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【奇譚】白の連還 第6話 白い記憶

白の連還 第6話 白い記憶

 JR芦屋駅を濱川におりてしばらく南下したところに、近隣では由緒あるとみなが知る古刹があった。父が逝ったとき、菩提寺は嵐山にあったが、葬儀一式の調達と参列客の足のことを考え、この寺に告別式執り行いの受けいれをたのんで承諾してもらった。また菩提の塔頭からは、臨済の導師と雲水を招いて経を読んでもらうことにした。
 はたして、葬送の儀式は滞りなく終わったが、数日後、この古刹の住職から連絡があった。寺男が、鐘楼の脇に見慣れない頭陀袋が一つおいてあるのを見つけたが、当方のだれにも心当たりがない、先日の告別式の参列者か、塔頭の関係者のだれかが、なんらかの意図があって置いていったのか、あるいは、単に置きわすれて帰ってしまったのか、あれやこれやと訝っている、たしかめてくれないか、という。
 妙だな、とおもった。頭陀袋とは、もともと坊主がガラクタを入れて持ち運びする粗末な入れ物のことだ。問い合わせした寺の住職がそれと認識するからには、塔頭のだれかが置いていったのではと疑っている、と暗にほのめかしているにちがいない。とすると、導師か雲水のだれかか、ということになる。なかに入っているものは何かと聞くと、失礼だから中身はみていない、という返事だった。失礼だから、ということは、やはり、塔頭のやったことだ、と確信しているということだろう。
 さっそく導師を務めた和尚に確認を乞うと、自分もふくめ、それと察せられるものはだれもおらん、との返事だった。当然だ。葬送の読経に招かれて忘れ物する坊主がどこにいる。般若心経を書き忘れた阿弥陀寺の小僧じゃあるまいし。念のため、ほかに何人か、似たような袋を持っていそうな参列者を割りだして、それとなくきいてみたが、だれも該当するものはいなかった。
 さて、当方にはほぼ無縁の忘れ物だな、ともおもったが、まだ内輪で確認しただけで、現物をみての結論ではない。実際に中身をみれば、外目にもはっきりさせることができるだろう。そう考えて、本意を住職にも伝え、とにかく現物をみたほうがよさそうなので、あす昼前にでもそちらに伺う、ということにしてもらった。

 
 その翌日だった。どことなく所在のない不安を感じて、未明に目が覚めた。耳元の携帯ラジオを入れると、山梨県上九一色村のオーム真理教の施設でサリンがどうのこうのと、物騒な報道をしている。なんだ、まだ五時過ぎか、サリンが出たって、いまごろなにいってんだ、オームが毒ガス製造してるって、とっくにみんな知ってることだ、なんで日本の警察は、こうまでニブくてトロイんだ、などと、うとうと睡魔の網をくぐっては、寝ぼけ頭でボヤいていたのだが、突然、シュルン、シュルン、シュルン…と、自分が背中からまるごと地球の芯に畳み込まれていくような引力と恐怖と悪寒におそわれ、もろ目覚めた。
 懸命に両手を突っ張って全身を支えようともがいた。が、その直後、いきなり地底から突き上げられ、ベットから放り出されてしまった。家屋全体が轟音とともに左右に捻じれ、四角い天井が多角形の様相を呈して左右にドーン、グラ、グラ、グラ、と揺れている。あわや倒壊か、と身を縮める直前、階下でバリ、バリ、ガチャ、ガチャ、ガチャン…と、食器やガラスや何もかもが割れて砕ける音がした。キッチンだ。食器類が棚から飛びだしたのだ。母親が危ない。ダイニングに続く和室を寝室につかっていたからだ。箪笥や家具も置いてある。わたしは、ほとんど階段をころげおちて、ゆらゆら揺れ続く板の間を這って和室に急いだ。はたして母親は、寝床から抜け出たものの動くに動けず、そのまま畳に這いつくばり、顔面蒼白で全身をブルブル震わせ、喉をつまらせて喘いでいたが、意識はしっかりしていた。

 恐ろしい体験だった。だが、幸い、家族は全員無事だった。四六時中、テレビ、ラジオで近隣の被災状況を追い、避難所に指定された近所の小学校に、配給の水や食料をもらいにいくことに、もっぱら時間を費やした。というより、それ以外にやれることはなかった。そして、まともに外出できるようになったのは、発災後、三日たってからだった。つまり、山側の我が家から濱川の古刹まで、歩いて行ける目途が立つのに三日の時間が必要だった、ということだ。
 
 家から数十メートル西にいくと宮川の上流に出る。六甲山系の渓谷を源とする二級河川だ。それに沿って下ると、JR神戸線芦屋駅の高架をくぐって濱川に出る。上り坂を少しいくと西側に例の古刹がある。いや、あるはずだった。しかし、実際にそこにあるのは、全壊した寺の残骸の山だった。立派な本堂も、古木の柱も、屋根袋も、高価な瓦も、白塗りの漆喰壁も、なにもかも壊れ、破裂し、ばらばらになって、人の身長ほどの高さに折り重なっていた。唯一の例外は、鐘楼だった。由緒ある青銅の鐘はなくなっていた。辺りを探すと、無残にも瓦礫の山に埋もれていた。鐘楼の屋根瓦はほぼ全部とんでしまったが、骨組みはしっかりと衝撃に耐えぬいたのだ。
 何が耐震性に寄与したのか、などと考えていると、どこからか住職の声がした。どうも鐘楼の向こう側にいるらしい。本堂の瓦礫を後にして鐘楼の反対側にぐるりと回りこむと、そこに住職がしゃがみこんでいた。瞬き一つせず、思いつめたように、じっと何かをみつめ、経らしきものを唱えていた。そっとのぞきこむと、頭陀袋がそこにあった。それが例の頭陀袋かときくと、住職は答えず、経の合間合間に合掌しながら、愚痴とも当てつけともとれることを、口のなかでつぶやいた。ほれ、どや、みなはれ、この有様を、みんな、やられてしもた、助かったのは、これだけや、ほれ、こいつだけや、こいつだけが、生きのびよった、生きのびよった、ほんまに、これ、なんでやねん、お家の菩提寺の、嵐山の余得だっせ、嵐山の…。

 嵐山の余得? 

 どういう意味なんだ。たしかに嵐山には当家の菩提寺がある。その恩恵で頭陀袋は生きのびた、ということか。それ、すなわち、当家の導師と雲水が災いを招来したうえに、あろうことか、持参の頭陀袋はその余得によって救われた、とでもいいたいのか。他力本願を旨とし、悟りの境地を追い求める宗教人ともおもえない、稚拙で現世的な見識と、俗化した因果応報説に腹が立ったが、坊主相手に苦言を呈しても、馬の耳に念仏だろう。この際、頭陀袋は当家が潔く引き取り、引き下がるのが良策、と考えた。

 さて、引き取ったはいいが、もともと塔頭のだれにも関係ない代物だったので、即廃棄、という手もあったが、大震災で生き延びたからには、よほど運の巡りがよかったのだろう、とおもって、とにかく中身が何なのか、改めてみることにした。
 袋を開けて最初に目にはいったのは、大学ノートの束だった。数えてみると六冊あった。糸綴じ横書きB5版の普及型で、鉛筆、万年筆、ボールペンなど、筆記できる道具であればなんでもといった感じで、何事かビッシリと書き連ねてあった。日記か何かとおもい、パラパラとめくってみたが、最初の二、三行はともかく、延々と続きそうな、とりとめのない退屈な文字面にうんざりして、すぐにやめてしまった。
 もう一つあった。取り出した瞬間、剱岳由来の錫杖頭かとおもわせるほど、もやもやと山岳修験者の精気が漂ってきそうな、人の拳くらいの大きさの、金属の彫り物だった。積年の災禍に晒されたからか、護摩木の炎で焼かれたのか、銀と思しき彫金部は、幾重にも重なる腐食層で覆われ、まるで内に潜む妖気を閉じ込めんばかりに、黒々した被膜を被せていた。

 じっと見ている間に、だんだん気になりだした。何かに似ている。世間に伝わる、いわゆる錫杖の形ではない。どことなく歪で、芯が欠けた印象が拭えない。なにが彫ってあるのか。工具箱を取り出し、小一時間かけてヤスリで磨いた。はたして、落した黒錆の下から現れた彫り物の正体は、銀製の鎌首をもたげた蛇の頭部だった。大きな口をクワッと開け、鋭い牙でなにかに噛みついている。だが、その何かが、削げてなくなっていた。朽ちてなくなったわけではない。それほど古いものではない。せいぜい父か祖父の時代のものだろう。とはいえ、せっかくの年代物だ。ピカピカに磨き上げるのも忍びない。世間でいう、あの燻し銀の風格感が消えてしまわないように、手心を加え、研ぎくずをぬぐいとり、ていねいに磨きあげた。そして、書斎の出窓に飾った花瓶のそばに、とりあえず立てかけておくことにした。
 工具箱をかたづけ、一息ついたところで、今度はノートが気になりだした。いったい、何なんだ、あれは? 瓦礫の中で数ページをパラパラとめくっただけだから、知る由もない。しかし、気になる。知りたくもなる。知りたくなると、分からないことばかりで、気になってしかたがない。そして、もっと知りたくなる。
 
 まず、なぜ、いろんな筆記用具を使ったのか。つぎに、なぜ、乱雑に書きなぐってあったのか。そして、なぜ、あの燻し銀の鎌首といっしょに頭陀袋に入っていたのか。そもそも、書いた本人は一人なのか、それとも複数の人間がかかわったのか…。知りたい欲求にかられ、捨てないでおいた頭陀袋から、大学ノート六冊をとりだした。
 それぞれのノートの表紙には、ギリシャ文字で番号がふってあった。黒の油性マジックペンで書いたものだが、文字の表面に紙の繊維が浮き出てみえるほど、製紙組織に深くしみ込んでいる。筆圧のすごさと年季の入れかたに、書いた人の強い意志があらわれていた。ある種の気迫を感じながら、ノートⅠを開いた。
 見開きの左側に2bの鉛筆で走り書きがしてあった。気がせいたのか、筆が走りすぎたのか、ずいぶん粗暴な筆跡だった。箇条書きで、生命・存在の記憶、永劫回帰と連還、七百万年の思い出、と記してある。粗雑な字面とはうらはらに、語彙の印象からして、正直、知性と教養への矜持を身にはりつけた性格の持ち主、というより、外界との接触や干渉はしたくない、閉じた思考空間を回遊している、自閉的な人格が書かせた奇譚録ではないか、と想像した。
 見開き右側の真ん中に、おなじ黒のマジックペンで、雪山の記憶、とだけあった。なるほど、この人物は山岳愛好家らしい。自分の登山歴でも書き留めておきたかったのだろう、と憶測を重ねながらページをめくると、いきなり本文に入った。
 みごとに文字の羅列だった。ページの端から端まで、句読点を無視した文章が、延々と連なる。余白のそこここに、注とか訂正とか、要確認とか、いろんなメモが書かれていて、丸や四角や星型の枠で囲い、それぞれ本文中の該当箇所まで矢印が引いてあった。相当慎重な性格の持ち主だとおもわれた。
 読んでいくうち、じわじわと引き込まれていった。何年ごろの記録か、皆目見当はつかなかったが、クリスマス寒波に始まって雪山をラッセルし、心肺機能極限まで攻める急登の末、雪崩に遭遇し、九死に一生を得た何人かが避難小屋に逗留するところまで、一気に読み進んだ。白銀の画布に光と陰で点描したような心象表現には、一通りではない意志と筆の力を感じさせるものがあった。
 だが、避難直後、様子は一変した。千夜一夜ではないが、逗留者たちが毎夜、一人ずつ、それぞれに思いつく話をして聞かせることになったのだ。そして、そのことが、きっかけとなって、不思議なことに、ノートの語り手本人の記憶が、それを目で追うだけで何の因果もないわたし自身の記憶に、いきなりつながっていく不思議を、体験することになったのだった。

  実際、浜坂出身の医師が、この一夜話の案を出したとの記述に触れたとき、首から背筋にかけて、一瞬、いいようのない冷気が走りぬけた。いにしえの時空の隙間から、怪しい霊感がすり抜けてきたのではないか、とさえ錯覚した。それは、ほかでもない、浜坂の土地と白蛇にからむ、当家の記憶との符号だった。

 嵐山に臨済を宗とする当家の菩提寺があるが、実は、その何代目かの管長が、わたしの母親の伯母の伯父にあたるひとで、浜坂の出の高僧だった。家族や親類縁者のはなしによると、管長は生まれて間もなく、その面相から仏門の運勢を見抜いた檀家巡りの住職に、ぜがひでもと乞われ、土地の風習から一旦路上に捨てられ、拾われた捨て子として寺に引きとられた。そして、様々なキャリアを経て、管長にまで昇りつめた人物だという。
 面相とか捨て子とか仏門とか、凡人には縁遠い数奇な星の下に生まれたひとが家系にいること自体、ミステリアスなはなしだが、もっと不思議なのは、縁も所縁もないこの語り手の浜坂の医師が、その話のなかで、先祖代々、親族の身に引き続き起こった災厄の源になったと明かす、白蛇のことだった。
 母親の伯母の伯父にあたるひとに臨済の管長がいたといったが、加えて、伯母の兄の嫁にあたるひとに泥密教の巫女がいた、といえば、ずいぶん奇妙な家系なんだな、とおもわれるだろうか。
 この泥密教とは、民家の天井に住みついた白蛇を信仰する宗教の一つで、白蛇を五穀豊穣、家内安全の守り神と伝える。霊験あらたかな神様で、信者はこの蛇神様を、何かにつけ親しげに、ミーさん、ミーさん、と呼んで拝んだ。
 幼少時、虚弱だったわたしも、母親に連れられて、この巫女さん宅に、よくお加持してもらいに行った。目の前で、なにやらムニャムニャと呪文をとなえながら、右手の太い指を二本立てて印を切り、フューッ、フューッ、と息を吹きかけられると、なにもかもよくなって、からだの中から力がグングン湧いてくるような気持ちになったものだった。

 そのミーさんが、ひょとしたら、いま、わたしの手元にあるのではないか…。

 ノートから目を離し、出窓に飾った花瓶をみた。その横に、さきほどヤスリで磨いた、燻し銀の蛇が立てかけてある。鎌首をもたげ、クワッと口をあけ、鋭い牙をむきだし、じっとこちらを見ているのだ。浜坂の蔵元に災いをもたらし、一族を破滅に追いやったあのミーさんが、虚弱だった少年の病を癒し、からだの芯から勇気と力をあたえてくれたミーさんになって、いま、そこにいるのではないか。からだが、ブルブルッ、とふるえた。

 なにを、この科学の時代に、そんな非科学的なたわごとをいって、はずかしくないか、といった類の侮蔑や叱責が、直接、耳に聞こえてきそうな気がしないでもない。が、その侮蔑や叱責が、当方にとっては、とても非科学的なことに、おもえてならないのだ。とくに、地獄の窯の蓋があいたような、血みどろの、煮え湯たぎる、生々しい大震災の直撃をうけたあげく、ありえないことが、目の前で当たり前のように起こる現実をみせつけられたものにとって、それは、なおさらのことではないのか、とさえおもう。

 科学が、ひとの認識機能のはたらきで、事実や事象をいろいろな方法で分析検証し、その結果を知識としてまとめる行為のつみかさね、とすれば、ひとの理性や知性の記憶を集大成したもの、としてまとめることができる。つまり科学とは、理知記憶の集大成、ということになる。
 ここで、どういうわけか、ピンときた。すぐさま見開きに戻り、左側をみた。箇条書きで、生命・存在の記憶、永劫回帰と連還、七百万年の思い出、と記してある。七百万年の記憶…。あ、そうか、とおもった。

 ひとの記憶には二種類ある。科学の追求を支える理知の記憶と、からだの生成をつかさどる生命体の記憶だ。この二つが、ひとの歴史をつくっている。理知の記憶は脳が死ねばなくなる。個人の歴史はそこでなくなり、そのひとは無に帰す。一方、生命体の記憶は、六十兆ともいわれる細胞を介して、ひとの生命の連還のなかに残り、ほかの生命体に引き継がれていく。わたしたちは、七百万年まえに誕生した、ひとの生命体の記憶を、からだの細胞一つ一つを介して、引き継いでいるのだ。この記憶があるかぎり、個人の歴史は無に帰しても、ひとの歴史は営々と生成されつづける。ひとの細胞のなかに、ひとの歴史を壊すための遺伝子は、挿入されてない。なぜなら、もし挿入されていたとしたら、ひとは、とっくの昔に死滅していたはずだからだ。

  過去の記憶に戻るのに言葉はいらない。というより、ジャマになる。言葉は観念という理知の産物に左右されて、あやふやで長続きしない、刹那の記憶が入り乱れているからだ。
 ところが、感覚はちがう。感覚は刹那の記憶ではない。臭いものは臭い、冷たいものは冷たい、うまいものはうまいし、美しいものは美しい。種の歴史のなかで、ひとそれぞれが受けつぐ、種の記憶だ。
 ひとは星をめでる。星を美しいと感じるのは、星の自分を引き寄せる引力を感じるからだ。それは太古の昔から蓄積された人の記憶のなせる業だ。潮の満ち干とおなじく、宇宙の生理と相似するひとの生理が、ひとと宇宙をつなぎ、たがいの記憶を連還させている。ひとは、母親の胎内で、種の記憶と宇宙の生理を、そのまままるごと受けとり、種の歴史のなかで、ひとそれぞれが、それを展開していく。

 ところで、ひとと宇宙の連還はそれとして、ひとと時間の連還はどうだろうか。

 紅茶の香り、花粉の芳香、まぶしい光、美しい花…嗅覚や視覚や触覚や、からだ中の感覚を通じて、日ごろおもいもしない記憶が、突然よみがえってくることがある。これこそ、いまいる自分と、いにしえのだれかとの記憶が、時間を超えて通底し、連還しあっている現象のあらわれではないのか。

 まだある。生まれて初めて見るものなのに、どこかで見たことがあるという感覚。これは、胎内で受けとった種の記憶が、いまの自分の記憶とオーバーラップする、典型的な例ではないのか。もしそうだとしたら、なんとミステリアスな生成の連還だろう。

 不思議な感覚にとらわれたせいで、宇宙と時間と記憶が、万物の生成とどのように関わっているのか、などと、しばらく、頭の中で、とりとめのないことばかり考えながら、鉛筆やボールペンや万年筆で書き連ねた、カメラマンの体験や、女監督のサスペンスや、傷ついた若い商社マンの父親捜しの物語を、ノーIからVIまで、部屋に閉じこもったまま、何日かかけて、目で追いかけることになったのだが、いきなり飲み込んだ雑多な異物を、ついに消化しきれなくなって、無性に外に出たくなった。

 阪神淡路大震災の発災から一カ月はたっていたが、街の悲惨な状況に、大した変化はなかった。報道媒体を通してさんざん聞かされた活断層も、わが家の玄関を出て十メートル先、五十メートル先、さらに百メートル先と、まるで断層の存在を誇示するかのように、南西から北東にかけて、全壊した住居群の残骸が、晒しものにされたまま放置されていた。 
 国道二号線をはしる阪神高速道の崩落は、新聞、雑誌の写真や、テレビ報道の画像で、連日、いやというほど目にしてきたが、実際、被災した当事者がそこに見たものは、災害の酷さや被害の深刻さといった、手に負えない事態に遭遇したことの結果ではなく、まえもって手に負えない事態に抗おうとする意識も、根性も、そして当然のことながら技術も、わたしたちが持ちあわせていなかった、という事実だった。
 持っていたのは、手に負えない事態を予め数字に置き換えて万全を期す気にさえならなかった、技術神話に洗脳された近現代人の驕りだけだった、ということになる。でなければ、この、阪神高速の巨大橋脚の、タンデム大崩落を、どう説明すればいいというのか。構造計算の基準値を、よほど甘く設定していたにちがいない。想定外などと、うそぶいている場合ではないのだ。
 そんなことを考えながら、神戸大空襲を彷彿とさせる、二号線沿いの崩壊スラムの街路を、復旧作業で忙しく行き来する人混みをぬって歩いているうち、パッと視界が開けたところに出た。みると、端正な緑色空間に子供用の遊具を設えた、小さな公園がそこにあった。すこし歩き疲れた感があったので、足を休めようと園内にベンチをさがした。

 公園には柵もフェンスもなく、解放的だったが、適度に植え込みが配置してあって、自然と植え込みの切れた部分が出入り口になっていた。四角い園内にベンチが三か所に設けてあり、座った人が幾人か、紙トレイに盛った焼きそばを、さもうまそうに、木の割り箸ですすっていた。奥のベンチのないところにはレンガ造りの建物があり、面前に張られた一揃えのテントに遮られて、何の建物か、よくわからなかったが、スキー帽にカーキのダウンジャケットを着た青年が、手をふきふき出てきたところをみると、どうも公衆トイレらしかった。あの活断層の造反に、給水機能は耐え抜いたのだろうか。
 手をふき終えたスキー帽の青年は、テント近くのベンチに腰掛け、同じベンチで焼きそばをすすっていた、これもおそらく同世代だろうとおもわれる、長髪と顎ひげの青年と、親しげに話しだした。二月の寒空を、結構な時間、歩き回ったせいか、正直、トイレに行きたくなっていたので、植え込みの切れ目を迂回して、園内に入っていった。

 用を足してトイレから出ると、スキー帽の青年が、待ちかまえていたように、こちらへどうぞ、と立ち上がり、手招きして自分の席を譲ろうとした。そして、テントの方を指さしながら、手製の焼きそばですけど、どうぞ食べていってください、といった。
 いわれて気がついたのだが、テントの裏側、つまり、トイレとテントの間に、野営用のカマがひとつ、コンクリートのかけらを器用に組み上げて造ってあった。その脇には、廃材のなかから拾って集めたのか、垂木の束が積みあげてある。調理の最中だったらしく、赤々と燃えあがるカマドに載せた鉄板の周りに、炒めかけたソバが、小分けして盛り上げてあった。見るからに、心あるボランティアの設営した、炊き出しの情景そのものだった。冷えきったからだが、ほっこりと温まる気がして、おもわず、ありがとう、いただきます、と応じてベンチにすわった。

「いつもなら、まだ、ヤマにいるんですけど、無線で、大震災のことしって、いろいろ聞いてるうちに、いてもたってもいれなくなっちゃって、降りてきたんですよ。」

 かれは、東京在住の大学生で、山岳同好会に所属し、過去に何回か緊急ビバークも経験したという。いかにも寒中サバイバルに通じた岳人らしく、調理や食器洗いやごみ処理など、身のこなしもはやく、やることなすこと、板についていた。
 一口すすったあと、わたしは頷いていった。

「塩味といい、麺の硬さといい、ワイルドな焼き上りといい、実にうまい。」

 事実、本職同様の、いや、それ以上の、仕上がりだったのだ。
 ほこほこに出来上がったソバに夢中でかぶりついている間、聞こえてくる二人の会話に興味をひかれ、コクコクと内耳に伝わる咀嚼音を極力おさえながら、ずっと耳を傾けた。
 日焼けか雪焼けか、顔面がほぼ褐色に変色した長髪あご髭の青年は、自分のことを、報道カメラマン、と称した。なるほど、肩から下げたカメラには、二百ミリは超える望遠レンズを装着している。ほっそりと、しなやかな体躯だが、眼光は鋭く、被写体をねらって果敢に走り回る姿が、容易に想像できた。

「アフガンに入るには、まずパキのペシャワールに行って、それからだね」
「ペシャワールって、あの、ガンダーラの?」
「そうだね」
「ひょっとして、仏教のルーツを追ってるんですか?」
「ん、それも興味あるけど、オレ、アフガン内戦に、はまっちゃったんだよね」
「アフガン内戦?」
「アフガニスタンて、七十九年にソビエトが侵攻したじゃない?」
「そう、そうっすよね」
「で、ちょうど十年後の八十九年に、撤退したんだよね」
「そ、そうすね」
「ちょうど、六年まえ、だよ」
「え、そうすね、で、今、内戦、なんですか?」
「そうさ。ソビエト時代の生きのこりが、まだ政権握ってるからね。全土のトライバルゾーンで、反乱がおきてんだよ。オレ、それを取材してるんだ」
「すごいっすね、恐ろしくないっすか?」
「恐ろしいさ。何回もションベンもらしちゃったよ」
「ケー、すごいっすね!」
「でもさ、この大震災も、たいがい、恐ろしいい体験だぜ」
「ほんと、そうですよね。オレ、こんな炊き出ししてんすけど、いつもおもってるんですよ、こんなこと、何の役にたつのかな、ってね」
「いやあ、アフガンでもそうだけど、被災したひとには、とってもありがたい、力になることだとおもうよ、立派だよ」
「そうすかね…」
「で、ガンダーラってさっきいってたけど、ペシャワールには行ったこと、あるの?」
「いや、まだなんですよ。せいぜい、インドのアジャンタ止まりで、そっからむこうへは、まだいってないんすよ、オレ」
「そうか。でも、アジャンタも、いいよね」
「オレ、正直、あそこが仏教のルーツだとおもってたんすけど、いってみて、まだ、先があるってことに、気がついたんですよね」
「先って?」
「やっぱ、さっきオタクがいってた、ペシャワールにいかなくちゃ、っておもいましたよ、ガンダーラの」
「ん、なるほどね。しかし、そこまでいうなら、まだまだ先があるぜ」
「先って、パキの先だと、アフガニスタンですか?」
「いやいや、そんなもんじゃない」
「どこすか?」
「ずーと先の、イラン、トルコのまだ先の、ギリシャだよ」
「ギリシャ?」
「いや、まだたりないな、エジプトだな」
「エジプト!?」
「あのさ、まったくハナシ、ちがうけどさ、仏教って、だいたい三千年まえに誕生したっていわれてるよね」
「そうすね、二千五百年まえって説も、ありますよね。仏陀釈尊、ゴータマ・シッダルダの教えなんかも、有名すもんね」
「仏教って、ただただ悟りの路をいけ、ちゅう、当時の信仰宗教だったわけだろう」
「まあ、簡単にいえば、そうすかね」
「だから、布教にはあまり興味がなかったんだよね」
「はあ、そうすかね」
「仏教の初期って、偶像崇拝を禁止していたって、いわれてるけど、それ、どうおもう?」
「どうおもうって、オレ、知らなかったですよ。ただ、釈迦のかわりに法輪を拝んでいたってことは、聞いてますけどね」
「ん、だから、仏像は、なかったんだよね」
「はあ、そうなんですね、仏像は、なかったんですね」
「イスラム経も、偶像崇拝、禁止だよね」
「はあ、でも、それって、常識ですよね」
「だから、仏教もイスラム教も、偶像を排除した点では、同じなんだよな」
「じゃあ、インド、中央アジア、東南アジア、日本まで広まった、あの仏教美術群は、どこで、どうやって生まれて、どっから来たんですかね」
「いっとくけどさ、宗教と宗教文化って、ぜんぜん、おなじじゃないぜ。それに、さきもいったけど、宗教といってもさ、偶像を禁忌するヤツと、それを許容するヤツがあるじゃないか。その二つをさ、わけて考えたらさ、けっこうおもしろいものがあるぜ」

 報道カメラマンらしい着想だった。宗教は人と死との相克だが、宗教文化は、その歴史が継承する遺産だ。宗教思想や観念と、宗教遺産との間には、根本的なちがいがある。かれも、仏教起源への興味から、炊き出しボランティアの青年とおなじように、まずアジャンタまで行ったのではないか。そして、いいようのない物足りなさを自分のなかに感じ、そこからさらに西方の戦の地へと、強い力で引きつけられていったのではないか。実際、去年の夏ごろパキスタンで結成された、イスラム原理主義組織タリバンのきな臭い動向が、世界中の耳目を集めていたのだ。若い血が煮えたぎらないわけがない。

「失礼ですけど、タリバンというのは…」

 つい、わたしも、つられて会話に、加わってしまった。

「寺小屋育ちの、清貧で結束の強い、イスラム教信奉者の集まり、と聞いてますけど、その辺、いかがなんですか?」
「や! タリバンに興味、おありなんですか?」

 かなり驚いたようだった。

「うれしいですね! でも、震災に遭われたんでしょう? ご家族のかたは、みなさん、ご無事だったんですか?」
「ええ、幸い、運がよかったんですかね。ありがとう」
「それはよかったですね。あつかましいようですけど、安心しました。で、さっきの、タリバンのことなんですけど…」
 青年は、勢いづいてはなしだした。その語気から、相手に伝えたいという強い気持ちが、ひしひしとこちら側に伝わってきた。
 
 かれによれば、ことの始まりは七十八年の社会主義政権の樹立だとういう。もともとアフガニスタンは王国だったが、ちょうど東京オリンピックの年、日本とおなじ立憲君主制になり、議会選挙ができるようになった。翌年、学生、労働者を主体とした人民民主党が結成され、少数ながら議席を獲得することになった。以後、七十七年にかけて社会主義勢力が拡大、七十八年四月のクーデタで革命に成功、人民民主党が率いる社会主義政権が誕生した。この事態に対し、社会主義化をよしとしないムジャヒディーンと呼ばれる武装勢力が結集し、各地で武装蜂起、内戦が勃発したという。

「しかしですね、蜂起したのはいいんですけど、所詮は領地争奪にあけくれる部族同士でしょう、結集っていっても、かりそめの野合にすぎなくて、結局、武装勢力は制圧されてしまうんですよね。そして、革命政権は盤石な基盤醸成のためにソ連に協力をもとめたんです。で、軍事介入、ということになっちゃったんですよね」
「内戦にはタリバンは参戦したんですか?」
「いえ、いえ!」

 かれは意気込んだ。

「去年ですよ、タリバン結成は、ほんの去年の、8月ですよ! 内戦中、武装勢力を支援していたのはパキスタンの諜報機関やアメリカ、サウジアラビアで、途中から中国も入ってくるんです。ちょうど内戦期の中頃でしたかね、パキスタンが核実験やったでしょう」
「ありましたね、そんなことが!」
「あれ、中国の支援と協力で、核開発したんですよ」
「インドもそうでしたね」
「そうです。インドもパキスタンも、核開発に成功しましたよね。その時点で、米中とソ連の対立が顕在化していくんですけど、最終的には、あのころ、すでに、米中確執の種がまかれていた、といってもいいとおもうんですよね」
「米中とソ連の対立?」 
「はい。事実、米中が支援する武装勢力が、ソ連が支援する社会主義政権に、敗退するんですよ」
「武装勢力側が、負けたんですか?」
「ええ、部族間の疎通がないうえに、それぞれの野望が連携を阻害して、力を結集できなかったんでしょうね。だから、アメリカも、新政権の誕生をみて、政権奪取は時期尚早、と判断して、引いちゃったんです」
「ひどいなあ、ちょっかい出しといてねえ」
「ホントですよね。でも、新政権の方も、結局、紛争を収拾することはできなかったんですよ。で、ソビエトも撤退、ということになるんです」
「そこで、タリバンが?」
「そうです。紛争解決とアフガニスタン統一のため、パキスタンの諜報機関とサウジアラビアが、武装勢力の結集を促してタリバンを結成したんです」
「イスラム信奉者ときいてますが」
「というより、原理主義者ですよね。しかも、皮肉なことに、反米色濃厚なんですよ。リーダーにすごいサウジアラビア人がいて、途中で投げ出したアメリカのやり方に、強烈な批判、というか、怨念じみた敵意を露わにしてるんですよね。先々、恐ろしいことになるかも、しれませんねえ」
「タリバンとは会ったことあるんですか?」
「もちろん、取材してますよ。現状は、パキの北西部からアフガンのカンダハールまで侵攻して、占領して、そこを拠点に、さらに南に勢力をのばそうとしているところです。なので、タリバンに取材をかけるには、まずペシャワールにいって、カイバル峠でアフガンに入り、シェララバード、カブール、カンダハールというルートですね。カンダハールに入れば、みんな、タリバンですよ。すごく歓迎してくれます。そこからタリバンにくっついて、ホットスポット、戦闘地域までいくんですよ。そこで戦闘中のヤツらを取材する。そんなとこですかね、いまのオレがやってることって」

