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連還する記憶 ⑥ 

連還する記憶 ⑥

連還する記憶⑤では、生命記憶と存在記憶と同じ時間と空間を共有しない観念記憶の脆弱性と危険性について、考察しました。

生命体と時空を共有しない記憶、それは、生命と存在の、たえまなく繰り返される連還の有機的記憶の集積(歴史)へのアクセス権をもたない、閉鎖回路内で自己完結する、無機質の観念記憶です。

生命と存在に有機的に関わる記憶には、生命を否定し存在を脅かすものに抵抗し、排除しようとする免疫があります。

これに反し、生命と存在に有機的に関わらない無機質の観念記憶には、生命を否定し存在を脅かされた歴史(記憶の集積)もなく、実感もないので、生命を否定し存在を脅かすものに、そもそも無関心なわけです。

ですから、それに抵抗し、排除する意識も動機もなく、したがって免疫もありません。その結果、生命を否定し存在を脅かすもの(無機質の観念)は、無敵のまま、閉鎖ループの中で、際限なく増殖し、進化していきます。

このように、無機質の観念記憶とは、平たくいえば、ヒトの血肉や感覚、感情、心情、有機体の持つありとあらゆる特性を度外視し、認知せず、あるいは認知する機能を反知性として排除し、そのように選択した知能(恣意)の成果だけに目的を特化した、空理空論の歴史(観念記憶の集積)の集大成、といえるのではないでしょうか。

では、生命と存在に有機的に係わることのない、生命を否定し存在を脅かす無機質の観念記憶とは、具体的に、どういうもなのでしょうか。

連還する記憶 ⑤で触れたように、観念idéeは、もともとギリシャ語のイデアを指す言葉ですが、その中身としては、ヒトが、生まれながらに備えている知性を働かせる行為、知的行為の結果として得られる考え、例えば理念とか、理想とか、が挙げられます。

この知的行為の結果として得られる観念、たとえば理念を軸に、考察を進めていきましょう。

まず「理念」とは、物事がどうあるべきかの基本的な考えのことで、その考えのもと、ヒトは行動します。たとえば、日本国民は、日本国憲法の理念のもと、国民としてこうあるべきという考えにしたがい、行動します。

ヒトが理念を掲げるには、そのヒトが、まず、ある理想を抱き、それを実現し、実現した暁には、その状態をずっと維持しつづけたい、という欲求をもつことが、その動機となります。

まず理想というものがあり、その後に、理念が生まれるのです。となると、理想とはなにか、どこで、どういう理由で、生まれるのか、という疑問がわいてきます。

理想とは、それが最もよいと考えられる状態のことで、その状態になってほしいと思うものです。

つまり、ヒトが心に描き、理性によって考えることで生まれる、これ以上望みえない最も完全で最善の、まだ実現されていない目標、あるいは、そのような状態を指します。

そして、そのような理想を抱いたヒトが、それを実現するために手段や手順を考え、その理想的な状態を目指し、理想郷が依って立つところの基本的なな考えや規範を、ゆるぎないものとして整えようとします。それが理念となります。

ヒトは、一人では生きていけません。

自分の周りには必ず他人がいて、それと共に助け合って、生きていくように生まれついています。なぜなら、他人との助け合いがなければ、ホモサピエンスは、とっくの昔に絶滅していたでしょう。わたしたちが、たった今生きていること自体が、その証なのです。

ヒトは、生きるために他人を助け、他人の助けをうけるために、互いの合意のもとに寄りそい集まって、集団をつくります。この集団を形成する過程で、自分たちにどのような集団が相応しいか、ということについて、ヒトはいろいろ考え、話し合います。

あなたが、これがいいと提案した理想像に対し、いや、この方がいい、と違った像を提案する他人は必ずいます。十人集まれば十の、百人集まれば百の、千人集まれば千の考え、理想的な集団像が、提案されることになります。

こうして、ヒトは、それらの理想像を一つ一つ突合せ、比較検討し、より広範で包括的な、提案者すべての考えを反映した理想像に統合しようと努め、やがて、みなが理想とする共同体像が出来上がります。そして、それを実現し、維持し、持続するための意志や願望や決まり事、規範などを明確にした理念を構築します。

この理想の誕生と理念の構築プロセスは、ひとえにヒトだけに備わった知性の働きによるものです。

このプロセスによって培われ、保存、蓄積された諸々の観念記憶は、古代ギリシャに端を発し、啓蒙の時代を経て、ドイツ観念論から実存主義、さらに構造主義へとつながる、一貫したヒトの理性の歴史遺産として、現代に生きるわたしたちに至るまで、脈々と受け継がれています。

