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【奇譚】赤の連還 14 赤い嫉妬

赤の連還 14 赤い嫉妬

 マグレブに限らず、アフリカ人の行動原理には、まず家族、という考えがある。生きる根幹には家族愛がある、ということだ。
 よく、時間にルーズだと、かれらを批判する声をきく。十分やニ十分の遅れは、遅刻のうちに入らない。二、三時間遅れても、ニコニコしながらやってくる。そして、平然として、こういうのだ。

「子供が熱を出して医者に連れて行ってた、だから、時間に間に合わなかった、わたしのせいじゃない」

 ここで、たいていの場合、ムカッとくるのだが、そのうち、なぜそこまで無責任になれるのか、と、考えるようになる。約束を守れない自分を恥じとはおもわないのか? しかも、時間にこなかったのは、オマエの娘じゃない、オマエ自身だ、だから、まさに、オマエのせいそのものじゃないか。ヒトのせいにするな、恥を知れ、という具合だ。

「イタリアも、似たようなものですよ」

 オレの愚痴に腹もたてず、団長がさらりといった。

「優先順位が違うんです」
「え、優先順位?」

 実は、オレも最近、その辺りの価値の置き所によるのではと、おもいはじめたばかりだった。

「重要度の問題、ですか?」
「そう、他人との約束より、自分の娘の病気を治すことの方が、より重要で、先にやること、なんですよね」
「なるほど」
「かれらの行動原理は、まず自分、それから家族、親戚、友人と続いて、他人との約束はその後、ずっと後回しなんです」
「しかし、そうなると、社会的責任は、どうなるんですかね?」
「それも後回し、まずは家父長としての責任、それから親戚、友人として、と続いて、他人への責任は、ずっと後回し、というわけです」
「日本とは、かなり、違いますね」  
「真逆ですよ、日本では、まず自分を取り囲む社会への責任が来ますよね、そして、家父長がその責任を立派にはたすために、家族ぐるみで協力する」
「それ、昔のはなしでしょう」
「いや、そうとは限りませんよ」

 真顔で、かれは続けた。

「時間、て、自分と自分を取り囲む社会と、両方に関係してるでしょう、そのなかで、自分に関わる時間と社会に関わる時間の、どっちを優先するか、て選択は、日本人て、意外にDNA化してるんじゃないかな、あきらかに、周りの時間を優先してますよ、だから、ぼくなんかから見れば、所長なんて、典型的な日本人ですよ」
「え、どうしてですか?」
「いつだったか、朝の出発の時間に遅れてしまって、さんざん、叱られちゃたじゃないですか」
「いや、あれは、なんたって、団長が悪いんですよ、わたしのせいじゃない、あ?…」
 一本、取られてしまった。
 その日、責任の取り方論議に水を向けたのは、もともとオレの方だったが、以降、こと日本と外国を比べる話題になると、気軽に、いや、むしろ積極的に、乗ってくるようになった。
 かれの比較文化論には、それなりの説得力があった。時間の流れと空間の移動のなかで、実際にかれは、様々な違いを実地体験してきたからだ。
そんな団長と繰り返し、対話するなかで、気がついたことが一つ、あった。極東の城東区から地中海の古都ローマまでの距離は、ある意味で無限、つまり、かれは未だ、古都に辿りついていないのではないか、ということだった。
 オレの場合、異文化知識はふんだんにあったが、実際に接したのは、二十歳を過ぎてからだった。感性はすでに雑学に侵され、鈍りはじめていた。そこへ、実地体験で得た知識が堆積し、救いようもなく濁り、酸欠し、壊死した観念は、腐海の底に沈積していった。文化の違いなどという言葉は、サケのツマミにこそなれ、意味をなさない語彙として、記憶のどこかに放置された。
 その点、団長はちがった。かれは小学四年で洋楽の洗礼を受けた。初々しい感性は、まだ手付かずのまま、かれは、なんの抵抗もなく、当然のことのように、それを受けいれた。単に、十年の記憶に新たな記憶が一つ、加えられただけのことだった。
 なぜ、こうもちがうのか? そんなに、すんなりと、新しい出来事を、過去の記憶に重ねることができるのか?
 そういえば、連隊長宅でクースクースをたらふく食べ、国際文化交流会の招待まで受けた帰り、同乗した車の中で、かれにそっと、尋ねたことをおもいだした。

「団長、この際、ひとつ、お聞きしたいことが、あるのですが」
「どうしたんですか、急に、改まって」
「団長のオクさま、すごいイタリア美人て、聞いてますけど、いつ、どこで、お知り合いになったんですか?」
「うーん…」

 団長は、腕組みしてシートに深々と座りなおすと、大きなため息を一つついて、いった。

「リザとはね、フィレンツェで、知り合ったんですよ」
「リザ、とおっしゃるんですね、オクさまは」
「実名は、エリザベータ、ていうんですが、内輪や仲間内では、リザ、て愛称でよんでるんですよ」
「リザさんて、すごいお金持ち、なんですってね」
「だれが、そんなことを?」
「みな、そういってますよ」
「カネモチ、というより、由緒ある家柄、なんですかね、なんでも、ハプスブルク家に縁のある家系らしくて、両親は、宮殿みたいな屋敷に住んでますよ」
「ハプスブルク家!」
「むかしはすごかったんでしょうけど、いまや、景観保存の拠点施設にされちゃって、実質、公的施設の管理人みたいなものですよ」
「団長も、オクさまのご両親といっしょに、その宮殿に住んでるんですか?」
「まさか、ぼくらは、ローマの駅裏にアトリエ一軒かりて、家族四人、コンパクトに生きてます」

 だいたいの背景はつかめた。

「で、オクさまとは、フィレンツェのオペラ座で?」
「いや、歌劇場じゃなくてね、実は、サン・マルコ美術館だったんです」
「美術館?」
「ええ、あそこには、フラ・アンジェリコの受胎告知という絵がありましてね、イタリアに留学したら、とにかく、まず、それを観にいこう、て、決めてたんですよ」
「絵も、お好きだったんですね」
「絵も音楽も、おなじですよ、五感を刺激するもの、すべてに、みな、惹かれるんじゃ、ないかな」
「有名な絵だから、美術館、混んでたんでしょう」
「いや、だれもいませんでした、これはラッキー、ゆっくり鑑賞できる、て喜んで、がらんとした空間で、ひとり、フラ・アンジェリコを観てたんですけど、いつの間にか、ヒトの気配が漂ってきましてね、それが、だんだん、そばまで迫ってくるんですよ、絵を観るときって、絵だけに集中したいし、観てるあいだは自分だけのものにしたい、て気が、つのってくるものでしょう、それが、そうもできなくなって、そばにきたヒトが、許せなくなってきて、かといって、あっちへいけって、追いはらうわけにも、いかないでしょう、だから、今日は、これでいいや、て、自分の方で鑑賞を打ちきって、また時間をずらして観にこよう、と考えたんですよ、で、受胎告知の前から立ち去ろうとしたんですが」
「したんですが?」
「フーと、清廉な香水の香りが漂ってきて、コツ、コツ、と靴の踵の音がしたかとおもうと、すがすがしい空気が、サワサワとこちらの方に流れてきて、それにつれて、ヒトがひとり、近づいてきたんですよ」
「はーん、わかった、それが、オクさま、だったわけですね」
「へへ、そのとおりです」
「そうか、オクさまも、受胎告知がお好きで、鑑賞にいらしてたんだ」
「リザは、ね、絵描なんです」
「あ、なるほど、常連なんですね、美術館には」
「フィレンツェ芸大の学生でね、フラ・アンジェリコのために、毎日、通ってたらしいですよ」
「そこで、偶然、知りあって、お互いに、一目惚れ、しちゃったんですね」

  団長は、否定も肯定もせず、大きく笑って座りなおし、いった。

「ま、今日は、これぐらいにして、続きは、また…」

 これから本題に、というときに、するりと逃げられた。
 かれとは、よく、そういうことがある。途中でうまくはぐらかされる。ゼラルダの杜がいい例だ。気がのると調子いいが、削がれると、あっさりと逃げてしまうのだ。
 城東区、ダンジリ祭り、出会いがしらの大喧嘩、一連の、あの話のときも、そうだった。幼少時に体験した夏祭りの興奮、かれは、その生々しい見せ場の有様を、夢中ではなした。その様子をみて、オレは、おもわず、童心に戻れるかれの無邪気さに感心し、羨ましいとおもって、その気持ちを率直に伝えた。すると、途端に、かれは、掌の赤いサボテンの花に目を落として、だんまりを決め込んでしまったのだ。はっきりとはいえないが、どこかに一貫しない、予断を許さないところがある。

 予断を許さないといえば、国内の政情不安もそうだった。大統領の死から三か月後、シャドリ・ベンジェディット大佐が新大統領に就任し、民生重視を政策に掲げるも、長年の一党独裁に不信を抱く民意の動揺は、容易に収まる気配をみせなかった。しかも、前後して中東イランに誕生したイスラム共和国の脅威が、不透明な事態を招いていた。地球規模のイスラム革命を妄想する新生イランの脅威は、国内外のイスラム原理主義の跳ね上がり分子を刺激し、原理主義の火の粉を、国土のあちこちにまき散らしかねない恐れがあった。多党制を容認した憲法改正をも匂わす暫定政権の施策には、予断を許さない事態が持ち上がっていたのだ。
 その兆候は、すでに、見え隠れしていた。市街地での警官と不満分子の衝突は、日を追って増えていた。衝突も、軽度の小競り合いから、激しい暴力沙汰になり、やがて殺傷事件に発展してしまう事態も、少なくなかった。 
 この種の事件の場合、発生場所が市街地なら、事態収拾は警察の管轄になる。衝突が市街地を超え、国土に広く飛び火した場合、国全体の治安維持は軍にあることから、当然、軍直轄の憲兵隊が取り締まりの任を負う。
 衝突の範囲が広がれば広がるほど、憲兵隊は忙しくなる。いざというとき、エルゴレアの地区連隊を統括する連隊長ともなれば、国際文化交流会などと、たわ言をいっている場合ではなくなるのだ。
 派遣団以下、現場主任を含め、工事責任者は、みな、そのことを危惧していた。団員の査証期限は残り少ない。進捗に応じて出入国を調整できるマルチヴィザだが、できれば出国前に一段落させておきたい。

「礼を欠くかもしれないが、こっちから訊いてみるか」

 夕食時、現場主任がいった。

「査証期限は、あと二週間ちょっとだし、事と次第で、みなさん、出直して仕切り直し、てこともありえますんで、そうなると、また、それなりに、準備のやりかたも、考えなくちゃ、なりませんし、どうですか、あすにでも、コンタクトとって、確認してみますか、ね」
「そうですね、それしか…」

 全員、仕方なく、納得しかけたとき、突然、突風が唸り声をあげ、砂塵が窓に吹きつけ、礫がパリパリとガラスをたたいた。

「まずいな…」

 現場主任が、緊張した面持ちで、いった。

「これ、並みの突風じゃないな、下手したら、大洪水だよ!」

 サハラ砂漠では四、五年に一度、大洪水が発生する。気候変動によるものなのか、どうか、知るよしもないが、たしか四、五年ほどまえ、サハラのどこかの、広大な岩石、礫、砂砂漠の一帯が、洪水で水浸しになっているニュースをテレビでみた。そのとき、不謹慎かもしれないが、水とは無縁の砂漠に、突如として大洪水が発生する、地球水循環の象徴的な現象ではないか、一度は体験してみなければ、とつよくおもったことを思い出した。

「主任は、経験、あるんですか?」
「ちょうど、六年まえの、いまごろ、年末ちかくだったね、あと一メートルで現場そうなめ、てとこまで、水が来てね、あれは、恐ろしかったよ」
「ここで、ですか?」
「いや、あれはモロッコだった、西サハラ一帯が被災地になってね、ちょどそこに、現場があったんだよ」
「それ、テレビで見ましたよ、そうですか、あのとき、主任、おられたんですか、大変でしたね」
「おれはラユーンにいて、もろ洪水にあった、てわけじゃないけど、それでも、こう、ヒザまで水に浸かっちまってさ、だから、現場は大変だったよね、きっと」
「出張ベースで?」
「ずっと、この現場だったんだがね、あのときは、農水省の役人が、支援プロジェクト形成ミッション、とやらにラウーンに来るってんで、電力施設関係の専門家として参加しろ、て、引っ張り出されたわけさ」
「で、なにかの支援に、つながったんですか?」
「いや、なにも」
「なにも?」
「当然だよ、西サハラは紛争地域で、さ、モロッコが領有権を主張して、実行支配してんだよね」
「アルジェリアは、それに反対、してましたよね」
「そう、自主独立を主張するポリサリオ戦線を支持してね、隣国には、真正面から対立してるんだよ」
「そんな紛争地に、農水省がなんで協力しようと」
「クジラとかマグロで、モロッコの世話になってるからさ、国際捕鯨委員会での一票、とかさ、漁業委員会での漁獲量の交渉とかでさ、だから、そのお返しだね、頼まれたら、断るわけにいかないしさ、調査なんて、いくらでもできるんだよ、プロジェクトができる、できない、の保証は、必要ないからね」

 そこまで一気にいうと、主任は、大急ぎで厨房から飛びだしていった。まもなく、コンテナ造りの家屋の天上に、ドーッと、不気味な音と振動が伝わってきた。突風の襲来が大雨を呼び込み、猛烈な勢いで、トタン屋根をたたきはじめたのだ。

「おい、これ、ひょっとしたら、ひょっとするぞ…」

 みな口々に、そう呟きながら、風雨が巻き上げるどす黒い砂塵を、心配そうに、窓越しにながめつづけた…。

 結局、現場主任の直感は正しかった。最初の一吹きから二十四時間、突風と大雨が、断続的に、繰り返し、大地を襲った。涸れ川や季節河川は、瞬く間に激流の大河と化した。調査データをもとに、現場は河床から数十メートは高く設定したはずだったが、激流は、いとも簡単にそれを突破、現場一帯をやすやすと飲みこみ、仮設倉庫に保管した資機材は、すべて建屋ごと、あっさりと流されてしまった。
 翌翌日、水が引き、構造物以外なにもなくなった現場を眺めながら、現場主任は、深々と、ため息をついた。

「残念ですが、これで、交渉は仕切り直しです、みなさん、一旦、出国か帰国するしか、ありませんね…」

 残り二週間に望みをかけた交渉団にとって、悲観的にすぎる見通しのようにおもわれたが、まともに反論できるものは、だれひとりいなかった。

             ~~~~~~~~

「で、調査団は、どうなったのかな?」
「一旦、帰国して、仕切り直し、てことになったよ」
「査証期限切れまで、残り二週間もなかったわけだから、やむを得ない結末だね」
「そうだ、オレにしても、三か月近く事務所を空けていたしね」
「そうか、そうだったね」
「それに、現場べったりの付き合いにも、うんざりしていたし、いい判断だったよ」
「引き時だった、てわけだ」
「水の引き時、身の引き時、潮の変わり目、渡りに船、だな」
「しかし、そんな大洪水のあとで、よく、すんなり、アルジェに、戻れたね?」
「オレも、意外だったよ」
「というと?」
「あの勢いだと、道路網は寸断されて、二進も三進もいかなくなるんじゃないか、て、おもってたからね」
「実際は、それほどでもなかった、と?」
「ん、この辺りの道路って、さ、長年踏み固めた産業道路で、水には強いんだ、流されてきた障害物が邪魔で、それをクリアするのに、けっこう手間取ったけど、幹線路自体は、不沈艦なみに強靭でさ、車輪を取られて、進退窮まるようなことは、なかったね」
「並みの災害でヘタるヤワじゃない、てわけだ」
「そう、ただ、そこから外れると、悲劇だね、事実、幹線周辺の土漠には、トラック、ジープ、ワゴン、バイク、そんなのが、そこら中に、仰向けになって、転がって、漂流船の残骸みたいになってたよ」
「ガルダイアからフォッカーで?」
「そう、双発機でね」
「ずいぶん、遅れたんじゃないか」
「悪路で、こっちも遅れたけど、結局、乗れたわけだから、実質、間に合った、てとこかな」
「ところで、交渉団一行は?」
「そのまま二泊して、早々に、帰ってもらったよ」
「まるで、招かれざる客、みたいだね」
「そこまでは、行かないけどさ、あの団長じゃねぇ」
「そうかな、任務からしたら、適役におもえたけどね」
「オペラ談義で、目的に一歩、近づくきっかけになったことは、評価できるが」
「一歩どころか、有力者の農園で、文化交流会までやろう、なんてとこまで、行ったじゃないか」
「そうだな、一歩どころじゃ、なかったな」
「仮に、その交流会が実現したら、キミは、どうなると踏んでるんだ?」
「交渉のキモは、とにかく、トビさんの有罪判決と国外追放に辿りつく、ということだよ」
「それには?」
「こっちもリスクを負わなくちゃならない」
「リスク?」
「有力者所望の給水設備だよ」
「リスクというからには、技術に自信を持てない、とでもいいたいのかな?」
「オマエも鈍感なヤツだな」
「それは自明の理だよ」
「いいか、今回の大洪水の酷さ、聞いただろ?」
「ああ、それが?」
「あんな洪水被害に耐えられる揚水設備、この世にあるとおもうか?」
「おもわないね」
「だろ、しかし、それを約束するとしたら、いくら贈り物でもさ、そういい加減なものは設置できないぜ、しかも、災害発生直後だ、むこうさんも要求してくるさ、大洪水でも壊れないものを頼む、てね」
「そうか、そう考えると、並みのリスクじゃないな」
「オレ、ね、このトリヒキバナシ、ぽしゃるとおもうね」
「ほー、なら、トビさんは、どうなる?」
「気の毒だが、強制送還はムリ、帰国はお骨になってから、てとこだな」
「その辺、団長は、どうおもってんだろう?」
「アイツは、とにかく、芸術家だからね、アッと驚く名案、出てくるかもしれんよ」
「まさか」
「いや、あの、赤いターバンが、ものをいうかも、しれないね」
「あ、そうか、キミはもう、結果を知ってるんじゃないか、そんなに勿体つけないで、さ、ハナシてくれよ、団長は、どうなったんだ、なんかの役に、たったのか?」
「なんだよ、オマエ、ふざけんなよ!」
「え!?」
「オマエ、オレのとこに、なにしに来たんだ?」
「なにしに?」
「オレの記憶の手助けに、来てくれじゃんないのか」
「あ、いや、そうだったな…」
「それとも、なにか、事件の顛末だけ知りやぁ、それでいいってのか、それじゃあ、まるで、三文オペラの、好奇心に駆られた、ろくでもない観客みたいじゃないか、え、結果だけが知りたけりゃ、すぐにでも教えてやるぜ、ただし、聞き終わったら、すぐ、こっから、出てけ! 帰っちまえ! いいな!」
「いや、そうじゃないんだ、そう怒るな、キミのいうとおりだ、ボクは、キミの、乱れた記憶を整理する手助けに、ここに来たんだ、そのとおりだ、ただ…」
「ただ、なんだ」
「ただ、なんとも、キミのハナシが面白すぎて、つい、感情移入が激しくなって、気がはやってしまったんだよ、すまん、そんなに、怒らないでくれないか」
「怒るも、怒らないも、オマエの態度しだいだ、オマエは、三文オペラの観客か、それとも、記憶回復のアシスタントか、どっちなんだ」
「キミの、記憶の、手助けだよ」
「だな!」
「そうだよ、そのとおりだよ!」
「なら、答えてやる、あの団長、ある程度まで、役に立つことはたったさ、ヤツ特有のキャリアとやらで、周りを巻きこんで、相手を喜ばして、その気にさせたことは、評価できる、しかし、だよ、オレたち、最後には、当の本人に、してやられたんだ、あのイタ公に、さんざん、引っ掻きまわっされて、ぜんぶ、なにもかも、ふっとんじゃったんだよ!」
「まあまあ、そう興奮するな、な、なにがあったか、あとで、じっくり、記憶を取り戻してくれ、な」
「ああ、いいとも」
「それは、いいとして、実は、ね、いままでキミから、いろいろ聞いたことを振りかえって、よくよく考えてみると、ね、団長とキミとの間には、他人には理解できない、なにか共有するものが潜んでいる、て気が、どうしても、するんだ」
「バカいえ、あんなヤツとオレの間に、共有するものなんか、あるわけ、ないじゃないか、なにもないぜ」
「しかし、キミの団長感からすると、だね、かれは、キミにとって、とても刺激的な存在だったように、おもえてしまうんだよ、実は」
「刺激的?」
「なぜそうおもうかというと、一旦、かれのハナシになると、ね、キミは決まって、つっけんどんになって、否定的な物言いや、反発的な言動に、終始する傾向が目立つんだよ、それって、ほとんど…」
「ほとんど?…」