 いわば死を賭した取材なのに、観光ガイドの軽快さだ。

「すごい勇気ですね。よほどの信念で、仕事、してらっしゃるんですね」
「いや、信念じゃ、ないっすね」
「では、なんですか、あなたをそこまで、強くさせるものは」
「逆じゃないですかね、強いんじゃなくて、弱いからでしょう」
「よわい、から?」

 青年ははなした。ひとはどうして戦うのか? それをテーマに、機銃で武装するタリバンと、アフガン各地の戦場を取材した。そんな自分を、たしかに強いとおもっていた。銃弾を浴びるときの、あの恐ろしさを、十分に耐えることができた、だからオレは強いんだ、と思っていた。ところが、この阪神淡路大震災の現場をまえにしたとき、砂漠や瓦礫やケシ畑を走り回り、逃げ延びさせてくれた自分の足が、ワナワナと震えて、からだを支えることを忘れた、棒きれのようだったという。

「そのとき、オレ、分ったんですよ。ひとが戦うのは怖いからだ、ってことが」
「恐怖心ですか?」
「言葉では言い表せない恐ろしさ、ですね」
「言葉では言い表せない?」
「人の生業を、一瞬にしてなきものにしてしまう、人を超えた、なにかの存在ていうか」
「大自然の驚異?」
「そんなんじゃ、ないんですよね」

 青年は、しばらく考えこんでから、いった。

「カンダハール女って、みんな、ブブカていうのを被ってるんですけど、知ってますか」
「ええ、雑誌で見たことがあります」
「ここへ来る前に、三か月ほど、滞在したんですけど、街中ですれちがうブブカを被った女をみてて、ふと、バーミアンの大仏に似てるな、ておもったんですよね」

 バーミアン渓谷には世界遺産の大麿崖がある。西に五十五メートル、東に三十三メートルの巨大仏をはじめとする、数知れない壁画や仏像が、断崖絶壁に描かれ彫り込まれた石窟仏教寺院だが、そのことごとくが、アフガン内戦のために破壊され、華麗な壁画は凌辱され、剥ぎ取られ、柔和で気高い仏面は大半を切り取られ、みるも無残な状態にあると聞く。
 
「似てるって、仏像のほとんどが、顔面、切り取られてるんでしょう?」
「ほぼ全部ですね、下あごギリギリからおでこ全部まで、ザックリ削り取られて、見るも無残です」
「そんな顔のない仏さんに、カンダハールの女が似てるって?……あ、そうか、ブブカで顔を隠してるから、ですね」
「まさに、そうなんです」
「でも、女と仏さんを比べるのも、なんだか、見当違いていうか…」
「それが、違ってないんですよ。なぜ、仏像の顔面を切り取るか、それは、仏像の具現するものが恐ろしいからです。怖くてしかたないんです。そして、なぜ、女の顔を隠すのか、それは、女の具現するものが恐ろしいからです。怖くてしかたいんですよ、ヤツらは」
「なにを、怖がってるんです?」
「仏の眼差しには、浄土から末法の世を射抜く力があるんです」
「オンナには?」
「ここに来るちょっとまえ、カンダハールの中心街で、けっこう激しい銃撃戦、あったんです。そんなとき、オンナ、コドモ、どうするとおもいます?」
「もちろん、逃げまわるでしょうね」
「ところが、そうじゃないんですよ。どこへも行かないんですよ、危ないところには」
「というと?」
「事前に知ってるんです」
「知ってる?」
「攻撃する方も、される方も、オンナとコドモは殺さない。どこでヤルか、まえもって通告するんですよ」
「聖戦だからですか?」
「いえ、ヤラセです。イスラムの子を産めるのはイスラムのオンナだけ、だからですよ」
「ヘ…」
「オンナは生命を宿し、生み、育てる。命の生成をつかさどる力を具現する、生の源なんです。だから、恐れる。目をあわせられない。面と向かって、なにもできない。だから、隠すんです、生の源から湧き出る力がみえないように。もし、オンナ、コドモに乱暴狼藉をはたらくとすれば、それは、恐ろしさゆえの、逆切れなんですよ」

 なんとも面白い見方をするものだ。一夫多妻とか、目には目を、歯には歯を、とか、世間でいうところの、イスラムの後進性からすれば、目から鱗の珍説だ。なにをバカなと、聞き流してもよかっただろう。しかし、オンナの生の源から湧きでる力、という、思い入れ過多の、ひとの気をそそる、どこか挑発めいた言い回しに、青年の初々しい反抗心の発露を感じとったのは、事実だった。反抗には体力がいる。体力は内から湧きあがってくるものだ。それを湧きださせるものは、実は反抗心そのものなのだ。

「内から湧きあがってくる力ですか…」

 ふと、思い出したことがある。子供のとき、病弱なわたしは、よく母親に連れられて、伯母の泥密教の巫女に、お祓いをしてもらいにいった。縦横に印を切る指先のまえで、異界から天下ってくるような呪文を聞きながら、あのとき、たしかに、からだの芯から、力が湧いてくる気がしたものだ。以来、自分にかかわる大切なものは、まずは自分のからだの芯に聞いてみる、という習慣が、身についてしまったようにおもう。
 そのせいか、どこかに言葉を避け、排除しようとするところがある。言葉が先行すると、それが振りまく言説や概念に曇らされて、自分の中にある、せっかくの内なる記憶が、蘇ってこなくなるのではないか、といつも不安になるのだ。

 小学校で、たまに映画見学会があった。当日、映画館に行くまえに、先生が、教室で、これから観る映画について説明してくれるのだが、その間、わたしは、ずっと耳をふさいで、懸命にほかのことを考え、外から何も入ってこないように、がんばった。
 初めて観る映画に、自分がどう反応するか、からだの芯がどう応えるのか、その方が、自分にとって、映画の内容を事前にしっておくことよりも、よほど大切なことにおもわれたからだ。知らないことは未知の世界だ。その未知の世界に対応できるのは、自分の中にある太古の記憶しかない。その記憶が、からだの芯から蘇ってくる。それを実体験することの方が、よほど大きな楽しみたったのだ。
 この青年にしても、生死を左右する体当たり取材に青春を賭けるくらいだから、よほどの力が、からだの内から湧きあがってくるのだろう。

「あなたは、勇気のあるひとだ。熱い、厳しい戦地に身を置くことで、水を得た魚のように、生き生してくる、そんな自分を、いつも実感していたいんですね。それができるんだから、大したものですよ。しかし、その情熱というか、力というか、どこから湧きでてくるんですか?」
「情熱? そんなカッコいいもんじゃ、ないんです。実は、オレ、メジャーになりたかったんですよね」
「メジャーって?」
「大手の報道媒体のことですよ。どうせカメラやるんなら、世間がひっくりかえるくらいの大スクープやって、メジャーに取り上げてもらって、あわよくば、サポートまで引き受けてもらう、そんな野心で、アフガンに行ったんですよね。かれこれ、十年になります」
「野心は達成、できたんですか?」
「ある程度はね」
「じゃあ、順風満帆、てとこじゃないですか」
「でもないんですよ」
「というと?」
「さっき、カンダハールの女とバーミアンの大仏のはなし、したでしょう」
「ええ、とても似てる、てことでしたね」
「あの、カンダハールでの銃撃戦のあと、タリバンにくっついて、あちこち、街路を探索して歩いたんですよ。ちょうど、バザールの前にさしかかったとき、数人のブブカ姿の女たちが、みちを避けようともせず、こちらに向かって、ゆったりと歩いてきたんです。タリバンの兵士たち、どうしたとおもいます?」
「当然、女たちの方が、みちを譲ったでしょうね」
「ところが、逆なんですよね、これが」

 青年によると、タリバン兵は、相手を威圧するどころか、目を伏せて路をゆずり、女たちがゆっくりとすれ違うまで、じっと立ったまま、まっていたという。

「へぇー、意外ですねぇ」
「オレ、そのとき、強く感じたんですよ。タリバン兵は恐れてる、女のなかの、ふつふつと湧きあがる、自分の手に負えない力に対して、はなから逆らう気はないんだ、てね」
「ほう、それが、あなたのいう、手に負えない、生の源から湧きあがる力、ですか」
「そうです。実際、オレも感じてたんすよ。ブブカの女たちは、摩訶不思議なオーラに包まれていて、どこか神秘的で、近寄りがたいなにかがある、てね」
「わかります。あのスタイルですから、大抵の日本人なら、そうおもうでしょう」
「うーん、そういうことじゃなくて…」
「後光が差してるとでも?」
「いや、そんなんじゃなくて、なんていうか、機銃で武装した歴戦の兵士が、借りてきたネコみたいに黙っちゃう、これに似たハナシって、どっかで聞いたこと、ありませんか?」
「あります。阿修羅のことでしょう。もともと、仏法を破壊する荒ぶる鬼神なのに、釈迦の説法に触れて守護神になってしまった、というハナシ、ですよね」
「それですよ。まさしく、その神話がですよ、現実に目の前で、再現されたような気がしたんですよ。で、オレ、そのときからですよね。仏像に惹かれるようになって、夢中になっちゃって、帰国するたびに、奈良に通うようになったんです」
「奈良ですか。東大寺あり、興福寺あり、唐招提寺あり、とにかく、仏教美術の宝庫ですものね」
「ええ。べつに京都でも、鎌倉でも、平泉でもいいんですけど、自分にとって、なぜ奈良か、といえば、実は、オレが通ってた学院の卒業生に、変わった先輩がいて、あの天平の阿修羅の魅力にはまりすぎちゃって、幻の女に幻惑されたあげく、最後には死んでしまった、というんですよ」
「えっ!…」

 背筋に悪寒が走った。白蛇に次いで、二つ目の符合だ。阿修羅の魅力に取りつかれたカメラマンが、幻の女に幻惑され、死んでしまう。なんという酷似なんだ。この震災を生き延びた大学ノートの、人格破綻者が書き連ねた奇譚集が、狙い撃ちするように、わたしの記憶領域に、じわじわと干渉してくる。不気味だ。なにかが時を手繰っている。だれかが糸を引いている。それはいったい、なにものなんだ。

「その先輩、事故に遭われたんですか?」
「そうです」
「交通事故?」
「ていうか、なんでも、ラッシュアワーのホームで、知らない女性に抱きつこうとして、通勤客にはね飛ばされて、ホームから転落して、ちょうど入ってきた車両に轢かれた、ということなんですけど、なんか、みじめ、ですよね」
「そうですねぇ。とくに、その、知らいない女性、というのに、引っ掛かりますね」
「オレも、そうおもいます。でも、正直いって、なんとなく、分るような気も、しないでもないんですよね」
「え!」
「いまとなっては」
「いまとなっては?」
「ええ、先輩は、仏教美術にはまっていたんですよね」
「そういってましたね」
「とくに、興福寺の阿修羅に、ぞっこん惚れ込んで、頻繁に通っていたんですよね」
「そのとおり、ですね」
「となると、ですね、いまのオレと、状況が、まったく、おなじなんですよ」
「なるほど。つまり、ブブカ女の、摩訶不思議なオーラに導かれて、バーミアンの大仏から、日本の奈良の仏像へと、たどりついた、わけですね」
「ええ。そして、いま、かつて鬼神だった、天平の阿修羅の虜になっちゃった、というわけなんです」
「あの阿修羅の、どこに、そんな魅力が?」
「どこに、惹かれるか、ですか…」

 青年は、空をみつめ、まるで生身の阿修羅がそこにいるように、はなした。熱のこもった語り口は、率直で、初々しく、虚飾のかけらもなかったが、妙に艶めかしく、肉感的で、あの奇譚集の、幻惑されたオトコと、翻弄するオンナの、赤裸々な死と誘惑のやりとりを、だれかが、青年を通して、現実に蘇えらせているようにおもえた。ひとの手の届かない、活断層の奥深くから、過去の悲痛な記憶が、勢いよく地上に噴き出し、さまざまな破壊と憤怒の噴煙が、現実の被災地一帯を覆いつくしている。そしていま、だれかが、なにかが、ひとの、拭い去りたい現世の悲惨な記憶を上書きし、はるか彼方の、安楽の来世に、つなごうとしているのだ。 
 わたしは、聞いた。

「結局、あなたが惹かれているのは、阿修羅という仏像、そのものですか、それとも、その向こうにある、なにか、または、だれか、なんですか?」
「その向こう、って?」
「あなたの先輩って、実は、阿修羅の背後にいるだれかに、こうやって手招きされて、そのまま逝ってしまったんじゃないか、とおもうんですけど、どうです?」

 水を向けながら、わたしは、ちょっとした文脈上の策略を、おもいついていた。青年の、ある意味でウブともいえる仏像観が、なにを起源にしたものか、さぐってみたかったからだ。天平の阿修羅像誕生について、市井が語り伝ぐ通説に、かれがどう反応するか、あえて試してみたかったのだ。

「手招き?」
「ええ、こちらへ、こちらへ、と、なにものかが、手招きしたんですよ、きっと」
「もしそうだとしたら、不気味なハナシですね」
「不気味でも、不思議でも、ありませんよ。よくある、精神が研ぎすまされて、高揚してくると、いろんなものが見えてくる、あの現象ですよ」
「では、だれが見えたんですか、ね?」
「想像するに、あなたの先輩は、目では阿修羅像をとおして、心では光明皇后を追い求めていたんじゃないかと、おもうんですよね」
「光明皇后?」
「そうです。聖武天皇の妃で、福祉の原点といわれる活動を始めたひと、慈母観音と敬われている所以です」
「なんか、ゾクッと、きますね」
「きいたこと、あるでしょう?」
「ええ、もちろん。夭折した王子を忍んで造らせたのが、あの天平の阿修羅像だと、いわれてますし、八部衆のなかには、ほかにいくつか、子供っぽい面をしてらっしゃるものもありますね。でも、先輩がみていたものは、そんなもんじゃない、と、オレは、おもいますね」
「ということは、あなたも、先輩が阿修羅の向こうを見ていた、と考えてる、ということですね?」
「はい」
「では、なにを?」 
「オレ、おもうんですけど、先輩の場合、当時トレンドだった、永劫回帰、みたいな考え方、あるじゃないですか、どうも、その辺からきてるなって…」

 なるほど、仏像塑造の歴史的背景よりも、生きる意味を根本から問い直す、哲学的アプローチの方に興味があるらしい。策略は見事に外れた、ということになる。つくろはなければならない。

「永劫回帰って、要するに、延々と同じことをくり返す人生は無意味だから、勇気をもって、何度くり返しても面白い人生になるように、挑戦しろ、ということでしょう?」
「ま、簡単にいえば、そういうことです、よね」
「しかし、それって、仏教徒にとっては、千九百年まえに生まれた般若心経のなかに、色即是空、空即是色、という思想があって、いってみれば、わたしたちの文化に浸透した、というか、肉体化した、ごく当たり前の、考え方じゃ、ないんですかね」
「ま、そういうことです、よね」
「とすると、先輩は、阿修羅の向こうに、なにを見ていたんですかね?」
「さっき、オレがはなしてた、あの、生の源、ですよ」
「ふつふつと力を湧きださせる、あの、生の源、ですか?」
「はい。先輩は、やっと生の源を見つけたんですよ。あの見知らぬ女性が、その具現者だったんです。だから、かれは、身を賭してでも、その力を手にいれたかった」
「すると、あなたのブブカ装束の女の場合は、どうなんでしょう?」
「ブブカ女は、生の源、そのものです。そして、生の源に力をそそぎ生成を司る尊いもの、つまり、仏を具現する存在なんですよ。獰猛な兵士も手が出せない」
「じゃあ、あなたの、天平の阿修羅像は、どういう存在なんですか?」
「オレにとっての阿修羅は、仏を包摂する宇宙の具現者、つまり、現世における、生成宇宙の化身、とみてるんです。ですから、その向こうには、ですよ、生成を司る宇宙、があるのみ、なんです」

 分からなくはない。命を育む女体の、生殺与奪のカギをにぎるのは、だれか。女体を殺めればヒトは滅びる。女体を生かせばヒトは殺しあう。戦いの渦中で研ぎすまされた鋭敏な感覚が、青年を、刹那ぎりぎりの生死観に誘っていることはたしかだが、そうなる自分を、もう一人の自分が見ている、というところにまでは、まだ至っていないようだった。

 
「オレ、変なこと、いってますか?」
「いや、とても興味深い、というか、鋭い生死観だな、とおもいますが…」

 わたしはつづけた。

「時間軸が、よく、わからないんですよね。つまり、生成を司る宇宙と阿修羅、そして自分、この三つが、ですね、どういう時間軸でつながってるんだろうな、と、どうしても考えてしまうんですよね」
「時間軸?」
「ひとは、時間と空間のなかで、生きていますよね。空間とは、この宇宙ですよ。そして時間とは、過去、現在、未来とつづく、連続したときの流れ、ですよね」
「そう、ですね」
「では、そこでの、あなたの立ち位置って、どうなるんでしょうか?」
「立ち位置ですか? それは、もちろん、現在ですよ。いま、こうやってしゃべってるのが、自分ですから」
「すると、あなたの過去は?」
「オレの過去? それは、すなはち、オレが生きてきた、いままでの時間、ですよね」
「まさに、そうですが、それを証明するものは?」
「証明するもの?」
「あなたの過ぎ去った時間が、あなた自身のものであることを証明するもの、です」
「それは、当然、記憶でしょう」
「そうです。まさに、時間は記憶なんです。たとえば、ですよ、ひとに名前を聞かれて、いいたくないとき、どうします?」
「偽名をつかいますね。さしずめ、オレの場合、神田春樹、くらいですかね」
「いい名前だ、カンダハールの神田春樹。でも、その偽名をわすれてしまったら?」
「べつに、どうってこと、ないでしょう」
「そうなんです。しかし、自分の本名をわすれてしまったら、どうなります?」
「そんなこと、まず、ないでしょ」
「そうでしょうね、ハルキさんは、まだ、若いから、認知機能のことなんて、考えたこともないでしょう」
「認知機能?」
「実は、この大震災の直前、父が他界したんです」

 青年は姿勢を正し、ご愁傷さまです、と悔やみをいった。わたしは、ありがとう、と礼をいい、はなしを続けた。

「父は、認知症でした。数年まえから、自分の名前をいえなくなってたんです。記憶が消えてきたんです。自分がだれか、分らなくなってきたんですよね。自分の記憶がなくなったら、どうなるとおもいますか?」
「記憶の喪失ですか」 
「喪失じゃないんですよ、消失なんです。過去は記憶、でしたよね。記憶が消失するってことは、過去が消えてしまう、ってことです。つまり、自分がなくなってしまう、ということなんですよ。悲惨なことだと、おもいませんか」
「そうすね…」

 青年は 望遠レンズをにぎったまま、うつむいて、だまってしまった。どう応えればいいのか、分らないでいるようだった。すこし、気まずい空気がながれた。

「あのぅ、焼きそばのおかわり、いかがですか?」

 助け舟をだすつもりか、スキー帽の青年が、わきから声をかけてきた。

「出来立ての熱いとこ、まだ、ありますよ、どうぞ食べてください」
「いや、もう、おなか、いっぱい、ごちそうさまです」

 わたしも、あご髭の青年も、辞退した。が、スキー帽の青年は、引き下がらずに、話題を転じてきた。

「ちょっと、いいっすか、キャパさん」
「オレがキャパ?」
「そうすよ、戦場のカメラマン、そのものじゃないすか。偽名つかうなら、キャパですよ。で、そのキャパさんに、さっき、聞きたいことがあったんですけど」
「なんでしたっけ?」
「アジャンタのはなしのときに、仏像の由来について、ギリシャとかエジプトとかって、いってましたよね。あれって、どういうことですか?」
「そうそう」

 あご髭の青年キャパは応えた。

「途中で、はなし、かえちゃって、もうしわけなかったよね」
「いや、オレ、興味津々ですから」
「たしか、初期の仏教に偶像崇拝はなかった、というはなし、でしたよね」
「オレも、釈迦が、自分の像を造ることを禁じたり、信徒も、かわりに法輪を拝んだり、してたくらいのことは、知ってるんですけど」
「その法輪が、いつ仏像にかわったか、ということだよね?」
「そうすね」
「ナイル川流域で農耕がはじまったのが約五千年まえ、三千年まえにエジプト文明が形成されたんだけど、流域に発生した村落を統合するのに二千年かかってんだよね。それでもまだ王国は誕生してないんだな」
「急に、エジプトのハナシ、ですか?」
「古代エジプトの最初の王朝が誕生したのが二千六百年まえで、そのちょっとまえに、バルカン半島からギリシャ人が南下してきて、エーゲ文明が興ってるんだよね」
「今度はエーゲ文明ですか」
「べつにオレ、世界史の復習してるわけじゃないんだけど、要は、それぞれ、仏像の誕生に寄与してる、てことなんだ」
「古代エジプト王朝と古代ギリシャ文明、がですか?」
「そう。王朝を興すまでは戦がある。軍が必要だ。王朝を治めるにも軍が必要だ。軍は兵でできている。この時代、国民国家なんて概念、まだないからね。兵といえば親衛隊、農民主体の重装歩兵、そして、いざとなれば傭兵にたよる、て感じ、だよね」
「いまでも、アラブ諸国のなかには、傭兵で軍を賄ってるとこ、あるもんね」
「あれは、ちょい、意味がちがうんだけど、ま、いいや。とにかく、古代エジプト王朝は、国を守るため、頻繁に傭兵を必要としたんだ。なかでも、勇猛果敢で屈強なギリシャ兵を、主に傭ったらしいね」
「へー」
「そのころのギリシャって、貧しい農耕民の集合体だったんだよね。技術といえば、せいぜい青銅の造形技術だったり、文化といえば地味で簡素な雑器つくりだったり、とかして、あの、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの、哲学思考の黎明を告げた三哲人なんか、想像もできない貧乏国、だったらしいよ」
「そんな貧乏国が、なんであんなに、高度に発展した、豊かで聡明な、古代文明を築くことが、できたんですかね」
「そこに、エジプトが絡んでくるんだよね」
「どんな風に?」 
「なにもギリシャに限ったことじゃないんだけど、農耕民の家系って、長男が農地をつぐことに、なってたらしいね。だから、次男、三男、その他大勢は、自分で食い扶持を探さなくちゃなんなかったんだ」
「そうか、それで、食い扶持探しのためエジプトに」
「出稼ぎにいって傭兵になった、というわけなんだな。三年から五年の契約だったらしいよ」
「つらいものが、ありますね」
「つらいどころか、みんな、よろこんで、先を争って、応募したらしいぜ」
「先を争って兵隊に? よっぽどギャラがよかったんだ」
「それもあるけど、ほら、ギリシャの田舎者にとってさ、ピラミッドあり、スフィンクスあり、大神殿あり、実り豊かで裕福で、みたことないもの何でもありのエジプトって、超先進国だったんじゃ、ないかな」
「なるほど、だから、先を争って…」 

 二人して、エジプトとギリシャが、仏像の誕生にどうかかわるのかをめぐって、おおいに盛り上がった。そして、アレクサンドロス大王が、東邦遠征によって、ギリシャからインド北西部にいたる大帝国を建設していく途上、多くの地域に軍事拠点を築き、つぎつぎとギリシャ人を植民させていった。その一つにガンダーラ地方があって、まさにそこで、ギリシャ人と、アジャンタから持ちこまれた布教中の新興宗教である仏教との間に、運命的な出会いがあった、というところまでたどりついた。

「そうか、そこでアジャンタとつながるんですね!」
「でもさ、そのころは、まだ、仏像はなかったんだよな」
「まだっすか?」
「まだ紀元前二百年だよ。大王が大帝国を築いてから、まだ百年しかたってない」
「ということは、仏像誕生までに、まだ何年も?」
「まだ三百年は必要なんだね」
「三百年も!」
「ギリシャと仏教が出会ったとき、仏教は、まだ崇拝する偶像をもたず、出家して、ただひたすら厳しい修行をつむことで悟りをひらき、救われる、という世界だったんだな。これ、世間一般には、小乗仏教の思想なんだけど、そっから大乗仏教までには…」
「ち、ちょいまち!」

 スキー帽は指で年代を数えはじめた。

「いいっすか、遡ること、古代エジプト初代王朝三千年、古代ギリシャ文明勃興二千七百年、仏陀誕生二千五百年、アレキサンドロス大帝国建設二千三百年、ギリシャ人仏教に出会う二千二百年、そして仏像誕生まるまる年…これ、何年まえっすか?」
「あわてない、あわてない。誕生までには、もう一つ超重要な立役者が、いるんだよね」
「だれっすか、それ?」
「遊牧騎馬民族のクシャーン人だよ。ユーラシア大陸を縦横無尽に跋扈していた連中さ」
「クシャーン人?」
「ユーラシア大陸に一大帝国を築いた民族でね。三世紀の三国時代には、魏とも関係があったらしいよ。魏志倭人伝の魏、だから、日本は、ちょうど卑弥呼の時代だね」
「卑弥呼っすか!」
「いまは一世紀のはなし。クシャーン人は、拝火教を信じるイラン系の騎馬民族で、農地農耕民を略奪殺戮しまくった、いってみれば、阿修羅とおなじ、荒ぶる騎馬軍団だったんだよね。その連中が三世紀にかけて、海と陸のシルクロード交易で猛烈に稼ぎまくって、一大クシャーン帝国をうち建てた。ちょうど二世紀に最盛期をむかえるんだけど、そのときの王がカニシカっていってさ、それがだよ、仏像誕生に、計り知れない影響をあたえたんだよ」

 なるほど、あご髭キャパは、よく知っていた。実際に仏教が広まり、仏像が誕生した地域を、カメラという武器をもって獲物を探しまわっているのだから、草原や藪のなか、土漠の風や水や土、熱砂の太陽や極寒の月明かり、人や街や集落、汚物、排泄物…そしてもろもろの構築物をとおして、五感、六感をはたらかせ、仏像が旅してきた空間と時間の記憶を、動物的感覚で嗅ぎわけ、本能的に手繰りよせることが、できているのかもしれない。

 しかし、阿修羅のごとき荒ぶる騎馬軍団とは、いいえて妙だ。実際、クシャーンの騎馬軍団は、インド殺しといわれる未踏のヒンドゥークシュを超え、カブールを制圧し、すでに多くの仏教寺院が建てられていたガンダーラを手中にしたが、その間、かたっぱしから仏教徒を殺しまくった。それに飽きたらず、さらにインド中央部に矛先を向け、侵略、殺戮、略奪、悪の限りを尽くし、インド西半分を制圧、ガンジス川中流域まで支配下に収め、マトゥーラに拠点を置いた。このとき、ものの本によると、かってない大規模な侵略に抵抗するため、ほぼ九億人のインド人が戦闘で殺されたと伝えられる。まさに阿修羅という鬼神の所業そのものではないか。

「そんなに殺されたら、いなくなっちゃうじゃ、ないっすか」
「オレもそうおもうよ。ただ、九億人ってさ、たぶん、仏教史記に加筆された、布教のための誇張だろうね。生死の境に追い込まれ、その恐ろしさのあまり仏陀に救いを求める、つまり、法輪や仏塔よりも、実際の仏の姿を拝みたい、と心底もとめる動機となった、極限の恐怖の大きさを伝えようとしたんじゃないかな。事実、この震災で、ほら、神戸の、あの辺りの地区だよ、あそこで、生きたまま焼かれて死んでいったひとたち、いっぱいいたんだよね。想像できるかい? 考えただけでも、戦慄が走るよね。焼かれたくない! 死にたくない! たすけてくれ!って、救いをもとめて必死になるよね…」

 二人の会話はつづいた。キャパによると、恐怖の大きさははかりしれず、ひとびとは、一心に祈るなかで、仏陀の姿をみたい、仏陀の声をききたい、と、せつに願うようになった。そして、そのとき、エジプトの巨石文化を受けついたギリシア人がバルテノン宮殿を建てたように、ギリシャの彫像文化を受けついだガンダーラの仏教徒が、石に仏陀を刻むことをおぼえた、というのだ。

「現に、中央に仏陀、右にヘラクレス、左に豊穣の女神、そして背後にアレキサンドロス大王の像を彫りこんだ石の断片が、ガンダーラで発見されてるんだよ。ほら、こうやって仏像は、誕生したんだよ」 
「しかしさ、偶像の誕生は、支配者カニシカ王にとっては、まずいことじゃなかったんですかね。カニシカさん、仏教を弾圧しなかったんすかね?」
「弾圧するどころか、帝国の支配拡大と安定統治に、おおいに活用したと、つたえられているね」
「したたかー!」
「それどころか、拠点にしていたペシャワールに、巨大な仏塔まで建ててるんだぜ」
「そこまでやるかー、っすね」
「そこまでやるかー、じゃすまないね。最終的には、カニシカ王、仏教に帰依したと、経典資料にかかれてるんだ」
「仏教徒を殺しまくって、最後には帰依ですか」
「だから、さっきもいったけど、まるで荒ぶる鬼神、阿修羅、そのものなんだね、不思議なことに、さ」

  日が傾きはじめていた。気がつくと、いつのまにか、ネコやイヌが集まっていた。スキー帽が、鉄板の焼きそばをかき集めながら、いった。

「みんな、しっかりしてますよ。食べるころになると、ちゃんと集まってくる。それに、ほら、目の色も違うでしょ」
「このイヌやネコたちは?」
「被災者なんですよ、かれらも」
「なるほど、飼い主がいなくなったり、家がなくなったりして、帰るとこがなくなったペットですね」
「イヌはそうですけど、ネコは、ほとんどノラですよね」
「ノラ?」
「ペットはノラに勝てませんから。ほとんど駆逐されちゃったみたいです」
「なるほど…」
「それに…」
「それに?」
「変な死に方、してるのが、けっこういるんですよ」
「変な死に方?」
「ていうか、殺され方、ていった方が、いいかも」
「殺され方?」
「オレ、ここに来て、まる一週間たつんですけど、いままで五匹、みましたよ」
「なにを?」
「首がない、右足がない、左足がない、尻尾がない、バラバラ…しかも、ですよ、毎回、オレの造った、このカマのなかに、放りこんであるんですよ!」
「ゲェェー!」

 わたしもキャパも、おもわず叫んでしまった。スキー帽は説明をつづけた。

「最初はびっくりしましたね。あさ起きて、洗顔すませて、火をおこそうとカマドをのぞいたら、灰の上に、白黒ブチのネコが死んでるんですよ。ネコって、死ぬときは人目のいないところを選ぶ、ていうじゃないですか。オレ、てっきり、帰る場所がなくなった年寄りの家ネコが、灰の上はあったかいので、自分の死に場所に選んだんだな、さぞ寂しかったろうな、ちゃんと穴ほって、土に返してやるからな、なんていいながら、カマドからとりだしたら、首がないんですよ」
「ひでえことするな!」

