カナイと八色の宝石⑯
『じゃあ、そろそろ行こう。お嬢さん』
水面に大きな波紋だけが残されたところで、アークが口を開いた。
『通気溝は慣れているから、任せておくれよ』
『下調べも、ばっちりさ』
二匹のネズミは胸を叩くと、カナイの前を歩き始める。カナイは四つんばいになって、ネズミ達の後を追った。通気溝の中は暗くて、カナイの片手で届く範囲くらいしか見通しが利かない。それでも直線が多く、分かれ道ではネズミが待っていてくれたので、迷うことが無かった。
『入ってきた穴は、地下一階。坊ちゃんの部屋は、三階にある。かなり上ることになるけど、がんばって付いてきなよ』
アークの言葉通り、カナイ達は片手では足りない数の坂を上った。平坦な道と上り坂を、何度も何度も繰り返す。それでも、坂道自体はどれも短いものだったので、カナイの息が上がることも無かった。
疲れはしないが単調な道にカナイが飽きてきた頃、ようやく光が見えるようになった。更に進むと、そこは突き当たりで、壁の隙間から灯りが漏れていた。
『ここが、坊ちゃんに与えられた部屋だよ』
カナイは隙間から部屋を覗き込んだが、天井しか見ることができなかった。そんな彼女の鼻の頭を、オークが小さな手で押す。
『はい、退いた退いた。通気溝の突き当たりは、ネズミ対策で全部ふさがれているのさ。僕達には、意味が無いけどね』
オークは先が欠けた耳を動かしながら、首から提げた赤い石に触れた。
『これが、赤い石の力さ』
オークが突き当たりの壁を押すと、あっさりと壁は向こう側へと落ちてしまった。
『赤い石は、力の石なんだ。で、青い石は、浮遊の石。と言っても、その場に浮かんで、木の葉のように揺れながら落ちるだけ。どうしてか、青の石は特に難点が大きいんだ。神様がさぼったとしか言いようがないよ』
手のひらを天井に向けて首を振るオークの肩に、アークの手が乗せられる。
『神様は自分の羽で飛べてしまうから、浮遊がいかに貴重な力か、お分かりじゃなかったのさ。移動には向かないし、お目当ての所に着地できないのが難点だけど。高い所から降りる分には大いに役に立つよ。さあ、お嬢さん。手に僕を乗せて』
カナイは言われるまま、アークを手の上に乗せた。
『じゃあ、僕に付いてきて』
オークが、穴の向こう側へと足を踏み出す。オークは花びらのように、宙を右へ左へと舞いながら下りていった。オークを見守っていたカナイは、穴から床までの距離を目の当たりにして、唾を飲み込む。
『こんな小さな石で、本当に大丈夫?』
顔を青くするカナイに、アークは片目をつむった。
『大丈夫さ。創造主は全ての宝石に平等に力を分け与え、宝石は全てのものに平等に力を使わせてくれるんだ。色によって、触らないといけなかったり、時間制限があったりっていう制約はあるけどね』
カナイは一度、大きく深呼吸をした。手の上のネズミが、カナイの手に小さな青い石を押し当てる。カナイは穴に片手を掛けると、意を決して体を押し出した。カナイの体はふわりと浮かび上がって、十本のろうそくが刺さった灯りの下まで移動する。
「う、浮いたっ」
カナイが下を見ると、目を丸くしているシュリと目が合った。シュリは長袖の白い上着と、足首まである黒いズボンを身に着けている。白い上着は光を淡く弾く素材のようで、カナイが左右に舞うたびに波のように色合いが変わる。シュリの銀の髪は、きちんとブラシで整えられているようで、艶やかにきらめいていた。
カナイはシュリの前に降り立つと、ほほ笑んだ。
「王子様みたいだね、シュリ」
シュリは少し頬を染めながら、首を横に振った。首から提げた白い石も、同時に揺れる。
「カナイは、新しい友達を作ったんだね。通気溝から入ってくるなんて、驚いたよ」
「ネズミの通り道なんだって。いろいろ助けてもらったんだよ」
カナイの手の上に立つネズミを見ていたシュリは、眉を寄せてカナイの足元を見た。
「あれ? カナイ、裾が濡れてるけど、どうしたの? 着替えた方が良いんじゃない?」
カナイは思わず、この城にある服を想像してみた。シュリやシヤークがはいている長ズボンか。護衛が着ている鉄の鎧か。シュリの母親が身に着けていた、つま先まで隠れる長いスカートか。どれもこれも動きづらそうで、カナイは顔をしかめた。
「うーん、止めとくよ。早く元の世界に戻れば良いんだし」
手の上に乗っていたネズミが、カナイの腕を伝って肩まで移動する。逆に、肩にとまっていたチチが羽ばたいて、シュリの頭の上を越えた。
「ごめんね、シュリ。借りるよ」
カナイは爪先立ちをすると、シュリの首に手を回した。いつもは太陽の匂いをまとわせているシュリだが、今は咲き誇る花の香りがする。カナイは息を止めて、シュリの首から白い石を奪った。
白い石を手にしたカナイが、シュリから一歩距離を置く。それでも、シュリは動かなかった。
「本当に、ごめんなさい」
白い石を奪ったことだけではなくて。シュリに頼りっぱなしで、でも感謝もせずに当たり前だと思っていたこと。この世界に帰らなければ良い、と本気で願っていたこと。いろんな意味がこもった、ごめんなさい、だった。
カナイはシュリに背を向けると、部屋を出て廊下を走り出す。一筋の涙が頬を伝い、カナイは強く頬を擦った。
しばらくすると、チチとチチに乗ったネズミが追いついた。シュリが動けなかったのは、オークが黒い石の力を利用していたからだ。
『さっきは、ありがとう。おかげで、手に入れやすかったよ』
カナイは手にした白い石を、オークに見せる。オークは小さな手で、鼻の先を擦った。
『あれくらい、お安い御用さ。それより、お嬢さんは長い距離を走るのが苦手なんだろう? この子から聞いたよ』
チチの頭をなでるオークを、カナイの肩に乗ったアークが見上げる。
『そいつは、困ったな。物置までは、あと二回、階段を上らないと……ああ、そうだ。お嬢さん、前方にある右手の扉に入って』
ネズミの抜け道だろうか、と思いながら、カナイは右手の扉を開けた。部屋の中に入ると、そこはシュリの母親の部屋だった。シュリの母親は何が起こったのか分からず、口を開けたり閉じたりしている。
『うーん。本当はシヤークが適当だったんだけど、仕方ないね』
アークはカナイの肩から飛ぶと、青い石の力を借りて床まで舞い降りた。ネズミの足が隠れてしまうほど毛足の長いじゅうたんの上を走ると、シュリの母親の前に立つ。シュリの母親は短く悲鳴を上げて、半歩後ずさった。
『悪いけど、ちょっと姿を借りるよ』
アークは紫の石を手に持つと、シュリの母親との距離を詰めた。逃げ切れなかった足先に、紫の石が押し付けられる。途端に、紫色の光が石から零れだした。
『あれ、どうしたの?』
コート掛けにとまっているチチをカナイが見上げると、チチの背中の上にいるオークが片目をつむった。
『紫の石の力が発動したのさ。見ててごらんよ』