       ~~~~~~~~~~~~~~~~

 ……そうかもしれない。いまからおもえば、オマエがいうように、アイツを見るオレの目は、ほとんど病的だった、といえるかもしれない。しかし、それにはそれなりの、理由があったのだ。

 交渉団は、団員の入れ替えも、構成変更もなく、翌年の五月、雨季のおわり近くに、再度、アルジェ入りした。査証期限は三か月、八月には無効になる。乾季の最盛期だ。この時期を逃すと、砂漠生活は過酷になる。そのまえに、なんとか目途をたて、交渉継続の可否を決めなければならない。いわば、社の最後通牒を受けての、派遣だった。
 国情は、民生重視の風評に煽られ、一時、安定するかにみえたが、民族解放戦線を唯一政党とするアラブ人主導の国造りが、長年にわたって先住民族ベルベル人の反抗心を募らせていたこともあり、予断を許さない状況に傾きつつあった。
 このような情勢下、新政権は、多党制を視野にいれた内容に憲法を改め、新憲法のもとで民主選挙を実施し、国際社会での正当性を確保した上で、自他ともに認める主権国家を確立するという展望のもと、とりあえずは、民意重視の策として、国民融和の伝統文化芸術活動を奨励、支援することを、公に報じていた。方々で湧き上がる不満を逸らすための懐柔策とも、ベルベル文化への安易な媚びへつらい策とも、いえなくはなかった。
 この流れは、しかし、派遣団にとって、好都合だった。連隊長の親戚はベルベル族を祖とし、政権も一目おくトアレグ族の有力者だ。時流はアウェイではない。しかも所有する土地はサハラの一角、ホームそのものだ。交渉相手は、まさに、時と空間が見方する、時の人だったのだ。
 そんなわけで、関係者の間では、今回の計画は実を結び、調査団は予定の成果を上げ、対策本部の目的は達成されるだろう、との楽観論が、大勢を占めていた。
 文化芸術活動奨励策の影響は、エル・マナールホテルのあるシディ・フレッジ地区にも波及していた。地中海を背景にローマ遺跡を模して造成した野外円形劇場では、カビリー伝統音楽祭を皮切りに、ハワイアン、民族舞踊、アラブ音楽、シャンソンなど、各種、多様で賑やかな催し物が行われていた。

 そんななか、一行はやって来た。

 ローマ事務所長の団長は、よれよれの白茶けた半袖のポロシャツに、シチリアハンチングのコッポラ帽をかぶり、到着した。そして、現場移動を予定していたあくる日の朝、エル・マナールホテルのフロントに、やはり、ブルーマリンのヴァカンスシューズに麻の上下、頭にはカーキのフェルト帽を載せ、余暇を楽しむ洒落た中年の観光客、といった風情で現れた。
 なにからなにまで、前回とおなじだったが、唯一違ったのは、前回、現場に携行しなかったトランクを、今回は、大事そうに引きずっていたことだった。

「今回は、軽装じゃないんですね、団長」

 肩を並べて訊くオレに、かれはいった。

「ほら、今回は、アレがあるでしょう?」
「アレ?」
「そうですよ、所長、あの、交流会ですよ」
「ああ、まだ確認はとれてませんが、連隊長の伯父宅の農園で開催予定の、国際文化交流会のことです、ね」
「そうですよ、そのための衣装を、もってきたんです」

 団長は、歩きながら、嬉しそうに、ポンポンと、トランクの腹をたたいた。

「本格的ですね、どんな衣装ですか?」
「シチリアの市井の民、謹厳実直でマッチョな若いオトコのスタイル、ていうのかな」

 若いオトコ?…そうか、三角関係を決闘で清算しようとして、逆に殺されてしまう若者のことか。

「武器は拳銃ですか、ナイフですか、それとも軍刀とか…」
「いや、もともと決闘場面をみせないオペラで、最後に、群衆の叫びが主人公の死を報せ、善も悪も、分け隔てなく不幸になる、という演出なんですよ」
「ホー…」

 よくは分からなかったが、ふと、赤いターバンのことをおもいだした。あのとき、殺されたトビが娼婦に贈ろうとした赤いターバンを、なぜ団長が受けとったのか、その真意が、どう考えても理解できないでいた。そう聞けば、興がそそられないわけがない。
 国内線の搭乗口で、オレは訊いてみた。

「あの、赤いターバンは、どうするんですか?」

 団長は、炎天下の滑走路をスタスタあるきながら、いった。

「あのオペラの舞台背景は、ね、十九世紀のシチリアで、とても保守的な時代だったんですね…」

 まずは時代背景の説明から入り、隣り合わせでフォッカーの座席に座ったあと、筋書きへと続いた。

「要は、人妻なのに、むかし愛したオトコと密会しながら不倫を重ねるオンナ、ローラ、というんですが、その密会の現場を目撃してローラの夫に告げ口するオンナ、これをサントゥッツァというんですが、この四人と、村人たちを巡って、ドラマは展開するんです」
「なるほど」
「当時、不倫は大罪で、世間に知れると、オトコは、なぜか大目にみられるんですけど、オンナは、もう、終わりなんです、ね、村を出るか、乞食になるか、娼婦になるか、それ以外、生きていけなかったらしいです」
「ひどい、ですね…で、そのローラという女性は、どうなったんですか?」
「いや、これは、あくまで歌劇、つまりオペラで、道徳劇じゃないんですよ、ね、なので、決闘で男が死ぬ、と同時に、すべての村人も不幸になる、という、激越なる情念の吐露、とでも、いいますか、ね、ま、とにかく、交流会、楽しみですね、楽しみにしましょう」

 あきれたヤツだ。チラ見せでお茶を濁す気か。どうも信用できないヤツだ。最後には肩すかしをくらう。

「そう、ですね、大事なミッション、ですものね」

 皮肉をいったつもりだったが、当人には、まるで通じなかったらしい。ガルダイア空港に着いてエルゴレアの現場に向かう車中でも、双方、言葉らしい言葉は、一言も交わさなかった。
 翌日、週明けの土曜日、連隊長へ到着の挨拶も兼ね、駐屯所を訪ねた。11時に面会を予定していたが、連隊長は不在だった。対応に出たアリ・アフメドに理由をきいてみると、エルゴレアの都市部で、ひと騒動あったという。

「なにか、事件、ですか?」

 バカな質問をする団長だ。無邪気はいいが、平和ボケは格好がわるい。オレまで、甘くみられてしまう。

「団長!」

 オレは小声で、力を込めて、抗議した。

「そんなこと、憲兵が教えてくれるとでも、おもってるんですか、やめてください!」

 後日、分かったことだが、あのとき、地区連隊の機動部隊が、エルゴレアの周辺地域に展開していたという。オレと一行が、丁度、アルジェ空港に向かっているころ、都市部で警官と不満分子が率いる小集団との間で、小競り合いがあった。業を煮やした警官が威嚇射撃を行ったところ、集団は、蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。ところが、夜間になって、周辺部のあちこちから、火器の破裂音らしき音が聞こえてきた。騒ぎの拡大を事前に防ごうと、急遽、憲兵隊が出動したという。

「原理主義者の扇動だよ」

 アリ・アフメドはいい切った。

「あいつらが、年端も行かない連中をそそのかし、社会を不安に陥れようとしているんだ」
「原理主義者って、そんなに大勢、いるのかな」

 オレはアリに質問した。

「この国は、一応、イスラム教を国教としているけど、なにも、原理主義の権威支配をめざしているわけじゃなくて、あくまで共同体の円滑な運営がなりたつように、解放された国とその国民の、精神的拠り所として信仰心を大切にしていこう、という根本的な意図があってのことだろう?」
「そのとおりだ、だからこそ、それを壊そうとする原理主義は、赦せない」
「赦せないって、じゃあ、どうするんだ?」
「この動きは、イラン革命後に出てきた現象だ、そこにはイランの影がある」
「革命の輸出か?」
「そうだ」
「それと闘うには?」
「殺る!」
「え!?」
「原理主義はウイルス、わが国は民主国家、宗教国家にはならない、イランの手先は駆除するのみ、だ!」

 そうだ、あのとき、アリ・アフメドは、平然と、そういってのけたのだ。この固い意志が、後の内戦時に誕生する対テロ特殊部隊ニンジャに繋がっていったのだ。
 交渉団は、翌週の土曜日にまた来ることにし、駐屯所をあとにした。 
 その日を境に、団長の心のなかで、なにかが、変調をきたし始めた。城東区の、市井の民のダンジリがきっかけで、記憶と今の自分との間に、すでにズレは生じていたが、それが、さらに増幅され、まともな状態ではないとおもわせる挙動が、日を追って目立つようになった。
 実際、なにかにつけ控えめで、静かで、自分の周りにバリアーを巡らす傾向のある団長だったが、急に積極的で、物怖じしなくなり、当然、他人の障壁にも、頓着しなくなった。
 不思議におもって、オレは訊いた。

「団長、例の、あの、赤い花のサボテン、いまでも、ずっと、ここ、懐に、隠してらっしゃるんですか?」
「いや、あれはね」

 団長は、爽やかに応えた。

「あれは、レイラに贈ってやりましたよ」
「レイラに!?」
「いや、娘のルーナですよ、いろいろ土産、買って帰ったんですが、土産でもないあのサボテンを見るなり、これが欲しい、ていうので」
「お嬢さんのお名前、レイラ、それとも、ルーナ?」
「いや、偶然にも、レイラとおなじ<月>という意味なので、つい、間違えてしまいました、それに」
「それに」
「連隊長のレイラさん、ね、実は、ウチのルーナと、とっても、似てるんですよ」

 たしか、連隊長宅の中庭で小女を見かけたとき、さも懐かしそうに、自分の末っ子のハナシをした。いま、ふりかえってみると、懐かしいというより、それ以上のものを、実は、感じていたのかもしれない。
 おもえば、かれの目は、寸時に、三人の小女の肌に注がれていた。そして、それぞれの、耳たぶの後ろの、肌の質感を賞味し、品定めし、めずらしい痣のあるところまで見届けていたのだ。あれは、父親としての、大人の眼差しではなかった。あきらかにオトコの、オスの目付きだった。
 そうか、そうだったのか…それで、あの、赤いターバンのハナシに、つながっていくのか…。
 オレは訊いた。

「すると、ルーナさんも、メラニン色素のつよいひとなんですね?」
「実は、そうなんですよ」

 団長は、照れくさそうに、答えた。

「上の子は、妻に似て、白人系の肌なんですが、下のルーナは、どうしてか、すこし、ブロンズがかってるんですよね、わたしのアジアの血が、入ってるからなのか、よく分かりませんが、でも、もしそうなら、うまくしたもんですねぇ、世の中って」

 なにがうまくしたものか、よくは分からなかったが、オレが、連隊長宅の中庭で、末娘のレイラをみたとき、カスバのレイラとの酷似に、背筋に悪寒がはしったことをおもいだした。封印したはずの記憶が、不意に蘇ったせいだとおもうが、そこまでレイラを忌避していたとは、われながら驚いた。とにかく、嫌な出来事だったのだ。
 ところが、団長は、中庭ではしゃぐ末娘を目にしたとき、そっくりの自分の娘ルーナを思い起こすばかりか、メラニンの豊富な栗色の肌を連想して、そこに欲情すら感じたとでもいわんばかりの素振りで、はなしをするのだ。そして、財布から写真を一枚とりだして、こういった。

「これが、ルーナです」 

 オレは驚いた。そこには、レイラそっくりの小女ルーナが、しかも、頭に赤いターバンを巻いて、写っていたのだ。

「こ、これ、あの、赤いターバン、じゃ、ないんですか?」
「そうですよ」

 なんの戸惑いもなく、かれはいった。

「亡くなったトビさんの写真に、写ってたでしょう、赤いターバンを巻いた娼婦の娘、ね、あれを見たとき、ピンときたんですよ、ルーナに巻いてやれば喜ぶだろうな、て、おもってね、そんな気もあったので、アレをぜひ預かりたい、と、申し出たわけです」

 また驚いた。小女がルーナに似ているとはいえ、所詮は慰安所の娼婦じゃないか。その女が頭に巻いているターバンを、自分の娘に巻いてやりたい…とは、とうてい、オレなんかには、想いもつかない発想だった。

「はぁ、そうだったんですか」

 オレはいった。

「わたしは、てっきり、交流会の日に、団長から、直接、あの娼婦に、手渡してやりたいとおもったから、預からせてくれと、たのんだものとばかり…」
「当然、そうですよ」

 団長は、わが意を得たり、といった面もちで、気持ちを込めて、いった。

「あの、嘗て自分の許嫁で、今は自分と不倫を重ねる人妻ローラというオンナは、ね、いわば、娼婦なんですよ、当時の倫理観からすればね、だから、主人公が、思いの丈をこめて謳いあげる相手というのは、清い心をもった、貞淑な愛しい女、なんかではなくて、ね、愛欲に溺れ、不倫で身を持ち崩し、変わり果てた姿の不浄の娼婦、なんですよ、ああ、なんて劇的、なんでしょう、ね、だからこそ、あの慰安婦レイラが、そこにいてくれないと、実感が湧かないんですよ、歌劇として成立しないんですよ、分かってくれますか?…」

 よく分かった…と、オレは内心つぶやいた。確実にいえることは、オマエにとって、とび職を無事に帰国させる方策を探すという派遣任務の主目的など、どうでもいいことだ。要は、国際文化交流会をだしにして、その好機を、オマエ自身の独演会に仕立て上げよう、という魂胆なのだろう。
 イタリア美女に目が眩み、封印したはずのプロ志向の記憶が、いま、ここで、蘇ったということか。甘い、あまい…。
 翌月曜日、予定通り、駐屯所を訪ねた。先週、原理主義集団の騒乱未遂騒ぎで会えなかった連隊長は、その日も不在だった。代わりに、アリ・アフメドが交渉団に対応した。
 オペラ談義で連隊長の好意を受けた成功体験から、アリにも通じるとおもったのか、はなしの節々で、連隊長を引き合いに出し、話題を洋楽に向けようと試みた。が、アリは、一向に興味を示そうとはしなかった。

「実は、本官…」

 何度目かのトライのとき、アリは慇懃に対応した。

「本官、来年にはロンドンに留学しますので、西洋音楽については、そのとき、勉強するつもりでおります」
「あれ、決まったんだね?」

 オレは、親しみを込めて、訊いた。

「いつだったか、いまは国際法を勉強中で、将来はロンドンに留学して、諜報技術の専門家になりたい、なんていってたけど、ホントに、それ、実現したんだね」
「ああ、やっとね、大統領が変わってから、軍にも刷新が必要とあってね、いろいろ動きだしてるみたいだ」
「ほー、いろいろって?」
「本官みたいな下っ端には、わからんよ」

 団長が、割って入った。

「ロンドンには、ロイヤル・オペラ・ハウス、というのがありましてね、歌劇とバレー、定期的にやってますから、ぜひ、ぜひ、機会があれば」
「承知してます、二年は短いですからね、いろいろ予定をたてているところです、できればオペラも、とおもっているのですが」
「キミにオペラか」 

 オレは、ふざけ半分にいった。

「あまり、しっくりくるとは、おもえないがね」
「本官も、そうおもうよ」

 アリも、ふざけ半分にきりかえしたが、すぐ真顔になって、いった。

「しかし、諜報技術を学ぶ、ということは、あらゆる対象の情報を嚙み砕く能力を磨く、ということにつきるわけだろ、当然、東洋音楽はもちろん、西洋音楽やオペラだって、その対象に含まれるということだからね」

 そして、また、ふざけ顔にもどって、いった。

「キミのアラブ語よりはましな知識は、すぐに手にできると、おもうよ」

 二人の親し気な会話に、団長が口を挟む隙はなかった。団長は、手持無沙汰な様子で、姿勢だけは正していた。はなしを実務にもどすべきだとはおもったが、通訳するのが面倒になった。オレは、そのままアリと、今後の予定について、はなしを進めた。