 キャパが吐き捨てるようにいった。

「避難生活でストレスたまってるったって、これ、ひどい、偏執狂もいいとこだよな!」 

 急に気分がわるくなってきた。それでなくても、この大震災という、人智を超えた力に痛めつけられているのに、いまさら、ヒトの嗜虐的な悪行のハナシなど、わざわざ聞きたくもないとおもった。

「で、オレ、トイレの裏のヒバの植え込みに穴ほって、ていねいに埋めてやったんですよ。ところが、すよ、あくる日、あさ、また捨ててあったんです。今度は、トラの右足ですよ。そのあくる日は、シロの左足、その次はまたブチの右足…」
「毎朝なのか?」

 キャパがきいた。

「そう」
「なんで見張んなかったんだよ!」
「すんません、オレ、寝つき、いいもんで、寝ちゃうとぐっすり、なんすよね。でも、いろいろきいてみると、いろんなところで、似たようなことが起こってるんですって。あの、丸焼けになった地区、あったでしょう、あそこら辺では、イヌネコにかぎらず、こんな単純な殺し方じゃなくて、ずいぶん手の込んだ、なぶり殺し、みたいな、おもいもつかないひどいこと、やってるみたいっすよ…」

 しばらく、二人で、阪神淡路大震災の、被災生物の実態について、情報交換に興じているようだった。気が滅入りかけていたわたしは、これ以上むごい事実を知らされると、伝統的に無常観や厭世観で締めくくれたはずの被災者心理が、自然災害の枠をこえて、容赦なく人災の領域に侵入し、あっといいうまに恨みの淵に引きずり込まれていくのではないか、と得体のしれない恐怖を感じた。

「こわいですねぇ。ヒトの恨み心には、測りしれない深みがありますからねぇ…」

 場を辞するタイミングをねらって、わたしはいった。

「わたしは、これで。明日も、ここに?」
「はい、もう何日か、がんばります」
「オレは、あした、かえります。締め切りがありますんで」

 スキー帽がこたえ、キャパがつづけた。そして二人そろって、締めくくった。

「いろいろ、ありがとうございました。おもしろいハナシ、すごく、参考になりました。失礼します」
 
 この震災復興のさなかで、活力に満ち、生命力にあふれた二人の青年と出遭ったことは、先の短いわたしにとっても、生涯、記憶に残る、稀有な出来事だった。なによりも、曇りのない無垢な潔さが透視するかれらの未来が、どれほど高い密度で経過し、どれだけ大きな規模で展開していくか、考えただけでも羨ましかった。
 キャパは帰るといっていたが、スキー帽はまだ頑張るといっている。あす、また行ってみよう。自分のなかに、まだ若い力と共有できるなにかがあれば、もう少しそれを味わってみたい、とおもった。
 余談になるが、わが家の駐車場は、スライド式の鉄扉で開閉する。入口の桁部分に十五メートルほどのH鋼を固定し、そこから三枚の鉄扉を吊りさげ、裾に装着した滑車で床部分に埋め込んだレールに沿ってスライドできるようなっている。
 今回の震災で、H鋼にはそれほど影響はなかったが、床埋め込みのレールが、活断層の滑り変位で歪に変形してしまい、鉄扉がうまくスライドできなくなっていた。施工業者に診てもらうよう依頼していたが、それが丁度あす来ることになっていた。
 翌日、診断の結果は最悪だった。レールはもちろん、大したこともないと踏んでいたH鋼にもかなりの歪みがあって、変形の部位や度合いの違いから、別々に修理すると時間もコストもかかりすぎるので、そっくり取り換えるのが良策だろう、という。かなりの出費になりそうだ。
 昼近く、見積もり作業をおえた業者が帰ったあと、すぐ公園にいった。あの旨い焼きそばをもう一度味わって、昼の空腹を満たすつもりだった。だが、期待は見事に裏切られた。
 野営窯には火が入り、鉄板上には焼きそばの山がいくつか盛ってあったが、スキー帽はいなかった。窯のまえで、ソースの焼ける匂いに鼻を動かせていると、トイレの裏側から数人の話声が聞こえてきた。たしかにスキー帽の声がきこえる。数人の質問に対して、逐一、丁寧に答えているようだった。ネコとかハカとか、断片的に耳に届く語彙を総合してみると、ネコのハカが原因して、スキー帽が、なぜか糾弾されているようだった。

「そんなこと、知りませんよ!」

 いきなりスキー帽の怒鳴り声が聞こえてきた。

「ですから、さっきからいってるでしょ! あさ起きたら、首なしのネコが、カマドに捨ててあったんですよ!」

 かれの怒りから、瞬時に事の成り行きを理解した。被災地区の方々で、被災生物に虐待被害が出ているときいたとき、漠とした不吉な予感に気分がわるくなった。鬱積した被害者意識が、やり場のない怒りの捌け口を、求めている。現に、いまスキー帽が、その身代わりに狙われている。ただただ善意と友愛の心から出た誠実な救援活動なのに、悪意と企みの心に根を張る邪悪な作為によって、誹謗中傷の的にされようとしているのだ。
 傷ついた未熟な誠実さが、痛ましかった。青年には手を貸してやらなければならない。猜疑の迷路に足を踏みいれてしまうまえに。

「あのう、失礼ですが…」

 トイレの裏をそーとのぞき込んで訊いた。

「なにか、あったんですか?」
「え、なんですか?」

 若い警官が三人、振りかえりざま、それぞれ、紋切り型の質問を浴びせてきた。

「トイレ、探したはるの?」
「入口は表側やけど」
「あなた、被災者?」
「住まいは、どちら?」
「散歩ですか?」
「なんか訊きたいことでも?」

 ずいぶんぞんざいで忙しい対応だ。

「いえ。なにか、問題でもあったのかと、おもって」
「問題?」

 警官は、また矢継ぎ早に、訊き返してきた。

「なんで、そう、おもわはるの?」
「なんの問題やと?」
「ここへは、よく、来はるんですか?」
「そうかぁ、あのカマド、温いもんねぇ」
「これだけ冷えたら、火も恋しくなるもんねぇ」
「焼きそばも、旨いしなあ」
「ほんま、被災者さんには、ええボランティアさんなんやけど」
「なんやけど、とは?」  
                
 憮然として訊き返すわたしに、警官たちはいった。 

「遠いとこから来てくれはって、まいにち、美味しいもん、つくってくれて、被災した方々も、大変、感謝してらっしゃるんですよ」
「それは、たしかなんです。みんな、喜んだはります。たすかる、たすかる、いうて。それはそうなんなんやけど…」

 はっきりしない言い方だ。まるで青年が、被災者の逆鱗に触れる失態を犯してしまったことを、遠回しに分からせようとしているように、聞こえる。
 わたしは訊き返した。

「そうなんやけど、なんなんです?」

 すると、警官の一人が、怪訝な顔つきで問いかけてきた。

「そやけど、なんで、そんなに、気にならはるんですか、あなたは?」
 そしてまた三人で、質問をならべたてた。
「あなたは、あのヒトと、お知り合いかなにか、ですか?」
「どういう関係ですか?」
「いや、これ、なにも、疑ってるわけではないんですよ」
「ただ、確認のための質問事項、なんです、仕事上の、すんません」
「ちょっとまってください!」

 青年が、たまりかねた様子で、割って入ってきた。

「このひとには、なんの関係も、ありませんよ!」
「だと、ええんやけど」
「どういう意味ですか!」
「時期が時期やし」
「場所も場所やし」
「いいかげんにしてください! 被災したひとが大変だろうとおもって、みなの力になろうと、みなの集まる公園で、ボランティアやってるんじゃないですか。それの、どこが、変なんですか」
「いえ、そういうはなしじゃ、ないんです」
「わたしら警官は、職務上、確認しなあかんことは、確認せんといかんのですよ」
「べつに、なにも、あなたがたを、疑ってるわけでは」
「いや、疑うもなにも、そんな根拠、どこにもありませんし」
「ただ、ここで起きてることを耳にしましたんで、その確認はしとかんと、あきませんわな」
「あきません、わなぁ、ですって」
「はあ」
「ひとをバカにするつもりなんですか!」
「いえいえ、とんでもない、ひとをバカにするやなんて」
「だったら、なんなんですか、その、わなぁ、って?」
「いや、どういうたら、ええんやろか。ただ、ここで起きてることを耳にしましたんで、その確認はしとかんとあかん、なぁ、ということなんやけど」
「その、ここで起きてること、って、なんなんですか!」
「そんなに、おこらんといてくださいよぉ」

 今度は、怒る青年を、諭しにかかった。

「ただの確認、だけなんですからねぇ」
「ほんま、確認したいだけ、なんですよ」
「ほんなら、どう確認するかやけど、ここで、いろいろ説明するのも、なんやし、どうですやろか、分署の方に、来ていただけませんやろか」
「一応、分署に、いままでの記録も全部、保管してありますし」

 そして、わたしに向かっていった。

「おたくさんも、いっしょに来はったら、いかがですか。その方が、地域全体で、なにがどうなってんのか、把握すんのに、早道やとおもいますけど」

 分署は、公園から数百メートル浜側に下った、国道二号線のごく近くにあった。道路の喧騒から、普段と変わらない交通量が想像できる。発災後二か月もたたないうちに、流通規模をもりもり復元させる、なんと頼りがいのある地域経済の底力か、などと玄関先で感心していると、初老の警官がやってきて、入口脇に設けられた、たぶん仮設の、被災防災安全コーナーに案内された。
 溢れんばかりの人込みのせいか、暖房の効きすぎか、いつの間にか全身汗でびっしょりになった。外套を脱いで座りなおした。隣にいた青年も、カーキのダウンジャケットを脱ごうとした。そのとき、重ね着したベストが一緒に脱げそうになり、胸部が露わになった。それをみて、おや? とおもった。下着の白いTシャツが汗で躯体にはりついたせいか、膨らんだ胸部の輪郭がクッキリとみえた。どうみてもオトコの胸ではない。柔和な膨らみは、鳩尾のあたりで一度引き締まったあと、なお鷹揚な丸みを帯びて、腰部の後ろ側まで延びている。目線を感じた青年は、ジャケットを折りたたんで膝におき、ベストのファスナーをキュッとひき上げた。

「お待たせしました」

 さっきまで一緒にだった警官の一人がやってきた。片手に重そうなファイルを抱えている。

「お分かりだとおもいますけど、ここは震災防災安全を担当しておりまして…」

 簡単な業務説明をしたあと、ファイルを開きながらしゃべりはじめた。発災後にこのコーナーを立ち上げた経緯、兵庫県警や消防との関係、管区割り、災害時の分署任務、緊急時における役所の立ち位置などについて、二人にとっておおよそ興味も関心もない口上を垂れたつづけた。

「ちょっと、まってください」

 青年がいら立って中断した。

「オレ、べつに、兵庫県警の管轄で、役所がなにやってるのか、ぜんぜん、興味ないんすよね。なんでオレと、このヒトを、ここに呼んだんすか?」
「そやそや、そやったねぇ」

 ごく事務的な風をよそおって、警官は応えた。

「まさに、そのこと、本題を、ね、いま、説明せなあかん、と、おもてるとこなんです」

 説明によると、本題は、動物虐待どころか、ほとんど猟奇的といってもおかしくない事例が、被災地区の方々で多く報告されている、ということだった。分署にかぎらず、アクセスしよい派出所には、頻繁にその種の苦情、届け出、問い合わせが寄せられているという。

「どんな事例があるんですか?」

 二人して異口同音に訊ねた。

「たとえば、ですねぇ…」

 警官は、何度もページを繰ったあと、閉じようとするファイルをアクリルの定規で押さえながら、いった。

「たとえば、これ、これ、ですわ…」 

 警官がいうところの猟奇的な事例というのは、単なるストレスや鬱屈への逆切れ反動ではなく、混乱状況をさらに混乱させて喜ぶ、愉快犯色の濃い犯罪が主だった。

「これなんか、ほんま、そのまんまでしょう」
 警官は続ける。

「ほら、瓦礫の中から首のない猫の死骸、とありますけどね、まあ、これなんか、ネコが死ぬまえにわざわざ自分の首切りますかぁ、ちゅう、典型的な愉快犯、ですわなぁ」
 
 当然なことに、青年が割って入った。

「ほら、ちゃんとここに、報告してあるじゃないすか! なんでオレのいうこと、信じてくれないんすか」 
「いや、信じてますよ、けっして、ウソやなんて、おもてませんよ。ただ…」
「ただ、なんですか?」

 わたしも割って入った。

「要領えませんな。さっきから、本題の説明ということですが、わたしたち二人にとっての本題は、ですよ、いま、なぜ、二人がここにいるのか、教えてほしい、ということなんですがね」
「そのとおりですわ」

 警官は、すこし居直った様子だった。

「ほんなら、はっきり、いわせてもらいましょか。今月半ばになって、三田の方に、動物救護センターが設置されましてね、さっそく、この辺りに、いっぱいやった被災動物が、やっと、収容できるようになったんですよ」
「ほう、それは、なによりじゃないですか」
「それは、ええんですけど」
「また、けど、ですか」
「はい、また、けど、なんですわ。というのはね…」

 警官によると、被災動物の大半は犬、猫の類で、動物愛護関連の団体や法人、有志、賛同者の尽力で、ほぼ見込み通り、保護なり収容なりされているが、なかには蛇とかイグアナとか、いろんな小動物とか、珍しい爬虫類生物の被災事例もあって、生きたまま捕獲されたものはなく、ほとんどが死骸で発見されている。御多分に漏れず、ペット業界も多様化の時代で、被災生物が多様化するのもうなずけるが、奇妙なことに、傷ついた個体や死体に、顕著な猟奇的衝動のあとが窺われる、ということだった。

「猟奇的衝動?」
「これを見てください」

 警官は、アクリルの定規をはずし、付箋を貼りつけたページの一つをめくった。

「これ、これ、ここからそう遠くない地区から上がってきた報告書ですけどね、ほら、この写真、なんやとおもわはります?」
「あ、ヘビの尻尾!」

 すかさず青年が反応した。

「これ、けっこうデカイっすよ。ひょっとして、ニシキヘビ?」
「そうやろなぁ、結構太いし、柄からして、ニシキヘビかもしれまへんなぁ」 
「あ! こっちにも」
「それだけやおまへんで」
「あれ!」
「これ、さっきの続きですわ」
「胴体!?」
「そう、ぶつ切りの胴体、や。これ、二つ目ですわ」
「二つ目、って?」
「まだまだ、続くんですよ」
「あ、これで、三つ目?」
「それだけや、おまへんでぇ」

 警官はパラパラとページをめくった。

「ほら、これで四つ目、三つ目の二日後にみつかった、ぶつ切り、ですわ。そして、その翌日でっせ、ほら、ドカーッと、立派なのが、写ってまっしゃろ」
「ウッ、アタマ!」
「五つ目ですわ、五つ目はアタマですよ、ヘビのカシラ。まあ、これで、だいたい、お分かりでっしゃろ」
「つまり」

 わたしもおもわず口を挟んだ。

「事例の猟奇性、ということですね」
「そういうこと、ですわ」

 深くうなずくと、さらにパラパラとページをめくり、警官は続けた。

「これはヘビの事例ですけど、ほれ、こっちはイグアナの事例ですわ、ね、推して知るべし、でしょ?」

 A4サイズの報告書数ページに、べたべたと、異様な写真の写しが張りつけてある。その一つ一つに、目を背けたくなるような画像が印刷されていた。二つに切断された尾の部分、しかもアジの開きのように、丁寧に真半分にスライスしてあるのだ。
 
「異常だな」
「ほんとに、異常ですよねぇ」

 青年と二人して、共に嘆息した。警官は、これ見よがしに、次々とページをくった。

「この辺になると、ため息どころじゃありません。見てくださいよ。翌日、五十メートル離れた瓦礫の下でみつかった、イグアナの尻尾の、二つ目のぶつ切りです。その次の日、これでっせ、これ。ロブスターの網焼き、みたいでしょ? これ、イグアナのカシラの炭焼きですわ。きれいに、真っ二つに、裂いてありまっせ。美味しそうな焦げ目まで、ついてますがな」

 また二人して、今度は絶句した。警官は続ける。

「これ見たら、胴体がない、どこ行った! と思わはりませんか? 普通の人なら、そうおもいますよね。わたしも普通のヒトなんで、そう思いました。で、一生懸命、探したんですよ。そしたら、ほら、こんなとこに、手、足、胴体、ばらばらにして、捨ててあったんですよ」
「どこですか、ここは?」

 二人とも、乗り出して訊いた。

「公園ですよ、公園のトイレの裏です。ほら、さっき、みなさんとお話ししてたでしょう、あの、公園の、レンガ造りのトイレの裏側の、植え込みですよ」
「え!?」

 青年がすかさず反応した。

「オレ、来たとき、そんなもの、なかったすよ!」
「そりゃそうですわ」

 警官が応えた。

「あなたが来る一週間前に、やっと見つけて、ちゃんと処分、しましたからねぇ」
「オレが来るまえって?」
「あなたが、あの公園に来るまえ、ですよ」
「オレが来た日、なんで知ってんですか?」
「日本の交番でっせ」
「どういう意味ですか?」
「抜かりはない、ということですわ。港町神戸はすぐそこやし、外国の方は仰山いらっしゃいますしね。はやいはなし、イグアナが美味しい、ちゅうヒトも、仰山、いはるかもしれまへんよぉ」        

  公平無私をモットーとする公僕にしては、かなり引っかかる発言のようにもおもえたが、グロテスクな現場の惨状に苛まれつづける異常事態にあって、なんとか毎日をクリアし、遜色ない公務に努めようと四苦八苦する心労を忖度すれば、取るに足りない危惧にもおもえた。

「いろんな方がいらっしゃるから、大変でしょう」
「ご理解いただけるんですか。そんな優しいいお言葉いただいたの、初めてですわ。ほら、もうお気づきでしょう」

 警官は、人いきれでむせ返る署内の混雑に目をやりながら、いった。

「水が出ん、給水車よこせ、電気つかん、発電機よこせ、家倒れるぞ、早う解体屋よこせ、いつコケるか分からんぞ、コケてケガしたら責任とるんかい、木造家屋やで、コケたら燃料の山や、火つけられたらどうすんねん、早う片付けよ、早う清掃車よこせよ、くそうて、ふけつで、たまらんわ、早う立ち入り禁止にせんかい、火事場泥棒が闊歩しとるぞ、警察は市民の財産と命を守るんと違うんかい、強盗きたらどうすんねん、ピストル下げて逃げるんかい! いいかげんにせんかい!…朝から晩まで夜中まで、この調子ですわ、苦情の押し付けばっかしですわ。うちは市役所やない、役所にいけー! ちゅうのに、聞く耳もたず、見境がおまへん。被災生物にしても、そうでっせ。本来なら市役所の管轄なんやけど、ほら、事例の猟奇性ちゅうやつがあるでしょう、あれで、犯罪色が濃い、ちゅうことで、分署の管轄に無理やり押し付けられてしもたんです」
「日本人て、そんなにひどいんですか。テレビなんかみてると、真逆の報道してますよね。逆境にも節度を重んじ、忍耐と助け合いの精神を失わない奇跡的な民族、とかで、外国でも驚くほど好意的に、報じられているみたいですよ」
「それはそれで、大変けっこうなんですけどね」
「また、けどね?」
「はい、またですわ。けどね、うちの、この分室の惨状、御覧なったでしょう? この現場、ウソですか? ホントでしょう? そやのに、新聞、ラジオ、テレビ、大手の週刊誌からきわどい雑誌まで、ぜんぜん報道してくれまへん。なんでやろ? なんでやと、おもいはります?」
「さあ…」

 青年と顔を見合わせ、二人して首をかしげた。

「なんででしょうねぇ」
「それはね、それは、分ってますねん。なんでかいうたらね、なんかやらかしたいヒトっちゅうのはね、自分から予告しはりますねん。火事場泥棒がどうのこうの文句つけるのは、自分で泥棒やりたいんですわ。木造がコケたら燃料の山や、ちゅうのはね、火つけたくてイライラしてる気持ちの表れですわ。それなんで、けっこう防止できるもんですわ。犯罪者の心理て、そんなもんですやろ。記者さんも、その辺り、よう知ったはりますねん。イグアナの網焼きにしても、イグアナ食べたいと自白したはるようなもんでっしゃろ」
「しかし、それは、日本文化として、めずらしいことでは、ないんですかね」
「その通りですわ。だから、さっきもいましたでしょ、仰山の人が、外国から来て、住み着いてはるんで、なかには、四つ足が大好物や、ちゅうひとも、仰山おられる、ちゅうことですわ」

 四つ足ときいて、ふと、思い出したことがあった。中学一年のとき、父の仕事の都合で天王寺の中学に通うことになった。社宅のある大阪城の裏から国電に乗り、阿倍野でおりて二十分ほど歩いたところに中学校はあった。学校までは二つの行き方があった。ひとつは、駅の北口から大阪城に続く大通りに沿って歩き、途中から四天王寺方面に折れて学校に至る行き方、もうひとつは、駅裏の路地を伝って途中で大通りを横切り、そのまま居住区をぬけて学校に至る行き方だった。大通り経由で行くと、長方形の二辺を辿って歩くことになり、対角線をズバッと抜けて目的地にいたる道と比べると、五分ほど時間を無駄に使うことになる。だから、国電を利用する通学児童の多くは、もっぱらその路地を利用した。
 当時、路地に立つ電柱一本一本に、皇太子昭仁親王と婚約者の正田美智子嬢の白黒の写真を印刷したビラが貼ってあった。すべて、大きく太い黒字で、祝御婚約、と書いてあった。美しいひとだった。
 駅裏の路地を通学路に選んだのに、もう一つ分けがあった。路地の片側はコンクリの高い壁で、向こう側は駅の構内、路地からは、錆びたフェンス越しや壁の割れ目から、線路や車両の動くのが見えた。反対側は十数件からなる店舗長屋で、大通りが正面、路地側が裏になっていた。
 通学時、駅を出て路地に入ると、まず、肩寄せ合って連なる店舗の裏側が目に入る。そして、一軒一軒の裏の、軒下まで積みあげられたミカン箱に、犬がたくさん飼われているのが見えた。白もいれば黒もいる。白黒のブチもいれば、茶の虎毛や白黒黄褐色の三毛もいた。大きさもまちまちで、耳がキリリと立ったり、ダラリと垂れたり、体躯も容姿も、千差万別だった。そんな多様な犬たちを鑑賞して歩くのが、いつしか毎日の、一日の始まりの、楽しみになっていた。
 一学期が終わって夏休みに入った。父母は共稼ぎだったので、日中、息子に裂く時間はない。育ち盛りの男児を、一日放っておけば、何をしでかすか分からない。そんな心配からか、夏休みのたびに、まず浜寺の水連学校、その次は琵琶湖の水連学校、そして最後にカブスカウトのキャンプ生活とジャンボリー参加、といった具合に、退屈しようにも退屈できない予定を組んでくれた。
 そんな大忙しの夏休みのなかで、犬の存在は頭の中からすっかり消えていたが、城北ボーイスカウト連盟が組織する御座島のキャンプ生活で、なぜか、ふと、阿倍野の駅裏の、あの路地の犬たちのことを、おもいだした。キャンプ生活は、一種のサバイバル訓練だ。森を切り開き、野営地を設営し、竈を造成し、マキを割り、トイレを掘り、生木で調理台を組み上げ、鶏を絞め、首を切り、血を出し、テバ、モモ、ムネ、カワ、スナギモ、レバー…を食べられるまでに準備するのだ。
 その日、鶏の首を刎ねるのは友人だったが、血出しから羽むしり、そして内臓摘出まで、順番から自分の役回りになった。なにしろ初めての体験だったので、最初はビクつき加減だったが、羽をむしり終わって出刃の先を鳩尾に立てたとき、尻の穴がモゾモゾする、一種の快感を覚えた。と同時に、なぜか、あの、駅裏の、ずらりと並んだ犬たちのことをおもいだしたのだ。そして一瞬、そうだったのか! と口から飛び出そうになった叫び声を、懸命に喉の奥に押し戻したのだった。
 意外な事実を垣間見た、という自信に揺らぎはななかったが、犬を食べること自体、どうしても信じがたいことだった。最終日のキャンプファイヤーで、最年長のローバスカウトの一人に訊いてみた。すると、自信ありげに、こう答えてくれた。

「そいつら、可哀そうやけど、食用に飼われとったんよ」

 分っていたが、やはりショックだった。

「なんで、イヌなんか、食べんの?」
「よう、わからんけどなぁ、あちゃらさんには、四つ足好きな人、仰山いたはるさかいなぁ…」

 これが、四つ足という言葉から蘇ってくる、遠く消えかかってはいるが、事と次第で昨日の出来事のように思い出すことのできる、確かな記憶だった。そして、あちゃらさん、という呼び名の背景も、綻びた歴史の縫い目から、跡形もなく消え去っていく運命にあるのかもしれないが、これも事と次第で、傲然と蘇るかもしれない事実の記憶だった。

 それにしてもこの警官には、少なからず、おや、とおもうところがある。

 まず、近所の派出所で見かけるような、お巡りさん然としたところがない。地域に親しむ素振りが微塵もみえない。壁があるのだ。そして、なによりも、これみよがしに喋る関西弁が、まるで関西弁になっていないのだ。生まれて大学まで大阪で育った人間にとって、大阪弁は母語も同然、口も耳も、関西節に染め上げられている。他人がどう真似しようとも、髪の毛一本ほどのアクセントの違いにだって、虫唾が走るほどの違和感を感じてしまうのが、性なのだ。そんな、ごまかしようもないものを、臆面もなく、繰り返し人前でみせる愚かさ。いいかげん、腹が立ってきた。

「あのぅ、ちょっと、いいですか?」
「ほい、なんでしょう?」
「あなた、あまり、お巡りさんらしく、ありませんねぇ」
「あ、そうですか、お巡りさん、でなければ、なんでっしゃろな?」
「それに、あまり、関西の方らしく、見えませんけどねぇ」
「なんでです?」
「その、なんでです? の、なんで、のイントネーションが、近畿のモノじゃ、ないんですよね」
「そういうアンタはんも、それ、標準語でっか 東京弁でっか? ぜんぜん、関西弁になってまへんがな」
「わたし、生まれて二十歳まで大阪育ち、生粋の関西人です。なので、関西以外のひとと関西弁はしゃべらない、いや、しゃべれないんですよ、気持ちわるくて」

 警官は憮然として口を閉じた。気まずい空気が流れた。

「ちょっと、すみません」

 気を利かせたのか、青年が助け舟をだす気配をみせた。

「あの、ですね…」
「ちょっと待ってくださいね」

 警官は、それには応じず、こちらを直視し、関西訛りなしで、いった。

「わたしの関西弁、そんなに、おかしかったですか?」
「おかしい、というか…」
「へんでした?」
「へん、というか…」
「おかしくて、へん、だったんですね」
「いや、そういうわけでも…」
「どっちなんですか?」
「いや、そういうハンシでは、ないんですよね」

 無駄かもしれないが、しっかり説明しておく必要もある、とおもった。

「つまり、わたしの関西弁は大阪弁、わたしの母語です。近畿文化圏の耳と口の、大阪文化の懐の中で蓄積された記憶の総体、つまり語感の恵、なんですよね。あなたには、あなた自身の母語があり、耳と口の、固有の記憶の集積、つまり語感の恵、があるはずです。その母語は、あきらかに、わたしの母語とは違う記憶の上に成り立っている、わたしとあなたは違う人ですから、ね。だから、わたしたちは、母語を共有できない、語感の恵を共に享受できない二人、ということになるんですよ」
「あのぅ、すみませんけど…」

 また青年が、今度はばつがわるそうに、口をはさんできた。

「ちょっと、待って」

 すげなく拒否すると、警官は、先にもまして強い視線で、こちらを直視した。

「さっきから母語、母語、ていってますけど、二人とも、おなじ日本人ですから、日本語が母語でしょう?」
「くくり方の問題ですよ。現に、わたしとあなたは、同じ日本語ですから、語彙や意味では共有できる部分は大きいですが、語感では、ほとんどその恵を共有できません」
「その、語感の恵、って、なんなんです?」
「発音、イントネーション、抑揚、語調、発声、いろいろありますけど、最も大切なもの、それは間合い、です、間合い。わたしの間合いをあなたは理解できない。その逆もおなじ。つまり、互いの感情の振れや、高揚や、沈降や、相手の気持ちの動きに応じて、どの時点で言葉を交わしあうのか、その合意が、二人の間に、もともとないんですよ。たとえば、あなたの母語はどちらですか? どこのご出身ですか?」
「東京ですが」
「え? 東京から、いらしてるんですか?」
「ええ、それがなにか?」
「なにかって、東京警視庁の警官が、なぜ兵庫県警の業務に?」
「いや、助っ人ですよ、非常時の助っ人で、兵庫県警に出向してるんです」
「警視庁から?」
「はい、公安部からです」
「公安?」
「はい。それがなにか?」
「いや、わたしの世代には、公安ときくと、なんとなく生臭い記憶がありましてね。ましてや、この大震災の非常時となると、治安維持法なんていう言葉が、ふと」
「それ、考えすぎです」
「でしょうね」
「お宅は、技術屋さんらしいので、設備の保守保全に例えますと、警察は事後保全、公安は予防保全、ということになりますかね。事件が起きる前に、起こらないようにするのが、わたしたちの任務です」
「なぜ、わたしが技術屋だと?」
「お話の仕方、論理の組み立て方、語彙や雰囲気から、それとなく、分るもんですよ」
「すると、その予防保全で、猟奇事例を、調べてるって分けですね?」
「まさに、そういう分けなんです」

 そこで、警官は、改まった様子で、青年に向き直った。

「どうも、さっきは、すみませんでした。こちらの方とのハナシに、没頭しておりましたんで」

 そして、付箋を付けたファイルのページを青年に向け、強い口調でいった。

「この写真、どうおもわれますか?」
「あれ!」

 青年は、とても驚いたようだった。色白の首筋に、薄っすらと血の気がただようのが、みえた。

「これって、オレが造ったカマドじゃないっすか!」
「そのとおりです」
「なんで、こんなとこに、この写真が?」

 質問には答えず、警官はページをめくった。

「あっ!」

 また青年が、驚きの声をあげた。

「こ、こ、これ、オレが埋めてやった、ネコの死骸じゃ、ないっすか!」
「あなたは、これを、認めますね?」

 警官が訊いた。ほぼ、尋問の様相を呈していた。

「な、なにをですか!」
「これは、あなたが、トイレの裏に埋めたネコの死骸ですね?」
「そうっすよ、まちがいないっすよ、だって、首がないじゃ、ないっすか!」
「首は、どうしたんですか?」
「し、し、知りませんよ! オレが見つけたとき、首はなかった! ほんとに、みじめで、かわいそうだった、だから、埋めてやったんだ。それに、そう、オレがネコを見つけたのは、オレが造ったカマドの中っすよ。燃え残った灰の上に、寝かせてあったんすよ。こんな、広場のど真ん中なんかじゃ、なかったすよ!」

