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笹塚

「ダウンタウン」には、売れない時代がありました。

あれだけの才能です。40年以上の長きにわたり、お笑い界を牽引しています。すぐに売れたよね?そんなイメージが、なんとなく世間にある気がします。

事実は異なります。

デビューして数年間、彼らは大して売れていませんでした。

悩む2人のマネジャーを“勝手に”引き受ける
大﨑洋さんと松本人志さん、浜田雅功さんの出会いは2人が18歳のとき。NSC同期のトミーズやハイヒールが売れっ子となる中、会社にも舞台の客にも面白さをわかってもらえず悩む2人を見た大﨑さんはマネジャーを“勝手に”引き受け、大阪ローカルのラジオ番組、心斎橋筋2丁目劇場、「4時ですよ~だ」(MBS)など居場所を作って人気者にし、東京進出のきっかけを作りました。(東洋経済 2023/07/29)

くすぶり続ける2人の才能を導いたのは、吉本興業の元会長、大﨑洋さんです。「3人目のダウンタウン」と言われる方です。
大﨑洋さんは、こう語ります。

「『何で僕ら世間に評価されへんのですか』って、そのころ浜田くんが寂しそうな顔をしながら僕をにらむわけですよね。で、どこか頼って来てくれているわけですよ。『俺を頼ってくれるんや』といううれしさと『俺でいいのかな』という不安と。ひとりぼっちで何1つない中、がむしゃらに彼らの居場所を作ってこれたのは、やっぱり頼ってくれた喜びが大きかったでしょうね」 (東洋経済 2023/07/29)

ほぼ同世代のわたしの体感では、彼らの関西における人気のブレークとなるのは「4時ですよ~だ」という番組です。この番組が始まるのは1987年。ダウンタウンは結成して4年の月日がたっていました。

あの頃、吉本興業は「清水圭」と「和泉修」の若手2名を売ろうとしていました。圭修というユニット名だったと思います。それはもう露骨でした。一方で、松竹芸能は森脇健児、山田雅人を売ろうとしていました。ゴールデンの番組を持っていたと思います。

一方のダウンタウンはといえば、夕方4時という、中途半端な時間帯で勝負をかけます。勝算は高くなかった。でも、かえってこれが良かった。アイドル的な人気が沸騰するのです。「4時ですよ~だ」は社会現象となります。

「なんか知らんけど、夕方の番組がとんでもないことになっているぞ」という噂を知りつつ、やっとゴールデンで観ることができると思ったら、関西ローカルではなく、全国ネットでした。

くすぶっていた鬱憤を晴らすかのように、清水圭も和泉修も、森脇健児も山田雅人も、同期のトミーズなども、ダウンタウンは光速でぶっちぎっていきました。

その立役者・キーマンが大﨑洋さんだったわけです。

あっという間に、時代の寵児となったダウンタウンですが、わたしと共通点がひとつだけありました。

東京に住むことになったとき、わたしが選んだ街は「笹塚」でした。松本人志さんが、東京で最初に住んだのも「笹塚」でした。

笹塚は新宿に近く、下北沢にも近い。渋谷も遠くない。なにかと便利な街です。そのせいかどうか、松本人志さんに限らず、大物たちが好んで住む印象があります。

たとえば、リリー・フランキーさん。大ベストセラー「東京タワー~オカンとボクと、時々、オトン~」は、ほとんど笹塚が舞台の小説です。

電気グルーヴの石野卓球さんも、笹塚に住んでおられました。

「ダウンタウンが東京進出してきた時に俺、当時住んでいた笹塚のバーに行ったら、高須さんと松本さんが飲んでいたのよ。で、当時俺、一緒に住んでいた彼女に「ちょっと、家に帰ってCD、持ってきて」っつって。ちょうどうちらのファーストアルバムが出たばっかりの頃だったから。で、それを持ってきてもらって。「すいません。ちょっとプライベートのところ、申し訳ないんですけど。こういうもんなんですけど」って言ってCDを渡したのが最初で」(石野卓球)  ニッポン放送『ナイツ ザ・ラジオショー』

高額納税者になると、みなさん、よりグレードの高い街に引っ越すので、松本人志さんも、リリー・フランキーさんも、石野卓球さんも、今では笹塚の住民ではありません。

しかし、みなさんこの街でブレークしたのは確かです。

わたしは密かに笹塚は、大物を輩出する「幸運の街」ではないかと思っています。もし、東京に出ようとしている若者に、オススメの街をきかれたなら、こう言います。

 「売れたいなら、笹塚に住め」 

世間的には「ボーリング場」が有名な、地味な街なんですけどね。

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