「ということで、結局だね…」

 アリが、執務室の壁に掛けた白板に、黒のマーカーで日程を書きながら、いった。

「ちょうど三十日後の七月五日、独立記念日、この日に、例の国際文化交流会なるものを開こうと、はなしを進めているところなんだ」
「よし、それで決まりだな?」
「まて、まて」

 アリが、慌てるなという身振りで、いった。

「記念日の行事に加えたらどうか、ということで、はなしは進んでる、開催はほぼ確実らしいが、まだ決定までには至ってない」
「すると、いつごろ、決まるんでしょうか?」

 半信半疑の顔で訊く団長に、アリが応じた。

「その件も含め、本日も、連隊長が要人、軍幹部、文化省の役人とあってますから、ね、おそらく、来週中には決定するでしょう、それまで、待ちましょう、決まり次第、連絡します、インシャ=アッラー」

 これで決まりだな、とオレはおもった。いままでの付合いからして、アリがインシャ=アッラーというとき、大抵、事はうまく運んできた。今回のトビ職帰国交渉自体、かれ提案のアイデアなのだ。任せるにしくはない。

 拘留中のトビ職人は、かなり健康を害しているようだった。事件を起こしてから、優に一年は過ぎてしまった。だが、いまだ起訴にはいたっていない。雇い主の世話もあって、比較的衛生的な拘留生活を送っているが、歳も歳だ。急ぐに越したことはない。刑が確定していれば、独立記念日の恩赦対象になりえるかもしれないが、まだ起訴手続きすら日程に上がっていないのだ。なんとか、この国民的祝日を、うまく利用できないものか。行政手続き上、特別例外措置という手もあるのだが…。

 オレも団長も、現場に出るわけでもなし、かといって宿舎で寝ころんでいるわけにもいかず、食堂の一角を指揮って設けた応接室のソファーに陣取り、パソコンとにらみ合いながら、待ち遠しい毎日を過ごした。
 ちょうど一週間後の土曜日、昼近くに、主任室に来てくれと、現地通訳が呼びにきた。やっと連絡がきたかと期待して行ってみると、主任が受話器片手に、なにやら英語ではなしている。ついてきた通訳に、だれとはなしているのかと訊くと、憲兵とはなしていると答えた。

「そうか、アリはロンドン留学組だから、英語はなせるんだ」

 おもわず呟いたオレに、主任が、いきなり受話器を押しつけてきた。

「ほら、所長のおともだち、だよ」
「だれですか?」
「副官のアリ・アフメド隊員だよ」
「アリなら、英語話せるんだから、団長に渡してくださいよ、直接、団長に」

 オレは受話器の行く先を団長に振り向けた。

「おっと、だれ?」

 いきなり受話器を渡された団長が、驚いた顔でいった。

「相手が分からなければ、なにを話していいか…」
「アリ・アフメドですよ、このまえ、はなしてたでしょう、ロンドン留学予定の、あの、若いの」
「ああ、そう…」

 納得した団長は、受話器を受けとると、英語で受け答えをはじめた。脇で推測するに、エルゴレア当局から交流会開催の許諾決定があったようだ。ただ、自治体主導でやるのか、地主主体の民間扱いするのか、そこが肝心なのだが、どう決まったのか。
 媚びとも慇懃ともとれる顔付きの団長が、不意に真顔になって、受話器をオレに押しつけてきた。

「所長、あんたに代わってくれって、さ」

 ちょうどよかった。肝心なことが知りたい。アリも、そうしたいはずだ。オレは、単刀直入に訊いた。

「交流会の開催、決まったようだが」
「ああ、決まった、七月五日の独立記念日だ」
「主催は、どっちだ? 自治体か、それとも、民間か?」
「民間だ、つまり、連隊長の伯父が指揮する砂漠化防止旅団が主催することになった」
「砂漠化防止旅団?…初めて聞く名前だな、市民防災隊じゃないのか」
「おなじようなものだな、防災隊はもっぱら災害対策だが、砂漠化防止旅団は、文字通り、砂漠化対策に特化した団体だ」
「聞いたこと、ないな、新しいのか?」
「いや、むかしからある、停滞していたがね」
「なぜ、停滞していたんだ?」
「大統領府直轄の国策だったのが、裏目に出たんだね、軍人ばかりで、行政官に有能なのがいなかった」
「いまは、そうじゃなくなった?」
「それこそ、日本の海外協力が、カネとノウハウを提供する、ということで、民間委託が決まったのさ、いわば、キミの祖国が、活性化のきっかけをつくってくれたんだよ」
 だれとでも仲良くしたい全方位外交の節操のなさに、また始まったかと苦笑したが、わるいはなしではなかった。一つに、二国間関係の安定的展望の一助となる。二つに、民生重視のご時世に、一党独裁の利得者を排した、フェアな民間委託の試みが推進される。三に、直接オレたちに関わることだが、業務委託先の主体が、連隊長の伯父が経営する砂漠化防止旅団になる、ということだ。
 身内の有力者の要望だが、揚水ポンプと灌漑用水路の修理敷設工事など、実に理に叶ったプロジェクトといえるのではないか。機運は派遣団に向いていた。

「ところで、連隊長からの言付けだが」

 電話を切るまえに、アリがいった。

「この土曜日、午後二時に、エルゴレアの柔道場に来てくれとのことだ」
「なんのために?」
「表演会の予行演習てとこだな」
「なんか、本格的だな」
「当然だよ、見ごたえのあるものにしたい、と、けっこう乗り気だ、恥もかきたくないしね、地区、地域周辺の柔道家、空手家チームを招集するらしいよ」
「大変だ、主任も技師さんも、青くなっちゃうんじゃないか」
「シャオリンもアイキも、よろしく頼んだよ」
「全員、真っ青だな」
「それに、キミの居合も、観てみたいそうだ、だから、リハーサルのつもりで、やってみせてくれないか、交流会全体の演出のイメージづくりに、ぜひ、とのことだったよ」
「責任重大だ」

 いいながらオレは、団長のことをおもった。

「ところで、楽団の方は、どうなんだ、入るのか?」 
「鳴り物は、祭事につきものだから、必ず入る、ただ、記念日なので、どこの楽団も塞がってしまって、無理だったらしい」
「じゃあ、音楽なしで?」
「いや、窮余の一策で、旅芸人の一座を確保したそうだ、これで、最低限、楽団と踊りは楽しめるようになった」
「その一座の名前、教えてくれないか?」
「名前? 知らんな、なぜだ?」
「団長の方も、オペラ表演に乗り気でね、演出したい、事前に段取りしておきたい、ともいってるし」
「ほー、派遣団も、やる気十分じゃないか」

 アリは素直に感心したようだった。

「事前に段取りしたい、て、なにをしたいんだ?」

 オレは戸惑った。質問に答えるには、軍の慰安所がらみで起きた殺人事件に、いやでも触れなければならない。話題にだすことすら憚れる、微妙な問題なのに、慰安婦の一人を演出に使いたいと団長が望んでいる、などと、アリに伝えていいものかどうか。

「いや、団長がいうには」

 オレは、単刀直入にきりだした。

「軍の慰安所の女性の一人を、楽団に加えてほしい、ということなんだが」
「なんだって?」

 アリは、一オクターブ上の声で、訊きかえしてきた。

「軍の、なんだって?」
「軍の慰安所だよ、行ったことはないが、街中の一角にある軍の施設だよ」
「いったい、だれが、そんなこと、いったんだ?」
「だれがって、これ、周知の事実、じゃないのか」
「キミ自身、軍が慰安所を経営してる、とおもっていあるのか?」
「え、いや、確認はしていないが、そうじゃないのか?」
「じゃあ、訊くが、日本に、自衛隊が経営する慰安所があるのか?」
「フッ、とんでもない」
「アメリカ合衆国には?」
「ないんじゃないか」
「ドイツ、フランス、イタリア、欧州諸国には?」
「ないんじゃないか、アムステルダムの飾り窓は、またべつのはなしだが」
「キミは、アルジェリアに来て何年になる?」
「かれこれ、五年かな、それが?」
「五年もいて、先進国にはない軍の慰安所が、ここアルジェリアにはあると、おもっていたのか?」
「いや、オレは、単純に、ひとのはなしを聞いて、あるとばかり、おもいこんでいただけなんだが…」
「キミにして、戦勝国の独善に洗脳されている、て、わけだ」

 アリ・アフメドは、ため息を一つついて、つづけた。

「キミの国は、戦に負けたが、強靭になった」
「経済のことか?」
「国の根幹、バックボーンのことだ」
「国の根幹?」
「心の拠り所、良心の支え、のことだよ」
「よく分からんな」
「植民地時代、わが国にあったのは、宗主国の根幹だった、百三十年間は持ったが、最後には崩れ去った、なぜか、アルジェリア人の心の拠り所ではなかったからだ、良心の支えにはなれなかったからだ、他人の背骨を借りて、だれが生きのびれるというんだ、だから、いま、イスラムを、アッラーの教えを、心の拠り所、良心の支えにして、国造りしようと、努力しているんだ」
「日本のどこに、心の拠り所、良心の支えが、あるんだ?」
「キミたちには、天皇がいるじゃないか、神話の時代から生きつづける、一本の巨大な根幹が、あるじゃないか、すべての枝葉は、そこから育ってるんじゃないのか、自信を持てよ、なんでアメリカにヘコヘコするんだ、政治も、経済も、文化も、なにもかもが、その太い背骨から出てるんだ、うらやましい限りだよ」

 はなしが、完全に逸れてしまった。良心の支えが日本の強みなどと褒められると、娼婦のことなど、はなすのも憚れる。オレは、しばし、戸惑った。それを悟ったのか、受話器の向こうで、アリがこういった。

「その証拠に、キミの国のパスポートが一番の人気でね、みな欲しいんだよ、日本の旅券がね、ハハハ」

 そして、こういってから、電話をきった。

「では、土曜の午後二時、エルゴレアの柔道場で会おう、公民館の地下一階だ、一座の代表も呼んでおくから、そのときいろいろ話せばいいだろう」

 夕食時、その旨、皆に伝えると、柔道五段の主任が、いった。

「しかし、この現場にきてから、さ、おれ、自分が柔道家であることすら、忘れていたよ、それに、エルゴレアに柔道場が、あるんだって?」
「ええ」

 オレは、アリのいったままを、伝えた。

「この土曜日の午後五時に、そこに来てくれ、と」
「なにしに?」
「表演会の予行演習、といってましたね」
「おい、おい、そんなこと、ホントに、やる気なのかね?」
「はい、なにせ、大地主が乗り気になったらしくて、トントントンと、事がはこんでしまったそうです」
「フーン、そうか、そうなら、しょうがねーなぁ、有力者肝煎りの国際交流会、てことか…」

 ぼやきながら主任は、内心、覚悟を決めたようだった。

「どうしますかねぇ?」

 今度は、合気道の営業担当が、シャオリンの技師に声をかけた。

「合気と少林寺拳法を一緒くたにする、てこと自体、どうかと、おもいますがねぇ」
「どなたか、空手かテコンドー、やってらっしゃる方、いらっしゃらないんですか?」

 団長が、主任に尋ねた。

「いや、残念ながら」

 主任が答えた。

「調べたんですが、ねえ、ウチの社員にも、業者さんのなかにも、だれも経験者、いないんですよ」

 そして、団長を見据えながら、こう付け加えた。

「ま、何事も交渉材料ですから、ね、派遣団として、アタマつかって、工夫して、なんとか観られるようなものに仕上げてくださいよ、お願いします」

 現状を他人事のようにしか捉えていない団長への不満が、まる見えの応対だった。
 土曜の午後二時、いわれた通り、派遣団を連れて、エルゴレアの柔道場に行った。公民館の地下一階に、マットを敷きつめた二十畳ばかりの道場があり、アリ・アフメドと一座の代表、それに十数名の屈強な現地の武道家が、すでに集まっていた。
 アリが、今回の国際文化交流会の趣旨を説明し、演出を担当する総監督を紹介した。それが、なんと、旅芸人一座の座長だった。人選の説明もしないまま、アリは、公務があるといって、帰ってしまった。

 予行演習は、惨憺たる結果におわった。

 技術的な問題は、ほぼ皆無だった。それもそのはず、武術表演に現地人の出る幕はない。表演の内容、規模、順番に、演出側の要求は一切、なかった。
 主任は、抜擢された十人の若い柔道家を相手に、一連の立ち技、寝技を表演し、最後に、総員乱取りで、締めくくった。技師と営業担当は、武の本質を受け技に絞り、合気、シャオリンの受け身の技術を紹介したのち、互いの技をかけあう表演を行った。
 オレはといえば、実は、一番の人気者だった。なぜかといえば、胴着と袴と模擬刀のおかげだった。サムライ映画でしか見たことのないいで立ちの侍が、突然、道場に出現したのだ。みなには、大の喜びだったに違いない。
とにかくオレは、まず、日本刀の説明から始めた。柄、柄巻、鞘、鯉口から始まって、鍔、下緒、目貫、刀身を抜いて切先、物打、刃、鎬、峰、、そして切羽まで、名称の由来にも触れながら、解説した。みな、目を丸くし、耳を傾け、聞いた。
 次に、礼についてはなした。武は、礼にはじまり、礼におわる、武は、礼がなければ、無謀な暴力にすぎない、人には知性がある、戦う相手を敬い、自分を謙遜し、克己心を鍛え、礼によって、暴力の末路をよく知り、知らしめ、闘いを避ける知恵を得ることを善とせよ、と訴えた。そして、百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり、と、孫氏の言葉で括った。
 そして、座位から立ち技に入り座位にもどる一連の型を十本、表演した。抜きつけ、斬り下ろし、血ぶるい、納刀…空を斬る刃音が聞こえるたびに、森閑とした道場の方々から、ため息がもれ聞こえた。
 演武のおわりに、締めくくりとして、オレは、みなに伝えた。

「居合は鞘の中、といいます、刀を抜かずに相手を制する、これが居合術の神髄です、相手が闘う気力を失うほど、自分を鍛え上げて強くなる、それが居合道です」

 よくも、まあ、えらそうに…と、われながら、少々、鼻白んだが、できる、できないは別、理想を伝えるに恥じることはない、と、自ら言い聞かせた。
 拍手喝采のなか、いち早く、座長が駆け寄って来た。おおよそ芸とは縁遠い、腹の出た、縮れた頭髪の中年男だった。訛りのきついフランス語で、演武全体を支える礼節と高い技術を、しきりに賞賛した。過剰な世辞に、悪い気はしなかったが、急に、団長のことが気になりだした。肝心の、かれが演奏するフィナーレは、どのタイミングになるのか?…目のまえの、縮れ毛に、確かめてみなければならない。いったい、この男に、オペラに興じるほどの才覚が備わっているのか、もしそうだとしても、どの程度の見識の持ち主なのか、いや、そもそも、芸事のいろはにも気を配る術をもたない、無粋な輩ではないのか…。

「そりゃ、わたしだって、オペラのなんぞや、くらいは、知ってますよ、所長」

 縮れ毛は、意外な俊敏さで、反論した。

「ただ、ね、この土曜日開催の交流会の出し物に、オペラを混ぜるなんて、わたし、だれからも聞いたことありませんし、そんな気、これっぽっちも、ありませんのでね、要は、芸の種類ではなく、芸の相性ですよ、オペラとダンス・オリエンタル? へ、合うわけ、ないじゃなですか」

 オレも、反論した。

「それは、ないでしょう、だって、あのウードとかいう弦楽器、ね、あれ、もとはといえばリュートでしょう、イタリアオペラの歌謡の源泉に、脈々と音の流れを注ぎ続けた楽器じゃないですか、オペラと合わないわけがない」
「それは、そうですけど、所長、では、あのリズム、ね、太鼓と笛とレク、つまりタンバリンの掛け合い、あれ、オペラには、ないですよ、ムリムリ、合わない、合わない」

