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8.11

そろそろ生活をまた規則正しくしようとして、結局一度は夜中に目が覚める。それでもよく眠れたかもしれないという実感があった。

エゴマゾかどうか調べるのは簡単で、返事がすぐ来なくなるのがエゴマゾだし、返したくなくなる時はあたしにエゴサドモードが発動している。

毒親、という言葉があるが、あたしは毒親育ちではない。ただし、毒祖母育ちである。おそらく彼女は精神疾患も患っていたのだと今となると思う。彼女の性格は非常に支配的で、我が家は女系が強く女主人だったのもあり、家族が自分の意のままにならないと激しく暴れたり罵倒したり物を投げて破壊したりした。今から考えればDVであり、家族に対する洗脳であった。支配的で自分が地軸だとでも言わんばかりの彼女だったが、最後は家族の目の前で死んだ。思えば最期まで精神的な支配したかったのかもしれないが、その心理はわかるようでわからない。ただし、彼女の性格を家族の中で一番濃く継いだのがあたしのような気がしていて、ずっとそれが嫌だ。もう何年も、行動してみては「いまの態度は祖母のようだった」と反省しては血を呪う。毒祖母のせいだけではないが、幼い頃は家族は機能していなかった。その後、離散し、そして集合した。いい知恵をもっているはずの大人でも、どうにもならないことがあるのだと、子ども心ながらに思った。困ったことに何年かして、自分はACなのだと知る。
でもこれも、ある時に山を越えたなと思う。乗り越えられない壁なんてないなどというが、乗り越えないと生きていけないのだ。
わりと悲惨な幼少期だったと思うのに、自分は結婚したくないとか子どもを持ちたくないとは思わなかったのは我ながら不思議。そしていまだに、争いは苦手だし、田中慎弥の「共食い」に強く共感した。自分の中にある支配欲とか、攻撃性は、血によるものなのではとずっと思っているし、それをたまに抑えられなくなる。

何かに冷めるということ。何かひとつのきっかけがあって気持ちがあっけなくなくなるということはないと思う。情があればなおのこと。もう少しだけ様子を見てみようと思いたくなるもの。だけど、ものすごく高いところから落ちるような落胆や、もともとずっと心にわだかまりがあってそれが膨らみどうしようも行き場を失って弾けた場合は、やはり冷めてしまうのだと思う。まれに、少しずつ冷めてしまう場合もあるね。

誠意ある対応、或いは起きた問題への対応って人それぞれで、対応一つで誠意の中身が見えるなと思ったりなど。職業柄の都合もあって、「あたしならこうする」があるけど、他人はそうはしなかったりする。かといって嫌味のようなアドバイスや、こうしてくれと希望を言いたくない。なぜなら、希望を言って叶えてくれるよりも、自分でどうすべきか考えて動いてくれた方が、誠意は伝わるし対応の高さもわかるので。

誠意と同じく、挽回できる名誉と、できない名誉について考える。一度でもミスしてはいけないことと、一度くらいならミスが許され、挽回できる名誉もある。死活問題にまで追い込まれても、こちらの気持ちが伝われば名誉は回復するのだろうか。そもそも取り戻すって言っちゃってる時点でどうなのだろう。

あたしには、今がうまくいっていても、それを敢えてぶっ壊したくなる思想がある。人間関係リセット症候群とも似ている。終末思想とでもいうのだろうか。終わりがあるならさっさと終わらせたいと思ってしまう。大金を持ち歩くのは精神的に疲れる。だから大金を手放したい、という心理に似ている。いろいろと調べたら境界性パーソナリティ障害起因であるかのよう。己の心理や精神状態に名前がつくと安心する。くっつかないと安定しない原子のようだ。

大切にしたい、と、壊したい、という気持ちが混在している。とはいえ、壊したい、には残酷な気持ちが滞在する。泣かれると弱い。もっと、泣かせたくなる。泣かれなくても弱い。泣くまで、理詰めなり何なりで涙が見たくなる。わんわんと泣いて涙で顔がべしょべしょなのを見つめながら、慰めがいる? と手を広げるのが好きらしい。飴と鞭か? 鞭を打つための飴か。

Twitterを一旦削除して、何かが変わったわけではなかった。小さな世界から1人消えたところで、もう一つの人格は存在するし、あたしの生活も変わらない。と思ったらかなり早い段階で親友が心配してLINEをくれた。高校生の時から、お互いの自殺念慮を危惧して、お互いがストッパーになろうねと言っていたけれど、ストッパー機構はまだ動いてたんですね。あたしには彼の方が心配だけど。いつか突然、死んじゃうんだろうなと、思っている。自殺否定派でないから、彼が決めたら遺された者は受け入れるしかない。