 そばで聞いていて、なにかが二人を、恣意的に対立させている、とおもった。このままいけば、青年は、力の関係上、猟奇犯扱いされてしまいかねない。ことの成り行きから、この青年に非がある、とは、どうしてもおもえなかった。

「どこか、変ですねぇ」

 追及の手をゆるめようとしない警官を、遮っていった。

「やっぱり、へんですよねぇ」
「なにがですか?」

 警官は不快感を顕わにした。

「だって、ですよ、この一連の苦情届、報告あり画像あり、で、まるで手間暇かけて編纂した一件書類みたいに、うまくまとまりすぎてるんじゃ、ないですかねぇ。それに、これらの写真にしても、ですよ、添付資料にしては、ちょっと出来すぎてはいませんか。だって、ピントもアングルも、絞り具合も、ほとんどプロなみじゃないですか。しかも、ほら、まるでホラー映画の絵コンテですよ。ありもしな猟奇事件の、筋書きどおりに編集した、揺るぎない証拠写真、みたいに揃えてある。一体全体、これ、だれが撮ったんですか?」
「だれが撮った?」
「そうです」
「当然、届け出た人、になるでしょうね」
「それ、確認なさいました?」
「確認もなにも、届け出書類の真贋は、わたしの範疇じゃない」
「それはおかしいな」
「なにがですか?」
「これが、もし、でっち上げ、だったら、どうなさるんですか?」
「でっち上げ?」
「そうですよ、おもしろ犯の、創作狂言ですよ」
「それは、ないですよ。この、クソ忙しいときに、そんなヒマ人、どこにいますか」
「クソ忙しいのは、分署のみなさんだけでしょう。被災者には、何もできないでじっと耐えるしかない、という、膨大な時間があるんですよ。あなたは、はなから、この青年が、あなたのおっしゃる猟奇事例の当事者だ、と決めてかかってらっしゃる」
「いや、そんなことは、ありません」

 警官は、屹度なっていった。
「わたしたちは、市民のみなさんの、安心と安全のために、日夜、努力しております。まがいなりにも、ですよ、民意の付託を受けた公務員が、ですよ、人権にさしさわるような行いを、するわけ、ないじゃないですか」
「だったら、届人の身元確認くらい、ぜひ、お願いしたいですね」

 警官は、そしらぬ顔で、こちらのいうことを無視した。公務員の正当性を主張するわりには、ひとの言に耳を貸そうとしない。それどころか、あげくに、平然として、青年にこう尋ねたのだ。

「あなた、ハーフ、ですね?」
「はぁ?」

 いきなりなんだ、と驚いた。ずいぶん失礼な質問をするものだ。あきれてなにをいえばいいのか、おもいもつかない有様だ。訊かれた青年も、虚をつかれたのか、戸惑いをかくせないようだった。

「な、なんですか、それ?」
「いえね、あなたの、その目鼻立ちや、とっても端正なお顔や、白い肌をみてますと、てっきり、外国の方ではないかと」
「オレ、日本人っすよ!」
「それは、そうでしょう。血と国籍は、必ずしも一致しませんしねぇ…」

 なんて態度だ。尋常な応対ではない。どこか、おかしい。なにか不可解な意図が、絡んでいる。青年をみるときの、あの警官の目付き、どこかに、あらぬ他意を感じさせるものがある。
 おそらく、二人は同世代だろう。一人は山岳愛好家、もう一人は公安警察官、双方のキャリアがどうであれ、分け隔てなく、同じように、将来を嘱望される若い存在であることに相違はない。それが、与り知らぬ偶然の遊び心で、一方が追い、他方が追われる羽目になっている。この二人が、この震災で相遭遇するまでに、どんな時空を背景に生きてきたのだろうか。その背景に、いずれ二人が遭遇するための必然が、紬の糸のように、縦横に織り込まれていたのだろうか。

<そうか…>

 そうだったのか。ヤツの目論見が見え透いたぞ。ハーフ、外国人、四つ足食い、猟奇事件、そして治安の維持…ヤツは、歴史の闇に葬り去られたはずの、あの、ありもしない妄想劇に、無垢な青年を引きずり込もうとしているのだ。

<いや、そのまえに…>

 ヤツの目は、さっきから、しきりと青年の、雪焼けの面からは想像もできない、抜けるように白い首や、ベストに隠れたふくらみのある胸元を、嘗め回すように、みている。相手は、小顔で鼻筋の通った、端正な顔つきだ。それだけでも人目を惹くのに、山岳に親しむ優雅な生活まで、謳歌している。しかも、その心地よい特権を捨てて、被災者救援のボランティア活動に、汗を流しているのだ。震災の残骸や被災民の苦情に、昼夜悩まされ続ける公僕という不遇の自分に比べ、優雅な境遇と高貴な精神に恵まれた環境を楽しんでいる、そんな青年に、熱い羨望を感じないわけがない。
 とはいえ、ひとを羨む卑屈な境遇に押しやられた自分を、決して認めたくはないだろう。ましてや、他人に悟られるようなへまは、絶対に犯したくないにちがいない。当然、心の裏側から煙幕を張ろうとするだろう。そしてそこから、羨望の的を貶める、卑しい狂言が生まれてくるのだ。

「ちょっと、スキー帽、脱いで、いただけませんか?」

 警官が、妙な要求をしてきた。青年は、また虚を突かれた格好になった。

「え? なんで?」
「いえね、栗色の、とてもきれいな髪をしてらっしゃるのでは、とおもいましてね」
「じょ、冗談っしょ」
「いえ、本気です」
「でも、なんで?」
「いえね、正直、わたし、毛深いんですよ。男性ホルモン過多ていうか、ここ、頭髪が、淋しいんですよね、この若さ、でですよ。それにくらべて、多分、あなたは、とってもきれいな、ふさふさした髪をしてらっしゃる、と、おもうんです。羨ましくて。で、ぜひ、みせてもらいたいなぁ、と…」
「いいっすよ!」

 青年は、もう聞きたくない、といった様子で、サッとスキー帽をとり、二三度、首を左右に振った。ニットの下で萎縮していた髪が、細かい繊維から解き放たれて、フワッ、フワッと、その都度、宙に舞った。警官の予想どおり、美しい、濃いめの栗色の、頭髪だった。

「あれ?」

 警官が、怪訝そうな顔つきで、いった。

「意外だったなぁ、ショートカット、じゃないですか」
「それが、どうかしたんすか? 長くのばそうが短くカットしようが、オレの勝手っすよ!」
「そりゃ、そうですけどね」

 いいながら警官は、ファイルの下に重ねてあった雑誌の束から、一つを抜きとって、よく見るよう促した。

「これ、地元の、六甲颪、これ、ろっこうおろし、とよむんですけどね、この辺りの、いろんな地域のニュースを集めた、タウン情報誌、みたいなものなんですけどね」

 そして、これ見よがしに、ゆっくりと表紙を開き、見開きの上段トップにはめ込んだ題字を、人差し指でなぞった。そこには、大きく、太い字で、六甲の湯、と印刷してあった。

「これ、被災者救援活動の一環で、陸上自衛隊が展開している、入浴支援サービス、という災害救助出動の一種なんですよね。実際、おおくのところで水道が復旧してませんので、これからも、まだまだ必要となる活動なんです」

 いいながら警官は、題字のすぐ下に指を移し、記事の一行一行をなぞりながら、小声で素早く記事を読みあげていった。

「それって、必要なんすか?」

 途中で青年が遮った。

「オレ、べつに、興味ないんすよね、テント風呂なんて」
「え、そうですか?」

 意外なことを耳にする風で、警官が青年に向き直った。

「そうですかね。これ、見てくださいよ。記事の後に、Lサイズの写真が、掲載されてますでしょう?」

 注意していなかったが、確かに、写真入りの記事だった。数人の入浴客が、テント風呂を背景に、にこやかに笑っている。みな、ピースサインを誇示していた。 

「これ、一か所だけじゃ、ないんですよ。本地区には数か所、主な公園を利用して、展開されているんですよ。男湯あり、女湯あり、子供用遊具設備あり、いろいろと、それぞれに、きめの細かい配慮がされているんです。みなさん、このサービスが大好きで、いきとどいてる、やさしい、ほっこりする、などと、とっても満足してらっしゃいます。ほら、この写真も、入浴後に撮られた、近所のご婦人方の、幸せそうなワンショットですよ」

 そこで警官は、わざとらしく、青年の顔を覗きこんだ。

「ね、みなさん、ピースサインで、すごく、うれしそうですよね、ほら、このひとも、この方も、この女性も…あれ? このひと、どこかで見たことあるなぁ、だれかに似てませんか、似てますよね、だれかに、はて、だれかな…このひと、だれかに、似てませんか?」

 露骨で執拗な訊き方だった。意図は見え見えだった。写真の女性が、青年自身であることを認めろ、と暗に要求しているのだった。端正な顔立ち、小顔、雪焼けのこんがりさ加減、濃い栗色の頭髪、どこをとってもそっくり、といえなくもない。ただ、長髪のヘアスタイルだけは違っていた。後ろにクルリとポニーテールまとめ、ひと捻りして束ねてアップ、そのまま三角クリップでトップの地毛に止めてある。分室の喧騒のなか、六甲の湯の出湯画像からは、湯上りの艶やかさと場違いな妖気が、漂ってきそうだった。

「これ、ひょっとして、あなたでは?」
「冗談っしょ! オレ、オトコっすよ! これ、オンナじゃないっすか、オレ、オンナじゃないっすよ、オトコっすよ!」

 青年は、オトコとオンナ、という性基準で、写真の女性と実際の自分が同じではないことを、躍起になって主張した。その様子には、相手の非礼を責める気迫より、なぜか、抜けがたい窮地に追いこまれた焦燥感が、にじみ出ていた。青年に、手を貸してやらねば、とおもった。とりあえず、警官の関心を、こちらに向けなければならない。

「ちょっと、すみませんが」

 警官は、怪訝な顔つきで、こちらを向いた。

「あなた、公安から来た、て、いってましたよね」
「はい。でも、それが?」
「あなた、キャリア、ですね」
「!?」
「図星でしょ?」
「どういう意味ですか?」
「いえね、これまで生きてきましてね、いろんな局面がありましてね、たくさんのキャリアのかたと、接触する機会をもてたんですけどね」
「それが、どうしたんです?」
「皆さんの、ほとんどの方に、おしなべて共通する点が、ひとつ、あるんですよ」
「ほう…」
「なんだと、おもいますか?」
「そんなこと、知るわけ、ないじゃないですか」
「そうです、かぁ?」
「かぁ、って、それ、なんなんですか?」
「いえ、よくご存じの、はずです、よぉ」
「よぉ、って、また、ヒトをからかうつもりですか」
「まさか、公安をからかうなんて、とんでもない」
「公安もクソも、ありませんよ」

 さすがに警官は、いらいらし始めた。

「あなたは、いったい、なにが訊きたい、というんですか!」
「ですから、さっきから、お訊きしてるんじゃないですか」

 今度は、屹度なって、こちらを見据えた。

「だから、なにを、ですか!」
「だから、エリート官僚の、共通点、ですよ」
「そんなことは、知りませんね」
「あえて、付け加えますと、あなたのような、とても優秀で、約束された将来への路をったてらっしゃる方々の特徴、ていうのかな」
「わたし、優秀でも、立派な経歴でもエリートでも、ありません」
「そうですかぁ?」
「また、その、かぁ、ですか。いいかげん、やめていただけませんかねぇ。いかにも、こちらが、なにか隠しごとしてる、て、暗に、仄めかしているみたいじゃないですか」
「いや、まさに、そこなんですよね。あなたがたの共通点は。ずばり、いってみましょうか?」
「お好きなように」
「つまり、徹底して自己中、ということなんですよ」
「自己中?」
「それも、再帰性の自己中、ね」
「再帰性?」
「ヒトは噓をつくヒトは嘘をつくヒトは嘘をつくヒトは嘘をつくヒトは嘘をつくヒト…」
「なんのことだか」
「自分にしか興味なくて、ヒトが自分をどう見てるか、あまり、というか、全然、興味ない。なので…」
「なので?」
「ヒトは嘘をつくヒト、で、性悪説の再帰循環、しちゃうんですよね」
「ばかな」
「図星でしょ?」

 警官は、あきれてものもいえない、という風を装っていった。

「残念ですが、わが国は性善説、ときいておりますので。悪しからず」
「いや、わたしの経験では、公安にかぎらず、役所はそうではない、みたいですよ。現に、日本の刑事司法は人質司法、冤罪の元凶、推定無罪と縁のない封建制度、なんて、世界中でバカにされてるじゃないですか」
「それ、警察、お役所きらいがよくいう、根拠のないいいがかり、ですよ」
「ほら、出ましたね」
「なにが、ですか?」
「あなた、いま、いみじくも、いいがかり、と、おっしゃいましたよね」
「ああ、いいましたよ。封建制度なんて、根も葉もないいいがかり、じゃないですか、そんなのは」
「では、さっき、あなたが、この青年にしていたことは、なんなんですか?」
「わたしがカレに、なにをした、とおっしゃるんですか?」
「その写真のオンナと、カレが、同一人物であることを認めろ、て、強要してらしたじゃないですか」
「そんなこと、これっぽっちも、してませんよ」
「そこが自己中の自己中たる所以ですよ。自分がなにをしてるのか、まるで見えてない。わたしには、カレにとってなんの根拠もない、無礼千万ないいがかり、以外の何物でもない、と見えてしまうんですけどねぇ」
「そんなつもり、毛頭…」

 警官は、虚を突かれたようだった。 追い討ちをかけてやろうとおもった。

「手鏡でも、お持ちしましょうか?」
「手鏡?」
「たったいまの、ご自分の姿が、よく見えるように」
「皮肉ですか?」
「老婆心です」
「はあ?」
「わたしの歳からしたら、あなたは、五人兄弟の末っ子、くらいの幼さですよ。それが、いっぱしの、裸の王様、ごときに成りあがっていくのが、見るに忍びない」
「なんですか、その、裸の王様って?」
「あなたが、ファームにポンと放り込まれた生え抜きの駿馬、としましょうか。まわりを御覧なさい。数えきれない調教師が、ギッシリとスクラム組んで、待ちかまえているんですよ。あなたは、あっという間に、走ることしか知らない競走馬に、育て上げられてしまいます。現に、あなたは、もう、突っ走ってる。根も葉もない理屈をこねて、この青年を、自分のシナリオ通りに、誘導しようとしている。でしょ? そうじゃないですか!」

 話してるうちに、だんだんこちらも気が昂ってきた。それにつれて、オームに対する公安のヘタレ腰への怒りが、急に蘇ってきた。我慢できなくなってきた。

「そんなヒマがあったら、他にやること、たくさんあるでしょ! 山ほどあるでしょ! いまごろサリンの疑いだって! なに、やってんですか! 松本サリン事件、あれ、なんだったんですか! 無実の一市民に罪きせて、よくもまあ、いまのいままで、のうのうと、公安のカオして生きてこれましたね! その間に、何人の方が亡くなったんですか! あんたがたのせいで、いったい、何人の無実のひとが殺されたんですか! 予防保全はどこへいった! 恥ずかしくないですか! ええ、恥ずかしくないのか! 恥を知りたまえ!…」

 けっこう大きな怒鳴り声だったらしい。職員も一般の人も、分署内に居あわせたほとんどのひとが、訝しげな眼をこちらに向けた。警官は、よほど苛立っていたのか、目張りを入れたように見開いた目で、わたしを睨みつけている。口を真一文字に閉じているのは、突いて出ようとする激しい怒りを、懸命に制している証にみえた。

「なんだ、その目付きは! 怒鳴りたきゃ、怒鳴りたまえ!」

 久々に怒鳴ってしまった。おもえば、いままで、地球上のいろんなところで、さんざん怒鳴ってきた。相手はいつも警官か、役人だった。成熟した民主国家には、一市民への厳とした対処方針がある。公益を侵さないかぎり、市民権はどこまでも許容しなければならないのだ。運悪く、怒る市民に遭遇しても、警官や役人が、怒るな、黙れ、放りだすぞ、などと威嚇する光景には、お目にかかれない。いくら怒鳴られても、じっと耐える。そして最後に、落ち着いてください、と相手を諭す以外、術はないのだ。
 
「まあ、まあ、落ち着いて…」

 一時置いて、案の定、警官が、がらりと態度を変えて、いった。

「さ、落ち着いてください、いや、落ち着きましょう、お互いに」

 となれば、こちらも、主権者として、節度ある態度を、とらなければならない。

「いや、どうも失敬、失敬!」

 相手も、こちらの意を汲んだように、軽く頷いてみせた。

「正直、この震災で、けっこう辛い目をみたもんだから、あれやこれや、いろいろ、おもうところがあって、つい、いいすぎてしまいましたな。大変、失礼いたしました」
「いえ、こちらこそ、余裕がなくて、軽率でした」

 そして、ゆっくりと青年に向き直ると、詫びる素振りで、いった。

「あなたにも、失礼があったとしたら、申し訳なかったですね。軽率でした」
「いえ、べつに、オレ、どうってこと、ないっすけど…」

 怪訝な顔で、青年はつづけた。

「でも、なんで、あんなハナシに、なったんすかね。オレがオンナにそっくりだなんて、わけ、わかんないすよ」
「いや、軽率でした。反省しきりです。自衛隊の、心温まる六甲の湯、とですね、あと、すこしばかり、このタウン情報誌の写真に、引きずられた、てとこですかね」
「引きずられた?」
「あのー、実をいいますとですね、さっき、こちらの人生の大先輩からお叱りをうけましてね、はたと気がついたんですが」
「気がついた?」
「大先輩がおっしゃるように、実は、わたし、総合職で採用されたものですから、世間でいうところのキャリア、なんでしょうけど、就職して即、わかったことは、ですね、それなりの野心と覚悟をもって、相当な努力をしないと、とてもその路は辿っていけない、という現実ですね」
「ほう…」

 二人して、感心する以外なかった。

「ですから、まさに奮闘努力せよ、なんですが、それには、確たる目標が必要なんです」
「目標?」
「そうです、コレをやれるのはあいつ以外にない、といわせる専門技術を身に着けること、なんです」 

 なるほど、そういうことか。ならば老婆心ではなく、皮肉を込めていわなければならないな。

「わかりましたよ、それ。いま流行りの、ジェンダー、とかいうやつですね?」

 すると警官は、媚のもれでる眼差しで、こういった。
 
「さすがに大先輩、よくご存じで」

 一方、青年は、納得できていないようだった。

「オレ、わかんないすよね。さっき、タウン情報誌の写真に引きずられた、とかって、いってましたよねぇ」
「ええ、この写真のことですね」
「このひとが、オレとそっくりだって、オレにいってましたよねぇ?」
「ええ、このヒトのことですね」
「あなた、これ、オンナ、とおもってたんでしょ?」
「はい、どうみても、女性ですよね」
「じゃあ、オレのことは?」
「はぁ?」
「オレは、オトコですか、オンナですか、あんたにとって、どうなんです?」
「もちろん、あなたは、正真正銘の男性、に見えますけど」
「だったら、なんで、あんなに、しつっこく、オレに訊いたんすか?」
「なにを、ですか?」
「とぼけんなよ!」
「とぼける? 穏やかじゃ、ありませんな、どういうことです?」
「オレとこのヒトが、同一人物だって、いったじゃないか!」
「そんな失礼なこと、口が裂けてもいえませんよ」
「いや、いった、いった! これ、ひょっとして、あなたでは、って、いったじゃないか!」
「それは、ひょっとして、あなたではないかと、見間違えるくらい、よく似てる、っていう意味ですよ。同一人物だなんて、一言もいってません。誤解しないでください」
「誤解するな、だって!? よくいうよ!」

  いいのがれ、いいくるめ、詭弁、責任回避、婉曲な恫喝…役人固有の術は、すでに身に着けているようだ。そんな相手に関わりすぎると、いつの間にか自分が悪者にされてしまう。 そもそも、ここに来たのは、なんのためだったのか? あの公園の、レンガ造りのトイレの裏で、ネコの墓をみつけた警官たちが、それを造った青年に、猟奇事例との関連性があるのでは、と嫌疑をかけたのがきっかけだった。青年は義憤を感じ、ネコの死体と埋葬にいたるまでの経緯を、懸命に説明したが、のらりくらりと詰め寄られ、結局、かれらの思惑通り、分署まで来てしまった。
 このまま引きずられ続けると、ますます罠から抜け出せなくなる。避けなければならない。

「すみませんが…」

 激高する青年を制して、警官にいった。

「ちょっと、たしかめたいことが、あるんですが」
「なんでしょう?」
「この、六甲の湯の湯上りの写真と、ですね、さっきの、一連の、猟奇事例の画像なんですが、なにか、両者の間に、関係があるんでしょうか?」
「関係?」

 警官は、関係ねぇ、関係、関係…と幾度も呟きながら、パラパラと、ファイルのページめくりをしていたが、しばらくして、意外な拾い物をした、という面もちで、うっ、とうなった。

「どうしたんですか?」
「いや、ちょっと、迂闊でしたね」
「なにが、ですか?」
「先輩の勘は、当たってましたね勘
「えっ?」
「これを、見てください」
「なにを?」
「これが湯上り写真、こっちが猟奇事例の画像、ここに、小さい文字で印刷してあるでしょう、画像の提供者ですよ、ほら」
「どれどれ…」
「ここ、見落としてましたね、なんて印刷してあります?」
「出典ですね。どれどれ、写真提供…JPキャパ…」
「こちらも、こちらも、JPキャパ、とありますよ。両方とも、出典は同じ、ということですね」
「どういうことですかね」
「湯上りショットの撮影者と、生物虐待の撮影者が、同じ、ということになりますね」
「そして、その撮影者が、JPキャパ、ということですね」
「そういうことに、なりますかね」

 警官は、しっかりと頷き、青年に尋ねた。

「なにか、心当たり、ありませんか?」
「えっ、なんでオレにフルんですか?」

 青年は不満顔で応じた。

「オレがしるわけ、ないっしょ」
「そう、ですか?」
「ですか、って、どういう意味っすか?」
「あなた、公園で炊出し、してらっしゃいますよね」
「よく知ってんでしょ、いまごろ、なんなんすか」
「評判はどうですか?」
「評判? オレ、べつに店開いてるわけじゃないんでね」
「たくさん、いらしてますか?」
「けっこう、喜んでもらってます。みなさん、うまい、うまい、って、食べてくれてます」
「でしょうね、ホッとするんでしょうね、被災者のご苦労も、大変でしょうからね」
「ホント、大変みたいすよ、家が壊れたひと、家族をなくしたひと、焼け出されたひと、大けがしたひと、手足もがれたひと、気がおかしくなったひと…そんなひとのハナシばっか、ですよ」
「来るひとって、被災者だけですか?」
「ほとんど、災害に遭われたひとたちですね」
「ほとんど?」
「ええ、オレみたいに、なんか力になれないか、とかおもって、やってくるひともいるみたいですけど」
「ボランティアのひとたち?」
「だけじゃなくて、他に…」
「他に、どんなひとが?」
「なんか、それぞれ、独自の興味をもってるひと、ていえばいいのかな」
「例えば?」
「しりませんよ、そんなこと。なんで、訊くんですか?」
「いえね、現場を知るには現場に訊け、ていうじゃないですか」
「わかんないっすね、自分で調べたらどうすか」
「例えば、どんな分野、というか、方面というか、どんな方が、いらしてました?」
「いいですか、あえていえば、すね、みな、なんとか立ち上がって、やりなおそうと、目一杯、頑張ってるひとたち、ですよ。そんなひとたちに、あなたの分野はなんですか、あなたの興味はなんですか、なんて、ピンぼけたこと、聞けますか? 第一、失礼じゃないっすか」
「しかし、ひとって、激甚災害みたいな、常軌を逸した窮地に陥ると、反対に、他のひとに自分のことを聞いてもらいたくなる、ていうじゃないですか」
「なんですか、それ」
「帰属意識っていうんですけどね。災害に遭って、自分の居場所が破壊されて、なくなってしまうと、自分もなくなるんじゃないかと怖くなりますよね。そんなとき、ひとは、まえに自分が居たと同じ場所に戻りたいって、おもうそんなんですよ。その結果、そばにひとがいたら、そのひとがだれであれ、自分の居場所を探すために、まず自分のことを相手に伝える、という行動にでるんだそうですよ」
「なるほどね。そえいえば、みなさん、そうでしたね。自分の身に起きたことを、真っ先にはなしてましたね」
「でしょう」
「そのことは、さっきもいいましたよ、いろんな目に遭ったひとが、沢山いるって」
「まさに、そこが、訊きたいところなんですよ。いろんな目に遭ったひとのなかに、いろんな目に遭ってないひとが混じってると、どうなります?」
「どうなるって…浮いちゃいます、よね」
「でしょう。で、その浮いたはなしをするひと、いませんでしたか?」
「浮いたはなし?」
「たとえば、政治とか哲学とか理想とか宗教とか、なんでもいいですけど、被災の現場とかけはなれた、いわば観念的なはなしをするひとのこと、なんですけどね…」

  二人の会話を聞きながら、気になりだした。警官は、また青年を、嵌めようとしている。その筋書きは、多分、こうだろう。オンナの肉体に生まれ落ちたオトコが、普段はオトコとして孤独な社会生活を送り、機を選んでは、オンナとして同性者と群れ集う。この種の集団は、利権団体が仕込むタカリ構造の罠に陥りやすい。行政の利得争いに簡単にとりこまれてしまうからだ。欧米の歴史をみても、少数派であれ多数派であれ、性差別を利用して増長する利益集団は、今後、ますます増殖していくだろう。両性間の往来を起源とする性的、個人的、社会的影響のリスクを分析し、統治機構を殺める危機を管理するという技術職が、キャリアの領域として将来性はあるのかないのか。性差別実態調査の、とりあえずの見当として、六甲の湯は、その値踏みをするための、まあまあ的を得た参考例にはなるだろう…。
 だが、警官がどう目論もうと、当の青年が、かれの見切りどおり、本当に、性同一性という障害があるひとなのか、という疑問はのこる。はなしを整理してみる必要があった。

「あのー、ちょっと、すみませんが…」

 申し訳なさそうなふりをして、二人の会話に割って入った。

「さっき、湯上りの写真と猟奇事例の画像が、同じ提供者のものじゃないか、って、いってましたよね」
「そうそう、JPキャパ、とかいう提供者でしたね」
「そのJPキャパなんですが、なにか調べがついてるんでしょうか?」
「いえ、この惨状ですから、時間がなくて、まだなにも。一段落つけば、調査しようと考えているところですが、なにか?」
「いえね、推測するに、JPはジャパンでしょう、それからキャパは、あの…」
「わたしもそうおもいますよ、あの、著名な報道写真家、戦場カメラマンのロバート・キャパからとったネーミングでしょうね」
「だとすると、ですね、提供者の人物像としては、撮影技術ではかなりの経験は積んでいるが、プロの写真家としてはまだ無名で、比較的若く、情熱を燃やす対象をまだ絞り切れていない、野心満々のカメラマン、ぐらいのところですかね」
「人物像としては、ほぼ納得、というところですが」
「ですが?」
「先輩は、あの一連の猟奇画像から、なにを見取りますか?」
「見取る?」
「あの画像の背景にあるもの、です」
「わかりませんな。あなたは? 公安のキャリアとして、なにを?」
「公人としては、なにもいえませんね」
「では、私人として、いかがですか」
「せっかくの先輩ですから、参考に聞いてもらいますとね、JPキャパは、元祖ロバート・キャパと同じ戦場カメラマンになりたいキャラなんですよ、きっと。でも、この国は平和ボケしてるでしょう。だから、そのマネをしてもウケがよくない。なので、ずっと、焦点を絞りきれなかったんですよね。でも、幸か不幸か、阪神淡路大震災が起こって、奇跡的に戦場に匹敵する激甚災害の被災現場が整った。そこで、思う存分、被災現場の生の姿を報道しようとしたんですが、規模がデカすぎて、機動力のない個人はメジャーに勝てない、その上、ドラマティックな画は、発災からせいぜい七十二時間以内でしか撮れない、ということが分かったんです。そこで…」
「そこで?」
「なんとか、衝撃的かつ劇的で、一度目にすれば一生忘れられない画を撮るために、躍起になるんですけど、そういう場面て、時間が経つにつれ、なくなっていくでしょう。だから…」
「だから?」
「超印象的で、一度見たら二度と見たくならない、超衝撃的な画を、自らプロデュースすることにした、とおもわれるんですよ」
「プロデュース?」
「たしか、五、六年まえだったと記憶してますが、どこかの新聞社のカメラマンが、沖縄のサンゴに疵付けて、許せない環境破壊が行われている、なんて、大々的に報じたことがあったでしょう、覚えてますか?」
「ええ、ええ、覚えてますよ。メジャーの報道媒体の捏造記事、許されざる蛮行、なんて、大々的に報道されてましたね」
「あの類の、稚拙な客引き芸、とでもいうんですかね」
「すると、あの、猟奇事例の、一連の画は?」
「JPキャパの、自作自演の客引き狂言、と、わたしは断定しますね」
「狂言だって?!」

  青年が、紅潮した顔で、突然、割って入ってきた。いつの間にかスキー帽を被っていた。

「この一連の被災報告が、捏造、だというんすか?」
「いえ」

 警官は平然として応じた。

「捏造とはいってませんよ」
「狂言て、いったじゃないすか」
「捏造と狂言は、違いますよ」
「違う? どう違うんすか」
「捏造は他虐、狂言は自宣です」
「なんすか、それ?」
「捏造は、事実でないことをでっちあげて他人を虐待すること、狂言は、事実でないことをでっちあげて自分を宣伝すること、です」
「わかんないっすね、それ」
「他人を蹴落とすのと、自分を売り込むのとは、ぜんぜん、ちがうでしょ?」
「どっちも、でっちあげで、ウソなんだから、おなじじゃないっすか」
「虐待は犯罪になりますが、狂言は商売、ビジネス、です」
「ばかな!」
「どうしてですか?」
「じゃあ、JPキャパは、ビジネスで報告書を造ったとでも?」
「まさに、そうです」
「そんなはず、ないっすよ!」
「えっ!」

 警官は、したり顔で、のりだした。

「いまなんて、いいました?」
「そんなはず、ない、って、いったんすよ」
「そんなはずないって、どうして分るんですか? 」
「なにが?」
「あなたがた、お知り合い、だったんですか?」
「そ、そんなはず、ないっしょ…」
「おかしいなぁ、あなたとJPキャパさんがお知り合いでなきゃ、どうして、JPキャパさんが、ビジネスやるようなひとじゃないって、あなたに分るんですかねぇ?」
「…」

 青年は、黙りこくった。

<そうか>

と気が付いた。

 警官の、いままでの、のらりくらりした対応は、模擬の誘導尋問ではなかったのか。その意図は、スキー帽の青年と、あのアフガンの戦場カメラマンが、実はよく知り合った仲で、二人して仕組んだ客寄せ狂言が、実は本題の猟奇事例だった、ということを、暗に、指し示してみせることではなかったのか。だとすると、これまでの、青年相手の公安キャリアの扱いを、ジェンダーフリーに絡む利権領域に、出世の糸口をみつけようと目論んだ、新米役人の初心な野心ゆえだった、と読み解いた自分の頭は、とんだ岡目八目の朴念仁だった、ということになる。