 はなから、はなしが合わない。強情なヤツだ。

「じゃあ、うかがいますけど、今回の交流会の委託元は、どこなんですか?」
「祭事の段取りやれてって、いってきたトコのことかね?」
「そうです」
「あれは、たしか、なんとか旅団とか、いってたな」
「砂漠化防止旅団ですか?」
「そ、そうだ、昔はグリーンベルト旅団、とも、いっていたがね」
「演出項目として、なにを受託したんです?」
「まず演武だね、さっき、見事な演武を見せてもらったから、わたしの出る幕は、ないね、そっくり、あのまま、表演してくれれば、大成功」
「次の舞踏は?」
「これはね、ダンス・オリエンタルでね、旅団の団長さんの娘さん三人が踊るそうですな、一座は、その伴奏と効果音を演出する、ということです」
「で、それから?」
「もうひとつ、ありましてね、それが、多様な演奏その他、とあるんですが、正直、こいつが、よく分からない」
「それですよ、それがオペラの演奏ですよ」
「これが、オペラ?!」
「そうです」
「いったい、だれが歌うんですか、そんな芸人、うちには、いませんがね」
「こちらにプロの歌手がいるんですよ、かれが演奏します」
「へ、プロのオペラ歌手が?」
「ですから、座長には、ですね、その演出をたのみたいのですが」
「そんなこと、わたしには、ムリムリ、だいいち、オペラは知ってんですが、歌は聞いたこともありませんでね」
「歌の演出じゃなくて、ね、舞台の演出、なんですよ」
「舞台の演出、って、なにを、どうすれば、いいのかな?」
「歌う詩がね、むかし心を奪われた女性への激越な愛情の吐露、というのかな、つまり、愛の告白を、たからかに、歌い上げるんです」
「ホー」
「その、相手の女性を、ですね、調達してもらいたい、ということなんです」
「へへ、ダメダメ、ウチは、そっちの方は、やってませんのでね、ムリムリ」
「いや、誤解のないようにねがいたいのですが、調達、ていっても、舞台上に調達する、という意味なんですがね」
「舞台の上に? いったい、だれを?」
「実は、団長の友人で、社の従業員でもあるのですが、現場で働いてる技師なんですけど、それが、街なかにある、例の、あの施設にいきましてね」
「あの施設、って?」
「はっきりいうのも、はばかれるんですが、軍の慰安施設にいきましてね」
「軍の慰安施設?」
「はい」
「どこに、あるんですか?」
「え? わたし、行ったこと、ありませんので、よく知らないんですが、座長はご存じでしょう」
「いや、わたしも、行ったことも、聞いたことも、ありませんなぁ」
「ほんとに?」
「はいな、でも、その行った人ね、技師さんですか、その人に直接、聞けばいいじゃないですか」
「それが、最近、事故で、亡くなってしまったんです」
「や、それは、ご不幸なことで、お悔やみ申し上げます」
「ありがとうございます」
「でも、街中って、このエルゴレアの街のことですか?」
「そのはずですが」
「それは、なんかの間違いですな、なぜって、街中にある軍の施設といえば、合同庁舎に憲兵隊の地区本部が置かれているくらいのもので、だいたい、軍は都市部以外の国土防衛が任務ですからね、街中にはありませんよ」
「そうですか…」
「想像するに、外国のひとがよく利用される施設としては、おそらく、軍の施設じゃなくて、遊興施設の類でしょうな」
「遊興施設、といいますと?」
「要は、地域住民向けの娯楽施設ですよ、映画館とか、カジノとか、ディスコとか、芝居小屋とか」
「結構、あるんですねぇ」
「はいな、大統領が代わってからね、ちょっぴり、弛んだんですな、締めつけが」
「なるほど、でも、その種の施設って、ほとんど、街の中心部にあるんでしょう?」
「いや、そうとは限りませんな、たとえば、ウチの一座も、その種の施設といえば、そうですが、街の中じゃなくて、ジャスミン香る街の外れですよ、あるのは」
「へー、あなたの一座にも、芝居小屋、あるんですか?」
「ええ、一応はね、小さいトコですけど」
「常設の、ていうか、テント小屋では、ないんですね」
「テントではありませんな、ちゃんとした入口もあれば、舞台もあり、楽屋もあります」
「主な出し物、というか、演目と…」
「歌と踊り、ですな」
「アラブ音楽とか、ライとか、ベリーダンスとか?」
「そのとおり、ですな、みなさん、大変、楽しんでらっしゃいます」
「みなさん、て、お客さんは、近隣の住民のひとたち、なんですか?」
「そうとは、限りませんな、住民もいれば行楽客もいれば、外国の方も、おおぜい、いらっしゃいますな、そうそう、日本の方も、いらっしゃいますよ」
「え、それ、旅行者、ですかね?」
「観光旅行もあるでしょうし、仕事で来てるひとも、いるでしょうね、常連といいますか、ね」
「常連!?」
「はいな、なかには、踊り子さんと仲良くなられる方も」
「ええっ!」

 傍で大声をあげたのは団長だった。

「じゃあ、この日本人、見たこと、ありませんか?」

 団長が座長の鼻先に差し出したのは、亡くなったトビと、その友人と、赤いターバンを巻いた娼婦が、楽し気に写った一枚の写真だった。

「オー」

 見るなり座長がいった。

「このお二人、ウチの常連さんですよ」
「やっぱり、そうですか、すると、このヒトは…」

 団長は、焦っていた。娼婦を指し示す指が、震えていた。

「はいな、この娘は、踊り子の一人でね、レイラという娘ですな」
「!?…」

 オレと団長、それに主任も営業も技師も、みな、唖然として、顔を見合わせた。レイラが一座の踊り子?…いや、トビ職人の殺害は、軍直轄の慰安所の娼婦を取り合った末の事件、と聞いていたが、座長によれば、レイラは娼婦ではなく、歴とした踊り子だという。もしそれが本当なら、なぜあんな、痴情がらみの根も葉もない作り話に、なってしまったのか? どこか、おかしい。
 オレは座長に訊いた。

「この二人の日本人と、レイラさんのことで、なにか耳にしたこと、ありませんか?」
「なにを、知りたいんだね?」

 縮れ毛は、きょとんとした目で、訊きかえした。

「あの写真を撮るまでの、経緯、というか、成り行き、というか…」
「成り行き?…」

 歯切れの悪いオレに、縮れ毛は苛立った。

「あんたがた、いったい、何を考えてんだい、オペラをやりたいだの、軍の慰安所がどうしたの、ええっ、レイラがなんだって、二人がどうしたって!いいかい、ウチに来る娘たちはね、みんな、スジのいい娘たちなんだ、たしかに、みな、事情があって、家族と別れて、方々で苦労して、世間の荒波に揉まれるうち、ウチに辿りついて、やっと自立して、自分の居場所を見つけた娘たちなんだ、それを、あんたたち、単なる商売女で、男の性欲の捌け口みたいにしか、考えてないんじゃ、ないのかね、ええっ、もし、そうなら、とんでもない、誤解もいいとこだ!」
「いや、いや、そうじゃ、ないんです!」

 いきり立つ縮れ毛に、団長が応じた。

「だれも、そんな風に、おもってはいません、現に、この二人の日本人と、レイラさんと、とても楽しそうに、写ってるじゃないですか、まるで、仲のいい友達同士みたいですよ、ただ、残念なのは、このうちの一人、この人ですが、亡くなってしまいましてね」

 話し手の気が昂ってきた場合、通訳という存在が、功を奏することもある。話し手と聞き手に時間差が生じるのだ。その間に、話があらぬ方向に進まぬよう、修正をかけなければならない。オレは、団長の説明に、一言、修正を加えた。

「このまえの、洪水の日に、事故で亡くなってしまったんです」
「そりゃ、気の毒だ、幸い、ウチらは、祭事の巡業で、ガルダイアにいたもんで、命拾いしましてな、そりゃ、気の毒に、気の毒に…」

 縮れ毛は、何度も同情の意を口にしたが、いい終わって、急に怪訝な顔付きになった。

「で、事故、て、なんの事故だね?」

 文脈を知らない団長は、きょとんとしたが、かまわずオレは答えた。

「感電死です、わたしたち、送電線の敷設工事をしてるもんですから…」
「ほぅ、感電死、ねぇ…」

 よく理解できないらしい。オレは、深く考える時間を与えないよう、先をつづけた。

「あってはならないこと、なんですが、これが不可抗力というヤツでして、どうしようもなかったんです、なので、立派に任務を果たした殉職者として、本国に送り返そうと、丁寧に遺品の整理をしていたんですが、そのとき、見つけたんですよね、これを」  

 いいながらオレは、団長から取り上げた写真を、縮れ毛に見せた。

「これが、どこに置いてあったか、分かりますか?」
「いや、分かりませんな、で、どこに?」

 オレは、団長から直接、赤いターバンを縮れ毛に見せるよう、促した。

「ほら、このターバンの中に、その写真が、こう、そっと、挟んであって、ロッカーの遺品のなかに、仕舞ってあったんです」
「…」
「わたしたち、これを、どうしようかと、相談したのですが、たしかに、これ、亡くなった技師さんの、大切な思い出の品です、が、遺体と一緒に、この種の遺品が見つかったら、家族の方、どうおもうだろう、とおもうと、つい、二の足を踏んでしまいましてね」
「それで?」
「それで、大切な思い出の品ですから、現地で楽しい思いをした大切な人に返すのが、故人にとって、一番いいのではないか、とおもいまして」
「返す?」
「はい」
「どうしてかね、なぜ、家族が、引き取らない、故人の遺品じゃないか」
「おっしゃるとおり、ですが、この写真にしても、赤いターバンにしても、家族の人たちの知らない、まったくの別の世界のものなので、形見、つまり、思い出の品、にはならないじゃないか、という意見もありましてね、それなら、いっそ、思い出を共有している当のレイラさんに、引き取ってもらうのが一番、とおもいまして…」

 縮れ毛が、きっとなって、いった。

「やっぱり、あんたたち、ウチらを下に見てるね、いや、はっきりいって、蔑んでるね、なんやかやと、もっともらしい屁理屈こねやがって、そんな、おためごかしに、だれが乗るもんかい、おれ、演出なんか、やらないよ、とんでもない、だれがやるもんか!」

 残念なことに、これがその日の、縮れ毛が発した、最後通牒となった。あとでなだめても、すかしても、なにを頼んでも、拒否、拒絶の一点張りだった。結局、交流会の段取りは半分どまり、演武意外なにも決まらなかった。

「どうしますかねぇ」

 夕食時、ハシを置いた団長が、思い余って訴えた。

「どうなるのかなぁ、あと二週間ですよねぇ、あの座長の怒りよう、尋常じゃないですよ、この分だと、わたしの出番、なくなっちゃいますよねぇ」
「そんなこと、させませんよ!」

 毅然として、オレはいった。

「この国際文化交流会は、連隊長の発案でしょう、それを伯父宅の農園でやろう、て分けじゃないですか、発起人が連隊長、それを受けて、連隊長の伯父率いる砂漠化防止旅団が開催を決めた、いわば、新時代を見据えた、一族主催の独立記念祝賀会みたいなもんですよ、それこそ、あの座長の出る幕ではない」

 主任が割って入った。

「しかし、あいつ、えらい、自信たっぷりな、はなしぶりだったよな、おれ、ぜったい、やらないよ、って、何回もホザいてましたよ」
「あれはね、空威張り、というやつですよ」

 合気の営業担当が、皮肉っぽく、応じた。

「業務委託業者とか、なんとか、いってましたけど、座長ったって、単なる、下請けでしょう、いわれたことをやるだけ、拒否する権利なんて、あるわけ、ないじゃないですか」
「しかし、多様な演奏その他、とかいう表現は、ちょっと、曖昧ですよね」

 少林寺の技師が、あとをつづけた。

「考えすぎかもしれませんが、わたし、おもうんです、あれ、アリさんが、連隊長提案のオペラを、書き替えたんじゃないかと」
「でも、どうして?」

 主任が訊ねた。

「連隊長は、モスクワ留学で、オペラを聴きなれてますよね、ごく、自然に、芸術として、他国の文化を、受けいれる土壌が、できているとおもうんですが、アリさんとなると、そうはいかないでしょう」
「なるほど」

 団長が頷いた。

「イスラムを国教とする国軍の憲兵、となると、いくら民主人民共和国といっても、相当な距離、というより、かなりの抵抗感をもって、オペラをみてるんじゃないかな、被植民地だっただけにね」
「それは、いえるかも」

 団長の場合はどうだったのだろう、と考えながら、オレはいった。

「わたしの経験からすると、ですね、子供のころから文楽に接する機会がおおくて、浄瑠璃に合わせて、人形遣いが人形を操るわけですけど、それが変だとおもったこと、一度も、ありませんでした、でも、ね、あれ、外国人にみせたところ、なんだ、あれは予行演習だろ、本番はいつやるんだ、て、反応が返ってきて、びっくりしたことが、あったんですよ、かれらには、人形遣いの存在が、なんとも奇妙で、わずらわしくて仕方なかったんじゃ、ないでしょうかね、文化の違いって、そういうものじゃ、ないですかね」

そして、団長にこう訊ねた。

「団長は、オペラに違和感、感じませんでした?」
「いや」

 かれは、即座に、こたえた。

「なかったですね、子供のときに、マドリガーレに惹かれて入った洋楽ですから、歌唱が内面生活の発露、みたいな感覚を、すんなり、受け入れたんでしょうね」
「わたしと、正反対だな」

 オレは皮肉っぽく、いった。

「中学何年だったか、忘れましたけど、校外学習でオペラの見学にいったんですけど、舞台で芝居していた女の人が、いきなり歌いだしたんですよね、こう、相手に向かって、両手上げて、高らかに、わたし、おもわず、わらっちゃいましてね、あとで、先生に、叱られました」

 みな、声を上げて笑ったが、団長は静かにほほ笑んだだけだった。
 翌、日曜日の夕方、派遣団が占拠する応接コーナーに、主任から呼び出しの連絡が入った。アリから電話がきたが、内容を聞こうとすると、はなしがややこしいのでオレに代われといわれた、主任室まで来てくれ、とのことだった。
 受話器をとると、案の定、昨日の縮れ毛とのはなしの続きだった。オレは、単刀直入に、なぜオペラを表演項目に入れなかったのか、問い質した。
                                                                                                                                                         
「オペラを入れなかった、だって?」

 カチンと来たらしい。

「そんなはずはないぞ、座長を目の前に、演出依頼項目をメモさせたんだ、それに、歌うのは派遣団の団長だから、ちゃんとするように、念まで押したんだ」

 いかにもアリらしい、きちんとしたやり方だ。多分、その通りだろう。しかし、あの縮れ毛が、なぜウソをつく? 理由が、分からない。

「しかし、依頼書のメモ書きには、オペラのオの字も、書いてなかったぞ」
「それは、おかしい、たしかに、座長は、オペラを知らなかった、それは事実だ、だから、歌劇とは何ぞや、を、一応、説明して、かれも、理解したはずだ」
「歌劇とは何ぞや?…で、どんな説明したんだ?」
「まず、オペラ、つまり歌劇とは、多様な演奏の一つで…」
「それだよ!」

 なるほど、縮れ毛は、そこを抜きとったのだ。しかし、なぜ、白を切ろうとしたのだろうか? 
 オレは、アリの説明を遮って、縮れ毛の素性について質問しようとしが、かれは即座に断った。

「本官の役務に身元調査はない」

 そして、こう付け加え、電話を切った。

「座長には、重々、言い含めておいたよ、かれも、オペラはフィナーレで必ずやる、といってたよ、それでは、幸運を祈る、インシャ・アッラ」

  便利な言葉だ、神の意のままに、か…。

 翌、月曜日の夕刻、アリからまた電話が入った。かれからは一応、フィナーレでオペラをやるという確返はもらっていたが、団長にしてみれば、どこか、宙に浮いた感は否めなかった。とにかく、演出家と具体的に段取りしなければ、と、みなで話していた矢先のことだった。

「いいニュースだ」 

 いつも通り、元気のいい声だった。

「座長にオペラのことで、再確認したよ、フィナーレに必ずいれるよう、念を押したんだが、向こうも一つ、条件だしてきてね、それをやるなら、演出家として文句なし、ていうんだ」
「条件?…て、どんな条件?」

 一拍おいて、アリが答えた。

「歌のあと、そのレイラとかいう踊り子と、一緒に踊れ、というんだ」
「レイラと踊る? だれが?」
「団長だよ、交渉団の長、だよ、いいアイデアだろ!」

 オレは咄嗟に、団長がレイラと踊る情景を、思い描けなかった。

「踊る、って、なにを踊るんだ?」
「ダンス・オリエンタルに決まってるじゃないか」
「そんな踊り、団長が、知る分け、ないだろ!」
「いや、いや、あんな簡単なものはない、簡単、簡単、両手上げて、足踏みして、レイラの周りを回ってりゃ、いいのさ、君たち武道家も、一緒に踊ればどうだい、最高じゃないか、国際文化交流会のフィナーレとしては、これに勝る演出はない、実に素晴らしいじゃないか、それじゃあ、頑張ってくれ、インシャ・アッラ」

 完全に嵌められた、とおもった。連中は、一族の自己宣伝のために、間の抜けたオレたちだけでなく、肝心の亡き故人とその同胞まで、まんまと利用してみせたのだ。

 あのときも、そうだった。レイラが妊娠したといったとき、信じて、まともに受け止めた。カスバで堕すといったときも、微塵の疑いもなく真に受けて、カネまで用意して対組処した。いや、そもそもが、治療中のレイラの居ぬ間に住み着いて、カスバの家の立退料を詐取したのも、あの屠殺屋のいうことを、オレがまともに信じたからだった。それらはみな、レイラやホッシンや、大家や医者や弁護士や、オレを取り囲む利害の当事者の全員が、どこかで絡み合い、示し合わせて組み上げた、あからさまな、たかりの構造そのものだったのだ。

 その二の舞を、たったいま、オレは舞おうとしている。しかも、自分を嵌めた当事者と、現実に、交流会の舞台で、和気あいあいと踊れとまで、いわれているのだ。なんと、これみよがしの、遣り口か。あの敬虔なアリ・アフメドにして、他人を見ればカモとおもえ、とは…よし、カモるのも、いいだろう、ただし、そのコストは、必ず支払ってもらうからな…と、オレは、固く心に誓って、受話器を置いた。

 しかし、二の舞ができるオレはいいとして、一度も嵌められたことのない団長が、イタリア歌劇の伝統と芸術萌える歌唱の直後に、アラブ音楽に合わせて娼婦と踊る、という、前代未聞の一の舞を、はたして舞う気に、なれるだろうか。オレは、応接室に戻ると、すぐ団長にアリの要請を伝えた。立ち上がって帰りの身支度をしていたかれは、それを聞くなり、どかりとソファーに座り込み、しばらく黙りこくっていたが、頭を掻きかき、こう呟いた。
 
「…いや、それは、ちょっと、まずいんじゃ、ないかなぁ…」

 ソファーの一角から、期待と失望の狭間に足をとられた焦燥感が、ひたひたと伝わってきた。 
 まずい…なにが、まずい? オペラとアラブ音楽が合わないと?…いや、アラブの弦楽器ウードの源流がリュートなら、イタリアとアラブの音楽が合わないわけがない、と座長を説得したオレの言葉を、否定するつもりなのか。そんな理屈は通らない。
 とすれば、洋楽実践者としてのプライドか。それもないだろう。なぜなら、かれのなかで、ジャンルの区別こそあれ、優劣の差別はないはずだ。だんじり祭りの囃子座で、太鼓叩きに興じていたかれが、ある日、家から出てみると、眼前に、洋楽の世界が広がっていたのだ。かれは、なんの抵抗もなく、いつも学校に行くときのように、期待に胸ふくらませて、駆けていった。だから、帰るときも、おなじように、胸ふくらませて、楽しいお囃子の世界に、駆け戻ることができるはずなのだ。

「ちょっと、お聞きしたいことが」

 その日の夕食後、主任も団員も従業員も、三々五々、いなくなった食堂で、席を立とうとした団長を、オレは引き留めた。

「あの座長のアイデア、ですけど、どうおもいます? さっき、なんか、まずいなぁ、とか、おっしゃってましたけど」
「え、そんなこと、いってましたっけ」

 ばつの悪そうに、かれは応えた。

「いった、というか、呟いた、というか、たしかに、まずいなぁ、て、結構、はっきり、聞こえてきましたけど」
「ウーン…」
「やっぱり、いやでしょうね、そりゃそうですよ、ね、熱唱のあとで、あの、わけの分からないオドリ、踊らされたんじゃ、たまんないすもんねぇ」
「いや、そうじゃ、ないんだな」

