季節のない街について

ドラマ・季節のない街の最終回を観て

宮藤官九郎監督ドラマの「季節のない街」を、最終回まで観た。
ドラマで表現されているものをもっと知りたくなり、途中から山本周五郎の原作小説も、青空文庫で並行して読んでいた。

原作小説から受けた感想、ドラマとの差異をメモしながら書き残していた。
初めの方は感想の分量も軽い。前半、基本的に、ドラマは原作のエピソードに忠実に進行していた。
設定の変更が、徐々に「物語」そのものを変化させてゆく。設定という、物語の外枠の力が、「物語」を(制御不能な暴力性すら持って)侵食してゆくような、そういう感覚を受けた最終回であった。

原作は「たんばさん」の物語で終わる。「街」の人々の様々な感情を鎮めるたんばさんの力は、きっとこの「物語」を見つめていた力だな、と思わされる。原作の「街」は、貧しくしんどいけれども、そこに「終わり」はない。自然発生的な街(それがスラム街と呼ばれるものでも)と、震災からの「仮設住宅」が重ねられた意味が、最終回で見せられる。

原作の最後、「いま、われらの「街」は眠っている。」
たんばさんの「力」が及ぶ世界。

それに反した、ドラマの最後。
たんばさんは現実に屈する。
われらの「仮の街」は、「眠る」ことも「続く」ことも許されず燃え盛る。「解放」めいたものを表出しながら、これは決して「解放」なんかではない。人生は続く、ということを突きつけるように。

「燃える街」を実現したものは何であろうか。

それは、「失い続ける」タツヤという男への宮藤監督の深い憐憫からの独立したエピソードであり
自らの罪(リッチマン親子の死、街の人々への裏切り)と向き合うこととなる半助というキャラクターであり
(原作の半助が、淡々と物を語らず、しかし自らの仕事をまるで「神事のように」行うというのが印象的であった。「街」から連れ去られ二度と戻らない原作の半助と、ドラマの半助には、宗教的な「罪」の感覚が共通しているようにも思える。)
島さんとは何者なのか?という目線であり…
(原作には、「悪」に言及しない目がある)

架空の電車の運転手、物語の象徴の如き六ちゃんに、ショベルカーのレバーを握らせるこの「物語」の、この怒りに満ちたエネルギーであり。

かつ子を人質に反抗する子供たちへの、「とうちゃん」による救いの言葉は、(現代において忌避される)「家・イエ」の原理に基づいている。何も知らない他者が見たら、本当の父親の元で暮らすべきだと言うのだろうか?

この「街」の人々は、皆、「個の自由」も「解放」も、求めてなんかないように見える。

その一方で、(最終回に、こうしてドラマティックな「物語」の言葉を与えられない)血縁者である母と兄に捨てられたタツヤは、何を想っているだろう。捨てられた、けれど、この二人がタツヤの元に金の無心に来る可能性をありありと想像してしまう。これは、血縁があるがゆえに「切れない関係」
(復興住宅のくだり、タツヤに気がつくのは父親の違う妹)

タツヤの心の深い穴(それは「家族」が出て行ったあの寒々としたがらんどうの仮説の部屋にも似た)、この大きな穴が、ただじっと差し出されたような最終回であるようにも感じた。


小説・季節のない街を読んで

以下は、原作小説を読んでエピソードごとに残した感想。箇条書きのメモだけれどここにまとめておく。

このメモ書き一覧の後に、ドラマ全体感想をまとめて書いた。


⚫︎街をゆく電車
六ちゃん側の心情がドラマよりもわかりやすく描かれている。
「かあちゃんの頭が良くなりますように」

⚫︎僕のワイフ
・同僚たちの島さんへの感情 「男という同志として」

同僚が島さんの奥さんに対して怒る・あんな女は放り出すべきだ、と言うシーンには、当時の(1962年)「女房たるものかくあるべき」という感覚が大きく横たわっている。そして、そんな仕打ちを受けるなんて「同じ男として情け無い」という心底の憐憫があるように小説からは受けた。

現代で同じように書くのは少し難しいだろう。
同僚をかなり前時代的なジェンダー観の人間にしないと。しかし、同僚はあくまで、その時代観を自然に反映した人間像でなければならないように思う。普通の人間の、自然の善意。