しかし、問題は、この理想の誕生と理念の構築プロセスに、生命を否定し存在を脅かすものに対してヒトが持つ免疫が係わっているかどうか、ということです。

もし係わっていなければ、無機質の観念として、記憶の閉鎖回路で自己増殖し、生命を否定し存在を脅かし、かつ、ヒトが構築する共同体を否定、攪乱、破壊を目論む観念記憶として、その反生存、反共同体性をいかんなく発揮することになるのではないでしょうか。

わたしたちの生存の記憶の蓄積には、生命を否定し存在を脅かすものに対する免疫が深く係わっていることに、疑いの余地はありません。また、共同体の存立を否定、錯乱、破壊するものに対する免疫も、深く係わっていることも事実です。わたしたちが共同体を形成し、そのなかで存在し、互いに尊重しあい、自由に生きようとする事実自体が、その証となるのです。

ヒトと他人は身の保全のために集団を形成します。

集団の中で、致命的な考えの相違により、生命を否定し存在を脅かす事態が発生しても、集団の理念がこれを検証し、裁定し、統合します。

集団と集団の間で、ヒトの致命的な対立が生じ、生命を否定し存在を脅かし、共同体の存立を否定、錯乱、破壊する事態が発生しても、各集団の理念を突合せ、検証し、すり合わせ、より広く包括的な理念を構築することで、新たな集団として統合・統一されていきます。

こうしてヒトは、長い殺戮と破壊の歴史の中で、生命を否定し存在を脅かし、共同体の存立を否定、錯乱、破壊する事態に直面し、驚き、悩み、考え、腐心し、頭を切り替え、知性を錬磨することにより、それらに対する免疫を獲得し、より広く包括的な統合・統一の理念の構築へと、辿りついていったのです。

それがなぜ可能であったのか。

理由は、明らかです。心、精神、知性、悟性、感覚、感性、有機体のもつありとあらゆる機能が、自由奔放に解放されていたからにほかなりません。自由な頭脳は、どのような事態に遭遇しても、自由に対応できます。なぜなら、知性の軸が無数にあるからです。ヒトは、いかようにでも、考えを変え適応することができる、多軸構造の頭脳に恵まれているのです。

<有機体の多軸構造>

ヒトは本来、多軸の生き物です。ある伝統武術の口訣に、一動百動無有不動、という言説があります。

ヒトの身体は、どこか一つ動けば、それに応じて全身が動き、動かないところは一つもない、ということです。ヒトに六十兆の細胞があるとすれば、六十兆の軸があり、一つの動作に応じて、細胞の一つ一つが六十兆の軸を介して連動し合う、有機的な構造に仕上がっているということです。

ヒトの生存も、まさに多軸構造にできています。二人の殺し合いは二軸ですが、止めに入れば三軸になり、さらになだめ、すかし、怒り、諭し…無数の軸が、殺人行為に介入します。そのおかげで、ヒトは自滅しなくてすんできたのです。

ヒトが形成する共同体も、この有機的な構造に仕上がってさえいれば、多軸構造の自由な知性の働きによって、存続を維持し多種多様な発展を獲得することができるはずなのです。

しかし、です。

近世になって、そうなるとは限らない事態が頻発しています。理想の誕生と理念の構築に、ヒトの心や感情、感覚、感性、有機体のもつありとあらゆる特性の自由なアクセスが、キャンセルされるという事態が、そこここで発生しているのです。

<唯物論の単軸性>

物を精神の上位に置くという考え方は、すでに古代ギリシャから受け継いだ、わたしたちの記憶遺産です。

すべての物は、ヒトの魂も含め、原子により構築されているという考えは、やがて、すべての物は科学で解決できるという考えにつながり、魂と同様に、ヒトの心や感覚、感情、ありとあらゆる有機体の特性も、科学の領域で取り扱えるという考えに辿りつきました。

この、すべての現象の解明に科学的根拠を与えることをよしとする理想は、やがて、物の側からしか現象を観ない、短軸思考による硬直した理念を構築せざるをえなくなっていきます。

限定不変の硬直した理想を実現すべく、限定不変の萎縮した理念のみを軸とするのはよしとしても、短軸で萎縮した回転翼の備えすらない貧相な一輪車で、この自由で広大な、多様な光と色彩に満ちた限りのない知性の宇宙を、いったい、どのようにして駆け巡ろうというのでしょうか?

連還する記憶 ⑥ 完 連還する記憶 ⑦ につづく


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