 語調が、変わっていた。

「所長には、このまえ、はなしたけど、さ、おれ、もともと、大阪の出身でね、城東区のだんじり引いて、育った、ワルガキ、だったんだよ、ね、だから、というのも変だけど、さ」

 一歩、乗り出してきた。

「もし、八尾の公民館で、夏の音楽祭なんかがあって、さ、おれ、招待されて、トスカでも、ドン・ジョバンニでも、なんでもいいけど、さ、なんか歌った後に、だよ、盆踊り、ぜひ、いっしょに、おどりましょうよ、なんて、いわれたら、さ、おれ、やっぱり、踊っちゃうよね、河内音頭に合わせて、なんの抵抗もなく、こうやって、そりゃ、よいと、よいや、まっか どっこいさのせェー…」

 がらんとした食堂で、かれは、ひとり、踊り始めた。
 頭の中が、どうにかなったんじゃないか、とおもいながら、しばらく、踊る団長を見ていたが、いきなり小走りで、駆け寄ってくると、オレの手をとって無理やり立たせ、こういった。

「阿波でも、いうやろ、踊る阿呆に見る阿呆、おなじ阿呆なら踊らにゃ損々、や、さ、さ、踊ろ、踊ろ、所長も、踊ろ、ホラホラ、こうやって、手を、開いて、握って、手拭い閉めて、右に、左に…」

 それから、ハイネケンを四本吞む間、団長の大阪弁と、小節のきいた本場の河内音頭に合わせ、興に乗って二人、踊った。

「ど、どうしたんですか?」

 しばらくして、気がつくと、食堂の入り口で、主任が口を開けて、立っていた。

「大人は、もう寝る時間だよ、と、おもうんですがねぇ」

 皮肉を漏らす主任に、すたすた駆け寄った団長が、いった。

「主任も、ささ、クロオビ五段も、どうすか、踊りましょ、一緒に、踊りましょ!」

 欧州事務所長の誘いを、無碍に断るわけにもいかず、主任は、団長の後について、食堂を何周か回っていたが、そのうち、いなくなった。オレも、だんだん、興が覚めてきた。アフリカ大陸の一角の、広大な砂漠の一点に、一時しのぎで設置した、仮設コンテナの一室、そのなかで、大のオトコが二人、なにをおもうか、ひたむきに河内音頭を踊る…そのさまが、なんとも惨めで、切なく、ばからしくおもえてきた。

「団長、そろそろ…」

 相手も、そう感じたに違いない。

「ん、そうだな…」

 いうと、かれは、歌も踊りもパタリとやめた。そして、清掃後に食堂の片隅に積み上げてあったプラスチックの椅子を取りはずし、乱暴に床に置くと、どかりと音を立てて腰を下ろし、背に深々ともたれかかった。オレも、おなじように椅子を一つ取りはずすと、団長の真向かいに置いて、座った。

「さすが、団長ですね」

 額の汗を拳で拭う団長に、オレはいった。

「まるで、大海原を自由に行き来するサーファー、みたいじゃないですか、今の波から、子供時代の波まで、あっというまにサーフ、しちゃうんですからね」
「そうなんだな」

 濡れた拳を、作業着の胸元で拭きながら、かれは、大きなため息を一つ、ついた。

「それが、ね、それが、まずいんだよね」

 え…まずい?

「ど、どうしてですか?」

 乗り出して訊くオレに、かれはいった。

「あの縮れ毛、ね、座長、アイツがいうように、おれ、レイラと踊りたいんだ、無性に、踊りたいんだよね」
「へー、そうなんですか、それなら、なにも、まずくないじゃ、ないですか」
「ん、そのとおりなんだ、だがね…」

 いいながら、かれは、背もたれから乗り出してきた。

「あのレイラ、見てるとね、踊りたい、というか、一緒になんかやりたい、て気が、昂ってきて、さ、踊ってる最中に、変なこと、やっちゃうんじゃないかって、心配なんだよ」
「まさか、団長が、そんなこと…」
「と、おもうだろ…」

 そこで、かれは、また椅子の背に深々と、もたれかかった。

「おれにも、理性はあるさ」

 かれは、いう。

「おれにも、悟性もあれば、常識だって、人一倍あるさ、でもね、ひとには、どうにもならないものって、あると、おもうんだ」
「どうにも、ならないもの?」
「そうだよ」

 そこでまた、団長は乗り出してきた。

「愛情だよ、所長、愛情だよ、所長は結婚は?」
「結婚? 藪から棒に、なんですか、まだ、してませんが」
「なら、子供は?」
「いませんよ、おくさん、いないんだから、いる分け、ないじゃないですか」
「当然だな、だから、きみには、分かるまい」

 そこで、また、もたれかかった。

「なにが、ですか?」

 オレは少々、不愉快になった。

「まさか、子供がいなきゃ愛がない、とでも?」
「いや、そうじゃない、ただ…」
「ただ?」
「母と娘、父と息子、それはいいんだ、しかし、母と息子、父と娘、はどうなるんだ、親子といったって、異性だろ、そんな異性間の愛情、きみは、どうおもうね?」

 オレはぴんときた。

「それ、ひょっとして、団長、ルーナさんのこと、ですか?」
「そう…実は、おれ、娘のルーナに、夢中なんだよ…」

 一瞬、カスバのレイラが、脳裏をかすめた。レイラは、オレの実の娘ではない。が、養父として受けいれようと決心した。決めた以上、オレは小女の父親になったのだ。それが、事もあろうに、愛欲に溺れて夢中になり、幼い体を弄んだ。その結果、詐欺まがいの騙し討ちにあい、挫折した。世間の制裁とは、そうしたものだ。自業自得、文句のもの字もいえないだろう。しかし、だれからも、不義の謗りを受けたことはない。むしろ、ホッシンとレイラの兄妹の関係を、犬畜生にも劣る、といって詰ったのは、オレの方だった。
 オレにも、まずい、とおもった瞬間はあった。レイラを養女にしようと思い立ち、弁護士に相談したときのことだった。
 レイラを養女にするには、オレがイスラム教徒になる必要があった。それにはまず、割礼に代表されるイスラム固有の儀式を経なければならない。オレは無神論者だから改宗の必要もない。陰茎の包皮を環状に切りとることも、簡単な小外科手術、大した問題ではない。

 問題は、レイラの成長にあった。

 レイラは、オレの示した好意に応えようと、ますますこまめに働くようになった。心なしか、顔つきも変わってきていた。
 鼻の線が鋭くなり、頬や顎、切れ長の目にいくぶん丸みが出て、少し女らしくなった。ただ、黒水晶のような瞳が、栗色の長いまつげを通して、じっとこちらを窺っているように、なぜかオレには見えた。
 オレは毎朝、その射抜くような視線をくぐって、熱くほてった両のホオに、保護者としてのキスを送った。だが、思い返してみれば、その毎朝の儀式が、すでに、もどかしく感じられるようになっていたのだ。
 要は、レイラをオンナとして、扱えばよかったのだ。だが、なぜか、まずい、と直感した。だからオレは、自分の行為が、あくまでも保護者としての、養父としての愛情の発露だと、心の中でいい続けていたのだった。

「団長って」

 オレは、しげしげとかれを眺めながら、いった。

「ホント、正直なヒトなんですねぇ、そんなこと、赤の他人のわたしなんかに、おっしゃるなんて」
「いや、所長だからこそ、いったんですよ」

 瞳がキラリと光った。

「覚えてますか、クースクースをよばれに行った日、連隊長の宿舎の中庭で、末っ子のレイラさんを見たでしょう」
「ええ、よく、覚えてますよ」
「あのとき、わたしは、娘のルーナのことを想い起して、ドキリ、としてたんですけよ」
「そういえば、可愛い子ですね、とかと、おっしゃってましたね」
「でも、そのまえに、所長のレイラさんを見る目付き、それを、目撃してしまいましてね」
「目撃?」
「いや、直感ですよ、あのとき、あ、これ、おれがルーナを見る目とおなじだ、て、直感したんですよ」
「!?…」

 自分のことを、一から十まで、見透かされている気がした。それは、あってはならないことだった。オレにとって、団長は、今と過去の自分に、分裂しなければならない人格だった。歌劇の舞台で歌う今と、だんじり祭りの囃子座で興じる過去が、同じ時間に存在できる分けがない。だから、幼少時の生々しさが、そのまま生き続けようとすれば、二つの人格がないかぎり、ムリだとおもったのだ。

 しかしそれは、時間に、時計が刻む横軸しかない場合のはなしだ。時間には、もうひとつ、縦軸の時間がある。それは、速度も変わったり、繰りかえしたり、逆流したり、ときには止まったり、今と過去の自分の間を、自在に行き来できる、いわば、ヒトの内的な縦軸の時間だ。団長は、その時間を、サーファーのように、自在に、行き来しているのだ。

 オレは、かれを、見誤っていた。分裂するどころか、時空の舞台を、自由奔放に往来している。やられた、とおもった。かれが分裂する様をとくと見届けてやろう、などと思い上がりもいいところだった。消化しきれない観念に細切れにされ、悲鳴を上げているのは自分の方ではないか。それが、いかにも惨めにおもえた。

 五日後、なんの準備もできないまま、国際文化交流会開催の運びとなった。オレの役は、やり慣れた居合の演武だ。問題はない。主任や営業それに技術担当にしても、予行演習で結果は出ている。それぞれ得意の分野だ。身の入った演武になることに、間違いはない。

 気になるのは、団長のオペラだった。かれは納得したのか? アリ・アフメドを介して、座長演出の要請は耳に入れたわけだが、本当にあの演出でいいのか? 田舎の騎士道を歌ったあとに、アラブ音楽に合わせ、旅芸人一座の踊り子相手に踊ってみせる、オペラ愛好家からすれば、冷や汗ものの見世物だ、ホントに、それでいいのか?…一抹の不安を残したまま、時間は流れた。
 エルゴレアの市街を後に、ニ十キロほど南下したところに、連隊長の伯父、大地主の経営する農園がある。大洪水一過の余韻か、農園の東側には、満々と水を湛えた湖が、西側から迫るナツメヤシの植林群を押しとどめるように、拡がっていた。
 植林群と湖に挟まれ、水際から石垣で数メートルせり上がった高台に、礫と石灰で造り上げた館があった。石垣の上に、白亜の大理石が敷きつめてある。テラスだろうか。まるで野外劇場を想定して造られたようだ。事実、そこからは、広大な砂漠と礫砂漠の織り目に沿って、幾重にも交叉し奔放に蛇行する水の流れが、舞台背景のように展望することができた。

「洪水の爪痕、だね」

 いつの間にか、アリが後ろに立っていた。かれも青いターバンを巻いていた。

「ああやって、ワジが、定期的に再生されるんだよ」
「そうか、きみアリ・アフメドも、そうやって、定期的に、ブルーマンに再生されていくんだな、世の中、よくしたもんだ」

 少々、皮肉気にいうオレに、かれはいった。

「きみだって、そうじゃないか、今日は、久々に、カタナ差して、サムライに戻るんだろ、な、それ、再生だよ、頑張れよ!」

 オレは、インシャ・アッラ!と、即座に応え、テラスを後にした。
 応接室は暗かった。外光の差し込みを絞るためか、開口部は極端に制限されていた。室内の暗さに慣れようと、横並びの小さな窓から離れ、雑然と置かれた家具や装飾品に目を移した。
 土色の壁のそこここに、大小様々な、ベルベル特有の幾何学的な文様を織り込んだ絨毯が、釘で打ち付けてあった。天井と梁には真っ白な漆喰が塗り込んである。砂岩の床タイルは、壁の立ち上がり部分をのぞき、ほとんどが、何枚ものベルベル絨毯で覆い尽くされていた。壺も例外ではない。大小様々の、見るからに粘土をこねて造形し、木串でベルベル文様を彫り込み、素焼きしただけの簡素な壺が、壁に沿っていくつも並べてあった。壺の形状や文様の特徴から、それぞれの用途を思い描くことに、しばらく気をとられていたが、聞きなれた声がして、われに返った。

「サラーム・アレイコム」

 連隊長だった。青いターバンと白衣に身を包んだ、恰幅の立派な老人を伴っている。なにか改まったことがあると、相手が外国人でも、アラブ語で挨拶する習慣が、かれにはあった。その日も、オレたちの交渉相手の当事者である老人を、正式に紹介する意図があったのだろう。事実、団長を見つけると、即座に手招きして、こういった。

「団長さん、紹介しましょう、わたしの伯父、アブデルカデル・ベン・ムーハメド、です」

 団長は、気の毒になるほど、緊張していた。上気した顔で、とびきりの笑顔をつくり、両手で老人の差しだす右手に飛びつくと、上下に何度も揺すりながら、盛んに何かを訴えようとしたが、イタリア語しか出てこなかった。老人は、柔和な笑顔を浮かべ、左手で団長の手の甲を優しく叩きながら、いった。

「シュワイヤ、シュワイヤ…」

 口は動いたが、声が聞こえない。はて…。

「ゆっくり、ゆっくり、あわてないで…」

 連隊長が割って入り、老人の意を英語で団長に伝えた。

「総裁には、聴覚障害がありますが、わたしがサポートするということで、意志の疎通に、ご心配は無用です」

 それを聞いて団長は、自分の無様な挙動を恥じるのか、平身低頭で老人から手を放すと、連隊長に向かって、独立記念日の祝辞と文化交流会招待への謝意を、英語で述べた。

「オジキは、ね」

 いつの間にか後ろにいたアリが、オレの耳元でこう囁いた。

「不幸なことに、耳が聞こえないんだ、オーレスの戦いで、聴覚をやられてしまってね、仏軍兵舎の爆薬でね」

 オレは驚いた。

「なら、伯父さんも、革命戦士、ということか!」

 聞いていたハナシと違う。先を見込んで解放戦線に肩入れし、戦後の利得者としてうまく立ち回った、狡猾な土地の有力者ではなかったのか。
 オレの疑問を見てとったのか、アリが口早にはなし始めた。

「みなそうなんだよ、侵略者を追い出し、祖国と家族を護る、そのためには、なんでもしたんだ、みな、民族自決と祖国独立に、命を懸けた世代の戦士たちなんだよ…」

 多分、声をだしても聞こえない安心感からだろう、アリの語り口に熱が入りだした。話がくどくなり、徐々にイスラム談義の様相を呈し始めた。この際、アリの多言を制するするにしくなし、と考え、頃合いを見計らって、オレはいった。

「今日は独立記念日だよね、とにかく、すべての戦士たちに、心から感謝しようじゃないか」

 総裁が床に胡坐をかき、脇に甥の連隊長を座らせ、オレたちにも座るよう、促した。団長を初め、日本側は、みな、正座したが、総裁が、柔和な笑いを浮かべ、居あわせたひと全員に、車座になって胡坐をかくよう、勧めた。

「交流会への招待を受けていただき、ありがとう」

 連隊長が、総裁の口述を、音声補助で交渉団に伝えた。

「あなたがたの希望は、よく理解している、近々、貴国の支援で、砂漠化防止対策のプロジェクトが、実施されることになった、われわれの旅団の総裁として、砂漠化防止は結団の理念、失敗は赦されない、施工に当たっては、その理念に賛同し、砂漠の現場をよく知り、理解し、なによりも有効かつ高い技術を持つ受託業者が望まれる、支援国には、その旨、十分に配慮した受託形式、例えば指名入札に類するプロセスを要請するつもりだが、どうかな?」

 団長初め交渉団全員、そろって頭を下げた。団長が応じた。

「それは、とてもよいアイデアだとおもいます、わが社は、貴国での経験も豊かで、実績も積んでおり、砂漠での多様で豊富な知見を獲得した企業体であると、自負しております、わが社を指名していただければ、公私にわたり、貴旅団の利益と発展につながりましょう」
「ショコラン、ありがとう」

 優しく一礼し、老人は口述をつづけた。

「ところで、大きな罪を犯して収監された社員がいると聞くが」
「その通りです」

 団長が乗り出していった。

「その件で、総裁にお力になっていただきたいことがあります」
「ほう、なにかね」
「かれこれ二年近く、殺人罪で拘留されている社員がおります、本人は認めていますので、裁判になれば有罪になることは確実なのですが、被害者も同じ日本人で同じ会社の同僚だし、貴国の財にも民にも、損害を及ぼしたわけではありません、なので、情状酌量ということも、考えられますし…」
「シュワイヤ、シュワイヤ、なにを、いいたいのだね」
「はい、つまり、早く裁判で判決をいただき、寛大な処分を求める嘆願をしたいと」
「嘆願?」
「はい、先ほども触れましたが、貴国の民にも財にも損害を与えてないので、情状酌量のうえ別措置を、と考えておりまして」
「特別措置?」
「はい、とにかく、出来るだけ早く、日本に帰したやりたいのです、ですから、有罪判決、特別措置、国外追放、という流れで…」

 総裁は、あくまで柔和な笑いを浮かべながら、しばらく思案しているようにみえたが、やがて甥の連隊長に耳を近づけるよう促すと、二人の間で、手や口や体全体を使って、なにやら会話を始めた。
 しばらくの後、連隊長がいった。

「総裁の考えはこうです、仲の良い友人同士の争いは、大抵の場合、損得勘定ではなく、心の問題が原因でしょう、アルジェリア民主人民共和国は法治国家です、犯した罪は法の下で裁かれなければならない」
「そ、そのとおりです…」

 団長はガクリと首をたれた。

「しかし」 

 連隊長はつづけた。

「友人二人は政治犯でもなければ、外患誘致罪を犯したわけでもない、個人の心情の食い違いから暴力行為に至った、いわば偶然の事故です」
「そ、そうなんです」
「いくら法治国家でも、事故を起こしたからといって、ヒトの心を裁けはしないでしょう、それに、その事故はまだ起訴されていないと聞きます、ということは、まだエルゴレア州所轄の警察署が担当する行政案件、ということになりますね、それなら、総裁に、なにかできることがあるやもしれません、さいわい、今日は、独立記念日、みな、オミヤゲを、期待しています、それを祝いましょう、みなさんも、我が国の発展と繁栄を、共に祝ってください、さ、さ、表演者のみなさん、おおいに楽しみましょう、今日、この、独立記念日を!」