ドラマにおいての同僚たちの描かれ方が、自分の不快感を第三者に吐き出す、という風になっていて、
原作においては「同じ男という同志の無念」的な文脈もあるけれど、そこがスッポリ抜けた現代的感覚で見ると、「普通の人間の自然な善意」は、すごくソリッドで攻撃的なものになるなと。私はドラマからSNS上の「攻撃」(「あれに対して怒らないお前に自分は怒っている!」)を想起した。同一の文脈が抜けた上での言葉のやり取りの持つ(持ってしまう)攻撃性に近しいものがあったからかもしれない。

このシーンには、同時に、島さんを自分より(自然に)下に見るという人間的心理も描かれていると思うのだけど、その感じもドラマ版の方が明らかではないかなと感じる。

⚫︎半助と猫
・ひっそりと静かに暮らす半助、神事のような、「人生に背負う重荷」
いかさま賽 博打打ち

・とらの権威、ビクビクする半助と対比されるように見せて。半助の「重荷」

⚫︎親おもい
・戦後日本。兄の描写 「特攻隊くずれ、などと言われたような若者のようだった」

・あとになって悔やむこと。「人間の人間らしいところ」

・兄・伸弥の境遇。十二のときに一人で疎開に出されている。兄と母と(亡くなった父との)特別な関係性。この時、辰弥(タツヤ)はまだ二歳。何も覚えておらず、辰弥は再婚相手の新しい父に懐く。この後に増える家族、新しい生活。
母の弱さ、だけではなく、母が兄に対して持っていた特別な感情が見える。

⚫︎牧歌調
・「賃上げストなんてたくらんだら」「すぐに五躰がばらばらになるような大きな事故がまってるぜ」

→「それどころじゃねえ、そんな暢気な場合じゃねぇ」

・親しくない
「同病者が寄り添うような、同じ犯罪者か互いを監視し合うような」

・主観的にも客観的にもなにもなかった、というよりほかになかったのであった。

⚫︎プールのある家
・息子、どことなく達観したような、または、多難な生活をしてきて疲れた大人のような、「枯れた柔和さ」

・グルメな設定ではないし、炊事された温かい料理もほとんど食べない
「それがどんな料理であるかは無関心」「無関心というより〜嗅覚や味覚や視覚を、できる限り他の方向へ集中することに努めているよう」

「冷食は健康のため」父の言葉

ドラマで描かれてタッパーの別は、鍋の別として小説に描かれている。グルメ、なわけではない。食を愉しむ豊かさ、ではない。人間としての尊厳の担保。

・食べ物を手に入れに行く息子がされる仕打ち(意地悪な女給、犬、ちんぴらの少年たち)

・プールのある家…アメリカ的な豪邸のイメージ?時代も反映しているのだろうか

・描かれ方はほとんど変わらない中、最後の墓(竹藪と枯木林に囲まれた空き地。)のシーン
小雨のけむる6月から、冷たい12月の雨

⚫︎箱入り女房 (ドラマ化されていないエピソード)
小説だけで読んだ感触は、落語みたいな可笑しさ。
しかし、その内実に、お客さんとの「そういうとき」に気をそらし続けていた、くに子の哀しい癖、辛い境遇がある。この物語は、こういう物語なのだなと感じる。

⚫︎枯れた木 (ドラマ化されていないエピソード)
・この街で戸締りをすると、何かうすぐらいことをしているのでは。とそしられ家の中を荒らされる。
「ここの住人たちにとって戸締りをしなければならないものを持っているということは、徳義に反するからである。」

・「強い意味の言葉が、あまりによどみなく語られるため、その強い意味を失って、しらじらと平板な感じしか与えないようであった」

・無視するでなく…
空洞のような眼、は、最後の章で、「なにを見るともなく、前方に広がる暗い空間をみまもる」眼となる

時間が許さないもの、が描かれている。
平さんの心、怒りの炎はもはや消えてその先に残るもの。茱萸の枯れ木は何でもないものにはならない。それは花も実もつけずとも、茱萸の木のままだ。怒りが消えてもなくなることはない。
最後の燃える炎に、平さんの心の揺らぎが見える。

⚫︎ビスマルクいわく (ドラマ化されていないエピソード)
・「現実は実に散文的なものだ」

・強き「国士」のこころは、戦争の悪い残り香ではなかろうか。国を愛するがゆえに憂う寒藤先生は、共産主義がいちばんに救わんとする存在でもある、という。皮肉、を越えた哀しさ。

⚫︎とうちゃん 
妻・みさお 「あーあ、まったく女なんてつまらねえものだ」
亭主関白や強き家長の「型」の真逆のこの夫婦の、真逆の妻が言う「女の苦しさ」
その口で言う、子供への「男のくせに、洗濯なんかしてさ」.

