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小林秀雄を追いかけたs2            小林秀雄と純粋記憶編e1 

 近頃、ベルクソンの純粋記憶について考えている。此は、その時点でのぼくの解釈を綴る為、シリーズ化する。

 母が死んだ数日後の或る日、妙な体験をした。仏に上げる蝋燭を切らしたのに気付き、買いに出かけた。私の家は、扇ヶ谷の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見た事もないような大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考えから逃れる事が出来なかった。
 以上が私の童話だが、この童話は、ありのままの事実に基いていて、曲筆はないのである。妙な気持になったのは後の事だ。妙な気持は、事実の徒らな反省によって生じたのであって、事実の直接か経験から発したのではない。では、今、この出来事をどう解釈しているかと聞かれれば、てんで解釈なぞしていないと答えるより仕方がない。という事は、一応の応答を、私は用意しているという事になるかも知れない。寝ぼけないでよく観察してみ給え。童話が日常の実生活に直結しているのは、人生の常態ではないか。何も彼もが、よくよく考えれば不思議なのに、何かを特別に不思議がる理由はないであろう。     小林秀雄「感想」より

 印象的な冒頭で始まる小林秀雄さんの感想。此を認知科学の知識を基に考えていく。

 自由意志は幻想であるというのが、現在の科学の回答である。因果的決定論によって決定されている。しかし、今これを行っているのは、自分が意識しているからだというのが、一般的な感覚であろう。しかし、自由意志は私が私であるという認識が無ければ意味をなさないのではあるまいか。自己同一性は、あの時、確かにコーヒーを飲んだという事情とそれを経験したという記憶が無ければ保証されないし、それは自分にしか、分からない。あとは、社会的な認識である。あの人はAさん自分は、Bさんだという外部からの認識があるから、自分は自分であるという事が言えるのではないか。
《自己同一性という物語が無ければ、自由意志という幻想も意味をなさない》

 志向的クオリアとは、平たく言えば経験に意識的であるということだ。それは、あくまで痕跡であり、その時自分が置かれた状況、場所、年齢、などに想起したもから得られるものは違ってくる。志向的クオリアは鮮明なようで、そうで無い。例えばAM.7:00にコーヒーを飲んだ、飲み終えて数秒後舌に軽やかでなお主張が強い苦味を感じた。どう表現したら良いか何とも言えない感じがしたという、心理的現在に於ける感覚的クオリアのビビットネスとは違う。あくまで抽象化されたものだ。小林さんは、外套と釘と例えられた。経験「事実」=外套、記憶=釘というとである。脳が無くても記憶はあるという、一見謎めいている主張は、それをしたという事実があり其れは決して動じない。脳の記憶は想起するためのものだという事だ。
 1秒前の自分と今の自分は、違う存在である。何を言っているのかという人もいるだろう。では下の図を見て欲しい。

 寝る前の私と起きた後の私は、同じか?また例えば、Aさんが死にました。10億年後宇宙の何処かでAさんと同じ性質のaさんが再現された。ではAさんとaさんは同じか?では寝る前の私は起きた後の私と話すことが出来るか?勿論存在する時間が異なるため話すことは不可能だ。では睡眠前後の私は別人という事になる。しかし、どちらも本質的には、同じであるという結論になるという。一卵性双生児の例を見てみると、同じ脳の性質でも、明らかに違う成長をする。また触れるもの場所などの諸条件も二人では異なる。仮に意識が一つだとしてもそうだと考えられる。
 《マッハの原理=ある物体の質量は、そのまわりの物体のすべての質量との関係で決まる。他に何も無い空間では、ある物体の質量には、何の意味もない》というマッハの原理をニューロン発火に当てはめると、《発火していないニューロンは、無いものとする》《認識はその時に発火していた全てのニューロンによって行われる。←相互作用同時性》睡眠中発火しているニューロンは、極微数である。従ってニューロン発火はしていないものと等しく、また死亡しているAさんは、勿論、生命活動が行われていないため、ニューロンは発火していない。
このことから10億年後にAさんと同じ発火パターンが再現される可能性がゼロで無い以上、睡眠を挟んで心が蘇ることを、死ぬとは呼ばない以上、私は原理的には決して死ぬことはないということになるらしい。考えてみると確かにそうだと解せる。しかし、まだ本質では無い、考え抜かれていない問題が存在するらしい。
小林さんの感想の冒頭、おっかさんは今、蛍になってるんだというのは、そうだったという事実がありその時の鮮明な経験はもう存在せず、想起したとしても、あらゆる諸条件によりどう捉えるかは異なるということだと考えられる。      
 

 
 


 

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