 突然、テラスと反対側の扉が開き、縮れ毛の座長が飛び込んできた。

「公民館の式典、終わりました!」

 大声でみなに伝える。

「出席者のみなさんはじめ、参加者、州民も、こちらに向かっています、そろそろ、準備を始める時間かと…」


 アリが座長を遮り、大声でみなにいった。
「さ、みなさん、まずは控室に、移動しましょう!」

 控室の入り口は、さきほど座長が飛びだしてきたところだった。総裁と連隊長を応接室に残し、オレたち全員、座長の後を追った。
 控室は二十畳ほどの広間だった。壁沿いに木の長椅子、長テーブル、プラスチック椅子、スチールパイプ椅子、テント、衝立、ロッカーなど、所狭しと並べてある。その物置き然とした部屋に、オレたち五人に加え、演武参加者、楽団、舞踏の代表者十数人が、打ち合わせのために集うことになった。座長がそれぞれの代表を紹介し、舞台の進行と段取りについて、説明を始めた。

「公民館の式典に出席したひと、参加したひと、観にきた住民のひとたちが、式典が終わって、そろそろ到着します、館の背後にはクサール、ちょうど円形劇場の階段みたいなベルベル族の旧城郭が、あのテラスの南側に向かって広がっていまして、そこに設営したテントで昼食、祝祭食のクースクースを食べていただきます」
「表演者には?」

 確認を入れるアリに、座長が応えた。

「もちろん、祝祭食、食べていただきます、テラスではウチの楽団がずっと演奏しますが、ズフルの礼拝で一時やめ、礼拝が済むころに再開します、そして」

 今度は全員に向かって、いった。

「演奏再会と一緒に、踊り子五人が舞踏を始めます、ダンス・オリアンタルで、少々、テンポが上がりますので、観る方も、だんだん興がのってきます、そのタイミングで、演武を始めたいとおもっていますので、みなさんは、ちょっと前に、ここ控室で、準備を始めてください、まず、柔道、それから合気道、続いて少林寺拳法、そして演武の最後に居合、という順番ですね、よろしくお願いします」
「わたしは?」

 団長が出番の確認を求めた。

「団長さんは最後、居合の演武が終わった時点でアスルの礼拝になりますので、それが終わると、楽団の演奏を再開し、フィナーレの一番目、連隊長の令嬢三人の表演で、踊りがはじまります」
「で?」
「そのあと、団長さんに、オペラを歌っていただきます、団長さん、よろしいですね?」
「もちろん、準備はできていますが、ただ」
「ただ?」
「打合せ通り、レイラさんは、相手してくれるのかな?」
「もちろんです、団長さん、ちゃんと言い含めてありますよ、ただ」
「ただ?」
「団長さんの歌は、愛しいヒトへの愛の激情を高らかに歌い上げた詩でしょう、とすれば、ですな、相手のレイラが、その愛の告白を、しっかりと受けとめました、という熱い気持ちを、ね、どう表現すりゃ、いいんですかね、実際の本場の歌劇では、どんな演技が一般的なんで?」
「あれは、今回の交流会のために、わたしが個人的におもいついたアイデアなので、これでなくては、という演技は、特に考えてないんですが」
「そう、そうでしょうな、わたしも、そうおもってましたよ、ですから、ね、タイミングとして、フィナーレのキモですから、観客のためにも、ここは、ベルベル流儀に、愛の告白を受けいれた乙女が歓喜の踊りを舞う、という演出でいこうって、提案したんですよ」
「ええ、それはアリ隊員から聞きました、でも、わたし、踊れないんですよね、残念ながら」
「踊れない?」
「マグレブの踊り、踊ったこと、ありません」
「マグレブだけじゃないですよ、他の地中海沿岸の国々、ギリシャ、トルコ、レバノン、エジプト、それから中央アイジアの国々なんか、嬉しいことや、祝い事があったら、オトコはみな、踊りますよ、イタリアも地中海でしょう、こうやって、こう、踊りませんか?」
「しませんんね」
「だったら、こうしましょう、団長さんが歌い終ったら、レイラを見つめてください、レイラにも団長さんを見つめるよういっておきますから、そして、何秒か、注目の間合いを充てたあと、にですね、このわたしが、歓喜の踊りを舞いながら、舞台にあがりますよ、こうすると、ですな、必ず一人、二人と、一緒におどるオトコが出てくるんですな、そして興たけなわ、へと」
「!?」
「つまり、レイラと団長さんを囲って、次々とオトコたちが踊りに加わって、そのうち、踊り子も、踊りの輪に加わって、そのまま、どっと、歓喜のフィナーレになだれ込む、アスルも終わってマグリブまで、踊る、踊る、踊る…ということで、どうですか、そうしましょう、いいですね、そうしましょう、さ、さ」

 座長は、団長の袖をつかむと、応接室とは反対の別室に、強引に招き入れた。そこは、控室の倍はある、大きな厨房だった。入るなり、香料の効いた肉汁の湯気で、鼻腔の粘膜が湿りだした。開口部も広く、壁も天井も真っ白で、目が眩むほど明るい。アルミサッシの窓枠や白壁を模造した樹脂板、それに近代的な厨房設備やレイアウトからして、あきらかに催事の厨房用に増築した部屋だった。そこに、十人は下らない数の女たちが、祝祭食の準備に忙しく働いている。カーキのショールで顔面を覆った二人の年長者以外、みな、若い娘たちだった。それぞれに好き勝手な極彩色のショールを、ターバン風に頭に巻いている。座長が、その中の一人、赤いターバンの娘を、人差し指で呼び寄せ、団長の前に差し出した。

「団長さん、ほら、これが、お好みのレイラですよ」

 お好みの、という言い方に、多少、不満を抱いたきらいはあったが、それにもまして、かれを突き動かしたのは、目の前にるレイラを、すぐにでも抱きしめたいという、強い欲求ではなかったか、と、オレはいまでも疑っている。
 スムールを混ぜるオリーブ油にまぶされ、クミンの漂う肉汁の湯気に濡れた、肌理の細かい小麦色の肌、頬や額、瞼、耳、首筋、うなじ、そして手、指、脇、胸…かれは、その一つ一つを、まるごと口に入れて、思いのままにしたかったのだ、自分の娘ルーナを抱くように、そして、オレが、カスバのレイラを抱いたように…。

「レイラ…さん」

 団長は、昂る気持ちを抑えに抑え、レイラの手を握り、かるく揺らしながら、上気した顔で、心を込めていった。

「アンタ、ムレハ、ムレハ」

 レイラは戸惑い、どう応えればいいか、目で座長に訴えた。座長は、大仰に笑うと、赤い貫頭衣から露出した彼女の肩を何度か叩きながら、こういった。

「レイラ、よかったな、団長さん、オマエのこと、大層気に入ったみたいだぞ、オマエはキレイだ、とおっしゃってる、よかった、よかった、これで、気持ちを込めて、歌えるというものだ、ね、団長さん」

 そして、団長に向かって、こう付け加えた。

「この娘、レイラ、ね、ここ、ミミが聞こえんのです、ツンボ、オシ、聾唖者なんですな、しかし、ここ、心、心だけは、確かです、気持ちだけは、人一倍、熱いものを持ってます、十分に相手してやってください、愛を込めて」

 団長の頬が、さっと青ざめた。そして、レイラの手をそっと放すと、瞬きもせず、ゴクリと生唾を呑み込んだ。沸騰した気持ちの昂りを、臓腑の奥に押し戻すように…。

 団長は、多分、心の内を、レイラに訴えたかったのだろう。しかし、なにをいっても、相手は耳が聞こえないのだ。唇を噛み、押し黙ったまま、充血した目で、じっと見つめる…それ以外に、なにができよう。二人の間に、異様な緊張感が漂い始めた。
 しかし、それも、いきなり厨房になだれ込んできた大勢のオトコたちに、かき消されてしまった。

「さ、運んで、運んで、アロワ、アロワ、急いで、いそいで!」

 座長がみなをけしかける。大の男が両手を延ばしてやっと抱えられるほど大きな木製の盆に、びっしりっとクースクースが詰め込んである。数えきれない数だ。肉汁を入れた鍋も、所狭しと並べてある。来客用の祭事食だ。それらを、クサールの城郭跡に居並ぶテントまで、運ばなければならない。来客は、盆の周りに座り、目の前のスムールの、自分の領域にだけ置かれた子羊のスペアリブを一つ、肉汁と一緒に食べるのだ。今日のこの祭事のために、何十頭、いや何百頭の子羊が、喉を抉られるというのか。

 厨房は調理器具の弾ける金属音、オンナたちの嬌声や配膳に駆け回るオトコたちの怒鳴り声が飛び交い、一時戦場に豹変した。動き回るレイラを目で追うしかない団長のいる場所は、もはやなかった。


           ~~~~~~~~~~~~~~~~

 
「祭事となると、ずいぶん大掛かりにやるんだね」
「そりゃそうさ、なにしろ、独立記念日だからね」
「大勢、手伝ってるけど、みなボランティアなのか?」
「アリはそういってるがね、どうだか」
「ということは、砂漠化防止旅団の有志たちか?」
「でもないな」
「なら、だれなんだ?」
「厨房の手伝い、あれ、一座のオンナたちらしいよ」
「歌って踊って料理もつくるのか?」
「とにかく、テントの設営や配膳、後片付け、掃除、その他雑用一切合切ふくめて、一座が請け負ってるってハナシだな、よく知らないけど」
「祭事一括請負方式か」
「要はカネさ、カネさえ出せば、なんでもやる、とにかくボランティアはあり得ないね」
「じゃあ、この交流会は国から補助金でも出てるのか?」
「まさか、ただ、公民館の祝賀会は州政府の予算だね」
「となると、そのアブデルカデル・ベンなんとかという吾人、役人でも議員でも、軍人でもない、単なる私人なんだろ?」
「そうだ」
「そんな私人が、だよ、いくら土地の有力者だからといって、国の行事にそこまで散財するのかね、理解に苦しむな」
「なぜだ、金持が国の記念日を祝うために、貧乏人をカネで傭う、本人は気持ちが豊かになる、貧乏人は日銭が稼げる、いいじゃないか、それが善行というもんだよ、それが徳というものじゃないのか?」
「徳、トク、とくを積む…ねぇ…」
「オマエ、それ、よくないよ」
「なにが?」
「オマエみたいに、左巻きの観念論から巻き戻せないボンクラ系の連中は、カネといえば、すぐ、ベニスの商人を連想する、それ、よくないよ」
「そんなことはない、ただ」
「ただもクソもない、ムハンマドも商人、商いは聖なる生業、カネを施し、善を行い、徳を積む、こんなことくらい、オマエも知ってるんだろうが」
「ま、そう怒るな、ぼくだって、そのくらいのことは、知ってるさ」
「なら、なぜ訊く?」
「実際のところ、どうなのか、確かめたかっただけさ」
「ずいぶん、間の抜けた、念の入れようだな」
「ところで、ついでに、ひとつ、キミに、訊きたいことがあるんだが」
「レイラのことだろ?」
「よく分かるな」
「顔に書いてある、なにが訊きたい?」
「キミはレイラが聾唖だって、知ってたのか?」
「知る分け、ないじゃないか」
「アリは?」
「それも、知らんよ」
「座長は、もちろん、知ってたはずだよね」
「そりゃ、そうさ」
「だとしたら、団長をバカにした、最悪の侮辱じゃないか」
「なぜだ?」
「だって、団長は、高鳴る愛の告白を歌い上げ、それを聞いてくれる相手が欲しかったわけだろう」
「そのようだが」
「その相手が、ミミが聞こえない、これって、わるい冗談どころか、最低の侮辱、というより、イジメだよね」
「しかし、レイラを相手に選んだのは、団長その人、なんじゃないか、だれもレイラを押しつけたわけじゃないよ」
「それはそうだが、それなら、なおのこと、事前に、ミミが聞こえないと、知らせてやるべきだったと、おもわないか?」
「ま、オマエのいいたいことは分かるが、大切なことひとつ、見逃してるな」
「見逃してる? なにを」
「オマエも健常者の目でしか身障者を見てないな」
「そんなことはないさ、オレだって、身障者の置かれた立場は十分に理解しているつもりだ」
「なら、聞くが、レイラはどうやって踊るんだ、ウード、ナイ、カヌーン、バイオリン、リク、ダルブッカ、なに弾いても、なに吹いても、なに叩いても、聞こえないんだぜ、どうやって踊るんだ、ええ、どうやって?」
「!?…」
「レイラは踊り子だぞ、そのこと、考えたこと、あるのか?」
「いや…」
「オレもそうだった、おまえと同じだ、そんなこと、考えたこともなかった、しかしな、ミミが聞こえないと知って、真っ青になった団長が、レイラを見つめたときの、あの眼差しを目にしたとき、オレは、分かったんだ」
「なにが?」
「耳がなくても目があるじゃないか、風の冷たさや空気の流れも、音を伝える振動だって、肌で聞き分けることができるじゃないか、心を開き、感覚を研ぎすまして回りを受け入れれば、聴覚を凌駕してあり余る情報を、欲しいままに手にすることができるじゃないか…てね」
「大した想像力だね」
「いや、オレね、あのとき団長は、あの目で、レイラに、そう訴えていたように思ったんだ、おそらく、殺されたトビ職のことを想い起しながら、ね、自分が抱くレイラへの愛と憐憫の情が、実は、トビがレイラに抱いたのと同じ情愛とまったく同じものだった、てことに、初めて気がついたんだね、そのとき、だから、きっと、大泣きしていたよ、人目につかないように、目の奥の方でね」
「少し、思い入れが過剰、て気がしないでもないが」
「いや、おまえだって、あのレイラと団長のフィナーレの様を目にしていたら、きっとそう確信したに違いないよ」
「そう…フィナーレが、そんなに」
「ああ、あいつ、あの座長ね、まんざらじゃ、なかったね」
「あの縮れ毛が?」
「風袋もさえないし、喋り方からして品がない、話す中身は一から十までトアレグの世話物漬け、とても幅の広い見識を備えた人物とはおもえない、にもかかわらず、気位だけは高いんだな、これが、こと芝居に関してはね」
「とても手に負える代物では、ないな」
「ところが、だよ、あのフィナーレの熱気と高揚感、舞台に溢れかえる慈しみの情感は…見事だったよ!」
「なんか、ハナシが合わないな」
「正直、あんな縮れ毛になにができるか、なんて、高を括っていたんだがね、が、どうしてどうして、ヤツ、なかなかの強者だったよ」
「ツワモノ?」
「なんせ、観衆が観衆だろ、みなで同じことを一緒にやるのが一番苦手な連中ばかりだ、じっと座って観てるなんて、考えられるかい?」
「ムリだね」
「だろう、案の定、アスルの礼拝が終わって、テラスに楽器が並べられるころになると、もう黙っちゃいない、クサール中に張りめぐらしたテントのあちこちで、好き勝手に、手を叩くやら、足踏みするやら、木盆で音頭をとって、歌いだすやら、踊りだすやら、始まっちゃったんだよ、そこへ折よく楽師が入って演奏を始めるんだが、さあ、笛や太鼓が始まった途端、まず女の子が、そして男の子が、大勢、舞台のテラスに躍り出て、腰を振り振り、脚を跳ね上げ、腕を広げて肩をしゃくり、元気溌剌、跳ね回るんだよ」
「それ、縮れ毛の演出なのか?」
「みんな普段着だったから、演出じゃないかもしれないが、地元民の気質をうまく使った絶妙の導入部、と考えると、さすがは市井の興行師、といえなくもなかったね、なぜかというとね」
「なぜかというと?」
「ガキに続いて、今度は大勢の、大人の男女が躍り出て、ガキと同じように、腰を振り、脚を跳ね上げ、腕を広げて肩をしゃくり、踊りまくるんだよね、まさに老若男女入り乱れての舞踏会、みたいなもんだよ」
「その間、縮れ毛は、なにしてたんだ?」
「オレも気になって探したんだよ、そしたら、控室の方で、ドスン、ドスン、て音がするんだよ、なんだ、とおもって、いってみたら、畳大のマットレス、ほら、道場に敷いてるヤツさ、あれを何十枚も、表演予定の柔道家と一緒に、汗だくになって、トラックの荷台から、エッサエッサと、運び込んでる最中だったね」
「ホー、座長も、頑張ってんだ」
「オレも、ちょい、見直したね」
「しかし、好き勝手に踊らせるのもいいが、やりすぎると、収拾がつかなくなるんじゃないか?」
「オレも、そうおもったさ、オマエもよく知ってるように、水だけで酔える連中だ、興が乗ると夢中になって、歯止めがきかなくなる、どこまでも行ってしまう」
「境目がなくなるわけだ」
「とはいえ、連中もバカじゃない、いつものお祭りとは分けが違う、食べて、踊って、歌って、独立万歳!だけじゃない、曲がりなりにも国際文化交流と銘打つ祭事会場だ、しかも武術とダンスオリアンタルとイタリアオペラが一度に鑑賞できる、またとないチャンスだ、と、みな、期待しているはずなんだ」
「ところが…だろ?」
「いや、オマエも、マグレブに居すぎたようだな」
「というと?」
「たしかに付和雷同がピッタリアの気質だが、しかし、節操がない、というわけじゃない、利には聡いが、律を重んじる敬虔さも、伝統を敬う慎み深さも、あることはある、オマエみたいに、日々、騙されてばかりいたようなヤツには、なかなか見えてこない一面だけどな」
「いうじゃないか、で、実際は、どうだったんだ?」
「応接室に戻って、窓からテラスの様子を見てたんだが、相変わらずの狂喜乱舞、どうなることかとおもっていた矢先、控室の扉を蹴破らんばかりにして飛び込んできた縮れ毛が、大声でオレにたのむんだよ」
「なにを?」
「畳の搬入が遅れた、演出のタイミングがずれた、おかげで舞台の収拾がつかなくなった、予定を変更して、居合の演武から初めてくれ、ていうわけさ」
「最初に居合の演武から?」
「そうなんだ、せっかくのお祭りに、無邪気に楽しんでる観客を追っ払うわけにもいかない、かといって、だれがナニいっても収まらない状態を、放っておくわけにもいかない、ただ、かれらの興味を一点に集めることができるものがあれば、それを使って穏便に誘導することができる、というわけだ」
「ほう…で、その一点とは?」
「サムライだよ、縮れ毛によると、胴着と袴、手には日本刀、それに頭を総髪にしたオレが、スーッと、音もなく、ゆっくりと舞台に上がっていけば、それだけで、みな、シーンと静まってくれる、というわけだ」
「なるほど! さすがは旅芸人の座長、読みが深い、窮余の一策、とはいかないまでも、いい思い付きじゃないか、で、言われる通りしたのか?」
「ああ、やったさ、サハラに入らずんばトアレグに遵え、ていうじゃないか」
「あまり、聞かないがね」
「とにかく、大急ぎで胴着と袴を着け、髪を総髪にし、反りを下に刀を腰に抱え、威厳を保つために能の足運びをまねて、摺り足で、こう、テラスに向かったわけだ」
「で、騒ぎは?」
「そのまえに、摺り足でそろりそろり歩いていて、気が付いたんだが、楽団が演奏し、観客が入り乱れて踊っている場所、それがまさに舞台になっていて、そこから段々に積み上がっていくクサールの城郭が、上方から舞台を望んで眺める観覧席になっていたんだな」
「そうか、巨大な円形劇場、てとこだな」
「しかも、舞台の背景には、満々と水をたたえた巨大な湖が、土漠、礫漠の奥深くまで、延々と拡がっているんだ、それを背にオレは、観客の全視線を総身で受け止めて、こう進む」
「まるで決闘にいくみたいだな、で、騒ぎはおさまったのか?」
「ああ、一気に、とはいかなかったがね」
「サムライの威力、だな」
「オレも、久々の緊張感、味わったよ、昇段審査以来のね、ただ、スケールが違う、審査場なんて、広いっていっても、公けの体育館の小ホールだ、そこに集まった審査員、有段者、応募剣士、それに武術関係者、知人、それら全員を入れても、せいぜい百人超すか越さないかの規模、いってみれば室内楽だ、それが、サハラの大自然の真っただ中に、トアレグ人がすり鉢状に積み上げた城郭から、何百という鋭い視線が、こっちに向かって突き刺さってくるんだ、まるでアルゴスの目が襲いかかってくるようだった」
「さしずめキミは、袴をはいたヘルメス、てとこか」
「刺客にしては意外と冷静だったがね、逆にオレ、そのとき、生まれて初めて、自分があの境地にいることを、はっきりと自覚したんだ」
「あの境地って?」
「今の自分を、少し離れたところから、同じ自分が見ている、という心境だよ」
「死にかけたときの臨死体験というヤツか?」
「それとは違うな」
「じゃあ、なんだ?」
「自己離脱とかというヤツだよ、進退窮まって、伸るか反るか、の事態に追い込まれたときに、ヒトには、瞬時にして自分自身を一つ離れたところからみる、という特性があるというじゃないか」
「それ、特性じゃなくて、自衛のための本能だろう?」
「いや、かならずしも本能だけじゃないね」
「というと?」
「オマエ、職業通訳やって何年になる?」
「十二年目かな」
「その間、ずいぶん精度は上がったとおもうが」
「技術的には成長したと、おもっているがね」
「ところで、オマエは記憶派か、それとも文脈派か?」
「記憶派か文脈派か、だって?」
「そうだ、対話者のいうことを逐一書き取って記憶をたよりに訳すのが記憶派、対話の文脈をたどって通訳するのが文脈派だ」
「ボクの場合は、どちらかといえば、記憶重視の方だな」
「そうか、それなら、ちょいと難しいかもしれんな」
「なにが?」
「記憶派は、やたらとメモをとりたがる」
「当然じゃないか、対話者の言を記録しないで、どう通訳するというんだ」
「あまりメモをとることに集中しすぎると、記憶に頼りすぎて、全体が見えなくなる傾向がある、そうはおもわないか、議論の文脈が読めなくなる危険がある」
「文脈を読むって、それ、対話者の仕事じゃないのか、通訳のすることじゃない」
「オレは、そうはおもわないね」
「なら訊くが、キミはどうやって通訳するんだ?」
「オレはあくまで文脈重視、だな」
「邪道だよ」
「いや、文脈の中に入って、どっぷりと議論の中身に浸かる、そして対話者間の疎通を采配するんだ、書いている暇なんかない、メモをとるのは、せいぜい、数字と固有名詞、だけだな、あとは流れにまかせて議論についていく」
「禁じ手だね、通訳者は、あくまで黒子であるべきだ、第一、国際法に抵触ギリギリの最新技術の議論なんて、テクネゴで一言ミスれば何百億って損失が出るリスクを孕んでるんだよ、そんなとき、単なる黒子が、どうやって責任とるんだ?」
「通訳ミスで損するアホはどこにもいない」
「そりゃそうだけど、とにかく交通整理まではいい、恣意的な意訳も誘導も許されない」
「オマエのいうことには前提がある」
「前提?」
「前提条件だ、意訳も誘導も禁じ手であることはたしかだ、しかし、対話者の言が、論理においてもテニオハにおいても完璧に正しい、という前提条件が満たされてのことだ、でなければ、その限りではない」
「それはムリだね」
「実際、正しい日本語をまともな論旨でしゃべれるヤツ、いるのかね」
「稀だね」
「だったら意訳だって交通整理だって、ましてや文脈誘導だって、なんでも有りでいいじゃないか、それこそ通訳業の醍醐味だぜ、議論の流れに乗って、対話者の双方に成りきるんだ、話がこんがればこんがるほど、ああいえばこう、こういえばああ、という風に、両者の言が見えてくるんだよ、はっきりと、筋道を立ってくるんだ、するとそのうち、双方間の疎通を担っている自分が、目の前にみえてくるんだ、言い合っている双方に成りきっているオレを、オレが見てるんだ、自分の目の前で、自分の分身が、オレの意志にしたがって、せっせと仕事をしているんだ」
「つまり、さっきいってた、自己離脱、という現象か」
「でもないな、なぜって、別に窮地に追い込まれたわけでもない」
「じゃあ、なんなんだ?」
「遠くも近くも一つに見える遠山の目付、とでもいうか」
「剣豪の境地か?」
「でもないな、目の前に自分の思い通りに動き回る自分がいる…つまり、対話者と通訳とオレ自身、この三者の緊張関係から生まれる、いってみれば、人形浄瑠璃の人形使い、てとこかな、オマエには分からんか、これに似た体験はないか?」
「似たような気分になったことは、何回か、あることはある、対話者の言葉が、急にゆっくり聞こえてきて、すごく余裕をもって仕事ができたことがあったよ、話してる自分が、だんだん遠くはなれていって、会議場の天井から、全体が手に取るように見えたような気になったね、たしか」
「それだよ、それ」
「しかし、キミの遠山の目付だって、ボクの自己離脱だって、単に個人的な体験だし、他人にいっても分からないだろう」
「オレもそうおもっていたさ、いくら極限の境地だと説明しても、どうせ独りよがりの思い上がり、くらいにしか受け取ってもらえないからね、しかし」
「しかし?」
「あのフィナーレの、団長の演奏と、耳の聞こえないレイラとの間の、メラメラと燃え上がるような情愛の交歓を目の当たりにすると、人と人との繋がりって、そう捨てたものじゃない、と、素直におもえるようになったね、正直、感動したんだ」
「ほー、キミが感動したって? いや、聞いてみたいね、なにがあったんだ?」
 