・「この「街」では、一杯の焼酎が、他の社会の背広一着に当る場合も珍しくないのだ」

・太郎だけは気づいてる、父の腕の傷は何か?

⚫︎がんもどき

・「がんもどき」と表現するのは実の母親

・「ここでは常に現在があるだけで」過去のことは感知されないのが通例であり

・自らの貧窮を利用されることへの怒り。敏感さ。
かなえに反感を持たないのは、彼女が自分たちと同種の人間だと気づいているから。
その裏面、皆はかつ子を憎んでいる。どんなに働いても報われないことを、彼女は体現してしまっているから。

・月明かりでかつ子の足は、「やわらかい厚みと、重たげな張りをもって」

叔父は、女っけがなく、今までもおたねやかつ子に乱暴をしたことはない、という設定
50を過ぎてピタッとやんだ。 女嫌いになった。

「微笑したようでもあるし、あざけったようでもある」

・罪と向き合えない叔父の様子

・語らないかつ子が、岡部を刺すに至る経緯がわからない
岡部がかつ子にしたことが、施しのようだったからか?上の議論につながるのか?
と思うところへ、最後のかつ子自身の言葉がくる
「死んでしまいたいと思ったとき、あんたに忘れられてしまうのがこわかった」
語らないかつ子の、強い自我と我儘

叔父が 「女ってのは、十五でも三十でも同じようなところがある」と言ったところのもののような
恐ろしい妖しい執着心が、ある。「忘れられてしまうのがこわかった」

・がんもどき、という蔑称 
かつ子の中の「女」
我が儘で生きること
キリスト教的な「清貧」が厭われるこの「街」において。誰も「赦し」を持たないこの「街」において。
(叔父は自らの罪を認めず行方をくらます)

・牧歌調の時に「何もなかったことになった」結末だったけれど、
かつ子の事件は何もなかったことにならないのだろう。真実を知るものがいない中で。

<ドラマを見て>

カツ子とオカベの最後の川辺のシーン、カツ子の独白そのものは唐突であるのだけど、
あの川の、濁った色と早い流れ、たっぷりと重い質量感が、物言わぬカツ子の行動の底にあった感情の重さをまさに表していると感じた。

オカベのギターと、「勝手にハモる」カツ子の姿は、ドラマバージョンならではの「物語」であろう。

「がんもどき」において原作との相違は、
・カツ子の行動を知らせるのが警察ではない(その場に偶然居合わせたタツヤ=この街の者 が知らせにくる)
・行方をくらませようとした叔父に足がつく(原作では行方不明のまま)
かなぁと。

かつ子とオカベ、その後。現代から再構成された「物語」による救済に思えたのだけど、どうだろうか。
(と思いながら、「街」が取り壊された後、かつ子は、"あの"母親に引き取られるわけである。最後に映された、垢抜けてきれいになりハキハキと働くかつ子をどう見るのか?オカベとの付き合いは継続しているだろう、とは思うけれど)

⚫︎ちょろ  (ドラマ化されていないエピソード)

ちょろの性質と、かぼちゃの性質
話し相手がいないことには耐えられないちょろが、しかし理想的な聞き役であるかぼちゃに「飽き」(飽き、だけなのか。相手が誰でも良いようで、自分の話を「面白い」と感じてくれないことには不服を感じている)
それで出ていってほしいな、と思うけれど、出ていかないかぼちゃの「本格的なかぼちゃ」の性質。
恐ろしいよな、利己的な人間を受け入れすぎる人間(そのストレスよりも自分が享受するものを重視する、より強い利己主義者であるということ)。ちょろは、自分よりも利己的な人間に恐れをなして逃げた、とも言えるのではないか。

冒頭の「愛他精神と利己主義を兼ね備えた即物的センティメンタリスト」が響いてくる。

⚫︎肇くんと光子 (ドラマ化されていないエピソード)

・なんとも気持ちの悪い話。蛇のような女、光子

「光子の場合は人にひけらかすというよりも、自分で自分の造話に酔っているようでもあった。」

・逃げ出したい、という夫婦関係。
はんにゃに「見える」

女の姿をした、怨念。という風にも見えてくる。光子、人間に見えない。
そうさせてしまうのが、肇の存在(受け入れる、引き込まれる)であるのだろうなぁと夫婦の不思議をも思う。

⚫︎倹約について (ドラマ化されていないエピソード)

これも残酷な話だ…あまりにもつらい

質素倹約、勤勉、温情、清潔
という、この「街」らしくない人間像だなという塩山家とおるいさん

長女はるの結核の際の考え方がこわい。
決して愛情がないわけではない、そんな単純な話ではない。「倹約」がべったりと人生に身体に思想に入り込んでしまっている。入院も特効薬も使わずに、この子がどうにか治癒しないだろうかと考えてしまっている。