 かといって、せっかく知り合って気心が通じ、タリバンや仏像の起源まではなすことになったスキー帽とキャパを、わたしには与り知らぬお二人だけの事です、などといって、ここで見捨てるわけにもいかないだろう。現に青年は、二の句が告げず、喉を詰まらせているのだ。

「一つ、確かめたいのですが」

 かれにかわって、警官に問いかけた。

「さっき、JPキャパのことは、まだ調査していない、ということでしたが」
「ええ」
「それにしては、二人のこと、ずいぶん自信たっぷりな、言い振りにみえたんですけど、どうしてなんです?」
「説明しましょうか」

 警官は、胸のポケットから手帳をとりだし、ぱらぱらとめくった。

「えーと、一月十七日五時四十六分発災、即出動命令、翌日出向辞令、即日移動着任、巡回警備…ま、本官の日程は別として、えーと、月末になりますとね、分署に苦情が殺到しはじめましてね、そのなかに、ペットの虐待告発も、たくさん、ありましてね、たとえばですね、ここ、イヌネコの放置死骸、括弧して惨殺、四肢切断、解剖、アブリ、このアブリって、火炙りの炙りですね、それから…」

 警官は、目当ての個所にたどり着いたらしく、手帳をファイルの上におくと、ページが閉じないように、上から定規で押さえた。

「ま、猟奇事例は、これくらいにして、さて、肝心な点なんですが、このころ、月末を境に、自衛隊の入浴支援が開始されましてね、分署管区の岩園小学校にも六甲の湯が展開されました。さて、それに関してなんですがね、たまたま、本官、本施設の斜め前にある三叉路の派出所に用足しにいったのですが、夕方、四時半ごろ、真っ黒に日焼けした若い男性がやってきて、肩から掛けた一眼レフを見せて、六甲の湯の写真を撮りたいのですが、あの小学校の中に入っていいでしょうか、と聞くんですよ。左腕に、報道の報、の字を書いた腕章をはめていたので、どちらの社ですか、と聞くと、フリーで報道写真を撮ってるものです、というんですね。ことの善悪は別として、もともと日本には有事というものがないんだから、報道に規制をかける法律なんてないんで、どうぞ、係の方の了解を得て、ご自由に、ただ、公序良俗には十分配慮してくださいよ、と答えたんです。すると、ありがとうございます、といって、ペコリとお辞儀して、とんでいきました。随分礼儀正しいな、なんておもいながら、しばらく用を足したあと、派出所を出ると、施設の門扉の前で、さっきの男性が手を振ってたんです。なにかとおもったら、大声で、ありがとうございました、よい写真が取れました、失礼します、ていうんですね。二度も感謝されと、本官としても嬉しくなって、それはよかったですね、て手を振って返したんですよ。そのすぐあと、でしたね、PCで施設前を通りかかったのですが、貰い湯してホッとしたんでしょうか、上気した女性たちが、何人か、嬉しそうにお喋りしながら、通りを下っていくのが見えたんですよ。そして、その中にですね…」

 警官は、そこで、わたしから青年の方に、目線を移した。

「その中に、ですね、あなたにそっくりの、さっきのあの写真の女性が、見えたんですよ」
「またっすか、いいいかげん、止めてくださいよ」

 青年は、吐き捨てるように、いった。

「なんで、そんなに、こだわるんすか! オレに、なんか、恨みでも、あるんすか!」
「誤解しないで、ください」

 警官が、たしなめるように、いった。

「衆人環視、て言葉、あるでしょう。ひとは周りから見られてる、という意識ですけど、この激甚災害みたいなときにはね、衆人環視の環視は、監視におきかわるんですよ。みながみなを監視するんですね、自分を護るために、仲間を護るために、ね」
「だから、どうだと、いうんすか」
「ですから、このあたりから、分署に苦情の申し出が増え始めましてね、苦情まではいいんですが、それが、いわゆる、タレコミ、とか、告げ口、とか、最後には、悪意のこもった、耳をふさぎたくなるような、個人や集団に対する、誹謗、中傷みたいなものに、変質していって、ですね、そうなると、もう民意の分裂か、くらいの危機感すら、抱きたくなるほどの、リスク材料になりまして、ですね、そんななかに、スキー帽の男性と真っ黒に日焼けした写真家、が登場するんですよ。二人を、どこそこで見た、妙なことをしていた、密かに写真を撮っていた、といった類の、ですね、通告が、頻繁に、届くようになって、ですね、そうしたことが、そうこうするうちに、猟奇画像入りの被害届の定期的な投函、という事態につながっていくわけなんですが、とどのつまりは、ですね…」

 いきなり館内に、非常ベルとおぼしき警鐘が、鳴り響いた。

「おっと、緊急出動、かかっちゃいましたね!」

 そう叫ぶと、警官は、信じられない素早さで机上の書類を片付け、こちらに向かってこう告げた。

「猟奇事例の件ですが、とどのつまりは、被災地の安全を考えますと、ですね、それがなんであれ、リスク要因は、どうしても、潰しておく必要がありましてね。そういう分けですので、あの公園の設営物、テントとかカマドとか、そういったものを、ですね、あす、ひとを送りますので、その立ち合いのもとで、撤去してくれませんか。これ、決して命令とか、要請とかではなくて、あくまで、あなた方の、理解を得た上での、自発的なご処置、ということになりますので、ぜひとも、ご理解のほど、よろしくお願いします。では、本官、これで、失礼!」

 いうだけいうと、警官は、礼は尽くした、とでもいわんばかりに、最敬礼して、そそくさと分署を出ていった。
 わたしにしても、青年にしても、のこされた二人は、呆気にとられて、しばらく口もきけないでいた。なんと非礼で傲慢で一方的な応対か。よし、災害時の非常事態で、やむを得ない無作法、としても、ああ、そうですか、と看過できる恥辱ではない。復興の目途がたち、一段落すれば、一市民として、その横暴を、徹底的に追及してやる、そう決意したとき、いみじくも青年がいった。

「まるで、冤罪ドラマシリーズのロケ現場、みたいっすね!」
「まったく!」

 相槌を打ったあと、顔をみあわせ、二人して、大笑いしたが、懸念はのこった。実際、釈然としない、腑に落ちないことが、いくつかあった。
 まず、青年の性別だ。かれはオトコなのか、オンナなのか、という疑問だ。しかし、これは、はっきりいって、他人の事だ。こちらの与り知るところではない。オトコであれオンナであれ、自分の価値観を今風にアレンジして接すればいい。それだけのはなしだ。
 次に、あの公安キャリアのことだ。新米役人らしく、取り巻きにおだてられるままに、舞い上がっていたが、さすがに、難しい国家試験をパスした秀才らしく、危機管理という、ピントは外していなかった。ただ、いまいち性格が、粘液質に過ぎるところが気になる。しかし、これも、公安に携わる行政官として、むしろ向いている、と考えてもいいのではないか。国土に巣食う未確認パーサイトを、執拗にあぶり出し、追いまわしてくれる。けっこうなはなしではないか。ただ、これにしても、結局は他人の事、どうこうできるものでもない。

 問題は、あのJPキャパと名乗る、猟奇画像の提供者のことだ。

 公安キャリアの見立てによれば、スキー帽とJPキャパは、被災地で知り合った俄か仲間で、猟奇事例は、その二人が仕組んだ客引き狂言、ということになる。二人は本当に共犯者なのか? もしそうなら、このわたしはなんだったのか? 身を捨ててでも、事物の原理に近づこうとする好奇心と、清廉で潔い精神に溢れた若い力にほだされて、なにかにつけ、甘い対応に終始してきた好々爺、とでもいうべき愚か者にすぎなくなる。なんとも情けないはなしだ。

 逆に、公安キャリアの見立てが的外れだったとしたら、どうだろう? 

 スキー帽の、被災者への奉仕の精神や慈愛の心は、尊いだけではなく、道徳の繰り出す普遍の力で、生命と生存の記憶野に運ばれ、奥深く滲透し、堆肥となって、ひとの心に肥沃な土壌を育んでくれる。そして同時に、その気高い生業の傍らで、人を見れば泥棒と思え式の、下衆の方便を卑しいともおもわなくなった大人どもに、なにを置いても若い力を信頼し、未来をたくさなければならないのだ、という貴重な教訓を、授けてくれることにもなるのだ。もしそうだとしたら、このわたしほど、先見の明に長けた大人はいないだろう、と自負してはばかることはない。
 しかし、事実は、どうなのか?

「いやあ、ヘンなヤツにつかまったおかげで、すっかり、時間をとられてしまいましたね」

 夕暮れの瓦礫の脇を歩きながら、青年に話しかけた。

「あのキャリア、またヘンな注文、つけてきましたけど、あす、どうするつもりですか?」
「あすっすか?」

 青年は、ぶっきらぼうに応えた。

「オレ、おもったんすけど、あの戦場カメラマンに、キャパ、っていったの、オレ、でしたよね」
「そうですよね、かれのことを、戦場のカメラマン、そのものだから、偽名つかうなら、キャパですよ、って、アドバイスしてましたよね、たしか、仏像のはなし、してたとき、でしたよ」
「そうっすよ。でも、かれ、初耳だって、感じでしたよね」
「はい。このおれが、キャパ? って感じでしたね」
「トボけてたのかな?」
「いや、そんな風じゃなかったですね」
「ということは、自分がキャパみたいになりたいって意識、なかったんすかね、そのとき」
「なかったんじゃ、ないですか」
「とすると、キャリア提供の冤罪ドラマ、ハナシがあわないっすね」
「あわないですね。もしJPキャパが、かれだったら」
「本心を見抜かれちゃった、て感じの、照れくさそうな反応、あってもよかったんじゃないっすか」
「そのとおり、ですよ」
「ということは、あの戦場カメラマン、実はJPキャパじゃなかった、てことすかね」
「そうなりますねぇ」
「冤罪ドラマ、成り立たないじゃ、ないっすか」
「幻の冤罪劇、ですか」
「オレ、だんだん、自信、なくなってきましたよ」
「自信?」
「はい、あの冤罪ドラマ、あまりに出来すぎてるんで、ひょっとしたら、オレ、六甲の湯上り女じゃないかな、なんて、聞いてるうち、マジ、考えこんじゃったっすよ」
「それは、深刻ですな、ハハハハ…」
「いや、その…」

 いいかけて青年は、ふと、口をつぐんでしまった。深刻、という反義語で、笑いとばそうとした冗談が、うまく届かなかったようだ。覗き見根性を見抜かれてしまった気がしたが、青年がそこまで繊細な神経の持ち主だとは、正直、まだおもっていなかったのだ。
 青年の性別への疑問は、他人事ゆえ如何ともしがたい、くらいにしかおもっていなかった。だが、好奇の目に蓋をし、本人への細やかな配慮は欠かさない、としても、疑問は疑問として、素直に向き合う必要がある、とも考えた。それなりの取組み方を知っておかないと、相手と面と向かって、それこそ目を合わせて、話すこともできなくなる。ひととして、真摯な態度ではない。
 青年の方も、自分の性に興味津々な他人が、目の前や周りでうろうろされるストレスを、なんとか人目に悟られないよう、務めているかにみえた。幸い、かれも、他人との率直な交流を求める、あたりまえの社会人のひとり、だったのだ。
 そのかれがどうであれ、自分が抱いたわだかまりの気持ちに、なんの手当もしないまま、その日、当人と別れてしまいたくはなかった。被災地の公園で、たまたま知り合ったボランティアの一人だったが、気持ちを込めて造ってくれるサバイバル焼きそばが縁で、すっかり親しくなってしまった。このまま、ではまたいつか、お元気で、と手を振って、公園をあとにする気にはなれなかった。
 そんな去りがたいこちらの気持ちを、固くつぐんだ口の向こうで、青年は、あざとく見抜いていたようだった。

「あのキャリア、いってましたけど…」

 夕暮れの、闇の深まる公園の一角で、カマドに火をおこしながら、青年が口を開いた。

「先輩は、技術屋さんすか?」
「いや、その、先輩、はよしましょう、ただトシくってるだけですから、ハハハ…」

 ごまかそうとしたが、かれは許さなかった。

「いいじゃないすか、どっからみても、やっぱ、先輩は先輩っすよ。で、結局、なに屋さん、なんすか?」

 正直、答えたくなかった。現役中は、技師として、建設業界を一巡りしたが、専門は構造だった。だから、構造屋です、といえばそれで済むのだが、発災後は、構造という言葉を耳にするだけで、あの、阪神高速の巨大橋脚の、タンデム大崩落の悪夢がよみがえってくるのだ。
 べつに、あの大事故の原因が、自分も予知できなかった無責任な仕事にある、などと己惚れるつもりは毛頭ない。が、あのような大事に至ることを、オマエは予測していたのか、想定すらしていなかったのか、よくそれで、技師として、長年メシを食ってきたな、バカなヤツだと、いつも鬱々と、人知れず、自虐的に、自分を問い詰めてしまうのが、常になっていた。

「なに屋、って、しいていえば、構造屋、ですかね」
「そうすか、なら、トラウマっすね」
「えっ!」
「この震災で、耐震構造、アウトになっちゃって、悩んだんじゃ、ないっすか?」
「や、まったく、その通りで…でも、どうして、そう…」
「オレ、建築科の学生なんですよ。専攻は意匠ですけど」
「ええ! なんと、偶然のなせる業というか、千年に一度の天災を機に知り合ったひとが、同業者とはねぇ」
「構造やってるひと、みな、トラウマっすよ。平気なヤツも、いますけどね」

 カマドの火が大きくなった。外套の灯らない闇に光がさし、頬が火照り、手が温かくなった。青年のカーキのダウンジャケットが、真っ白に輝いて見えた。

「あれ? あなたのダウン、白色でしたっけ?」
「あ、これっすか、これ、リバーシブルで、裏はカーキ、表はホワイト、ツーカラーなんすよ」
「あ、なるほどね、表と裏、きままに、色選び、できるわけだ」
「そう、きままに…」

 青年は、また、ふと、黙り込んでしまった。さっき、分署からここに来るときも、ふと、黙り込む瞬間があった。いまもまた、急に、沈黙がかれを支配している。この沈黙モードはなんだろう。表現のドアをピシャリと閉めたくなるほどの、辛い思いがあるのだろうか。なにかきっかけがあるのだろうか。だが、それがなにか、こちらには知るよしもない。
 カマドから目を逸らすと、深い闇があった。しばらくすると、目が慣れて、レンガ造りのトイレやサバイバルのテント、ベンチ、植え込みの囲い、生け垣、側溝のコンクリートなど、いろいろなものが、闇に滲む輪郭で、現れてきた。その中に、あれだけ明るい日中に、目に入っていたのに、見ていなかったものが一つ、あった。公園の中央に植わった大きな楠だった。
 豊かに茂った枝を八方に伸ばし、傲然と暗闇に居座っている。真っすぐに伸びた幹は、二人がかりでも抱えきれないほどの、太さだ。その滲んだ輪郭を、根本から辿っていくと、こんもりと膨らんだ枝葉の上方に、満天の星空が広がっていた。そうか、今日は一日晴天だったんだ…しばらく夜空を眺めていると、さっと、足元をよぎる気配がした。素早い動きで植え込みを駆けぬけ、生け垣を飛び越え、歩道の向こう側に消えていく。傲慢に太った黒猫の影だった。

「あいつ、このシマのボスなんすよ」

 沈黙モードからぬけ出たのか、半ばふざけ気味に、青年がいった。

「いつも、いまごろ、偵察にくるんすよね、ウメーものネーかな、て感じで」
「ボス、ということは、チンピラも?」
「チンピラというか、子分というか、もちろん、たくさんいますよ、ベッタリ忠実派、カリカリ造反派、まるで無関心派、いろいろ多様で、おもしろいっすよ」
「その子分たちが、被害者なんですね」
「被害者?」
「ええ、カマドに捨ててあった胴体だけのネコとか、右足のない、左足のない、アタマもない、そんな姿で、毎朝、捨てられていた、ネコたちのことですよ」
「ああ、その被害者のことっすね。いや、ここにはいませんよ。なぜって、オレ、うちの子、10匹いますけど、全員に名前、つけてあるんすよ。さっきのボスは、モンブラン、ていうんです」
「ほ、なんと、山男らしい命名ですな」
「子分には、みな、北アルプスの名峰の名を、授けました」
「北アルプス…なぜ?」
「オリジナルは欧州、日本のアルプスは、そのまね、だから、子分っすよね」
「なるほど、すると…」
「いってみましょうか、まずヤリ、次にホダカ、それからゴリュウ、続いてカラマツ、シロウマ、タテヤマ、ヤクシ、ノリクラ、最後にツルギ」
「それ、順不同?」
「もちっすよ」
「愉快な発想、だな」

 すると青年は、カマドの向こうからのりだして、いった。

「キャパさんも、おもしれー、て一応、ほめてくれましたけどね」
「一応?」
「かれに比べたら、オレなんか、特異でもない、平凡なもんすよ」
「特異? 平凡?」
「並みの域を出てない、ていうとこっすかね」
「キャパさん、そんなに非凡で、特異なひと、でしたっけ?」
「特異もなにも、戦場を駆け巡るアフガン育ち、ですからね、やばいっすよ」
「やばい?」
「スゲーひとだなぁ、て感激しちゃうんすけど、同時に、なにされるか分かんねーなぁ、て、怖くなっちゃうんすよね」
「キャパさんとは、いつ、お知り合いに?」
「一週間ほどまえだったかな、街中ですれ違ったんすよね。腕にプレスの腕章つけた、真っ黒に日焼けした精悍なカメラマンが、向こうから歩いてきたんすよ。オレ、なんとなく、ゾクッとしちゃって、プレッシャー感じちゃって、見とれてたんすよ。そしたら、むこうから、あなた、ボランティアでしょ、て、話しかけてきたんすよね」
「へぇ」
「えっ、なんで、分るんすか、て訊いたんすよ」
「そしたら?」
「そしたら、顔に書いてある、って」
「顔に?」
「ほっぺたにゴーグル痕くっきりのヤツが、ザックしょって買い出ししてたら、一発で炊出しボランティアって分るんだよ、ていうんですよね。オレ、いい当てられて、なにもいえなくて、だまって突っ立ってたら、どこでやってんだい、て訊くので、この公園のことはなしたら、じゃ、あした、いくよ、またな、って、いなくなっちゃったんすよ」
「それで?」
「それで、ほら、きのう、先輩がくるちょっとまえに、ひょいと現れて、来るなり、そこらじゅう、カシャ、カシャ、って、何枚も写真とってましたよ」
「じゃあ、きのうが初めてなんですね、キャパさんとはなしたのは」
「そうすよ、ガンダーラ、仏像の起源、クシャン王朝、アフガン戦争、タリバンのハナシ、いろいろ、おもしろかったすよね」
「いや、ほんと、おもしろかったです。わたしも、よい勉強になりました」
「あの日、キャパさん、オレのテントに、泊まってったんすよ」
「そうですか、たのしかったでしょ」
「はい、一晩かけて、アフガンのハナシ、たっぷり、はなしてくれました」
「一宿一飯の恩義ですか」
「恩義からじゃないでしょうけど、めちゃめちゃ、おもしろかったすよ、戦場の生々しい実態、ていうか、過酷で残忍で、エゴむきだしのだまし合い、ていうか」
「殺し合い、ですものね」
「ただの殺し合いじゃ、ないんすよ。めちゃめちゃ、手が込んでるんすよ」
「手が込んでる?」
「たとえば…聞きます?」
「ええ、知りたいですね」
「気が滅入りますよ」
「そんなトシでもありませんから」

 それなら、と念を押し、青年ははなしだした。

「実は、あのキャパさん、マスードのインタビュー、やりたかったんすよね」
「マスード?」
「去年まで政府軍司令官で国防相やってたひと」
「ああ、新聞で読んだことありますよ。ソ連軍を撃退したゲリラの首領ですね」
「そう、そうすよ、パンジシールの獅子と呼ばれる英雄で、フランス語で教育を受けたひとだから、欧米のジャーナリスには、唯一話が通じるアフガン人、てことで、みな会いたがっていた人物らしいすよ」
「その人物が、どうして、去年?」
「今年になって、タリバンが勢力伸ばして、実質、政権が崩壊しちゃったそうなんです」
「すると、現在、タリバン政権下ですか?」
「とはいえない、みたいすよ」
「というと?」
「オレもよく、理解してないんすけど、とにかく、あそこは、多民族、多宗教で、代々、民族、宗教、それぞれの、世襲の領主が、自分ちを治めてるんすよね。そして、民族、宗教の坩堝だけに、領地保全が超難しくて、今日の味方は明日の敵、みたいな、分割国土を支配する軍閥集団のパワーバランス次第で、状況が刻々と変わっていくわけなんすよ。だから、みな戦々恐々として、明日をも知れぬ身、みたいな毎日を、送っているわけですよね。オレのハナシ、分ります?」
「よく、分りますよ」

 青年は、軽く頷いて、つづけた。

「もともと、アタマの中に、列強が勝手に決めた、国境とか国家とかいう概念がなくって、あるのは、芥子の栽培で稼ぐお家が一番、みたいな、部族第一主義を大儀とする共同体が、多数共存してるというか、林立してるというか、そんな地域だから、群雄割拠の戦国時代、に近い状態に戻ってしまった、というのが、大方の見方らしいっすよ」
「ややこしいいですな」
「でしょう。でも、キャパさんは、現場よく知ってるから、嗅覚やら皮膚感覚やらで、感じること、ぼんぼん、話してくれるんすけど、こっちは、とてもついていけないっすよ」
「でしょうね。ところで、他民族、多宗教、ていってましたけど、ちなみに、どんな民族が?」
「きのうの夜、テントでキャパさんから聞いたこと、復習してみますとね、アフガンて、ペルシャ系のタジク人とか、パキスタンにも広く分布するパシュトゥーン人とか、中央高原に居住するハザラ、トルコ系のウズベクやトルクマン、南部の遊牧移牧民バルーチ、それにアラブ人、といった民族が構成する、覇権争いの野合集団で成り立てる、てとこっすかね」
「とすると、マスード司令官というのは、その野合集団で、どういう立ち位置にいるひとなんでしょうね」
「そこなんすよ」

 青年はのりだした。

「マスード司令官は、生まれついてのイスラム信徒らしくて、学生時代には、もうイスラム青年運動に参加してたんですよ。そのころ、ソビエト連邦は、もう、しっかり、支配地域の南下を画策していて、アフガンを連邦の衛星国にしようとしてたんすよ。だから、人民民主党ていう左翼政党を後押しして、陰に陽に、国内外周辺のイスラム教徒を抑圧しはじめていたんです。ところが、イスラムの支配をよしとしないひとも、けっこういて、そんなだから、左翼思想は、そういった層に着実に浸透していったんすよね。で、マスードが学業を終えるまえには、左翼の人民民主党が政権与党になっちゃったんすよ。もともとイスラムは宗教第一だし、左翼は宗教否定だから、宗教否定の政権与党が宗教国家を治められるわけがないでしょ。当然、あっというまに、ムジャヒディンという武装勢力が結集し蜂起して、政府と反政府勢力の内戦が勃発しちゃったんです」
「そのとき、マスード司令官は?」
「内戦が勃発するや、反政府武装勢力を抑え込もうと、ソビエト連邦が軍事介入するんですけど、マスードは、何の迷いもなく、学業を離れ、イスラム主義政党と行動を共にするんですよ。故郷パンジシールに拠点を設け、反政府北部同盟の司令官として、北部山岳地帯を主戦場に、激しいゲリラ戦を展開、遂にソ連軍を撃退するという、大きな成果を得るんですが、ソ連軍撤退後、こんどは、イスラム原理主義のタリバンとの内戦に、突入していくんすよね」
「なるほど、まさに、今日の味方は明日の敵、ですね」
「そこで、さっきのハナシにもどりますと」
「手の込んだ、気の滅入る殺り方、ですか?」
「いや、まず、キャパさんが、マスードのインタビューを狙ってた、てはなしの方が、いいとおもうんすよ」
「そうですか」
「なぜかっていうと、左翼政権党と聖戦士、北部同盟とタリバン、それに、ざっとみても、英ソ米中、パキ、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、イラン、なんかも入れたら、アフガンに関わってる当事者勢力って、数えきれないくらい、いるんすよね」
「ですねぇ」
「それらの一つ一つが、自分の利益を得るために、独自のベクトルで、動いているわけでしょう」
「そうですね」
「だから、数えきれないほどの作戦や、工作や、陰謀が、日夜、くり広げられているわけですよね」
「でしょうね」
「そんな中で、政権側が一番恐れているのは、情報戦だと、キャパさんはいうんです」
「ほう」
「現政権について不適切かつ偽の情報、それを国際世界に流されてしまうことが、一番、避けたいことの一つだって」
「国際社会で孤立しないためにも、当然のことでしょうね」
「でも、現実に、孤立は始まっちゃってるんすよね」
「しかし、それは、イスラム原理主義の教義のせいだとおもいますが、いかがですか?」
「それ、なんすよ!」

 青年の、カマドの炎で火照った頬が、ますます赤くなった。

「オレ、考えたんすけど、いま、アフガンについて、どんな情報が流れてるか、先輩、知ってますか?」
「新聞やテレビくらいしか、情報源はありませんけど、知っていることといえば、せいぜい、内戦中だとか、イスラム教とか、原理主義、武装勢力、それにタリバン、シャリア、ブブカ、ちょっとひどいな、てとこで、暗殺、即決裁判、鞭打ち、石打ち、手足切りの刑とか、それくらいのことですかね」
「それくらいどころか、十分すぎる知識じゃないすか」
「いや、最近、これくらいの情報、目から耳から、山ほど入ってきますよ」
「それって、変だと、おもいませんか?」
「ヘン? なにがですか?」
「イスラム原理主義武装勢力タリバンの、わるいとこばっか、でしょ」
「わるいとこというか、イスラムに限らず、宗教に深く関われば、ありがちなことだと…」
「そうっすよ、異教徒あいてに、宗派間抗争でも、殺し合いばっか、やってきたんすもんね」
「ただ、いまは、もうそんな時代じゃ、ないでしょ」
「キャパさん、いってましたよ、ムジャヒディンとタリバンの抗争は、自由にものが言える側と、自由にものが言えない側の、戦いだって」
「なるほど、表現の自由ですね。ジャーナリストらしい発想ですな」
「そして、自由にものが言える側が、いつも勝利するんだって」
「すると、タリバン側は不利、ということになりますな」
「まさに、表現の自由を謳歌する側が、タリバンの悪行について、あることないこと、世界中に宣伝するわけですからね」
「プロパガンダ?」
「そう。それに、マスード司令官のような、取材できる反タリバン側の要人が、うまく取り込まれているんだって」
「うまく取り込まれる?」
「マスード司令官の取材記者って、司令官の考えを報道するわけだから、タリバンからしたら、反タリバンの宣伝工作員、てことになりますよね」
「そうなりますね」
「だから、ポアするんすよ」
「ポア?」
「密教の慈悲殺人のことっすよ。オーム真理教が、殺人を正当化する教義として、パクッたんすよね、この思想を」
「そういえば、雑誌なんかで、ポア、ポア、って、よく、いってますよね」
「マスードに会うヤツは、地獄に落ちるヤツだから、落ちないように、ポア、してやらなくちゃ、てわけなんすよ」
「植民者に殺されたインディオみたいですね。取材するのも、命がけなんだ」
「キャパさんも、すんでのところで、死なずにすんだって、いってましたよ」
「ポアされかけた、てこと?」
「それほど単純でも、ないすけど」
「すると、手が込んでる、というか」
「かなり…」

 青年は、カマドに薪をくべ、スキー帽を被りなおしてから、つづけた。

「キャパさん、十年ほどまえ、ペシャワールで、壊れた脚立の修理をしてもらいに、街中探し回って見つけた板金屋に飛び込んだんすけど、そこで、たまたま、若いタジク人と知り合ったんです」
「タジク人というのは、たしか、イラン系でしたね」
「というより、ペルシャ系といった方が、いいかも」
「なるほど、より近いルーツ、というわけですね」
「かれ、商いを生業とする民族の末裔らしく、人当たりがよくて、物腰が柔らかくて、約束も守れそうにみえたし、それに、言葉が達者で、いろんな現地語はもちろん、英語、フランス語、イタリア語、それにロシア語もできるとかいうし、なにより、ほら、マスード司令官て、タジク人でしょう、なので、すげー利用価値高い、て判断してすぐ、ガイド通訳してくれないか、て頼んだんすよ」
「そしたら?」
「そしたら、意外と、用心深い、というか、抜かりない、というか、キャパさんの素性や、アフガン滞在の目的や、資金の出どころや、人脈や、いろんなことを、ねほりはほり、逆に取材されてしまった、ていうんすよ」
「なるほど」
「オレなんかだったら、それで、さよなら、てなるんすけど、そこはキャパさんで、プロの嗅覚ていうんすかね、そのネチネチしたしつこい抜け目のなさが、超気に入っちゃって、自分のことを、洗いざらい全部話して、最後にもう一度、協力してくれないか、て頼んだそうなんすよ」
「そしたら?」
「さっき、初めて遭ったばかりで、なにも知らない人間に、なんでそこまで、自分をさらけ出すんだ、て、マジに訊いいてきたそうすよ」
「キャパさん、どう応えたんだろう」
「ベストの内側に突っ込んであったドル札、何枚かわしづかみにして、ごつごつした大きな手に握らせると、その大きな目をグイッと睨みつけたまま、ビスミッラー、ていったんです」
「ビスミッラー?」
「よく使われるアラビア語で、なんか、寛容で愛情深く、すべてを与えたもう導き手の神の元で、わたしはあなたに贈り物をする、みたいな、そんな意味になるらしいっすよ」
「神の庇護と導きのままに成す誠の行い、というわけですか」
「食事のとき、かならず口にする言葉らしいっすよ、ちょうど、いただきます、て感じで」
「ほう、タジク青年のこと、よほど気に入ったんですね。で、かれは、どんな反応を?」
「ドル札の手をギュッと握り返して、インシャラ、て応えたそうです」
「いい加減だな」
「いや、正しくは、イン・シャ-・アッラー、という風に、発音するみたいすよ」
「どうせ、ケセラセラ、でしょ?」
「キャパさんによると、神の思し召しのままに最善を尽くす、という意味で、積極的な意思表明、らしいっすよ」
「ほう、そうなんですか」
「とにかく、そのタジク人青年とは、すっかり親しくなって、アフガンに行くたびに、ガイドとして、通訳として、移動や資機材調達の便利屋として、重宝しながら使ってたんすけど、数年も経つと、互いに気心が知れた付合いになってくるらしくて、戦況も複雑化し、タリバンが徐々に勢力範囲を伸ばしてくると、タジク人ガイドが、自分の立ち位置を微妙な感覚で認識しだした、てことに、キャパさん、気づいたんすよね」
「つまり、タリバン勢力の支配下で、タリバン取材の手伝いをしている自分の立場が、タジク人としてどうなのか、ということですかね?」
「まさに」
「離反者のそしりを受けかねない立場ですものね」
「キャパさん、ほとんど仲間同士みたいだった関係も、戦況次第でいよいよ微妙になってきた、まだ司令官にも逢えてないし、専属で傭う資金もないし、この先どうするか、なんて悩んでた矢先、ラフマニの方から、複数の欧米メディアからマスード司令官に取材のオファーがあったがオマエも行きたいか、と、訊いてきたんですって」
「なんと、チャンス到来じゃないですか!」
「キャパさん、大枚叩いて、そのオファーに乗ったんすよね」
「当然でしょう」
「細かいとこ、ラフマニに確かめると、現地で俄かに組織した、なんか、合同取材班、みたいなのが発注主で、中身はAFP、DPA、CNN、ANPとかといった、欧米の大手メディアと個人契約した、フリーランスの記者たちがメインなんすよね。みな、大スクープを狙って集まった強者ばっかですよ」
「司令官、人気高いんですね」
「それも当然で、ソ連軍撤退のとき、要求もされないのに、自分から捕虜を解放したり、撤退作戦の妨害はしないと約束したりで、仁義なき戦場においてなお信義を重んじる武人の風格、なんて、どっかの英字新聞が賞賛するくらい、外では評価の高いひとらしいっすよ」
「当のソ連、恩義を感じたんですかね」
「撤退後まもなく、ソ連邦崩壊で、なくなっちゃったんすけど、いまのロシア連邦になって、北部同盟を支援しているところをみると、恩に報いたかったんじゃないすかね」
「で、キャパさん、マスード司令官に会えたんですか?」
「そこなんですよ、さっきから、はなしたかったのは」