 
          ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 
 
  静まり返った円形劇場の舞台で、オレの居合演武は滞りなく進み、最後の納刀から充実した座位に戻ろうとしていた。そして、さわやかな静寂のなか、締めくくりの答礼の作法に移ろうとしたとき、いきなり縮れ毛が舞台に躍り出て、叫んだ。

「来賓、来場のみなさん、そのまま静かに、静粛に、いよいよ、国際文化交流会の主催者を、舞台に向かえることになりました、アルジェリア民主共和国砂漠化防止対策旅団アブデルカデル・ベン・ムーハメド総裁がその人です、総裁は聴覚に障害があるため、甥君のターリック・ベン・ムーハメド憲兵隊エルゴレア支部連隊長が、その代弁を務めます、さあ、総裁、連隊長、どうぞ、どうぞ…」

 縮れ毛は、言葉せわしく、二人を舞台に招き入れた。オレは怒りで真っ赤になり、そして真っ青になって、総身を震わせた。

「これ以上の屈辱はない…」

 武は礼に始り礼に終わる、とりわけ未知の武との一会に敬意をもって対峙した異国観衆の礼節には、答礼をもって応えなければ演武は完結しない。その最も大切な締めくくりを、コイツは、有力者礼賛の前座として、いとも簡単に切り捨てたのだ。赦せない、このまま済ませてなるものか、この屈辱をいかに晴らすべきか…。
 しかし、そのとき、オレには、一部始終を俯瞰しているもう一人のオレがいた。そいつはいう、いまは引け、そっと引け、音もなく、そして、全体を見よ、全容を観よ、柔道、合気道、シャオリンと、演武はまだ続く、居合道を含むその全体を演武とせよ、そして、シャオリンの一投がおわったとき、舞台に躍り出よ、縦横無尽に立ち回り、四方八方斬りまくれ、そして最後の一刀を振り切ったあと、血振るいで座位にもどり、納刀で正座に入れ、そのとき、今日の午後のすべての演武は、オマエの双肩に掛かっている、その全容を受けて、オマエは、冷静に、威厳をもって、答礼の儀を行えばよい…。
 
 連隊長が総裁の代弁をしている合間に、オレは、だれにも気取られないよう、そっと身を引き、応接室に戻った。そこには、歯を見せて満足げに舞台の様子を伺う縮れ毛がいた。

「キサマァ!…」

 オレは、とっさに右手で縮れ毛の喉を掴み、左手で金的を絞り上げ、そのまま白壁の、ベルベル模様の絨毯に、力任せに押しつけた。目を白黒させた縮れ毛は、両手両足をばたつかせ、出ない声を絞って叫んだ。

「やめろ! なにするんだ、やめろ、やめろ!」

 無視してオレは、右手の五本指で喉仏を鷲掴み、股間の左手を軸に、縮れ毛の総身を絨毯に沿って迫り上げた。喉を詰められた座長は、ヒーヒーと、苦し紛れの息を吐き続けた。無精髭に覆われた、野卑で醜悪な顔面が、目と鼻の先で歪む。その醜悪な様に、オレはますます、いきり立った。

「よくもオレを愚弄してくれたな、よくも居合道をコケにしてくれたな、よくも和の伝統を、チンケなへぼ座のダシにしてくれたな!」

 オレは容赦なく締め上げた。宙吊りで息もできない縮れ毛は、おれのせいじゃない、おれがわるいんじゃないと、オレの右腕に爪をたてて喚いた。その様は、まさに、あのカスバのホッシンそのものだった。アイツも、喉を締め上げたオレの腕に爪を立て、出ない声を振り絞って叫んでいた、おれじゃない、盗んだのはおれじゃない、おれがわるいんじゃない、おれのせいじゃない…青い作業服のボケットが、今しがた採ったばかりのレモンでパンパンに膨らんでいるにもかかわらず、だ。そのとき、あのレイラが、オレに体当たりしてきたのだ。そして哀願したのだ、つぶらな両目に、溢れんばかりの涙をためて…。
 禁じたはずの記憶が、蘇ってきた。怒りで常軌を逸したオレは、それに抗わなかった。そして、脳裏を漂うレイラの香を追った…しかし、そのとき、だれかが耳元で、大声で叫んだ。

「やめろ! やめんか! 気をしずめろ! サムライらしくないぞ!」

 アリ・アフメドだった。縮れ毛と一体になったオレの身体を、羽交い絞めで引きはがそうとした。それが、オレを窮地から救ってくれることになった。カスバの屋根めがけてホッシンを放り投げたオレを止めたレイラのように、縮れ毛を窒息死させてしまう最悪の事態から、オレを救ってくれたのだ。
 オレの羽交い絞めを解いたアリは、冷静だった。

「すまん」

 かれは弁明した。

「キミの演武を、総裁挨拶の前座に推したのは、実は、この本官だ、あの観衆の騒ぎ方をみて、これは手に負えないとおもったのか、どうにか静める名案はないかと、座長に泣きつかれてしまってね」
「マグレブの気質を一番知ってるのは、当のきみたちじゃないか」
「きみのいうとおりだ」

 アリは、オレの両肩に手をかけて、つづけた。

「だが、座長には、そこに思いが回らなかった、ということだな、かといって、いまさらなにいってんだって、叱るのも愚かだし、時間もないし、なにかないかと、考えあぐねて思いついたのが、カタナの魅力、サムライの威厳、というか、このまえのリハーサルで本官自身が味わった畏敬の気持ちだったんだ、これなら通じるかもしれない、とおもってね、座長に、きみにたのんでみたらと、アドバイスしたんだよ、あの事前演武のとき、正直、気が付いたら、いつの間にかオレも正座して頭を下げていたよ、不思議な体験だった」
「不思議な?」
「マグレブ人の大半はイスラム教徒だ、日に五回の礼拝をする、その都度、身を清め、居住まいを正し、膝を折って座り、頭を下げ、神の下にひれ伏すんだ、あなたは偉大だ、わたしはあなたのしもべ、あなたを敬い服従する、それは、あの荒ぶる武の高ぶりを礼をもって詫びる姿に、とても通じるものがある…もう、わかるだろ」
「座位の答礼のことだね」
「そうだ、不思議な符合とでもいうかな」
「アリ、キミがそんなに和の武術を理解してくれていたとは、おもってもいなかったよ」
「本官の英国留学はもうすぐだ、来年には認められると踏んでいる、だから、勉強しているんだ、それには、日英同盟の根幹をなしていた騎士道と武士道、この二つは、諜報活動の勉強には必須の教材なんだよ」
「ホー、初めて聞いたな」
「ま、いいさ、そのうち、北海道でも攻められたら、目が覚めるだろうさ、お花畑のきみもね、ハハハハ」

 大きくひと笑いした後、アリがこう進言した。

「いまさらなんだが、もともとキミには、フィナーレ前の締めくくりをやってもらう予定だったんだよね、ただ、それにこだわらないとすれば、だよ、いまの総裁の挨拶が終わり次第。畳を敷く準備に入るわけだから、その間を利用して思いきり振ってもらうか、でなければ、予定通りの締めくくりとして、柔道、合気道、シャオリンの演武が終わり次第、アスルのアザーンが流れるまえに、それこそ最後の答礼で厳かに演武を締めくくってもらうか、の、どっちかなんだが、さて、どっちがいいのか、キミのいいように決めてくれないか、そしたら、その旨、座長に指示しておくよ」

 オレは、当然、アザーンの流れるまえを選んだ。そんなわけで縮れ毛は、オレの選択どおり柔道、合気道と行事を進め、シャオリン演武が終了した後、重々しくオレを舞台に招くことになったのだった。

 事は、その通りに運んだ。演武がすべて終了した後、舞台に躍り出たオレは、直ちに立位から抜刀し、斬りつけ、斬り下ろしの後、即、血ぶるいと納刀を省いて五行の構えに入り、正眼、中段、下段、八双、脇構えと、十本ずつ、合計五十本の即興殺陣を披露した。一振りごとに、白刃の輝きが観る人の目を魅了し、刃筋の立った鋭い斬撃音が、縦横無尽に空を切る。殺陣の気迫が壇上を駆けのぼり、みるみる観衆を巻きこんでいった…やがて、上段から袈裟に切り下ろしたとき、だれかがヤーッと叫んだ。その斬撃の気迫が観衆に伝播し、心を捉え、熱狂させた。たちまち一振りごとに、気迫の叫びが合唱となって、円形劇場全体を満たし始めた。その大合唱のなかで、オレは、刀と一体になった動きに身を任せ、脱力し、高揚する心のままに、演武の終わらせ方を思い描いていた。単なる見世物で終わらせてはならない。もとより禁じられた行為だ。しかし、並みの型では終わりたくない。示しがつかないからだ。世界に誇る唯一無二の伝統であればこそ、その真髄を存分に表演する演出もあっていいだろう…オレは、演武では禁忌中の禁忌、介錯の技で締めくくろうと心に決めた。それこそ日本にしかない切腹の儀式だ、この大観衆を前に、誉れ高い自刃介錯の儀を、厳かに披露して終わるにしくはない…。
 五行目の脇構えに入ったとき、遠くからアザーンの唱和が聞こえてきた。段上の方々で、立ち上がるひとが目立ち始めた。一振りごとに観衆を支配し、手放しで叫ばせていた緊迫の度が、徐々に緩みはじめた。座の興が急速に冷めてゆく。立ち上がった観衆は、あるものは茣蓙を、あるものは絨毯を地べたに敷き、それぞれに座った。みな一様に、東北の方を向いている。メッカの方角だった。