「なにかの策略とか暴力によるものではなく」
しぜんとそういう結果になってしまった
「この家風は標準時計の針の如く正確に動き、正確にその数字を出したのだ」
「そこにはロマンスもなく、ユーモアもなく、人間味さえもなかった」

あまりにもつらい、この話の終わりは、残された主人慶三の「あいつはじぶんのいのちまで倹約したんじゃないかと思うくらいですよ、」という言葉で締められる。
この絶望感に、落語の下げのような言葉が来るのだ。この物語全体を示すような、突き放されたような不条理がある。なんというか、それは圧倒的な荒野だ。

⚫︎たんばさん

原作では全てを解決したたんばさんが、ドラマでは現実に屈するのか…
もう一話ある、というのが大きい。

原作とドラマとの差異
・熊(原作では吉)の暴れる要因がハムスターの自殺(「アメリ」の金魚の自殺を思い出すな)
・熊が、たんばさんに止められた理由を語る(「かーっとなって暴れたはいいけど、これどうおさまりつければいいのかって、見透かされた気がして」)
・原作で語られた、死ぬつもりで来たら「死にたくない!」となる人、が、タツヤの文脈と交わる。

この人の原作でのエピソード、実はたんばさん自身なのではないかなと個人的には思っていた。それはおそらく正しい読解ではないけれど、しかし原作の最後に配置される「たんばさん」の物語の、不思議さ・どこか据わりの悪い感じ、は、そういうことを考えさせた。

タツヤに「死にたくない」と言わせるのは何であったのか。愛せども伝わらぬ家族、唯一自分を認めてくれる亡き父親、信頼を裏切った友人。死の淵において「助けて!」と言える存在は、人生の意味など関係なくとも、自らを生に繋ぎ止める存在であると明言することはできるだろう。

ドラマ版において、「たんばさん」の力は「物語」の力を持たない。原作との差異はここにこそあるようにも思われる。
ここには、原作の、根本に潜む静かな諦観と、その温度・「それはそれで」として存続できた、かつての"自然発生的"な「街」と現代との差異があるように思われる。

だから、ドラマの「この街」は、期限つきでの解体・消失の危機に晒されるのだろう。


終わりに・ドラマと小説の差異を含めて

山本周五郎による、原作小説の「あとがき」が興味深い。
かつて作者が取材した「これらの人たち」と小説の中で「再対面」したという。「限りない愛着となつかしさを感じた」と。

1962年に新聞連載された原作小説。作者が観たのは、戦後すぐの日本に生きる人々であろう。その焼け野原からの復興、2年後に東京オリンピックを控えるのが小説が書かれた1962年だ。
文章はこう続く。「これらの人たちは過去のものであるが、現在もなお、読者のすぐ身ぢかにあって、同じような失意や絶望、悲しみや諦めに日を送っている人たちがある、ということを訴えたいのである。」
そして「ここには時限もなく地理的限定もない。」「きわめて普遍的な相似性がある。」と。

その相似性を現代へと引き延ばしたものが、ドラマ版「季節のない街」なのだ、と考えられるけれど
最終回までを観て感じた、この作り手による怒りのようなエネルギー(六ちゃんのショベルカーのような、制御不能さと言ってもよいのではないか)の所以は、「終わってなさ」にあるのではないか、と感じるに至った。

タイトルの「季節のない街」、原作においては「倹約について」にあった「この「街」においてはかなり稀な例だが、家族の衣服も季節によって変わった」が象徴しているように思う。その日を生きるのに精一杯な住民にとって、季節を感じる余裕などないというような意味で。

ドラマのタイトルは、少し違うのではないか、と感じた。皆同じように貧しくその日を生きるのに精一杯だけれど、この「街」は12年前の「ナニ」から時間が経たない。時間が止まってしまっているのではないだろうか。
(「枯れた木」の平さんにおいて描かれていたことに通ずるような)


ドラマ最終回、島さんの
「ここいいとこだけどユートピアじゃないからね。まともな人間、みんな出てくんだよ、こんなとこ。」という言葉の痛さ。

「出ていった」人々の時間は動き出したのだろうか。

考えても考えてもわからない。「物語」の中に置き去りにされた、タツヤと半助がいる。胸が苦しい。こんなに文章を書いても、まだ核心に触れられない。観られてよかったと思ったドラマでした。人生の折々で、見返したいと思います。

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