 上気した青年の瞳が、カマドの炎を映して、きらきらと輝いた。

「事の発端は、サウジ出身の富豪でタリバンを支援する武装勢力の指導者と、北部同盟の司令官が、ジャラーラバードの仏教史跡で会合する、という情報を掴んだ合同取材班が、ラフマニにガイドをもちかけたんすよ」
「ジャラーラバード?」
「キャパさん、はなしてた、あのガンダーラ仏教文化の中心地のひとつですよ。ほら、NHKのシルクロードにも出てくるでしょう、玄奘三蔵がインドにわたる途中で通過した、巨大な仏塔や、黄金に輝く仏像のある、あの一帯ですよ」
「でも、どうして仏教史跡なんかで?」
「ジャラーラバードは、アフガン紛争当初から、ずっと、人民民主党政府の拠点だったんすよ。ソ連軍撤退の直後、アメリカとパキの支援で、ムジャヒディン側が総攻撃かけたんですけど、とどのつまり、野合大集団ではまるっきし統率がとれなくて、さんざんな目にあって負けちゃったんすよね。だから、サウジの大物指導者とマスードにとっては、ともに攻め入って、大きな犠牲を払って戦ったあげく、無残に敗北してしまった、という、双方にとっては、もろ、歴史的な雪辱の地、なんすよね」
「その雪辱の地で、タリバン勢力と北部同盟の両首領が相まみえる、というわけですか。そりゃあ、大スクープだ」
「とにかく、取材当日早朝、ラフマニがどっかから調達してきたランロバとランクル、それにパキ警察の警護車トヨタのピックアップの三台で、ペシャワールを出発したんですが、出発前に、だれがどの車にのるか、一悶着あったんすけど、ラフマニのアイデアで、結局、合同取材班の白人記者五名と運ちゃんがランロバ、キャパ入れて香港、台湾の有色人記者三名とラフマニがランクル、と、肌の色できれいに分かれて分乗することになったそうっすよ。ピックアップは、もともとパキ警察の警護車だから、当然、警官が二人乗って、カイバル峠の国境まで護衛してくれた、といってましたね」
「警護が付くんですか?」
「パキ政府の政策ていうか、国家の安全と秩序の維持、それに対テロ対策、として、とくに外国人に保護と警備という名目で課している措置、らしいんすけど、ペシャワールのゲートを抜ければ、即、トライバルゾーンなんですよね。カイバル峠を国境まで走る一本の国道の細い線の内側、だけしか、パキ政府の力は及ばない。だから、実質、警察の保護警備対策って、外国人からカネをむしり取る、たかりの口実になってるんじゃないか、なんて、みな、ブーブーいってるそうすよ」
「ハノーバーと西ベルリンを結ぶ国道をおもい出しますな」
「へー、走ったこと、あるんすか?」
「むかしね、若気の至りで、十二月三十一日のアイスバーンを夏タイヤで」
「フー、恐ろしいっすね!」
「いや、カイバル峠に比べたら、お遊びですよ。で、一行は、国境まで無事に?」
「パキは、ムジャヒディン支援だったから、トライバルゾーンていっても、比較的軋轢が生じにくいんですよね。だから、国境までは辿りつけたんすけど、そっからアフガンに入ると、いよいよ戦場ですよ。まともにジャララバードまでたどり着けるかどうか、だれにも保証できない世界です」
「だれが敵なのか、だれにも分からない、最悪の戦場、ですか」

 青年は、こちらの指摘を無視たまま、テントにもぐり込んで、しばらくゴソゴソしていたが、やがて段ボール箱を手に、カマドに戻ってきた。

「買いだめしてたビールなんすよ。飲んじゃおっと。先輩もどうぞ。どうせ、明日、たたんじゃうんすからね」

 そして缶ビールの栓を開け、キャパさんの記者魂に乾杯、と、一口、ゴクリと喉をならしてから、またはなしつづけた。

「ペシャワールのゲートをくぐってから、約四時間半ですよ、無事、ジャララバードに到着したキャパさん一行、なんすけど…」

 カマドの火が、パチパチと鳴った。火照った体が、寒空に、震えた。青年に次いで、ゴクリと喉を鳴らすと、冷え切った臓腑が、みるみる、温まった気がした。指の先に、ジーンと、血が流れるのを感じた。

 青年が伝えるキャパのはなしは、まるで記録映画をみているようだった。キャパの記憶装置から、間断なく繰り出される映像が、音響や臭いまでもともなって、こちらの記憶装置に、オンエアで直接伝わってくる。ひょっとして、ひとの記憶は、こうして、本人から他人へ、そしてまた赤の他人へと、有機体の壁を透過して、継承されていくものかもしれない。

 キャパの伝えるジャララバードは、戦乱で破壊された大都市のあちこちに、ひとの群がる集落が生まれ、やっと手に入る生活必需品や農具類が、路上やバラックの軒下に吊り下がり、農夫や兵隊、チャドルの女や警官、銃をぶら下げたいかにもタリバン兵といった、多種多様なひとたちが、ひっきりなしに行きかう、ささやかな俄かバザールの印画紙を、彷彿とさせた。

 紛争前は、さぞにぎやかだったろうとおもわせる、セピア色にくすんだ瓦礫の山をたどっていくと、礫と土と古木を頼りに、復元中の茶屋が一軒、目に入った。一行は、その前で車を止め、ラフマニが店内に入っていった。ターバンを巻いた店主らしい老人に、人数分の茶を注文しているようだった。

 しばらくしてラフマニが、左手に通信機らしきものを持って、店の奥から出てきた。ランロバの白人記者たちは、店主が運ぶ茶を受け取りながら、車窓から体半分乗り出して、ラフマニになにか叫んでいた。かなり、苛ついているようだった。ラフマニは、記者たちに、右手で落ち着けと合図し、左手の通信機を耳に押し当て、だれかとはなし出した。取材の受け入れ側と、場所の確認でもしているのか。会話は数分でおわり、ラフマニが意を決したように、まずランロバの記者たちになにかを伝え、すぐにランクルに乗り込んだ。なにが決まったのか? 助手席のキャパも、後座席の香港、台湾の両記者も、待ちきれず、ほとんど怒鳴りつけるようにして、ラフマニに迫った、という。

「なにを決めたんですかね?」
「ハッダの遺跡群まで来い、と指示されたんですって」
「それ、ジャラーラバードから、まだ先じゃないですか?」
「そうすよ、十キロほど先の、もろ、ガンダーラの仏教遺跡群すよ」
「遺跡群といっても、いろいろあるでしょうし、破壊されてしまった、ともいわれてるし、いったいどこに来い、と?」
「民兵二人、迎えにやるから、茶屋の前で待て、と命令されたそうす」

 先方とのやり取りでは、十分ほどで行くから、との返事だったが、実際は四十分も待たされたという。一行の苛立ちが、ほとんど限界に達したころ、弾帯をたすきがけに自動小銃で完全武装した民兵、というか、少年兵が二人、一行の前に現れた。

「少年兵?」
「そうすよ、少年兵っすよ。日本でいえば、どう見ても、中学校に入るか入らないか、くらいの年頃でね」

 えくぼの辺りに、まだあどけなさがのこる、二人の少年兵は、身のこなしも軽快で素早く、そのてきぱきとした行動から、一人前の兵士として、一通りの教練と軍事訓練をうけた実績のあることが窺いしれた、という。

「でも、どっち側の民兵なんですかね?」
「まさに、そこなんすよ!」
「というと?」
「キャパさんも含めて、みんな、マスード側の民兵だとおもい込んでたんすけど、実は…」

 実は、そうではなかった。そして、合同取材班一行に、大きな犠牲者が出たあと、はじめてそのことが分かった、というのだ。 

「なにが、分かったんですか?」
「とにかく、二台の補助席に、少年兵一人ずつ乗っけたあと、指図どおりハッダに向かったんすよ。でも、ほんの二、三キロ行ったところで、車を止めて全員降りろ、て命令されたんです」

 止まった車の窓から、角礫とブッシュが散在する褐色の土漠が広がる、荒々しい丘陵が見えた。その稜線を目で追っていくと、緩慢だった傾斜が、こちらに向かうにつれて急斜面の下りになり、それが、涸渇しきった不毛の沢地まで迫っていた。一行が止まったところは、ちょうどその入口の、すぐ手前の窪地だった。取材予定地の、破壊された遺跡群は、眼前の丘陵の、もう一つ向こうの稜線部にある。なぜ、こんなところで、降ろされたのか。一行に疑心がただよった。口々に不平をいいながら、ランロバの運転手を除き、全員、クルマから降りた。そのとき、ラフマニの通信機が鳴った。ラフマニは、極力、冷静さを装って応答にでたが、すぐに不満を露わにした表情で、少年兵に通信機を手渡した。

「また指令ですか?」
「指令というか、約束違反というか…」

 受け入れ側が、急に、受け入れ人数を制限してきたというのだ。

「制限?」
「十人程度はOKということだったのに、五人以上はだめだ、ていってきたんすよ」
「三人、あまっちゃうじゃないですか」
「それが問題なんです」

 なんとかならないか、と、少年兵相手に交渉しても、無駄なことは明らかだった。受け入れ先の対応は厳しく、ガンとして、譲らない。埒が明かないと判断した一行は、八人を五人に減らす必要に迫られたが、それぞれに、自ら身を引く、という選択肢はなかった。プロの矜持と強い野望が、それを許すはずがなかった。喧々諤々の、ほとんどつかみ合いの議論がつづいたが、突如、数発の銃弾が響いた。みると、二人の少年兵が、一人はランロバ、もう一人はランクルに、安全弁をはずした銃口を向け、狙いをつけて威嚇し、なにやら大声で叫んでいた。

「なんて叫んでたんですか?」
「カネを出せ、多い方を、つれてってやる…てわけっすよ」
「地獄の沙汰も金次第、ですか」

 少年民兵のアイデアは決定的だった。メジャーと契約している連中は、巨大なバックアップがある。ところが、キャパさんや香港、台湾のフリーランスたちには、それがない。結果は明らかだった。白人記者五人が札束をかき集め、少年兵にわたした。襷がけの弾帯の下の、羊のベストのポケットに束をねじ込んだ二人は、一人が後部補助席に、もう一人は、通信機を遠くへ投げすてるや、ボンネットから屋根に駆け上がり、匍匐の姿勢で腹ばいになった。このままだと、完全にとり残される。劣勢にたった黄色人記者たちは、ラフマニを煽って挽回しようとしたが、捨てられた通信機を慌てて探しにいったのか、その場にかれはいなかった。万事休す、だった。いまいましい気持ちで地団太を踏む三人の記者をしり目に、ランロバは勢いよく土煙をたて、沢口目がけて走りさった。

 沢口から数百メートルほど遡った右手の斜面に、大きな窪地があった。よく見ると、日干し煉瓦を積みあげた仮設の小屋が、いかにも人目を避けるように造作してあり、キャパたちがいる沢地の底部から、その屋根部がちらりと覗いて見えた。窪地のブッシュで遮られた開口部の一部から、小屋の中で、ときたま、ターバンを巻いたひとの頭が、銃口部の鈍い反射光をひきずって、行き来しているのが見える。ランロバが、窪地の真下で止まったとき、小屋内の動きはすべて停止し、ひとの気配がなくなった。

「そろそろはじまるな」

 いつの間にか、ラフマニが傍にいた。

「なにが、はじまるんだ?」

 咄嗟に三人が、口々にラフマニを問い質した。

「ヒトからカネまきあげて、なにもしない、ハナシが違うじゃないか!」
「オマエ、レイシストじゃないか? 白と黄色を別々にしたのは、もともと、オマエのアイデアだったよな!」
「白とハナシはついてたんだろ? いや、白だけじゃないな、あの民兵とも結託してんだよな!」

 しかし、肝心のラフマニは、どこ吹く風で、三人のいうことに、まるっきり無関心、そして最後に、こう提案したという。

「ま、クルマに乗って、ゆっくり、見物しようじゃないか、イン・シャ・アッラー」

 窪地の真下で止まったランロバから、運転手を残して、五人全員、降りるのがみえた。少年兵が銃を突きつけ、なにやら大声で叫んでいる。遠すぎて、なにも聞き取れない。ラフマニは分っているのか?

「なんて叫んでるんだ?」
「知りたいか?」
「あたりまえだ!」
「カネとった分、ちゃんと説明しろ!」

 香港記者が怒鳴る。みな、よほど腹に据えかねているらしい。急にラフマニが、ライブで解説してやる、といって、淡々と説明をはじめた。

「あの上の窪地に見張り小屋がある。会見はあそこでやる。マスードはまだ来ていない。先に行って司令官の到着を待つ。小屋までは地雷が敷きつめてある。民兵二人が先に登る。登ったとこから合図をするので、その通りに登ってこい。ちょっとでも逸れたら、命はないぞ、これから登るから、合図をまて、という運び、だな」
「!…」

 ラフマニのいうとおり、すぐに二人の少年兵が、見張り小屋に向かって登り始めた。ただ真っすぐに登っている。なにかを避けている様子はない。五、六分、経過しただろうか。登りきった二人が、下方に向かって合図を送った。待ってましたとばかり、われ先にと、白人記者五人が駆け登りだした。すごい、すごい。まるで百メートル競走のスタートだ。襷がけにしたカメラと録音機が激しく揺れて、ベルトが千切れそうになる。数分たつと、体力差がでたのか、塊だった五人は、程よい間隔で、一列走行になった。それが悲劇のはじまりだった。トップが、窪地にあと十数メートルと近づいたとき、いきなり爆音が響き、土と砂と瓦礫と、そして人の手足が、空中に舞った。地雷が爆発したのだ。二番手以降は、爆風に押し倒されて、その場に這いつくばった。そして、すぐさま難を逃れようと、一斉に斜面を下りだした瞬間、次々と地雷を踏み、ばらばらになって空中に飛びちった。一瞬のうちに、五人の白人記者たちが、地雷の餌食となったのだ。

「…そんな…」
「…なんてことだ…」
「…あり得ない…」

 ランクルの有色記者たちは、驚きと恐怖のあまり、全身を震わせていたという。
 そこまで聞いて、おもわず、わたしはいった。

「そんなバカな! 場所こそ決まってなかったけど、それは、よくあることで、安全確保のため、最後まで、密会の場なんかは、他人に報せないものですよ。しかし、ちゃんとカネも払って、日にちも決めて、クルマ二台もチャーターして、それで、打ち合わせの通り、行ったんでしょう? マスード側にとっては、お客さんじゃないですか。それを、五人も、地雷にかけて、殺害してしまうなんて。あり得ないことですよね!」
「その通りっす、オレも賛成です」

 青年は、またテントに入って、ごそごそしていたが、しばらくして、残りの段ボール数個を抱えて出てきた。乾麺、缶詰、パウチ食品、ガスランプなどが、びっしり詰まっている。

「これも、全部、消化しちゃいましょうよ、ね。どうせ、明日、いなくなるんすから」

 そして、ガスランプに火をつけ、こう付け加えた。

「さっきのハナシ、なんで五人も殺されたか? いま、説明しますよ。それ聞けば、納得しますよ」

 青年は、鉄板をカマドに乗せてマキをくべ、段ボールの切れ端で、しばらく炎を煽った。そして、まるで自分の中の記憶を辿るように、ゆっくりとはなしだした。

「みな、顔面蒼白で、ぶるぶる震えていたら、帰るぞ! て、いきなりラフマニが叫んだかとおもうと、そのままランクルを、急発進させたんすよね…」

 急発進の衝撃で、われに返った記者たちは、一斉に叫んだ。

「待てよ! 待て、待て! このまま、連中、放っておくのか!」
「あたりまえじゃないか!」

 ラフマニが叫んだ。

「アンタたちも、ああ、なりたいのか!」
「ランロバの運ちゃんは、どうなるんだ、見殺しにするのか!」
「ヤツは慣れてる、放っておけ!」
「慣れてる!?」

 この一言で、みな、事の裏側を垣間見た、と確信した。

「オレたち、みんな、だまされてたんだ」
「すると、あいつら、マスード側じゃなかったのか」
「タリバンか、なんて邪悪なヤツラなんだ」
「どうして、くれんだよ!」

 歯ぎしりしながら、三人は、ラフマニに詰め寄った。 

「オマエ、オレたちを、だましたな?」
「だます?」

 ラフマニは、どこ吹く風、といった表情で、まるで三人をあしらうように、いった。

「ここはアフガン、ここは戦場、ここは地獄の3丁目、むかしから、ずっと、こうさ、ずーと、ずーと、まえからね‥」

 そして、国境なんて、どこにもなかった、いや、いまだって、どこにも、ないんだ、とつづけた。

 ラフマニの死生観は、こういうことらしかった。おれたちタジク人は、生まれてすぐ、西から東にいき、東からまた西に戻り、そしてまた東にいく、ずーと、その繰り返しで、終わりはない、何十年、何百年も、こうやって、生きつづけてきた、ほら、西を見れば、おれたちの先祖がいる、東を見れば、そこにも、おれたちの先祖がいる、おれたちタジク人は、先祖と先祖をつなぐ時の太い流れにそって、生きてるんだ、マスードにたかる連中も、タリバンに媚びるやつらも、その流れに一時干渉するが、かりそめの傍流にすぎない、時には肥しを注ぎ込み、時には毒を流し込む、しかし、それも大したことではない、すぐに涸渇してしまうからだ、だから、涸れないうちに、貰うものは貰う、貰うものがなければ捨てる、殺された白人記者らも、自分のスクープに投資したんだ、別に、おれたちが、誘ったわけじゃない、自分たちで情報を握って、自分たちで予定をたてて、自分たちで、あの土漠を登っていき、地雷に触れて、いなくなった、ただそれだけだ、タジクの本流に、なんのかかわりもない、あんたがただって、そうじゃないか、白人記者に比べたら、びびたる出資だったけど、自分の野心に投資したわけじゃないか、その証拠に、さっきの、他人がばらばらになって飛び散る、あの殺戮の場面を、バチバチ、カメラで撮影してたじゃないか、その画を、持って帰れよ、それを売って、スクープにして、名前が売れれば、野心が満たされて、大成功じゃないか、ただ、それだって、タジクには、なんの関係もないことなんだ、おれたちは、あいかわらず、西から東へ、そして東から西へ、生き続けるだけなんだ…。

「…ひとつ、不可解なことがあるんだが…」

 じっと耳を傾けていたキャパが、ラフマニを遮って訊いた。

「あの記者たち、少年兵の登った跡を、忠実に、はずさないで、辿ったはずなんだけど、なんで、あの地雷、少年兵には反応しないで、白人記者だけを殺すことができたんだ? なんか、めずらしいトリックでも、あるのか?」

 ラフマニは、ハンドルを握ったまま、目の端でキャパをとらえ、からかうようにいった。

「へー、おまえって、まだ、地雷、踏んだこと、ないのか?」

 本気で、あきれているようだった。

「あるわけ、ないだろ! 生きてねーよ!」
「それもそうだな」

 ニタリとして、かれは続けた。

「いいか、地雷も、最近は賢くなってね、ガキの重さじゃ反応しない地雷もあるってこと、よく覚えとけよな、イン・シャ・アッラー!」
「ということは?」
「たぶん、おまえなら、軽すぎて、信管は、反応しないんじゃないか、てことだよ。だが、あの連中は、旨いもん食って、ぶくぶく太ってるから、素っ裸でも、吹っ飛ぶんだな、気の毒に、イン・シャ・アッラー!」

 青年が伝えるキャパとの話を聞いて、わたしは、わけが分からなくなってきた。本当の事なのか、それとも絵空事なのか。実際、事の経緯を反芻しようにも、それが絵空事なら、なんの意味もない。白い五人組が司令官とサウジ人指導者の会見情報を入手したとしても、どの筋からか、どんな情報なのか、そもそも、その真偽はどうなのか、いろんな疑問がわく。情報ひとつとっても、疑わしさがまとわりついてくるのだから、マスードと同族のタジク人ラフマニに案内を頼んだ、という判断も、どこかのだれかが仕組んだワナ、だったのかもしれない。

 キャパは、マスード側の宣伝工作を封じるためのタリバンのワナ、と解釈したらしいが、解釈として成り立つには、事の経緯に、あるていど信憑性があって、説得力が感じとれる、くらいの、いかにも本当らしい、とおもわせるなにかがなくてはならない。青年の、まことしやかな話し方には、それがあるとおもえた。

「それにしても、あなたは、本当に、話が上手ですね」

  二本目の缶ビールを飲みほしながら、わたしは、心底感心した風に、いった。

「まるで、キャパさんが、そこにいて、直接、キャパさんから、そのものずばりの体験談を、話して聞かせてもらってる、て気がしますよ」
「そうっすか、ハナシ、うまいっすか。じゃあ、のんじゃいましょうよ、まだありますから」

 いうと青年は、三本目の缶ビールをさしだした。

「褒められついでに、いっちゃうんすけど、実は、オレ…」

 そして、そっとスキー帽を脱ぎ、邪気を払うように、頭を左右に振った。栗色の長髪がほどけ、ガスランプの明かりに照らされて、艶やかに光り、空を舞った。美しい。どう見ても、オトコの容態ではない。が、かといって、オンナの姿態ともいえなかった。ヒトの性にニュートラルがあるとすれば、この青年のことだろうか。白のダウンジャケットのファスナーをはずし、前を両側にばたばたさせて、火照った体の熱をさます様は、年端も行かない少女のようにも見える。そのままダウンを脱げば、分署で目にした、ベストの下の、あのTシャツの張りついた白い肌を、もう一度みることができるのだが、期待ははずれた。
 そこで冗談っぽく、訊いた。

「実は、って? なにか、とんでもない秘密でも、隠してるのかな?」
「実は、そうなんすよ」

 青年は、まじめな顔で、それに応じた。

「秘密、ていうより、特技、ですかね。オレって、他人の記憶、自分の記憶にすることが、できるみたい、なんすよ」
「え?」
「実はね、ヤマやりだしたころ、雪山に慣れるのに、初心者向けにいいとこだよ、なんていわれて、乗鞍岳から蓮華温泉への下りコ―ス、板かついでヤったこと、あったんすけど」
「は?」
「初心者どころか、とんでもない、似たような沢がいっぱいあって、ちょっとガスられたら、ベテランでもお手上げ、命惜しけりゃ天狗原でさようなら、てとこだんったんすよ。でも、オレ、もろ、初心者だったもんで、下山の勇気、みたいなもん、まだ、もちあわせていなかったんすよね」
「天狗原?」
 乗鞍岳、天狗原、蓮華温泉…また、不可解な符合に、出会ってしまった。背筋に悪寒が走った。白蛇の呪い、阿修羅の誘惑、そして天狗原の迷い沢…三つ目の符合だった。阪神淡路大震災を生き延びた大学ノートの奇譚集が、また狙い撃ちするように、わたしの記憶領域に、じわじわと干渉してくる。だれが糸を引いているのか。
「で、迷ったんですか?」
「まじ、ヤッちゃんたんすよ」

 その日、青年は、天狗原から蓮華温泉への沢を下ったつもりだったが、筋をひとつ、間違えてしまった、という。

「沢筋って、そんなに、複雑なんですか?」
「天気次第なんすよね。ちょっとでもガスると、ヤバいんすよ」
「その日、天気はよくなかった?」
「よかったんすよ」
「じゃあ、なぜ?」
「ガスっすよ、上昇霧に巻かれたんすよ、ただ、それだけ…」

 実際、天狗原に到着するまでは、雲一つない快晴だった。ところが、沢の入り口にさしかかったとき、急に霧がでて、なにも見えなくなった。下界は晴天、ちょっと下れば霧は晴れる、と高をくくって下りつづけた。それが、いけなかった。谷に下ればくだるほど、霧は濃くなっていく。とうとう、一寸先も見えない、完璧なホワイトアウトになってしまった。

「白い闇、ですね」
「そうす」

 しかし、本人も反省していたとおり、山行をやめて下山する勇気はなかった。

「わかりますよ。きた道をひき返す、平地だって戸惑ってしまうのに、ましてや雪山で、苦労して下った同じ谷をまた登る、考えただけでも、徒労感倍増ですものね」
「それをヤレなかった…甘い、というか、未熟、というか…」

 天狗原に戻ろう、登りなおそう、とおもいつつ、思いきりがつかず、結局、どんどん、谷に向かって下りつづけた。そのうち、気がつくと、まったく傾斜がなくなっていた。谷底に下りきったのだ。結果、山と谷、東、西、南、北、あらゆる方角が分からなくなった。唯一、自分が逆さになっていない感覚だけが、残った。白い闇の深みにすっぽりはまり込み、身動きがとれなくなったのだ。

「それで、どうしたんです?」
「どうするもなにも、時間を見たら三時を回ってたし、やたら冷えてきたし、白い闇が、だんだんグレーになりだして、すぐに本物の闇になっちゃうんじゃないか、とおもったら、頭の中、完璧に真っ白になっちゃって、そのとき、オレ、ほとんど絶望してましたね」
「まさに、遭難したも同然、ですものね」
「でもね、先輩、不思議っすよね、その、遭難した、とおもった瞬間、オレ、助かる! ておもったんすよ」

 事実、真っ白な頭の中が、さーっと晴れわたって、再起動直後のディスプレー同然、青地に澄みきった液晶パネルの表示画面に、避難アプリのアクションパターンが、次々と、読み込まれていったのだった。そして、どのパターンでも、まずはビバークの準備をすることだった。

「ビバーク、って?」
「遭難回避の露営っすよ。不時泊、ともいうんすけど、要は、危険を避けて身を護る場所を設営する、ってことですかね」
「雪上にテントを?」
「テントは防寒にならない、だからビバークなんすよ。斜面なら穴を掘って雪洞、低地なら雪ブロックを積んでイグルー、とにかく、即席の避難ブースを造って、生きのびるんすよ」

 さっそく、視界ゼロのなか、手探りで、露営シャベルたよりに、手ごろサイズの雪ブロックを三十個ばかり、造りにかかった。夢中だった。やがて、ほんの少し視界が開けだした。

「このまま、晴れてくれ!…」

 心の中で念じながら、ブロック造りに専念した。そのうち、白濁した光の溶明のなか、黒っぽい、たてながの陰が、すーっと、目の前に浮かびあがってくるのが、見えた。目を凝らすと、太いカンバの幹が、そこにあった。

「それ、見たとき、オレ、おもわず、飛びつきました」

 そして、抱きついたまま、しばらく泣きじゃくった、という。

「よほど、心細かったんですね」
「ていうより、雪中の、たかがカンバ、されどカンバ、すよ」
「されど、カンバ?」
「雪のカンバに頬を押しつけたときの、あの樹皮の温かみ、太い幹の内側から、生きている木の体温が、しっかりと、こちら側に伝わってくるんすよね。オレ、この世に一つしかない大切な生き物を、いま、自分ひとりで抱いてるんだ、って、そんな、幻想にとりつかれてたんすよ」
「それで、涙が、溢れて、止まらなかった」
「でも、そんな幻想、すぐに吹っ飛んじゃったんすよ!」 
「なにが、あったんですか?」
「突然、ヒトが、降ってきたんすよ!」
「ええぇ!」

 事実、抱きついた樹の反対側に、なにかがぶつかる大きな衝撃と鈍い音があった。それに混じって、バキッ、という異音がしたかとおもうと、スキー板が一本、樹にはね飛ばされて転がってきた。靄を透かしてみると、すぐそこに、崖から突き落とされた格好で、ヒトひとり、半分、雪に埋まった身を起そうとして、懸命にもがいているのが見えた。頭から数メートル上の雪面には、もう一方の板が、垂直に突きささっている。幅広の山岳スキー板だ。百七十センチはあるだろう。長い。しかも、金具には、岳人がこぞって買い求めるジルブレッタを履かせていた。山岳スキーに相当親しんだ強者とみえる。しばらく、重い雪塊相手に、四苦八苦したあと、強者はやっと起き上がり、ウエアに付着した雪片をパタパタと払った。そのとき、右の二の腕と左胸の上部に、真っ白なキリーのロゴを織り込んだ、マリン色のツナギを着ていることに、気がついた。

「アルペン王キリー、ですか、懐かしいなぁ」
「先輩の世代っすもん、ね」
「いまは、IOCの役員、ですか」
「カーレースもやったし、映画もやったし、キリーブランドで事業もやったし、こういうの、ツワモノ、って、いうんすよね」
「あなたのツワモノは、どんなヒトでした?」
「それが、マジ、ヤバいんすよ」

  雪上の強者は、全身の雪片を払いきると、ゴーグルを首まで下げ、黒のニットで編んだスキー帽を脱ぎ、クルクルと、首を左右にふった。長い髪が、澄みきらない、暮れかかった、おぼろげな雪景色のなかで、ふわふわと、ゆたかな抑揚で、空を舞った。美しいブロンドだった。

「外国人だったんですか」
「それに、スゲー、美形だったすよ」
「女性?」
「ええ、ただ…」
「ただ?」
「ただ、樹にぶつかったときから、オレのことに気がついていたらしくて、スキー帽冠りなおすと、いきなり、避難がましく、荒っぽい口調で、あなただったのね!て、叫ぶんすよ」
「あなただった? ということは、まえに、遭ったことがあると、いうこと?」
「とんでもない、オレ、初めてっすよ」
「なら、どういう意味?」
「オレも、分け、分んなくて、あんたなんか、知りませんよ、ていってやったんすよ」
「そしたら?」
「そしたら、天狗原の沢口のシュプール、あなたのでしょ、ていうんすよ」
「あ、そうか、ガスに巻かれて、沢筋をさがしてるときに、あなたのシュプールがあったので、そのとおりに下ったら、自分も迷ってしまった、という分けだね、納得!」
「スゲー、勝手でしょ、そうは、おもわないっすか?」

 青年の不満もわかる。ガスに巻かれて迷った、自分の不注意を、青年の責任に転嫁している。実に、自己中で、身勝手な考えだ。

「いや、勝手どころか、失礼千万、ブロンドで美形でなきゃ、ブッ飛ばしもんですよね」
「オレも、そうおもいますよ。でも、一応、女性ですからね」
「いくつぐらいのひと?」
「トシですか…ちょうど、オレのオフクロ、くらいっすかね」
「ほう…それで、まだ山、つづけられる、ということは、相当、タフな女性、ということですかね」
「タフどころか、シャモニックス・モン・ブランで山岳パトロールやってるって、いってましたよ」
「えっ、シャモニックス・モン・ブランで!…」

 背筋に悪寒が走った。

「そのひと、どこのヒト、なんですか?」
「もともとは、スイスのツェルマット、っていってましたよ」
「スイスでしたら、フランス語かドイツ語かイタリア語ですよね。あなた、なに語で、彼女と?」
「フランス語ですよ、オレ、パリ育ちなもんで」
「ええぇ!」

 また、得体のしれない、符合のヌシが、あの大学ノートの、奇譚録を通して、ひたひたと、わたしに干渉してきた。

「パリ育ちって、あなた、フランスのかた?」
「ええ、いまは日本人っすけど、ちょっとまえまでは、二重国籍だったすよ」
「日本とフランスの?」
「ええ、オヤジがフランスで、オフクロが日本です」
「道理で、その、端正な目鼻立ちなわけだ」

 なんのことはない、あの芦屋の分署の、嫌みな公安のキャリアが見立てた通り、生粋のハーフではないか。

「とにかく、国籍なんか、関係ないっすよ…」

 青年は、強引に、話題を変えようとした。

「あの、シャモニックス・モン・ブランの山岳パトロールだって、スイスとフランスの二重国籍っすからね」
「ほう…ということは、夫がフランス人なのかな?」
「彼女、ツェルマットでガイドやってたんだけど、山岳救助隊に憧れてて、たまたま、マッターホルンのツアーに参加したフランス人がいたんで、それと結婚した、ていってましたね。シャモニックスの国立スキー山岳学校に入るためにだけ、とか」

 妙だな、とおもった。霧に巻かれて遭遇しただけにしては、ずいぶんと相手の事情、とくに、個人的かつ些細な情報、に詳しい。二人の間に、特別ななにかが、あったのか?