今日は眠れるだろうかと思いながら、扇風機の羽根が回るのをじっと見つめていたら、少しだけソファでうたた寝をしてしまった。起きたら耳元で野球中継。喧しいけれどこれを幸せと呼ぶのかもしれない。いや、呼ばない。喧しい。

あと何回眠ればいいだろうか。焦るのはあたしの悪い癖。

嘘をつかれるのが嫌だから、嘘はつかないでね、とトラブル回避のためにもあらかじめ伝えていたら、最初から嘘をつかれていた回。なかなか笑えたのでビンタを何回もして土下座させて頭を踏んだ。でも、あとから、その時に何もせず、「帰れ」と命令して帰すべきだった、と知る。人は厳しく対応されないと危機感なんてものには気づかないのだ。いつも、あなたは優しいねと言われるけれど、これは優しさじゃない。「次に同じことをしたら許さないから」だなんて言いたくない。二度はない。彼がもう、嘘をついてないといいな。

一方で、嘘をつかれたりだんまりを決め込むことを、しないでねって予め言うことはなくなった。嘘をつかせるのはあたしのせいで、黙られるのはあたしのせい。相手に嘘をつかせたことは、自分自身に腹が立つしことだし、そんな未熟な関係しか構築できなかったのかと諦めに似た境地に達してしまう。決めるのはあなた。あたしではない。そして嘘をつき、つかれた時点でそこで終わり。裏切られたなんて嘆かない。期待なんてそもそもしていない。黙っていても誰かを傷つけているのだから。

反応が大事なのは何においてもそうなんだと思う。目を見ずにとりあえずする返事なんていらない。自分も気をつけようと思う。

その日の気分によって、痴女のように奔放になりたい時もあれば、服一枚も脱がずに厳しく躾けたい時もあれば、言葉だけで理詰めして泣かせたい日もある。だけど今はそのいずれも、或いは他の気持ちも湧いてこない。焦る必要はないけれど、どうしたらいいかわからない。誰かに助けを求めるようなものでも、粗治療をするものでもないが、どうしたらいいのかなと悩んでいるうちに涙が出てしまうのを、まずはどうにかしたい。奔放に生きる必要もなければ、ドミナント性を手放して生きる選択もあるのにと思う。傷ついているとは言わないが思いの外、悲しい事情に未だに頭がついていかないのかもしれない。この数年を美化しすぎていたのかもしれない。

会って、少しの意地悪を言い、少し激しいキスをしただけなのに、帰宅して7回ほど自慰をしたマゾがいたけど、そういうのをとびきり可愛いと思うし、とびきり愚かだなと思う。

気持ちを持ち直させてくれるのは、いつも過去なんだろうか。未来も語りたい。過去がありきの未来だ。でも未来を語ることはいつも物怖じしてしまう。烏滸がましい気持ちすら、ある。

マッチングアプリを入れたままなのでたまに開き、一般的な世界にいる男性はごくごく平凡で、つまらないけれど、彼ら彼女らにとってはこれが非日常であり日常なのかもしれない、と客観的思考になって、何一つメッセージも返さず交流もはからずアプリを閉じる、という作業を月に一回ほどしている。意味のない作業をすることで冷静になれている。

少しずつでもいいから、今までの自分を取り戻せるだろうか。でもこんなふうに文字にした時点で胸が痛いのはきっと、取り戻せている証明だと思うし、思いたい。それで、いつか、出会ってくれてありがとうと言いたい。顔も見ずにお別れすることばかりで、いつだって苦しい。

自分は弱い、は、誰もが思っていい自己肯定だと考えている。かといって「強がる必要はないよ」は言いたくない。ありのままで生きてね。サドもマゾもドミもサブも。もちろん普通の性的嗜好の人も。強いふりをしていたり、強いふりをすることに慣れてしまった人こそ、ある時突然、いなくなってしまうから。悲しい。あなたはそんなに本当は強くはないんだから、と抱きしめたいが、安易にはできない。悲しい。

もう歩けないもん。いやだもん。と駄々をこねたくなる時がある。まもなく不惑なので、そんなことも言っておれず、この足で先に進むしかない。でもたまには、誰かに寄り掛かりたい。理由も聞かずに肩を貸してくれる人がいないことを寂しく感じる。甘えたいって素直に言いたくなる夜もあるが、肩を貸す方が向いているのかな。少しばかり深呼吸したら、息がしやすくなった気がします。

毎朝起きて、今日が土曜なんじゃないかと錯覚している。それでももう木曜日。早い。
早く会いたいけれど会ったらそれで終わってしまう。だから会いたくない。そんな気持ちがずっとあって、今週も来週もとびきり楽しみがあったとしても、それが終わったら悲しくなっちゃうんじゃないか、寂しくなっちゃうんじゃないか。そんなふうに思っている。それも全部全部、夏のせいだ。

今日のこれは全部、本音。

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