「自分は自分の人生の主人公だ」といった言葉はよく聞きます。きっと当てはまる人は多いのでしょうが、私にはどうもそうは思えません。どういうわけか、私の人生の主人公の座は常に私ではない誰かに奪われているような気がしてならないのです。この考えに至ったきっかけに思い当たる節はあるにはありますが、それだけで上下に分かれた2冊の本が書けてしまいそうなので割愛します。
自分が主人公になれないとはどういうことなのか、きっとほとんどの人が疑問に思うでしょう。私がどこかで嘆いたとき、ある人は言いました。成功し続けるだけが主人公じゃない。それはそうでしょう。当たり前です。私より不幸な人生を送って私より不幸に死んでいく主人公なんて掃いて捨てるほどいるでしょう。では一体どういうことなのか。実は私もまだ言語化することができていません。ただ、なんとなく主人公が自分ではなく周囲の人であるように感じられてしまうのです。
果たしてこれは悲しいことなのでしょうか。私は必ずしもそうではないと考えています。現に、私はこの、周囲の誰かを引き立てることしかない人生を、ある程度受け入れています。別に主人公でなくたって存在している権利はあります。存在がなくなったときの影響は一概には推し量れませんが、とりあえず私はこんな人生でも良いんじゃないかと受け入れられています。
ある人は言いました。他人に見るのは結局他人に投影された自分自身にすぎないと。私はこれに概ね賛成します。しかし、主人公性のような非常に根本的な性質の場合には恐らく成立しません。考えてみてください。自分が主人公で、他人はそうではないと考えている人と、自分が主人公なのではなく他人がそうなのだと考えている人がいたとしましょう。すると、自身と他との間で、主人公性が奇妙な逆転を見せることになってしまいます。思うに、このような根幹となる性質は、まるで減数分裂のように、他人に投影する像と自分自身に描く像とが異なってしまうのではないでしょうか。
ところで、先程私は「ある程度」受け入れていると言いました。そうです。時々、どうして私は主人公ではないのだろうか、なぜ皆は自分を主人公だと思っているのに私は違うのだろうか、私も主人公になれたら良かったのに、そんなことを思ってしまいます。まあ当然でしょう。主人公でないということは、単独で存在しても物語は成立しませんから、常に引き立てるべき「誰か」が必要で、決して自立することはできないということでもあるわけです。結果として、自分の存在を無条件に肯定する、いわゆる自己肯定感が生まれなくなります。ここが問題なのです。
どうやら、私には2つほど、著しく希薄な感情があるようです。1つは自己肯定感、もう1つは恋愛感情です。恋愛感情はなくても生きていけますし、妙な欲求から開放される分だけ少し楽になるかもしれません。まあ、世の中人間とは恋をするものだという前提が暗黙の了解として存在し、特に男性はより欲求を抱えているというなんとなくの雰囲気がありますから、差し引きすると生き辛さが少しだけ勝ってしまうのですが。ところが、自己肯定感はもっと残酷です。結局、どこまでも無条件に自分を肯定してくれるのは自分自身しかいないのです。自己肯定感を持たないというのは、その大黒柱を欠いてしまうことであり、自然と気持ちを絶望や諦め、死の欲求などと言った非常に暗い、負の方向へと向けてしまいます。
そういえば、この間たまたま見かけたので、「夜に駆ける」という曲に付随している短い小説を読みました。それによると、どうも人間は生を基準とする人間と死を基準とする人間の2種類に分けられるようです。私の場合、言うまでもなく後者です。振り返ってみると小学校の中盤にはほとんど冗談とはいえ死にたいと言っていましたし、今だって苦しんで生きたのをなかったことにはしたくないから何かを成し遂げるまで死ねないと思っているだけで生きていたいと強く思っているわけではないので、それは疑いようもないことだと思います。
もちろん、生と死、どちらが基準の方が生きにくいのかなど火を見るより明らかです。そんな生きにくい人生を私は今生きているわけですが、他人を見てしまうとその生き辛さは更に増してしまいます。他者に依存することでしか人生という物語を成立させることができないのに、直視することは出来ないのです。直視してしまえば、私と違って自立ができていて、そして主人公性の欠如もないのですから、私の持たないものを持っていることに劣等感を抱いてしまうもです。
……段々何が言いたいのかわからなくなってきました。とにかく、私は今、私の人生の主人公は私ではないということを受け入れつつあり、それとともに、それなら一体私は何者なんだという不安に悩まされているのです。正直、受験などという高尚な話題に立ち向かえるほど気持ちは安定していません。
ただ、他人の引き立て役として生きる人生もなかなか楽しいものではあります。色々な出来事を当事者ではなく第三者として見ることができますし、そして主人公たちに関する情報がたくさん得られます。それらを元に彼らの引き立て役としてより良い方向に導こうとするのは、ある意味駒を操って遊んでいるような気分にもなれます。当然、遊びと違って1つ1つの選択の重みは非常に大きいですし、失敗したら取り返しがつかなくなってしまうという危険性はありますが、それでもまあ楽しいものです。
ところが、どうも私はまだ主人公になる望みを捨てきれてはいないらしく、時として非常に自己中心的な思想を抱きます。例えば、「私に価値はないかもしれないが、私に価値を付与できない世界など存在する価値がない」とか、「たとえ価値がなくたって、それは生きていてはいけない理由にはならない」とか、他にも今思いつかないだけで色々なことを思っています。
このように、私は相反する様々な思考を同時にしてしまっていて、自分の思考に翻弄されて疲弊しているわけです。一体どうすれば良いんでしょうね。「孤独≒エゴイズム」という曲の歌詞にある通り、「世界救うとか考えたって、ねぇ、それよりアタシを救ってよ」という気持ちでいっぱいです。
私は、人間は自分と違う人間とは絶対にわかり合えないものだと思っています。多様性とは、自分には理解できない人間がいるということを受け入れることであり、他人を理解しようとすることではないと考えています。
さて、私はこれからどうなっていくんでしょうね。