「それで、あなたとブロンドのパトロールさん、そのあと、どうしたんですか?」
「それが、やっぱ、プロというか、マジ、感心、しましたよ」
「感心?…なにに?」
「彼女、しょっぱなに、あなただったでしょ! てったの、覚えてます?」
「覚えてますよ」
「そのつぎのセリフ、なんてったと、おもいます?」
「さあて、どんなセリフ…ですかね?」
「こういったんすよ、造りかけの雪ブロックの山指さして、なかなか良い判断ね、って」
「ほう…つまり、露営アクション、まちがってないよ、てわけですね」
「そういって、まず、オレのこと、安心させてくれたんすよね」
「なるほど」
「そしてすぐ、もう大丈夫よ、一緒にやりましょう、て声かけてくれて」
「救援救助マニュアル、そのままじゃないですか」
「それから、散らばってた板をカンバの脇に立てると、そこら中動き回って、オレにもてきぱき指示してくれて、もう、頭は遭難モード、手足は避難モードで、二人してフル回転っすよ、さすがっすよね」

 ブロンドパトロールは、軽装だった。あえて携帯品といえば、ウエストバッグにアタックザック、くらいのもので、どちらも黒だった。荷物がないのはなぜか、と訊くと、日帰りの、ちょっとした散歩のつもりだった、という。宿泊はどこか、と確かめると、三日前から小谷村の民宿にいる、とはなしてくれた。訊いてばかりはヤボだとおもい、最後に、なぜ黒ばかり着るのか、オールブラックスのファンか、と冗談交じりに訊いた。すると、ウエールズだ、とこたえた。フランス人なのに、王国連合がいいとは驚きだ、と、あきれた振りをすると、夫がフランス気違いだからフェアーじゃないでしょ、といって、ケラケレ笑った。明るくて茶目っ気たっぷりの、気さくなブロンド、二人で冗談とばしたり、笑ったりしてる間に、立派なイグルーが、瞬く間に出来上がった。時計を見ると、ほとんど六時になっていた。ブロンドが、出来上がったイグルーを指さして、いった。

「ほらー、できたー!小さいけど、わたしたちの、新しい家よ!」

 ブロンドは、いそいそと、今朝、いれたコーヒーが残ってるので、さっそく新居でコーヒーを飲もうよ、と提案した。いわれるままに合意すると、コッフェルをもってるかと訊く。もってると答えると、それで飲料水を準備するように、と指示された。そして、登山食があればいいが、なくても問題はない、チョコとかアメとか、もってるもので辛抱しよう、どうせ一晩眠れば、あしたは快晴だから、旭岳の朝焼けがみられるわよ、といってニコリとした。一事が万事、この調子で、ブロンド主導のもと、カンバの幹にランプを吊るしたり、荷物の整理をしたり、なんやかやで時間が過ぎてゆき、気がつくと、いつのまにか、九時近くなっていた。そろそろ就寝の時間だ。どうやって寝ようか。そう考えた矢先、ブロンドが、こう提案した。

「わたし、シュラフないの。あなたので、一緒に眠りましょ」
「え?」

 いくら非常時だからって、そう簡単に、ひとりで決めてくれるなよな、とむかついた。

「オレのは、マミー型の一人用、なんだよね。一緒に寝るのは…」
「バカね、寝るとはいってないわよ」

 そういって、今度は、ケタケタと、笑った。

「寝るんじゃなくて、眠るのよ、ねむるの。それに、最近の羽毛は、みな、太めにできてるから、大丈夫よ」

 他人の気持ちには、てんで、おかまいなしだ。歳とか、性別とか、人の関係性に、なんの拘りもない。あっけらかんとしている。まるで、豪雪後の、ピーカンの空のようだ。このままだと、雪上で、ブロンドの母親と、ひとつシュラフで添い寝することに…ま、それも、また、雪山の、いい訓練にはなるか。
 フッ、と気持ちが吹っ切れて、帽子をとり、ウエアを脱ぎ捨て、タイツとシャツ姿でシュラフにもぐりこんだ。ブロンドも、同じようにウエアを脱ぎ、タイツとシャツのまま、スーッと、シュラフに滑り込んだ。

「ぐっすり眠りましょ、おやすみ…」

 豊かな胸の、大柄な体躯が、ほっそりと、しなやかな肢体に変容し、柔らかい二本の腕が、後ろから青年を抱きしめた。そのまえに、カンバのランプを消すことも、忘れなかった。

「…」

 眠れそうに、なかった。ブロンドの胸の鼓動が、背中から体の芯に、直に伝わってくる。熱い吐息が、首筋にまつわりついて、長い脚が、両脚にからみついた。冷えきった手や足の指先が、ほんのりと温まってくるのは心地よいが、狭い袋のなかでは、寝返りひとつ、うてない。無理に動こうとすると、わずかな擦れ音が、洞内の空気を、微妙に搔き乱してしまう。このままだと、ぐっすりどころか、一睡もしないうちに、夜が明けてしまうだろう。
 どこまで我慢できるか、わからないが、とにかく、眠ることだ…しばらく、そのまま、じっと我慢をつづけたが、いよいよ、これ以上はムリ、とおもったとき、ふわりと、かろやかに頬を撫でるものがあった。人に触れたかすかな煖気の流れが、そっと運んできた、細字の筆先ほどの、ブロンドの髪の毛だった。ほのかにジャスミンや、オレンジや、ラベンダーまで香ってくる。たしか、オフクロも、こんな匂いがしていたな…遠い彼方の記憶なのか、それとも、リアルタイムで匂っているのか…多分、ハナがピクピクしたんだろう、耳元で、ブロンドがつぶやいた。

「眠れないのね…」

 そして、面白いハナシをしてあげるから、眠い、眠い、とおもいながら、聞いてなさい、そのうち、ほんとに眠くなるから、といい、ぽつり、ぽつり、と話しはじめた。

「そうよ、あれは、グルノーブルオリンピックだったのよ…」

 当時、スキー競技に熱中していた十六歳のブロンドは、オリンピックで三冠王に輝いたジャンクロードキリーにあこがれ、次回予定の札幌オリンピックには、絶対にアルペン競技選手で出てやるんだ、と心に決め、まずは、ナショナルチームの強化選手をめざし、一点集中でがんばっていた。
 努力の甲斐あって、地域、地区、都市の競技大会を勝ち進んだが、二年目の州代表の予備選のさなかに、後に札幌で滑降と大回転の二冠を制する、とんでもない天才少女が現れた。ナディヒという名の、アルプスの少女だった。ブロンドより一歳年下、将来有望の選手だった。
 評判は、一気に全カントンをかけぬけ、あれよあれよという間に、札幌の二年前、イタリアで開催される世界選手権に、ナディヒが出る、という噂が流れた。負けてはいられない。あと二年、逆算すれば、強化選手認定を勝ちとるのに、残り一年あるかないかだ。とにかく好い記録をださなければならない。ブロンドは、あせった。そして、それが、身体を極限まで、追いこむことになった。

「港で船を割る、ていうでしょう…」

 ブロンドは、青年の耳元で、深いため息をついた。よりによって、ナディヒの地元サンクト・ガレンでの競技大会で転倒し、右脛骨を折ってしまったのだ。当時、セイフティの効いたバインディングは、まだ珍しかった。打撲、捻挫、骨折、靭帯損傷…選手たちは、いつもどこか、痛めていた。それでも、肢体を動かせるかぎり、アルペン魂と気迫で滑った。だが、その精神も、脛骨骨折という、四肢の支柱となる骨の怪我には、さすがに通用しなかった。泣く泣く、札幌オリンピックは、諦めざるをえなくなった。

「心底、悔しかったわ…」

 しばらくは、夜も眠れなかった。睡魔に引きこまれそうになると、途端に滑降コースのアイスバンから、バキバキと脛を折りながら、無残に滑り落ちていく自分の姿が、目の裏によみがえる。悔しくて、奥歯をキリキリ軋ませて、前歯で唇に噛みついて、血だらけになった。それでも、若干十八歳のアルペン娘には、その悔しさが、生きる力になった。
 松葉杖を頼みに過ごす毎日で、悟ったことがあった。それは、札幌で二十歳なら、次の機会は二十四歳、経験者ならいざ知らず、その歳で、オリンピック初出場は、心技ともに遅すぎる、これで見込みはなくなった、ということだった。

「それで、わたし、山岳スキーのエキスパートになろうと、おもったのよ…」
「…」 

 かるい眠気をこらえ、アルペン魂にエールを送ろうとおもったが、口がおもうにまかせず、言葉にならなかった。ただ、頬を撫でるブロンドの髪をそっと掴み、鼻に寄せて香りをかいだ。遠い昔の、母のぼやけた顔が、ほのかに、蘇ってくる。そういえば、こんなことも、あった…日の光を湛えた純白のレース、それに覆われた広い窓、日だまりの、紅い絨毯とラクダ色のカウチ、それらが、母の顔と一緒に、いきなり、ぐらりと傾き、ゆらりゆらりと、周りを回った…と、細長いものが、口の中に、むりやり差しこまれ、頭が下、足が上、逆さにされて、揺すられて、苦し紛れにもがき、抵抗する…と、喉の奥から小さなガラス玉二つ、飛びだして、紅い絨毯から板張りの床に、コロコロと、音をたてて、転がった…半分眠りながら、むにゃむにゃと、そんな、とりとめもない思い出話を、してしまったのだろうか。しばらくして、ブロンドが、そっと呟いた。

「ママが、命の恩人だったのね…」

 そして、冷ややかに、こう付けくわえた。

「わたし、その正反対なのよ。ひと一人、殺してしまったの…」 

 人を殺した!…びっくりして、だれを、いつ、どうして、と、すぐに、訊きかえそうとしたが、それを、まともに、言葉に換える口も、正気も、なかった。睡魔と、知りたい気持のあいだを、行きつ戻りつ、しながら、そのまま、ブロンドが仕掛けたお伽の罠に、ずるずると、引きずり込まれていった。

「お伽の罠?」

 怪訝におもって、青年に訊いた。

「ブロンドのハナシって、オトギバナシ、だったんですか?」
「いや、そうじゃ、ないんすよね…」

 青年は、こちらの疑問をかるくいなし、火勢の衰えはじめたカマドに、残り少なくなったマキをくべ、指先で鉄板の熱をたしかめると、またテントに入って、ごそごそしていたが、これで最後、といいながら、持ってきたベーコンの切り落としパックをナイフで裂き、鉄板に全部ばらまいた。ジュージューと肉汁が出る。脂身の焼けるにおいが、あたり一面に漂い、強烈な空腹を感じた。

「最後の缶ビール、ちょうど二人分、残ってますよ。まず、ベーコン焼き食って、腹の虫おさめてから、聞いてください」

 いいながら青年は、鉄板のベーコンを適当に盛り付けてから、あとをつづけた。

「お伽の罠、ていうのは、歯車仕掛けの記憶、ていうのかな。つまり…」
「歯車仕掛けの記憶?」
「ええ、記憶をたどると、こんな経緯、だったんすよ…」 

 それは、いきなり、バスクからのツアー客三人の話から始まった。骨折で札幌オリンピックを諦めたブロンドは、二十九歳の、経験ゆたかなツェルマット山岳ガイドに成長し、夏季、冬季、ともに、ツアー客相手に、充実した日々を送っていた。
 そんなある日、ツェルマット・チェルビニア日帰りスキーツアー参加の予定で、ハロウィンの前日、バスクから団体客10名が到着する、との予定が入った。しかし、実際に、当日、到着したのは、裕福な壮年期を謳歌していそうな陽気な茶髪の男性と、その息子夫婦らしい二人の、たった三名の参加者だけだった。
 茶髪は、Jパンにマリンのヤッケを被り、頭にハロインハットをひっかけ、若いカップルは、ラクダの毛布地で仕立てただぶだぶのツナギに、カーキのダウンジャケットを合わせて、いかにも、雪上ハロウィンを楽しむためにやってきた、という家族的雰囲気の一行だった。
 事前の打ち合わせとして、所定の手続きを済ませ、ツアーに必要な服装や装備、用具などについての留意事項、とくに、州観光局の安全指導要綱について、重ねて注意を喚起したあと、翌日の待ち合わせ場所と時間を伝え、解散した。
 翌朝、昨年の暮れに開通したばかりのロープウェイを乗り継ぎ、富士山を数十メートル凌ぐ標高のクライネ・マッターホルン駅に到着、すぐさま、だれもいないイタリアとの国境をぬけ、テオドールパスをひたすら滑りつづけた。一行の三人は、ピレネーのオフピストで慣らしているらしく、速さと強靭な滑りを楽しむアグレッシブな山岳派で、滑るにつれ、その個性が、ますます顕著になってきた。
 案の定、隙あらば、ピストに突入しようとする。難所があれば挑戦したくなる。何が何でも、制圧したくなる。無理もない。だが、危険だ。いま滑っているのは、氷河の表層なのだ。だが、三人は、頓着しない。徐々に、自制がきかなくなっていく。やがて、それぞれが、思いに任せて、ピストに突入しはじめた。ブロンドは、安全ルールを守れ! と何度も叫んだが、まったくの無視、それどころか、三人が三人とも、限りなく広がる無疵の深雪に、思い思いのシュプールを刻みつづける。まるで白馬を駆る騎手のようだ。人馬一体の雪煙を巻き上げ、雪原を駆け下っていく…そして、あっという間に、イタリア側のリフトの中継点、チェルヴィーノ避難小屋に着いていた。
 幸い、ずっと遠目に追っていたので、三人を見失うことはなかった。ただ、板を担いで小屋の前に集まったかれらを見て、それぞれが、黒地に白のしゃれこうべマスクで顔面を覆っていたことに、初めて気がついた。

「ハロウィンよ!」
「雪上のハロウィンだよ!」
「最高!祝わなくちゃね、ハッピー・ハロウィーン!」

 三人が、口々に、祝福しあった。
 ブロンドは、はしゃぐ三人に、マスクを外すよう、頼んだ。ガイドの責任として、安全指導要綱に従い、本人確認をする必要があった。混雑時、多数のツアーが入り混じる。他のツアー客が間違って加わってないか、確認するためだった。かれらは、素直に、それに応じてマスクを外した。意外なことに、それぞれ、初めて目にする顔にみえた。
 自分の注意力の足りなさを痛感したブロンドは、三つの顔を、注意深く観察した。白昼の、白銀を拝啓に見る壮年の茶髪は、文字通りのマッチョで、最初の印象と、さほど違ってはいなかった。だが、若いカップル、とくに女性の方は、まるで卒業間近な中学生と見間違えるくらい、幼くみえた。ただ、左頬の下の方に、ポツンとある米粒大のほくろが、豊かで分厚い唇の喜怒哀楽と、見事にシンクロしてみせるとき、保護者のいらない一人前のツアー客であることを、かろうじて納得することができた。

「さ、行きましょう!」

 用を足して小屋を出たあと、すぐにブロンドは、勢いよく、一行を誘った。

「もう少し下ると、チェルビニアとツェルマットの分岐点にでるわ。西に行けば、テオドール氷河を登ってツェルマットに戻るのよ。南を選べば、十五キロの沢を一気に下って、チェルビニアよ!」

 しかし、事は、そうは運ばなかった。バスクの三人が到着する数日まえ、大雪が降った。イタリア側の情報によれば、沢には豊富に雪があるはずだった。ところが、氷河を離れて沢の入り口にさしかかったとき、急に景色が変わった。気温の上昇で、表層雪崩が頻発したのだろうか、傾斜部の大半は、土色の地肌を露わにしていた。新雪は、見るからに薄く、岩石を覆うほどの深さもなかった。鷹揚でしなやかな雪原の広がりをみせていた沢も、底部を地熱に侵されたのか、水流に引きずられたのか、貧弱で薄汚れたざらめの雪面が、色あせた木造家屋の集落へと、長々と蛇行をくり返しながら、ずり落ちていた。沢口にエッジを立て、圧雪したコース脇に目をやると、要注意、の看板が、恥ずかし気な格好で、ぽつんと、立てかけてあった。
 ブロンドは、遠来の大切な客人の期待を裏切りたくはなかったし、いくらイタリア側の情報不足としても、ツアー計画を変更する気にはなれなかった。
 三人の反応は微妙だった。若いカップルは、楽しめない、思い出づくりにならない、だから、テオドール氷河を選びたい、でも、氷河を登りなおすのは現実的ではない、などといって、迷った。茶髪のマッチョは、反対に、深雪ばかり攻めるのはヤボ、たまには、悪雪と奮闘して楽しむのも山岳スキーの醍醐味、と決めきらない若者たちの意気を、煽った。結局、氷河は後まわしで続行、ということになった。
 悪雪だったが、滑降範囲が狭められ、オフピストで汗を流す暇がなくなった分、チェルビニアまでの時間は節約できた。おかげで、町の教会前に到着したときには、昼まで、まだ数時間を残していた。ランチの同席を薦められたが、ツアー協会との連絡を理由に辞退し、正午におなじ教会の前に集合することで、解散した。
 正午過ぎに集まった三人は、開口一番、氷河を攻めよう、と主張した。テオドールパスの滑降は、そこそこ楽しんだが、堪能するまではいかなかった、この機会に、どっぷりと氷河滑降に浸りたいのだ、という。
 確かに、クラインマッターホルンからテオドールパスを滑ると、すぐにイタリア側に入る。アデュー・グラシエ、氷河よ、さようならだ。テオドール氷河を出ないで、そのまま、クラインマッターホルンからモンテローザを目指し、ゴルナー氷河からフィンデル氷河を経てツェルマットに至るコースを選べば、マッターホルンを囲む三大氷河を制覇したことになる。それこそ、かれらがいう、氷河滑降にどっぷりと浸りきれるコースだ。ピレネー育ちのバスク滑降魂には、喉から手が出そうな、有り余るほどの難所がまちかまえる、格好の舞台ではないか。ただ、滑降野郎を野放しにするのは、危険だ。ガイドを煙に巻いて、なにをやらかすか分からないからだ。
 リフト、ゴンドラを乗り継ぎ、再び、クラインマッターホルンのピストに立った。

「ここから北にテオドール氷河を巻く。ゴルナー氷河まで五キロ、そこから十キロ滑降してフィンデル氷河に。そこからさらに十キロ下れば、ツェルマットよ」
「さすがー!」

 みな、口々に叫んだ

「でしょ! 直線で十キロ、滑れば二十五キロよ。ピレネーには、マネのできないピストね。ただし、ここは、氷河、オフはやめてね! ぜったいよ!」
「わかった!」 

 どこから取りだしたのか、全員、シャレコウベのマスクで顔面を覆うと、一斉にスタートダッシュ、狂気じみた叫びをあげながら、深雪のダウンヒルに、突入していった。
 巻き上がる雪けむりのなか、ブロンドは、後方から注意深く、三人を追った。元気溌剌の滑り出し、意気衝天の勢い、快調だ。だが、いくら野人スキーヤーといっても、体力には限りがある。ましてや、深雪のラッセル状態、大腿四頭筋がもつわけがない。テオドール氷河からゴルナー氷河へ、そして、フィンデル氷河へと、カール状の広大な雪原を一挙に突破しようとしたが、最後のフィンデル氷河にさしかかる手前で、さすがに消耗したようだ。
 ちょうどモンテローザの裾、仰ぎ見ればベージュのヒュッテが見えるあたりで、そろって小休止、という有様。ほどなく追いついたブロンドに、対面に連なる冠雪の氷食尖峰にストックの先を向け、口々にいった。

「見ろよ、グッとくるじゃないか!」
「あの研ぎすまされた尖峰!」
「剝き出しの岩壁!」
「底なしの深雪!」

 ブロンドは応じた。

「そうね、サースフェ氷河でしか遭えない絶景よね」

 すると、シャレコウベのマスクをはずし、卑猥な笑みで口々に、相槌を打った。

「絶景だ、攻めたくて、漏れるくらいだ」
「なんて挑発的な雪肌、それに、あの曲線!」
「アンタには、ムリよ、攻めたくても、立たないわよ」
「立っても、滑るどころか」
「吞み込まれちゃうよ、ふかーい、ふかーい、雪の割れ目に」

 そして、雪上で、そろって笑い転げた。ブロンドは、品のないユーモアを鼻先で無視し、ニコリと笑いかけて、いった。

「いいこと、サースフェ氷河の圧雪ピストは、高何度レベルで知られていて、もっぱら国際級の選手たち、アルペンのエリートたちが、オフトレに利用することで有名なのよ」
「じゃあ、なんで連れてってくれない? エリートじゃないからか?」

 マッチョが抗議した。

「あら、三人のチェルビニア日帰りをリクエストしたのは、あなた方よ」
「へ…」 

 マッチョはキョトンとした。聞いていないようだった。

「そうか、エージェントが、確かめもしないで、勝手に決めた、てことか」
「そのようね、もともと、サースフェー氷河は、予定には入ってなかったのよ」
「それなら、エージェントに、ちゃんとアドバイス、してくれりゃ、よかったじゃないか」

 どうしても、こちらの責任にしたいらしい。

「ちゃんと、しましたよ、おなじ日帰りプランでしたら、サースフェー氷河コースもありますけど、って」
「で、エージェントは、なんと?」
「チェルビニアでヒトと会う予定があるので、結構です、と」
「あ、そうか、そうだったな…」

 やっと納得したのか、男たちは立ち上がり、シャレコウベのマスクをつけると、ウエアの雪をパタパタと払った。ところが、女性の方は、すぐには立とうとしなかった。新雪の重く執拗な負荷に、気後れしたのか、急に不機嫌になり、なぜか、ぴしゃりと、心を閉ざしてしまったようだった。
 ブロンドは、そのとき、彼女だけが、マスクをしたままだったことに、やっと気がついた。そして同時に、どこか変だ、と直感した。その直感を、本当は、もっと大切にしておくべきだったのだ。
 男たちは、立とうとしない女性の手をつかんで、無理やり立たせようとした。彼女は、なにやら叫びながら、盛んに抵抗していたが、バスク語かなにかでいいあっているらしく、なにが問題なのか、こちらには、まるで見当がつかなかった。
 やがて女性は、投げやりなため息を一つ吐き、しぶしぶ立ち上がった。そして、男たちがダッシュでスタートする様子を見届けるや、ブロンドに、小声で、こう尋ねたのだ。

「あなた、わたしのこと、覚えてるの?」
「?…」

 ブロンドは、虚を突かれて、返答に戸惑った。しかし、当のバスク娘は、相手がどう反応するか、まるで興味がなかったらしい。いきなり雪を蹴ると、小刻みな高速ターンで、振りかえることもなく、ぐんぐん下っていく。
我に返ったブロンドは、三人を追いながら、自問した。
 あの娘は、なにをいいたかったのだろう。自分のことを覚えてるか、と他人に訊く、それは、相手が自分のことを記憶していないのでは、という懸念のせいだ。しかし、現に、出かけに一緒だったガイドが、なんの疑問もなく、こうして、帰りも同行しているのだから、本人を本人として認知していることは明らかだ。それを、なぜ、わざわざ、問い質そうとするのだろうか。
 相手が自分のことを覚えていない、となると、自分の記憶が相手の中で消えてしまった、ということになる。よし、バスク娘が、そんなことは一時的にでも許せない、というのなら、若さや未熟さゆえの幼稚な高慢さ、と同情はするものの、どこか、煙に巻かれた気がしないでもなかったが…。

「ギャッ!」

 突然、山側で、ドン、と生身同士がぶつかる鈍い音、カキーン、と鋭い金属音がしたかとおもうと、喉を裂く女の叫びが雪上に響いた。エッジを立てて振りかえると、アルペンボードの男が、自分が倒した相手に目もくれず、猛スピードで逃げだすところだった。

「まって! だめよ! まって!」

 ブロンドは、大声で叫んだ。

「あなたが、ぶつかったんでしょ! 倒れてるじゃないの! ケガしてるじゃないの!」 

 しかし、アルペンボードは完全無視、カービングで雪面を削りながら、弾丸のように、急斜面を滑っていく。はるか下のほうで、バスクの茶髪マッチョが、エッジを立て、ブロンドにストックを振り向けて、叫んでいた。

「安心しろ! オレが、とっ捕まえてやる!」
「だめよ! だめ、だめ!」

 はやる茶髪に、ブロンドは、叫んだ。

「だめよ! やめて! あなたは、レスキューじゃない! あなたは、ビジターよ!」

 ツアー客を、受け入れ側の事情で、危険にさらすことは、できないのだ。

「レスキューは、あなたの仕事じゃない! そんな資格もないのよ!」

 しかし、茶髪は聞かなかった。

「かまうもんか! 資格がないだって! ヘン、モラルだよ、モラルの問題なんだよ! あんな卑怯なヤツ、だまって放っておけるか! とっ捕まえてやる!」

 その間にも、アルペンボードは、シャープな高速ターンをくり返しながら、茶髪のまえを、これ見よがしに、滑り降りていった。茶髪は、素早くエッジをはずすと急ジャンプ、すぐさま直滑降でアルペンボードを追跡、見る見る小さくなっていく。バスク青年も、満を持して、それに続いた。ブロンドは、あきれた。これ以上、バスク魂に付き合ってる暇はない、とおもった。自分の第一の任務は、ケガ人を救うことだった。急いで板を外し、急斜面を、四つん這いで駆け登った。ケガ人は、苦痛の呻きを上げ、上体を起そうと、もがいていたが、助けにきたブロンドに、大きくみひらいた目をむけて、こう訴えた。

「膝が、足が、アシが…」

 ケガ人は、年配の女性で、英語を話した。声が震え、恐怖に慄いている。真っ青な瞳が、下肢部を凝視していた。無理もない。左の膝部が折れ、逆方向に曲がり、右大腿骨が折れ、足首、膝、そして骨折部と、一本の脚が三節に分かれていた。酷い!…とおもったが、悟られないように、ケガ人にいった。

「大丈夫よ! すぐに、助けがくるわ!」 

 無線でレスキュー本部を呼び出し、現状を伝え、州山岳救助隊への通報を依頼、同時に、対処策について、同意を求めた。

「これって、事故遭難よね」
「そうだ、当て逃げ事故による遭難だ」
「刑事事案ね」
「そうなるな。当然、州警察が介入する」
「許せない」
「捕まるさ。ツエルマットから一歩も出られないよ」
「ケガ人への対処は?」
「そうだな、AZレベルだな。エアーツエルマットに、動いてもらおう」
「HIでね」
「AZが動くんだ、ヘリの出動しかないだろう」
「大至急、お願いね。わたしは、ツアーがあるから、これで!」
「了解!」
「そうそう、発煙筒は、どうする?」
「一本、焚いとこうか」
「了解!」

 通信機をウエストバッグに仕舞おうとしたとき、谷側を、四つ足で懸命にのぼってくる男がいることに、気づいた。喉をゼーゼーならし、深雪を蹴散らしながら、急勾配の斜面にとりすがる様には、鬼気迫るものがあった。ケガ人の知り合いだろうか。きっと、友の身に起きた事故の重大さを、直感しているのだ。男は、倒れた友のもとに辿りつくと、気道のゼーゼーと鳴る喉の奥から、リザ! 大丈夫か! リザ! もう大丈夫だ、心配するな! と、掠れた声を絞り出し、手を握り、腕を撫で、血の気の失せた友の顔面に、何度も頬ずりをした。

 発煙筒を焚いて間もなく、二人の救助隊員が到着した。通例の救難引継ぎをすませると、ブロンドは、大急ぎでバスクの三人を追った。雪上のルールをルールともおもわない気質だ。当て逃げボードを捕まえる、などといっても、実際、彼らの興味は、危険を賭して滑ることでしかない。スリルを求めて、なにをやらかすか、分からないのだ。岩肌の露出する雪稜直下の急斜面や、岩場の隘路を埋め尽くした深雪、挑発的な雪線を狙って探せば、必ずあの三人は見つかるだろう。
 そう高を括って、ゴルナー氷河からフィンデル氷河へと、ほぼ二十キロの滑降コースを、注意深く探したが、どこにもいなかった。そして、氷河の裾部、ツエルマット間近の緩斜面まで下って、やっと、茶髪マッチョとバスク青年を、見つけることができた。二人して、はるか上方のテオドール氷河を仰ぎ見ながら、満足げに大滑降の感動を分かち合ってる最中、といった風だったが、ブロンドには、まず全員の安全を、確かめる必要があった。

「あの娘は、どうしたの?」
「あの娘って?」

 まるで他人事だ。

「あなた方の連れの、あの若い、バスクの娘さんのことよ!一緒じゃ、なかったの?」
「一緒って…」

 茶髪とバスク青年は、顔を見合わせ、肩をしゃくった。

「あいつのせいだよ、あのボード野郎が、わるいんだよ」

 口を合わせ、なにを弁解したいのか。

「大した技術もないくせに、スピード出しすぎたんだよ! なにを間違えたか、あれじゃ、カービング、ムリなんだ! ストックついて、雪の上を、よちよち、這ってりゃ、よかったんだよ!」
「滑降って、どう速度を制御するか、それが、ミソだろ! スピードに負けて、エッジに負けて、あげくに、モラルに負けたヤツを、放っておけるか! だから、追っかけたんだ!」

 ずいぶん、威勢がよい。それで結果はどうなったのか。ブロンドは訊いた。

「で、追いついたの?」
「…」

 二人はまた、顔を見合わせ、肩をしゃくり、ストックを振り上げ、いった。

「それが、あの辺りで、見えなくなったんだよな…」

 その先をみると、ゴルナー氷河とフィンデル氷河の、繋ぎの雪原を指し示していた。重層の白銀が、その懐に積み重ねた雪層を露わにし、巨鱗をまとった白蛇のように、右に、左に、鷹揚に、うねっていた。どこに行ったのか、バスクの娘は見つからない。どうしたのか。消えてしまったのか。いや、ひょっとして、あの白蛇の胎内に、吸い込まれてしまったのか…。

