父であることと「愛すること」の難しさ 朝ドラらんまん感想・1 

らんまんの総括感想を残しておこうと思う。

と簡単に言ったが、複数の要素が絡み合いながら紡がれた物語であったので、「総括」なんてするのは不可能だろうと言うことを最初に記しておく。
歴史的背景や思想的な面も、私には知識不足なのだけれど、オンタイムで観ていて心を揺さぶられたその事実について今書けることを残そうと思う。
(と共に、これから書く内容は、きっと(私の周りのSNSを見た限りの)大多数の評価とは全く違う部分を含むと思うけれど、個人的な感想として読んで頂きたいと思う。)



まず、私が主軸として観ていたのは、主人公・万太郎が「権力」(国・力)に対抗し続けるというテーマである。

明治時代全体の描写に、ドラマは大幅な時間を費やした。江戸時代からの文化や価値観、やがて大正・昭和と戦争の時代へつながってゆく根幹、それらが絡み合う大きなうねりの中での、学者たちのそれぞれの闘争。
そして、その大きな流れの中で万太郎が主張し続けるのはひとつだ。「生きとし生ける者は皆平等である。」

現代を生きている私たちには、当たり前すぎる・そして普遍的なメッセージかもしれない。

しかし、新たな秩序体系を作り上げようとしていたこの時代において、それはどれだけ異質なことであったか。

私がここで書いた秩序体系とは、天皇を頂点とした巨大な家制度である。
天皇制ナショナリズムが、時代を大きな大戦へと突き動かしていったこと。「天皇制」の言葉は一字も登場しないこの物語において、それは不気味な「構造」として常に立ちはだかっていたように思える。
(「国の仕事」で忙しい田邊、「制度」と学者としての矜持との狭間で潰されそうになる徳永。「台湾語を使うな」と命令される万太郎・・・徳永については、三首の和歌と共に詳しく考えた記事をひとつ前に公開している)

万太郎は、「構造」を構成する権威も社会的ステータスも撥ね退け、常に個人であらんとする。「個」であらんとする欲求のため、時には生活するための金すらも撥ね退けてしまう。家父長制で成立する「構造」の否定は、「父」であることの否定でもある。

「園子」の名づけのシーン。身重の寿恵子に生活の全てを任せ、自分は自分のやりたい採集旅行に出かけている。どんな名がいいだろうと、自己満足とも言えそうな(ロマンティックな詩のようでもある)名を連ねた手紙をたくさん送って来る。
愛するひととの愛する子供が生まれたとき、万太郎は「父」であれない。この両面性。


一方、この物語の女性たちは、皆生き生きと、時代が強要するものを打ち砕く。

ヒロイン・寿恵子を始め、女人禁制とされた酒造りを成し遂げる綾の姿も大きい。他の女性キャラクターたちも、皆「個」を力強く持つ人々として描かれている。男性たちが、「大きな力」に多かれ少なかれ振り回される中、女性たちはそこから外れた自由な強い風のように吹きわたったようにも思う。
(「良妻賢母」との闘争や葛藤があまり描かれなかったかったからとも言えるかもしれない。これは意図的である気がする)

特に、寿恵子のキャラクター造詣はすごいと思う。

自分の人生を自分で歩んでゆくのだ!という現代的な女性観に、江戸っ子気質を綯い交ぜにした気持ちの良さがある。
寿恵子の切れる頭や、語りの軽妙さ、博打打気質に見得の切り方なんかは、(これはちょうど読んでいたばかりだから個人的に思うのだろうけれど)平賀源内をも想起させる。
(源内も本草学者として図鑑の刊行を欲望していたらしい。果たせなかったそれは源内の「大願」であったのか否か・・万太郎と寿恵子は、ふたりで平賀源内なのかもしれない。なんて考えると少し楽しい。)

