかったのでビビり(bể)、家に逃げ帰った。家を離れ、空腹と爆撃が続き、ジャングルの中で寝る時はアリ、ヒル、トラなどが怖かった。スアンの隊はテト攻勢の第二波に補充された。

女性隊員はサイゴン川のほとりでとどまった。空腹だった。ヒルが沢山いて血を吸われた。西南部地方ほどではなかったが、東南部でも皮膚病は多かった。物不足で、特に水が不足した。

テト攻勢後の時期はとても困難だった。米はなく、緑豆、カボチャ、イモのみで、キャッサバがカンボジアから運ばれた。そんな困難にもかかわらず、誰も嘆かず、精神は高揚していた。青年突撃隊では一年に2着服が支給されることになっていたが、その通りに支給されることはなく、支給されてもボロボロだった。後にナイロンの服が支給されるようになり、早く乾き破れにくかった。

青年突撃隊も、戦闘死、病死、事故死、水難死、毒蛇による死など、多くの犠牲者が出ていた。テト攻勢後、青年突撃隊幹部が直接、西南部に行き、人員募集をおこなった。「東南部に行けば、電気や自動車がある」といった勧誘もあった。幹部には北部集結者が多かった。

テト攻勢後の敵の攻撃は熾烈だった。1969・70・71年を通して攻撃が続き、1972年になって弱まり、パリ協定後はかなり弱まった。1970年代初頭はカンボジア領内やビンフオック省ロクニン県で活動していた。B52の爆撃がすさまじく、半月ほど、部隊がちりじりになっていたこともあった。着るものもなくなるほど、何もなくなった。1971年の国道9号線・南ラオス作戦の時、青年突撃隊も戦闘に参加し、スアンの部隊は敵のグエン・ヴァン・ト大佐を生け捕りにした。同作戦中、青年突撃隊はマラリアのため、隊員の半分しか参加できなかった。ジャングルでは女の方が男より耐性があった。マラリアも女は男ほど熱がでなかった。

パリ協定後、青年突撃隊の隊員の一部は捕虜交換受入工作に従事することになった。スアンはその責任者となり、主にタイニンにいた。釈放された捕虜の衣服、食べ物の用意、医療上の世話、所属単位の確認などの業務をおこなった。なかには長い期間、治療しなければいけない人もいた。捕虜受入工作中に1975年の解放を迎えた。

解放後、コドック病院やチュンヴオン病院の接収に携わった。1976年より在勤しながら大学で工業を学んだ。卒業後、ホーチミン市医療局、サイゴン商業総公司で党工作に従事した。2005年に退職。2004年からホーチミン市の青年突撃隊元隊員会に参加し、現在(調査時)、同会の主席。

解放後、休日には各地方に出かけ、元隊員を探しに行った。生存している元隊員の所在はほぼ確認できたが、戦争中に亡くなった人の遺骨はまだ探し切っていない。1989年にその捜索を組織的に始めたが、これまでに収集できたのは400余りのみ。青年突撃隊総指揮委員会によれば、正確な数字は不明であるが、青年突撃隊の戦死者は約1000人だという。

スアンによれば、ホーチミン市青年突撃隊元隊員会は会員数が8000人以上。同市の会員で、枯葉剤被害者は100人近く、そのうち50人は補助を受給している。2009年4月以前に発症した人については、補助支給問題は解決しているが、それ以降に発症した人についてはまだ未解決。抗仏期・抗米期のほか、カンボジア戦争に参加した隊員が8000人以上いるが、手当支給対象になったのは600人余りのみで、まだ未解決。新経済区に動員された隊員も同様。

南部の青年突撃隊の男性隊員は、北部のように履歴上の問題があったわけではない。南部の隊員の特徴は、ほとんどの家族が行かせようとしなかったので、家を出奔して入隊したこと。そのため家族との連絡が途絶えた。スアンも解放後にようやく家族と連絡し、1967~75年の時期、家族はスアンの所在・生存を知らず、死んだと思っていた。

ホーチミン市青年突撃隊元隊員会主席(当時)のスアン氏

おわりに

(1)ホーチミン市では、1986年に退役軍人たちの自発的な組織「元抗戦者クラブ」が結成された。同組織は体制批判色を強めていったため、1989年に活動停止となった。同年、官製組織である「ベトナム退役軍人会」が設立され、ホーチミン市支部も1990年に設立されている。一方、「元抗戦者クラブ」は「抗戦伝統クラブ」と名称を変更し、体制批判的な色は脱色して存続した。現在、ホーチミン市においては、公認の退役軍人組織として、「ベトナム退役軍人会」と「抗戦伝統クラブ」の2つの組織が並立している。

(2)ホーチミン市では、2013年の調査時、5000人以上が枯葉剤被害者を対象とした補助を受給している。2005年にホーチミン市枯葉剤被害者の会が設立され、2013年時点で3000人余りの会員がいる。

(3)米軍の本格的介入が始まった1965年より、解放勢力側のサイゴン市内での都市工作が強められた。都市工作には、「兵運工作」、テロ、市民運動(学生運動、平和運動など)などがあった。

(4)南部ビンディン省クイニョン市にあるフータイ収容所は1967年に設立された女性捕虜収容所であった。ここには、パリ協定による捕虜交換が1973年2月15日におこなわれるまで、904人の女性捕虜が収容されていた。

(5)南部の青年突撃隊と北部の青年突撃隊には以下のような違いがあった。
・北部では抗仏期に設立され、南部では抗米期の1964年に設立された。
・南部では、戦闘への奉仕とともに、戦闘そのものも青年突撃隊の任務となっていた。
・北部では隊員の任期があったが、南部では事実上なく、解放までの長期間にわたった。
・共に女性が隊員の過半数を占めていたが、戦後の女性隊員の未婚者は南部では少ない。
・南部の男性隊員は、特に履歴上の問題があったわけではない。
・南部では、事実上、制服はあまり着用されなかった。
・南部では、家族と義絶して入隊する人が多かった。
                              (了)










この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?