 イグルーの凍り付いた闇の中で、ブロンドは、雪洞の壁に爪を立て、右に、左に、上に、下に、大きく、鷹揚に、素早く、小刻みに、白蛇のうねりをなぞりながら、自由で奔放なシュプールを描き、そして呟いた。

「…不思議な事故…というより、事件、だったのよね…」

 雪山遭難で、たまたま出会った、自分の子供の歳ごろの青年が、腕の中で、すやすやと、軽い寝息をたて、眠っている。万に一つの出来事とはいえ、この青年との出会いには、思いがけない偶然のいたずらが、働いたような気がしてならない。あの、薄れはじめたガスの中で、カンバの樹めがけて滑落したとき、かれは、突然、リノサウルスにでもでくわしたように、目をまん丸に見開いていた。大柄なわりには小作りの、端正な色白の顔に、オトコの童?オンナの娘? と、ふと、自問したものだった。だが、イグルー設営中に、その疑問は解けた。手や足の動き、身のこなし、用具や道具の使い方、設営作業の段取りなど、あれもこれも、オトコの童のカルチャーそのものだった。ただ、不思議なことに、汗に濡れた額にからみつく、栗色の髪をたくし上げる仕草や、目を合わせたときの、微妙な瞳の揺らぎやキュートな笑窪を目にするとき、そのカルチャーの厚みが、外目に露わになればなるほど、当の本人が、ますます、オンナの性に、染め上げられていくような気がしたのだ。

「あなたも、そうだったのよね…」

 ブロンドは、青年の耳元で呟きながら、心でおもった。この童も、身体はオンナ、心はオトコなのだ、自分の直感は正しかった、だから、一緒に寝ようって、誘ったのだ、二人の間に、なにも起こらないことが、分かっていたから。お互いの記憶を、やりとりする以外には…。

「あなたも、身体の記憶はオンナなのに、頭の記憶はオトコなのよね。ひとりで二つの、正反対の記憶を、紡いでいるのよね。でも、分裂はしていない。時の流れに沿って、あるときはオトコ、あるときはオンナ、まるで、あのメビウスの輪に身を任せているように、表と裏を、自在に行ったり来たり、してるのよね。わたしの場合は、こんな風なのよ…」

 ブロンドは、青年の、白磁の首筋に唇をあて、そっと滑らしながら、話しつづけた。

「あなたはどうか、知らないけれど、わたしは、自分がオンナになると感じたとき、それまでの記憶が、なにもかも、真っ白になるのよね。オトコになると感じたときも、やっぱり、同じなのよ。記憶が真白になるって、どんな感じなのか、不思議でしょ。それはね、直感なのよ。べつに、記憶がなくなるわけじゃ、ないのよね。消えてしまうわけでも、ないのよ。こういえば、分かってもらえるかしら。記憶に箱があるとしたら、その箱が空になる、みたいな感じ、かな。そして、空の箱は、無限に大きく、深くなって、世界中の記憶が、入ってきても、全部、自分の記憶になってしまう、と感じるのよ。これって、直滑降に、とても似てるのよね。左ターンから右ターン、左右のターンが切り替わるとき、右でも左でもないニュートラルな瞬間があるでしょう。それが直滑降なのよね。その瞬間を、ずっと続けると、無限に加速して、猛スピードで、左右だけでなく、宇宙全体の時間も空間も巻き込みながら、なにもない空白の淵に、どんどん、落ちていくのよね。そのとき、直感するのよ、どんな世界とでも、どんな昔でも、どんな未来でも、どんなだれとでも、すべての記憶のやり取りができて、どんな思い出も、自分の思い出にできる、って。もちろん、あなたの身体の記憶が、いやだって、拒否反応、おこさない限りだけれど。あなただって、きっと、そうよ。たったいま、わたしが話してることだって、目が覚めたときには、きっと、あなたの思い出として、記憶されてるはずよ。なぜって、あなたはいま、わたしとおなじ、二つの性を抱えて、真っ白な記憶の淵の、空っぽの箱のなかを、なんの防備もなしに、時空を超えた猛スピードで、滑り降りているのだから…」

 そこまで話すと、青年は、一度、大きく深呼吸し、それから、最後の缶ビールを、ゴクゴクと喉を鳴らして、一気に呑みほした。カマドの火勢は、すでに衰えている。くべるマキは、もう残っていない。闇がのしかかってきた。背後から冷気が漂ってくる。青年の話を聞くのに、時間をかけすぎたようだ。そろそろ終わりにしなければ…とおもったが、かれのいう、二つの性とか、真っ白な記憶の淵とか、空っぽの箱とか、ブロンドの口がとなえる、なにやら謎めいた、意味ありげな文言に、少なからず、惹かれ始めていたのは事実だった。しかも、あの分署のキャリアの推理どおり、青年は、二つの性の持ち主だったというではないか。うすうす感じてはいたが、本人から直接、聞こうとはおもわなかった。青年は、なぜ、それをわたしに、告白する気になったのだろうか。

「ひとつ、訊いていいですか?」
「ええ、モチっすよ」

 こちらの質問に、青年は、手の甲で口を拭いながら、こたえた。

「ブロンドのこと、かな?」
「いや、あなた自身のこと、なんですが」
「オレ自身の、なにを?」
「わたし、おもうんですけど、あなたが、二つの性を抱えてるってことは、うすうす、感じていましたよ、JPキャパの一件でもね。でも、どうして、いま、わざわざ、わたしみたいな赤の他人に、そんな大切な秘め事を、告白する気になったのかな、とおもいましてね」

 青年は、一瞬、目を細めたが、すぐに笑って、いった。

「それは、先輩が、構造屋さん、だからっすよ。オレ、おなじ建築でも、意匠でしょ。だから、オレの内緒のデザインが、この世で成り立つか、どうか、検証してもらうためっすよ」

 そして、うれしそうに笑い、あとをつづけた。

「冗談ぬきで、さっきの続き、なんすけど、ブロンドも、オレとおなじ、二つの性を抱えてるんすよね。その二つの間を行ったり来たりする、それを、かのじょは、こう表現したんすよ、真っ白な記憶の淵の、空っぽの箱のなかを、なんの防備もなしに、時空を超えた猛スピードで、滑り降りる、ってね」 
「直滑降を、例えにしてました、よね」
「ええ。ご存じかと、おもいますけど、チョッカリって、Gに任せて、谷底に無回転で、滑り落ちてくんすよね」
「でも、摩擦があるから、それをどう扱うか、によりますが」
「仮に、エッジをかけないで、ノーブレーキで、つまり、摩擦がない、と仮定すれば」
「理論値ですね」
「ええ、目安を付けるのに、単純計算したら、四秒ちょっとで時速百五十キロ、っすよ」
「ほう」
「そのまま、止まらないで、五秒、六秒、七秒…といったら、いったい、何百キロまでいくんすかね」
「視野も狭くなってくるし、鼓膜の振幅も振り切れてしまうだろうし、恐ろしくて、頭の中、真っ白でしょうね」
「パニックですよ。なにもかも、分けわかんないうちに、あっという間に、過ぎちゃう」
「なにが起きているのか、考える暇もない」
「つまり、意識が、記憶に必要な時間に、追いついていけない」
「なるほど」
「ブロンドがいう直感の感界って、そういうことなんじゃ、ないっすかね」
「直感界のミステリー、ですか」
「いや、オレは、そうは、おもわないっすよ」
「おもわない?」
「これ、ミステリー、じゃないっすよ、その反対っすよ」
「反対?」
「ええ、直感界って、身体性の世界、でしょ」
「強いていえば、意識の及ばない世界、とでもいうか」
「その身体性の中にこそ、現実が、あるんじゃ、ないっすか?」
「直感界が現実だと?」
「つまり…」

 青年の解釈は、興味深かった。自分の身に起こった出来事が、意識化された記憶として定着するには、時間が要る。その時間を超えて起こる出来事は、記憶として意識化されず、雑多な情報として直感界を浮遊する。仮に、一度に、雑多な出来事が、意識化する時間が無に等しくなるほどの量で起こったとき、すべての出来事は、雑多な情報として、直感界を浮遊する。
 ところで、二つの性を内包する身体で、オトコがオンナに、オンナがオトコになる時間はどうなのか。この設問に、ブロンドは見事な解を出している。メビウスの輪だ。表であり裏であり、表裏の連還である、ということは、表と裏が、瞬時に入れ替わり、時間差はほとんどない、と考えることができる。おなじように、メビウスの輪では、オトコとオンナも、連還しており、二つの間に、ほぼ時間差はない、右も左も、八の軌道で、連還している、右ターンと左ターンの時間差は、限りなくゼロに近い。これは、まさしく、直滑降の例え、そのものだ。Gの要求に身を任せる直滑降では、右も左も、上も下も、前も後ろも、時間も空間も、加速度に引きずられ、渦エネルギーとなり、すべての出来事は、瞬く間に吸い込まれ、舞い上がる雪粉となって、直感界に吐き出され、浮遊し、連還する。こうして、粉塵サイズにまで断片化された実際の出来事は、直感界でのみ、記憶として再生可能となるのだ…。
 内包する二つの性の実態を、メビウスの輪の連還で解こうとする発想は、頷けなくはなかった。だが、解、とするには、あきらかに十分ではない。概念は、あくまで概念であり、幾何学の性質を身体性に結びつけるには、かなり無理がある。

「で、あなたは、ブロンドのいうことに、一理あると?」
「いや、はじめは、オレも、そう、おもったすよ。でも…」

 青年は、鉄板にこびりついた汚れを、手製の木ゴテで削り取りながら、ブロンドと最後に交わした会話について、はなしはじめた。それは、にわかには信じられない内容だったが、後ろから優しく抱かれ、柔軟に膨らんだ火照った肢体が、頬をとおして雪洞の冷気に触れ、適度に放熱されてゆく心地よさに、かれは、うとうとしながらも、つい、聞き入ってしまったという。

「でも?」
「でも、聞いていて、ちょっとおかしい、て、おもったんで、オレ、目が覚めたふりして、反論したんすよね。二つの性とか、真っ白な記憶の淵とか、空っぽの箱とか、抽象的で、謎めいた直感の世界って、論理の世界に飽きたヒトには、とてもリアリティーに富んで、現実味があるようにおもえるけど、一旦、言葉にして、納得しようとすると、とたんに論理の壁が立ちふさがって、客観という網の目に、手かせ足かせ、されて、身動きがとれなくなって、結局は、直感界を、意識的に、避けざるをえなくなっちゃうじゃないか、って」
「そしたら、ブロンドは、なんと?」
「納得しようとしなければいいのよ、て、かるく、いうんすよ」
「納得しなけりゃいい?」
「直感は経験値、つまり、体験からくるものだから、百億年の生命の記憶が、あなたに語りかけているだけで、それを、素直に受け入れればいいだけのことよ、って」
「納得するもしないも、実際には、主観と客観が、複雑にからみあって、収拾がつかなくなるように見えても、われわれは、秩序だった、中庸の世界に生きているわけでしょう。だから、直感界という、主観でしかない世界に身をまかせたまま、ファンタジーを生きる、なんてわけには、いかんでしょう」
「それも、オレ、いったんすよ、世の中、幻想だけじゃ、生きてけないからね、って。そしたら、逆に、あたりまえじゃない、ヒトを生かすのは、幻想じゃなくて、想像力よ、て、いい返されました」
「想像力?」
「実際に、自分の身体のなかの出来事を、想像してみるだけでいい、と」
「身体のなかの出来事?」
「身体の細胞たちが、百億年もまえから、互いに情報交換したり、連携しあったりして、自分たちが創りあげ、進化させ、生きのびさせてきたヒトのカラダという、一種の運命共同体を、脳にはたらきかけて、日々、守り、生かそうと、一生懸命努力し、働いていることを、想像してみたことはないの、って、逆に、バカにされちゃいましたよ」
「脳にはたらきかけて? 脳も細胞の集まりだから、他の細胞と連携しあってるはず、じゃないんですかね?」
「ブロンドからすると、脳は、意識と干渉しあってるので、ときには、細胞を破壊する選択枝を選ぶこともある、て、いうんすよ。たとえば、むかしの決闘なんか、そのいい例ですよ。身体という運命共同体を危険にさらすのは、名誉とか、面子とか、意地とか、ヒトの考え方や、思想、なんやかや、脳で考えたことが、意識にのぼって、身体の細胞すべてに干渉して、自滅に追いやる選択肢を選ばせるわけですよね。その種の干渉を排除することで、生命は、なんとか、生きのびてこられたわけなんすけど、この百億年の生命の記憶が、ある日、突然、なんらかの意識の干渉によって、一瞬に書き換えられて、別の記憶に入れ替わってしまうこともありえる、というんですよね」
「はあ?」
「そこで、ですね、さっきもいった、ブロンドの信じられない体験、の説明に、やっと辿りつけたんすけど、先輩、どうです、訊きたいっすか?」
「そりゃあ、聞きたいですよ!」

 青年は、その信じられない体験について、はなしだした。そこから分かったことは、ブロンドどいう人間が、現実遊離の夢想家でも、オカルトまがいの宗教家でも、摩訶不思議な哲学者でもなく、アルプスに生まれ、山と雪と自然を愛し、切り立つ岩峰を仰ぎ見ながら、林間の湖水で沐浴に興じた、生粋の山の娘、山っ子、ということだった。

 そんな彼女だけに、チェルビニアからの帰路、フィンデル氷河の雪原で、自分の庇護下にあるバスク娘を、不本意にも見失うという失態は、山岳ガイドとしての誇りが許さなかった。バスク娘はどこに消えたのか。遭難か、それとも失踪か…全州あげての捜索が、長期捜索事案として一件処理され、同伴者安全保護義務に抵触したブロンドは、免許停止処分となった。深く傷ついたブロンドは、一年まえの冬季にガイド案内で知りあった仏人山岳スキーヤーのプロポーズを受け、結婚、本格的な山岳救助訓練を受けたい動機も手伝って、夫君の地元シャモニックス=モンブランに移住した。

「それで、山岳遭難救援救助のプロ、になったわけですね」
「ええ」

 青年はつづけた。五年後、ブロンドは、山岳パトロールのプロとして、立派に成長し、モンブランを基点に、充実した生活を送っていた。これで、結婚した第一の目標を達成し、社会進出することもできた。そして二年後、男女の双子に恵まれた。結婚の第二目的だった家庭をもつことは、これで達成された。育児と教育で目が回るような十数年が過ぎ、ふと気がつくと、子供たちは、すでに巣立っていた。そのときから、自分の中の二つ目の性が、造反を開始した。オトコである自分が、夫であるオトコと一緒にいることが苦痛になり、やがて我慢ができなくなった。忍耐もほぼ限界に達し、別居しようと決意した矢先、ツエルマット警察から連絡が入った。

「ツェルマット警察から? なぜ?」
「例の、行方不明の、あの、バスク娘の件っすよ」

 雪山シーズンもオフに近ずいた芽吹き時の五月、モンテローザの裾、岩石露出部の安全点検で出動していた二人のパトロールの一人が、ベージュのヒュッテを背にして、ゴルナー氷河からフィンデル氷河へトラバースする途上、運悪く、気温の上昇で積雪層に緩みの出た天頂部を突き破り、深いクレバスに転落してしまったのだ。幸い、落ちた当人にケガはなく、二人とも救難装備十分の山岳救助隊員だったので、救助本部に通報し、緊急支援の要請もすませ、落下者には命綱をつけ、あとは救援隊を待つだけ、危機はひとまず避けられた、と安堵した。
 しかし、命綱をたよりに、落ちた隊員を引き上げようとしたとき、クレバスの底で、異様な叫び声があがった。

「オッ、なにかあるぞ! オーッ!」

 胴に巻きつけたロープが張り、やっと横臥から直立の姿勢になれた矢先、クレバスの内壁の、半透明の氷の塊のなかに、仰向けに横たわった一人の冷凍人間が、落下者の目の中に、飛び込んできたのだ。

「ヒ、ヒトがいるぞォ!」
「ヒトが? そんな、バカな!」
「いや、ヒトだ、オンナだ、若いオンナだぁ! 冷凍人間だぁ!」

 黒地に白のシャレコウベをプリントしたウェア、黒のニット帽、黒にシャレコウベのマスク、ニット帽から麦の穂先のようにはみ出した栗色の縮れ毛…すべては、その冷凍人間が、あのバスク娘であることを、示していた。

 一報を受け、ツェルマット警察山岳遭難救助救援本部は、急遽、遭難事故長期捜索事案記録を検証、結果、該当する遭難事故を特定した。
 二十年前、ツェルマット=チェルビニア往復ツアーに参加したバスク人三名のうち、女性ツアー客一人が、帰路のフィンデル氷河上で行方不明になった、という事案だった。そして、そのとき、一行のガイドを務めたのがブロンドだったことが判明し、連絡してきたのだ。遺体の出自を確認し、未解決の遭難事故に、決着をつけるためだったという。すでに別居を決意していたブロンドは、躊躇なく警察の要請に応じ、翌日には、生まれ故郷のツェルマットに、戻っていた。
 遺体の検視は、衝撃的なものだった。
 まず、遺体との対面は、二十年という時空の常識に収まりきらない、異界の狭間に吸い込まれた、不思議で不可解な、現実だった。冷凍室から引き出された遺体は、物理的な砕氷作業や解氷処理の痕跡も留めず、二十年まえの、あのときの、あのままの姿で、目の前にあった。その間、バスク娘は、時を止め、微動だにせず、ずっとこの世に、い続けていたのだ。

「まるで、仮想現実ね、生きている、みたい…」

 おもわず呟いたブロンドに、検視官が尋ねた。

「この人に、見覚え、ありますか?」
「見覚えどころか」

 ブロンドは即答した。

「わたしがチェルビニア日帰りのガイドをした、バスク人の女性その人です。間違いありません。この黒生地のウエアといい、黒のニット帽といい、栗色の縮れ毛といい、なによりも、あの日、ハロウィーン当日でしたから、ほら、ウエアに白のシャレコウベのプリントがしてあるでしょう、それに、おなじ白プリントのマスク、これで顔を隠して仮装して、三人で大はしゃぎして、チェルビニアを往復したんですよ」

 検視官は、その日の往復ツアー、とくにフィンデル氷河でツアー客の一人を見失しなった経緯について、事細かな説明を求めた。

「チェルビニアからの帰路、モンテローザの裾、ヒュッテを右手に、ゴルナー氷河からフィンデル氷河に向かう途中、事故にあったんです。アルペンボーダーが、中年の婦人と起こした当て逃げ事故で、三日後にチューリッヒ空港で逮捕されました。リヒテンシュタイン公国在住の仏人プロスキヤーで、たしか名前は、伏せたままだったと…」
「把握しています。で、それから?」
「こ、これって、まさか…」
「その、まさか、です」

 それは、銃で撃ちぬかれた痕だった。あの天真爛漫に振舞っていたバスクの娘が、銃殺された? なにかの間違いではないのか。ブロンドは、不気味な弾痕の空く眉間から唇の周りへ、そろそろと目を移した。この銃殺された女性が、本当のバスク娘ではない? まさか…想像だにできない事態に、ブロンドは、事実を確かめるための、確かな記憶を手繰り寄せようとした。あのテオドールパスを超え、チェルヴィーノ避難小屋にたどり着いたとき、彼女は少女のように、はしゃぎ回って喜んでいた。それを見たとき、中学生にも見間違えるほどの、幼さを感じたが、左頬の下にある米粒大のホクロが、豊かで分厚い唇に同調して動く様が、かろうじて、彼女を大人っぽくみせていたことを、鮮明に思い出したのだ。
 もし彼女があの娘なら、そのホクロがそこに、あるはずだ…目を皿にして探したが、あの米粒大のホクロは、どこにもなかった。それどころか、豊かで分厚い唇も、薄く、扁平で、自分が大人っぽいとみとめた実際のものとは、あまりにもかけはなれていた。ブロンドの頭のなかで、当時の記憶が、徐々に薄れていく。自分が限りなく小さくなり、その分、大きくなっていく自分が、冷徹にそれを見ていた。
 小さくなる自分が現実なのか、大きくなる自分が仮想なのか、小さい方がオトコなのか、見ている自分がオンナなのか、めまぐるしく入れ代わる仮想と現実、くるくると8の字の連還の輪を巡る二つの性に、目が回った。そして、やがて、すべてが、真っ白になっていった…。

 気がつくと、外灯を除いて、公園のすべてが、闇に覆われていた。コートを通して冷気が肌身に浸みてくる。青年とわたしは、カマドに燃え残ったマキの余熱で、まだ温かみのある鉄板に両手をおき、暖をとった。缶ビールはおわり、食べ物は、なにも残っていなかった。
 もういいだろう。彼とは十二分に交流した。この未曽有の、天災と人災のさなかに、おもいもよらない人と知り合い、吉凶の兆しを暗示する符合に、何度も驚き、前世と来世の因縁を垣間見たいま、青年との出会いを締めくくろう。だが、そのまえに、ブロンドと彼の出会いを、しっかりと締めくくっておく必要がある、と強く感じた。

「8の字の連還の輪って?」
「微積分のインフィニティフ、無限に、限りなくつづく、を表す、あの記号っすよ」
「それが、あなたの、メビウスの輪の理解、ですね?」
「そのとおりっすよ」
「では、白い記憶、というのは?」
「8の字の、ちょうど交叉する個所で浮遊する記憶、前後、左右、上下、あらゆるものが交叉して入れ代わる瞬間の記憶、っすよ」
「白い、というのは、嫌な記憶は不安定に浮遊させて消してしまいたい、という苦手意識が働いて、恣意的に白くして、他人にも自分にも悟られないようにする目隠し、騙しの策、では?」
「いや、ぜんぜん、そうじゃ、ないっすよ。オレ、いま、ブロンドと同じ記憶を共有してる、ていうか、インターラクティヴ、なんすよ。白、まっ白、ていうのは、ブロンドのチョッカリが引き起こす渦の現象、なんすよ」
「まっさかさまで、Gに任せて、谷底めがけて落ちるときに発生する、アレですか?」
「そうっすよ。まさに、なにもない、空、という状態、絶対中立の状態、とでもいうんすかね」
「よく、理解できませんなぁ」
「理解するもんじゃ、ないんすよね、直感なんすよ、直感。絶対中立の状態、とは、自分の記憶も、他人の記憶も、あらゆる記憶が宙に浮いていて、まだその人の意識に定着していない状態、を指すんすよね」
「すると、いつ、定着、するんでしょうか?」
「恐怖のあまり、Gに逆らって、エッジを立てて、中立を脱して、左右どっちかに、回転したとき、でしょうね」
「中立を脱する?」
「たとえば、オレがオンナに変わる瞬間、っすよ」
「エッ?」
「そして、オトコに変わる瞬間も」
「つまり、8の字の軌跡が交叉する瞬間、ということですね…とすると、二つの性を抱えているヒトしかわからない、特権的瞬間、ということじゃないですか」
「そうとは、かぎらないっすよ」
「かぎらない? フランスで、特権的瞬間、を唱えたひとがいますが、それとは?」
「いや、そんな、知的なことじゃ、なんすよね。身体細胞の進化というか、たとえば、先輩だって、卵になったときは、二つの性を併せ持つ生体、だったんじゃ、ないっすか?」
「はぁ…ま、そりゃ、そうでしょうけど」
「みな、どっちかに、傾いてるんすよ」
「傾いてる?」
「いろんな意識の干渉が働いて、みな、偏向してるんすよ。その状態が、個体を生かす生命細胞と適合しているのであれば、それでいいんすけど、適合していない、というより、害を及ぼすような偏向だったら、全細胞が結束して、その偏向を排除しようとする、とおもいませんか?」
「生きるための防衛反応、ですか。しかし、その適合、不適合の合否は、だれが?」
「生命体が存続し進化するために、体中に張り巡らされたリンパ節、サンチネル、で、それが発信する直感、というヤツっすよ。サンチネルって、軍でいう歩哨、ていうヤツで、警戒・監視を任とする見張り、なんすよね。局部ガンが全身ガンになるには、ガン細胞が必ずサンチネルを通過するんすよ。だから、まず、リンパ節の細胞を生検するでしょ。聞いたこと、ないっすか?」
「あります、あります、わたしの妻も、乳癌、やりましたからね」
「あ、それは、失礼しました…」
「いや、いや…なるほどね、見張り役の歩哨が、みなに、危険を報せるんですね」
「そうっすよ、その危険を直感で感知した瞬間、なにもかもが、絶対中立軸に沿って、浮遊しはじめるんすよね。そして、生体細胞が受け入れる偏向だけが、定着していくんすよ、記憶として。だから、定着できない記憶は、そのまま偏向情報、として、永遠に浮遊しつづけ、やがて消滅する、ということになるんすよ。このプロセス、分かります?」
「うーん…分かる、といえば分かるし、分からない、といえば分からない、かな…」
「今晩、オレのこと、ゆっくり思い出して、熟睡してくださいよ。明日の朝には、結果が出てますから、ハハハハハ…」

 青年は、さも愉快そうに笑った。そして、空のビール缶や段ボール箱、冷めた鉄板や消し炭、カマドの瓦礫、その他もろもろの、何日かの炊出しボランティア生活を支え、いまは不要になった必需品を、さっさと片づけはじめた。その、柔軟で活発な動きに、成長期にある細胞の、旺盛な生命力と潤滑な新陳代謝を、如実にみるおもいがした。
 そうか、明日、彼は、ここを引き払わなければならないのか。心は、もう、この被災地にはないな。気持ちは、先へ先へと進み、走っている。浮遊するすべてものを、真空の渦で巻き込みながら…。そうだ、別れるまえに、訊いておきたいことが、いくつかあった。

「あなた、他人の記憶を自分の記憶にする特技がある、とかと、いってましたよね」
「え、特技?…」  

青年は手を止め、しばらく、寒空にぼんやりと浮かぶ外灯に、目をやった。

「あ、そうか、友達から、雪山の初体験に乗鞍・蓮華温泉コースが最適、っていわれて、トライしてみたら遭難した、というハナシでしたよね。で、ビバークの準備をしてたら、いきなりブロンドが滑落してきて…」
「そのハナシって、実際に起こったこと、ですよね?」
「そうすよ、オレ自身が体験した実話っすよ、オレの記憶、確かっすよ」
「すると、あなたの特技は、何なんですか?」
「特技? ああ、他人の記憶を自分の記憶にできる、っていうヤツっすね?」
「そうです」
「オレ、ブロンドに背中から抱きしめられて、一緒に寝てたでしょう」
「ええ」
「その間、ずっと、自分の身に起こったこと、話してくれたんすよね、あのひと」
「ええ、そのようですね」
「オレ、ずっと、うとうとしながら、聞いてたんすけど、そのうち、自分が、その世界で、ブロンドになって、ハナシの筋書きどおりに、動いたり、考えたり、喋ったり、しはじめたんすよ」
「ブロンドになりきってたんですね?」
「いや、演技じゃないんすよね。なりきる、じゃなくて、ブロンド自身だった、ていった方が、しっくりするんすよ」
「ブロンド自身? とすると、あなた自身は、どうなってたんでしょうか?」
「ずーと遠くで、それを見てたんすよ」
「遠くで、見てた?」
「ほら、こんな体験、ありませんか。子供のころ、風邪ひいて、熱だして寝てるときなんか、見てるものが、どんどん小さく、遠くなって、自分から離れていくんすけど、そんな自分を、また遠くから、自分が見てるんすよ…」

 たしかに、その種の体験は、幾度もあった。幼少時の過敏な神経には、よく起こる現象だと、勝手におもっていた。

「それって、オレ、仮想空間と仮想時間の異次元体験だった、と、おもってるんすよね」
「異次元?」
「ブロンドが関与する時間と空間は、オレには、仮想の時間と空間、なんすよね」
「そりゃ、そうでしょう」
「だけど、オレが、ブロンド自身になって、彼女の時間と空間を生きることができるとしたら、どうなるんすかね? うまく説明できないっすけど、それが彼女と出会って獲得した、オレの特技、っすかね」

 現実の時空にいる自分が、他人自身になって、その仮想現実で生きる、そして、仮想の時空で手にいれた記憶が、現実の記憶として自分の記憶野に定着する…あり得ないハナシではない。
 たとえば、映画やゲーム界では、電算機画像生成技術の活用で、仮想現実はすでに実現している。あとは、操作するヒトが、自分の分身をその中に送り込み、リアルタイムで活動できるようにすれば、仮想と現実がピタリと一致する。それこそコインの裏表を行き来するように、メビウスの輪を連還するように。

「それは、まちがいなく、画期的な特技、ですよ」

 わたしはいった。

「あなたの専門は、意匠でしたね」
「はい」
「いいこと、おもいつきましたよ」
「いいこと?」
「電算機を活用して、あなたが造りたい建物を設計するんですよ」
「もうやってますけど」
「設計図、じゃなくて、建物自体の現物を、仮想空間の展示室に、オーダーメイドの建物として展示し、購入者を募るんです」
「ハーン、画像生成技術を活用した、一種のゲーム、っすね」
「そうです、ゲーム感覚でいいんです。展示された建物は、あらゆる細部を設計したひな形、プロトタイプとして、提示されます。購入者は、自分の分身を仮想の展示室に送り込み、そのひな形を細かく検証し、自分の好みに合わせて、自由に変更することができるんです」
「自分で変更できるんすか?」
「いや、購入者は素人ですから、専門知識がありません。ですから、販売者がそこにいて、購入者の要求を、一つ一つ検証し、具体化していくんですよ。たとえば、水洗金具はブロンズで混合水洗は自動が欲しい、という要求があれば、ブロンズ製品のカタログを見せ、好みに合わせて選ばせる」

「なるほど」
「混合水洗もおなじ、いろんなメーカーのものを紹介して、購入者に直接選んでもらう。そうやって、仮想空間で、購入者が希望する完璧な建物が、出来上がるんですよ。予算もばっちり算出できますしね。あとは、現実空間で建てるだけ。どうです、このアイデア?」
「すごい、っすね、先輩、ぜひ、やってくださいよ、十年後には、長者番付一位っすよ!」
「いや、構造屋にむいてないな。あなたがやるんですよ、あなたが! 仮想と現実を行き来できるスペースシャトルの先駆者、じゃないですか」
「オレにも、むいてないっすよ。オレの特技は、白い記憶にしか、通じないんすよ、白い記憶にしか、ね」

 にこりと笑うと、青年は、じゃあ、また、と、かるく会釈してから、そのままテントに消えた。

「なるほど、あの、真空の、絶対中立を浮遊する、白い記憶にしか通じない、か…」

 テントのほのかな灯りが、コットン生地の三角錐を、内側から照らす。スキー帽の青年との交流は、これで終わりになった。暗闇に一人とりのこされ、暖かい家族の団欒から急に締め出された気分になったわたしは、不快な孤独感と、かるい寂寥感を払いのけるため、街灯りの見える場所を求めて、そそくさと公園を後にした。とにかく風呂に入って、冷えきった体を温めよう…ただ、それだけを願いながら、帰路を急いだ。

白の連還 第6話 白い記憶 完 終章 につづく


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