そして、寿恵子が活躍した花柳界という場所である。
一面に、国のトップが集う華やかで文化的なものすごい場所であり、また一面に、ドラマ内でも描かれたような(徳永が万太郎に「水商売をする妻」への抗議の手紙を見せたシーン)世の中の観方も確実にあった。
上記に書いたような、このドラマにおける女の強さには、こういう下地がある。「良妻賢母」との葛藤、寿恵子には大いにあったであろう。「描かれなかった」けれど。

強く逞しく、活き活きと自分の仕事をすすめ色気を増してゆく寿恵子が、大仕事を終えるとふっと万太郎の肩にもたれる。あの描き方も好きだ。
彼女は決して、かっこいい自立したひとりの女性ではない。夫を支える献身的な妻なんかでもないのだけど、ふたりの「冒険」をつなぐものには「情愛」がある。情愛としか呼べないようなもの、湿度があり甘やかで少し苦しい、逃れられない「運命」のようなもの。
それは例えば、歌舞伎や浄瑠璃で描かれるような男女の「情」の世界にも通じるような気がする。悲恋や怨念に陥らないものとしての物語の描かれ方。


万太郎は「父」であることを、寿恵子と共に、園子の死をきっかけに受け入れてゆくのだと思う。
ただただ健やかに生きてほしいという名をつけた「千歳」の名。

「名をつける」ということ(発見し詳しく調べその存在を認める)の愛情と、その行為の持つ特権性。この両義性が「父」ということの難しさだ。
特権性は時に暴力となる。「愛すること」が「力」に変質してしまう。

「愛する者を"適切に"愛する」、この時代の家父長たちが持っていたのであろうその難しさ。
思えば、「私のものになりなさい」と言った田邊のあの言葉も(自らの欲望もあろうが、才能を保護したいという一心もあったであろう)、「愛」が「力」になった瞬間そのものなのではなかろうか。


「力」は、科学技術の発展と共にも表出する。
人間のコントロールできないエネルギーを持つ「自然」と、人間は共生してきた。畏れと恐れをもって、信仰と共に生きてきた長い歴史がある。

自然科学の発展は、それを解明しコントロール下に置こうという傲慢も伴う。「合祀令」に対置された、万太郎が守ろうとした「森」と信仰は、そうした人々の営みと自然への畏れそのものだろうと思う。
体系的な大きな信仰、の真逆のもの。名のないこの国のたくさんの「神さん」たちである。


「構造」に対抗し続ける万太郎は、最後に理学博士となる。才を持つ者の責務として。「父」の両義性、「愛する者」としての責務。


そう考えると、ドラマのクライマックスの「図鑑の完成」は、暴力性も責務もすべて引き受けた「父なるもの」の「愛」そのものなのだ。
生きとし生けるものの、その生命の平等を担保する仕事。ここに載る植物だけではない、未来に開かれた新種たちの予感。
万太郎の眼で描かれ、等しく並べられた図鑑の植物たちは、まるでこの物語の登場人物たちと人生のようでもある。


図鑑の最後の「スエコザサ」の愛情たるや。
それを共に歓び、受け入れてくれる彼女の存在があってこそ、その愛は成立する。

寿恵子は万太郎がいたからこそ、冒険の旅に出た。でも万太郎も、寿恵子に出会ったからこそ、自分のやりたい「草の道」を進もうと決めたのだった。
最終話、綾と竹雄の「輝峰」を「おいしい」と呑んで酔う万太郎を観て思い出したのだった。万太郎と寿恵子の出会い、木に登った「蛙」の王子様は酔っぱらっていたのだった。
あの時の「運命」が(あの夜の、金色の屋台のひかり!蘭光先生の「金色の道」に反射するようなあのひかり)、時代が要求する「宿命」を否定し、冒険をひた走ったふたりの道を作ったのだなあ、心が熱くなるのである。


書き始めるとどうにもあちこちに脱線してゆく…Twitterで書いていた感想を見返すと、都度都度の話の豊かさが立ち現れる。「総括」という行為自体が取りこぼしてしまう、この物語の複層性と豊かさに改めて目を瞠る。

方言についてや、運命と信仰についても書いておきたかったので、それはまた別の記事で書こうと思います。

稚拙な文章をお読み頂きありがとうございました。

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