「そろそろ介錯で締めなければ…」

 オレも斬撃の正面を東北に向け、八双の構えから、割腹人の目の届かない背後に刃を隠し、一呼吸の後、冷厳な気迫を込めて振り下ろした。皮一枚残し、ゆめゆめ首が転がることのないように…。
 介錯の後、血ぶるいし、納刀を済ませ、恭しく答礼の座位に着いたとき、期せずして、観衆はひざまづき、正座し、祈りの準備に入っていた。オレは帯刀を解き、刀を一文字に床にねかせ、下緒を鞘尻に沿わせて両手を床につき、両指を合わせて三角形を造り、そこへ額を押し当てて平伏の礼を収めようとした。
 そのとき、かれらもまた、同じ平伏の体制に入り、地べたに額を擦りつけようとしていた。オレは、妙に、自分が分解し、解体していくのを感じた。そして、手や足や顔や、尻や足の裏や、胴体や心の中までも、なにかでかれらと繋がり、大きな数珠のようになって、一つの動きの中に組み込まれ吸収されていく自分を、冷静に見届けている別の自分がいることを、知った。
 オレは額を床に擦りつけたまま、巨大な円形劇場の舞台の上で、せり上がる城郭の段々を埋め尽くした観衆の祈りと溶け合う自分の姿にうっとりし、自他の堺が消えた融通無碍の一体感に、全身を震わせ、全霊で感動していた…。
 こんな風に答礼を終えたオレは、この上なく豊かな気持ちになっていた。どちらかといえば嫌いで遠ざけたい、下品で野蛮で狡猾で、物欲には人一倍寛容な連中と、祈りという充実した時を共有し、尊いものの前に平伏し共に恭順を誓う連帯感を味わったことに、妙な優越感を覚えた。この独立記念日の表宴会を機に、オレは一回り大きくなったと喜んだ。
 しかし、次に来るフィナーレの舞台で、その喜びは、粉々に打ち砕かれた。
 アスルの礼拝が終わるころ、舞台にスチールの折りたたみ椅子がニ十個ほど、ずらりと二列に並べられ、まもなくそこに、カビリー地方の民族衣装で身を飾り、手に手に琵琶やマンドリンを携えた若い女性たちが、連なって座った。フィナーレの第一弾、連隊長の三姉妹が出演するダンス・オリアンタルの楽団だった。
 演奏が始まるや、劇場は歓声に包まれ、ひとびとは手拍子を打ち、足をふみならし、なかにはもう踊りだすものもいた。
 間もなく、ベルベル族の伝統衣装を着けた五人の踊り子が、風を切って舞台に躍り出た。極彩色のベールや腰巻を空になびかせ、鷹揚に腰を振り、右に左に、前に後ろに、所狭しと、しなやかにうねりながら踊りまくる。座興は一気に盛り上がり、興奮した女たちは、一斉にザガリートで歓喜の喉を鳴らしはじめた。
 群衆に煽られた楽団は、一曲、二曲、三曲と、続けざまに、これ見よがしに、楽器を打ち、吹き、かき鳴らす。テンポはますます速く、鼓は高鳴り、弦は響き合い、観衆の熱気はみるみる高まっていった。
 突然、音が止んだ。手拍子もザガリートも、途切れた。静まり返った劇場で、昂った気運が行き場をなくし、熱のこもった不満がそこら中に充満し、ひりひりしたきな臭い雰囲気が、会場全体を支配した。
 それを破ったのは、縮れ毛だった。かれは、艶のある狂言回しの声色で、サハラを見下ろす青い空の、照り輝く午後の太陽に向かって、こう叫んだ。

「さあ、いよいよフィナーレのときがきた、今日のこの日、独立記念日を祝うために集った高貴で寛容で勇敢なエルゴレアの群衆は、あななたちを待っている、みな、早く会いたいと、待ち望んでいる、われわれの祝福に応える準備は、できたのか、きっと、できたよな、よし、できたのなら、さあ、はやく、一刻もはやく、ここに来て、伝統あるベルベルの、クサールの城郭を舞台に、美しくも艶やかな伝統の、ダンスオリアンタルを、見せてくれ、踊ってくれ、さあ、アイシャ、リンダ、レイラ、民族独立戦士の誉れ高いベン・ムーハメド家の三姉妹、みな、待ってるんだ、さあ、はやく、はやく…」

 重厚な琵琶の弦音が、ゆったりと城郭に響き渡り、観衆はじりじりして待った。と、緩慢に追随していた鼓と笛が、いきなり弾けるように連打連呼し、そこにマンダリンの合奏が勢いよく加わった。幾重にも重なる音や振動が、石垣にぶつかっては跳ね返る。複雑な共鳴で城郭全体が音のるつぼと化した。
 突然、また音が止んだ。会場は再び静まり返った。しかし、静寂は長続きはしなかった。
 短い沈黙のなか、床を滑るように、三人の姉妹が登場した。それぞれに、だれが見ても格が違う衣装を、身にまとっていた。
 ブルーの緩やかな貫頭衣を、光沢のあるグレーの麻生地の、だっぶりした上っ張りの裾からのぞかせ、長い脚を包んだカーキの皮革ブーツで踊る姿は、淑やかで優雅そのものだった。頭には深紅のショールを巻き、幾何学模様の装飾を彫り込んだ金冠を額に頂き、さらにその上から、グレーのレースですっぽりと覆っている。
 とくに目を惹いたのは、三人が三人とも、連隊長宅でリンダが着けて見せてくれた、あのベニエニの珊瑚と銀細工を彷彿とさせる彫銀の帯だった。それを、肌の露出した唯一の部分である喉元に、巻きつけている。富と格式の高さが、一層際立ってみえた。
 不思議なことに、どこからも手拍子はおこらなかった。静まり返った観客席は、熱気もザガリートも、無縁だった。ひとびとは、ただ羨望のため息を漏らし、優雅に踊る三姉妹の姿に、憧憬の眼差しを向けるばかりだった。
 オレも、ただ、優雅な三姉妹に見とれていたのだが、そのうち、聞きなれたメロディーが流れていることに、気が付いた。

「これは、たしか…」

 女中に雇って間もない、あのカスバのレイラが、早退したオレに、ありったけの好奇心で質問を浴びせた後、もらった小遣い銭十ディナールを握りしめ、一輪のジャスミンを耳に挟んで踊ったときに、どこかのラジカセから聞こえてきた曲だった。しかし、あのときは、ライだった。もっと速く、激しい、市井の、虐げられた民の、熱い反抗心の、緊迫感溢れる叫びだった。しかし、いま流れている曲には、その片鱗もない。

「…サッバールの花、赤い花、レイラは月か、月がレイラか、血塗られし殉教の真っ只中、これからというときに、レイラは崖から身をなげた…」

 歌詞を思いだすだに、殉教の悲劇を連想する。そんな中身の歌なのに、悲惨さのかけらも感じられない。鎮魂の旋律は、ただ優雅で優しく、無類の包容力で、聴く人の心をつかんでいく…観衆は、流れるメロディーにうっとりと身をゆだね、一にも二にも、殉教者と手を取り合い、癒しの宴に招き入れられていくのだった。
 同じ曲で、こうも違うのかとおもった。癒しへの誘いと抵抗への奮起…そうか、殉教者の魂を癒すのは、音とか美とか情愛とか、要はヒトの感性なのだ、同時に、殉教の魂を奮い立たせるのは、ヒトの知性を刺激し、それを左右できるもの、要は言葉なのだ、そしてこの二つは、共に存り、連還し、互いに働きかけ合っている…奇妙なことに、フィナーレが佳境に近づくにつれて、現実にそのことが、露わになっていった。

 突然、楽団の背後に、ベルベルの民族衣装を着けた十数人の合唱団が滑り込み、メロディーに乗って歌い始めた。こうして、曲と踊りに歌が加わった三姉妹表演の鎮魂舞踏は、劇場全体に醸し出された癒しの空気を、一回りも二回りも大きく膨らませていったのだった。
 だが、曲と踊りの感覚にうっとりと身を任せていた聴衆は、歌い継がれ聞きなれた鎮魂歌だけに、やがて殉教の魂を揺すぶられ、抵抗の心を呼び覚まし、結局は、反逆と報復への激情に駆りたられていくのではないかとおもわれた。
 実際、血塗られし殉教の真っ只中、これからというときに、レイラは月からぼくを見る、の最終節で、楽団と合唱団と舞踏の競演が最高潮に達し、フィナーレの第一弾は終わった。楽は止み、音は消え、三姉妹はいなくなり、城郭のあちこちからため息がもれ、やがて、それも消え、なにかが起こりそうな不安だけが残った。

 こうして、むせ返るような静寂の淵に突き落とされた観衆は、白昼の舞台になにが現れるのか、じりじりして待った。

 我慢すること数分、限界を感じただれかが叫んだ。

「どうした!もいうすぐマグリブだぞ!日が暮れちまうぞ!」

 おなじ抗議が方々から上がり、会場全体が騒然となりかけたとき、騒ぎをかき消すように、青い衣を総身にまとったオトコが一人、舞台に躍り出て叫んだ。

「まて、まて、マグレブの同胞よ、まーまて、そう焦るものではない」

 静かで伸びのある声色だった。かれはつづける。

「時間はまだまだ十分にある、屈辱と、怒りと、報復の戦いに勇ましく身を捧げた魂が、いま鎮魂の癒しを身にまとい、安息の静けさに身を委ねた、さあ、そっとしておこう、そして、この地エルゴレアが、安寧の地であらんことを、心から神に祈ろうではないか、アッラー・アクバル…」

 それから青装束のオトコは、オレには意味不明だったが、多分、コーランの一節であろう意味ありげな祈りの言葉を、仰ぎ見る空に両の手を差し伸べ、朗々と謳いあげた。どこかで見たことのある外連味たっぷりの礼拝の所作だった。はて、どこで…と自問しながら、しばらく眺めていたが、はたと気が付いた。なんのことはない、縮れ毛の座長その人だったのだ。なんとも見事に化けたものだ。さすがに一座を率いる役者だけのことはある…まるで伝導僧まがいの悦に入った演技を、感心しながら見ていたが、突然、かれが声を大にして叫んだ。

「レイラ! おまえの出番だ! 癒された殉教の魂を、安寧の地から解き放て! いまこそ受けつぐのだ、アッラーの正しい導きのもとに、聖なる使命と闘いの魂を、誠の心で受け継ぐのだ、レイラ! 障害に耐え、世間の辱めをものともせず、果敢に闘いつづけるおまえの出番だ! われらが抵抗の民の、新しき殉教の先頭に立て、レイラ!」 

 いきなり耳をつんざく鼓笛が響きわたり、千切れんばかりの速さで弦が掻き鳴らされた。ライのリズムが逸る心を煽り立てる。とっくにマンドリンは消え、そこに一座の楽団が陣取っていた。そして鳴り響く管弦に弾かれるように、レイラが舞台に躍り出た。

「レイラ!…」

 オレは息をのんだ。赤いターバンが空になびく。首も腕も露出した藍の貫頭衣が、煽情的に揺れた。あまりにオレのレイラと似ている。いや、あのレイラそのものだ。小女だったあのときも、ジャスミンの花弁の匂いが漂っていた。あれから一年、二年、三年…もはや小女ではない。ホルモン分泌の行きとどいた立派な女が、いまそこで、ライに合わせて踊っている。弧を描いて動く柔軟な肢体に、みな惹きつけられた。情慾をそそる際どい誘因力に、抗うものはいなかった。そればかりか、世間の仕打ちと辱めを肥しに、花弁の奥に仕込んだ報復の毒香にさえ、みな、吸い寄せられてしまうかのようだった。
 いきなり張りのあるオトコの声が、レイラの殉教のドラマを歌いだした。座長だった。あのヤボな縮れ毛がここまで器用な芸人だったとは、そのときまで気が付かなかった。手を叩き、踵を踏みつけ、肩をくねらせながら、犠牲心を讃え闘争心を崇めるベルベルの魂を、かれは果敢に歌いあげた。
 
荒地に花が咲いている、
まっ赤な花が咲いている、
枯れた土、硬い石、
雨の恵みに見放され、
サソリも住みはしないのに、
ヘビさえ見向きもしないのに、
ほら、あそこにも、こちらにも、
その向こうにも、あそこにも、
サッバールの花、赤い花、
レイラは月か、月がレイラか、
血塗られし殉教の真っ只中、
これからというときに、
レイラは崖から身をなげた…
 
 踊るレイラ、その周りを回り、座長が歌う。その座長の周りを回り、レイラも踊る。こうして二人は、互いを軸に、互いの周りを回りながら歌い、踊りつづけた。そんな二人に見入りながら、オレは、ずっと自問していた。肝心のレイラは、耳が聞こえないはずだ、そのレイラが、音楽と歌とリズムに、どうしてこうも完璧に、同期することができるのだろうか?…と。
その間も、レイラの殉教劇はつづいていた。
 
昔も花が咲いていた、
まっ赤な花が咲いていた、
枯れた土、硬い石、
雨の恵みに見放され、
サソリも住みはしないのに、
ヘビさえ見向きもしないのに、
ほら、あそこにも、こちらにも、
その向こうにも、あそこにも、
サッバールの針、尖った先、
レイラか月か、月かレイラか、
血塗られし殉教の真っ只中、
これからというときに、
レイラは崖から月を見た、
 
いま、サッバールは生き返る、
不屈の垣根が蘇る、
枯れた土、硬い石、
雨の恵みに見放され、
サソリも住みはしないのに、
ヘビさえ見向きもしないのに、
ほら、あそこにも、こちらにも、
その向こうにも、あそこにも、
サッバールの垣根、不屈の城、
レイラか月か、月かレイラか、
血塗られし殉教の真っ只中、
これからというときに、
レイラは月からぼくを見る…
 
 まさか聞こえているのではあるまいか…いや、レイラは障害者だ、その事実に間違いはない、とすれば、耳の他に聴く術を持っているのか? たとえば目で聴く、鼻で聴く、手で聴く、肌で聴く、骨で聴く、心で聴く…それより、ある日突然、耳が聞こえなくなったとしよう、そのとき自分はどうするか、沈黙の淵に閉じ込められるのだ。恐ろしい。しかし、すぐさま、身体のすべての感覚が、それを補完しようとするだろう、封印された聴覚に代わって…そう、答えは簡単だ、レイラは、全身全霊で、聴いていたのだ。
 実際、舞台では、身を投げた殉教のレイラが、天空を仰ぎ見て安座し、それから片膝を立て、後にしなる上体を左手で支えながら、哀願するように、右手を座長に差し伸べ、全身を揺らした。それに応え、座長は激しく手を叩き、膝を上げ、踵を踏み鳴らし、肩を揺すってはレイラに近づき、離れ、近づき、離れた。報復を訴える殉教の心と、それを受け継ぐものの慄き、戸惑い、ためらい、そして決意…二人が交わす親密な情愛、密かに分かち合う報復という太い絆、それらが観衆の心を虜にし、殉教の高みへと導いてゆく。

 オレは少なからず嫉妬を覚えた。五感の一部を欠いたものが、五感のすべてを享受できるものと、これほど親密に手を取り合い、接近し、会話し、同調し合えるものかと、理不尽にさえ感じた。

 やがて、左手をレイラに差しのべた座長が、断固として右手の拳を突きあげ、観衆の心が連帯の歓喜へと高まろうとしたそのとき、一瞬にしてすべてのものが静止し、音が消え、劇場は再びに熱い沈黙に支配された。気が付くと、座長は去り、太い絆の手を差し伸べたレイラだけが、舞台に残されていた。
 また不満が会場を覆った。殉教劇の法悦に浸る直前に、また突き放されてしまったからだ。

「どうした! 日が暮れてしまうぞ!」

 だれかが叫んだ。

「マグリブだぞ!」

 礼拝にはまだ間がある。それまでにフィナーレの最後の幕、劇的な大詰めのクライマックスを、みな、待ち望んでいたのだ。
 そのとき、楽師の居並ぶ背後から、朗々とした歌声が響いてきた。他でもない、その日のトリの団長の歌声だった。意表を突くために、いつの間にか楽師に紛れて、待機していたのだ。それが座長の演出だとすれば、お見事という他にないだろう。
 事実、団長の頭には、赤いターバンが巻かれ、端部が風になびいていた。殺されたトビが、娼婦レイラのために買いそろえておいた遺品の一つ、雇い主の社長から借り受けていたものだ。おそらく借りた時点で、すでに、この場面を想定していたに違いない。おそろいの赤いターバンを巻いて宴を締めくくる自分とレイラ…団長意外におもいつける演出ではない。

 驚いたのは団長の声量だった。胸板が特段、厚いわけではない。普段の話声や喋り方に、いかにも高い歌唱力と教養が窺い知れる、というわけでもない。多少、知的にはみえるが、それほど風采の上がらない、中肉中背の、白髪頭の中年オトコなのだ。
 最初に空港に迎えに行ったときには、麻布の上下にしゃれた鳥打帽など頭にひっかけて、はて、どこからやってきたバカンス客かと、一瞬、目を疑ったものだった。群れる旅行客の間を、あちこち手荷物探しにうろうろする風体は、あくまで没個性で、世間的には、どこにでも見受けられる存在としか映らない。そんなオトコが、大観衆の鼓膜を直に震わせる発生術を身に着けた才人とは、当の本人がプロのオペラ歌手と知っているオレはさておき、いったいだれが想像できただろうか。
 観衆でびっしりと埋め尽くされた城郭の石段が、劇場の底からすり鉢状に、天空に向かって積み上がっている。その一段一段から、熱い吐息が漏れ出ているのを肌で感じていたオレは、無性に腹立たしくなった。なぜこんなヤツに感動するのか。なぜこんなオトコを相手に、レイラが、情愛をこめた潤んだ眼差しで、絆を求める手を差し伸べようとしているのか。
 第一、うりざね顔に目鼻立ちのおとなしい団長に、いくら大口を開き大声で叫んでも、ターバンは似合わない。しかも幅広の赤い端部が、空を切って風になびいている。勇ましくも一族を率いる頭領の出で立ちだ。よほど彫が深く、眼光鋭い顔相でなければ、優しすぎて負けてしまうのだ。
 だが、そんな団長を、愛しそうにレイラは眺め、絆を求めた。劇場一杯に響き渡る団長の愛の歌を、全身全霊で聴き、情愛に引き裂かれ、不倫に戯れ、裏切りに怒り、復讐に燃え、そして自らの死に向かう…イタリア語で歌い上げる騎士道の悲劇が、レイラの身に起こる殉教劇と重なり、二人して手を取り合い殉教の淵に身を投げる幻想に、クサール遺跡に居合わせたすべての人たちは、手放しで感動し、ザガリートで歓喜の喉を鳴らし、祝福の喝采を惜しまなかった。
 
 ただ一人、オレだけが嫉妬に駆られ、劣等感に苛まれていたのだ。オレは、団長の歌を聴いていたのか、それとも聴いていなかったのか…。

 もしこの耳で団長のオペラを聴いていたのなら、聴こえないレイラが全身全霊で聴いた以上に、オレは感動し、納得し、喝采してもいいはずだ。ところがどうだ、カバレリア・リュスティカーナの楽曲から、オレは、なんの感動も受け取らず、ただ歌手の声量のすごさに、感心しただけのお粗末さだ。
ところが聾唖であるはずのレイラは、田舎の騎士道をしっかりと聴き、男女の三角関係に同情し、そこから起きた悲劇に涙し、それを演じる団長のすべてを受けいれ、求め、そして団長も、そんなレイラをしっかりと受け止め、情愛を交わし、心ひとつに二人して赤いターバンを風になびかせながら、その日のトリを共に演じ終えたのだ。

 障害をものともせず、無心に手で舞い足を踏みならしたレイラを、オレは心から祝福し、その器量に心底、劣等感を覚えたのだった。その日を境に、ヒトとして、演者として、オトコとオンナとして、完璧に絆を結び心を交わせあったレイラと団長をおもうにつけ、めらめらと燃え上がる赤い嫉妬に駆りたてられる自分を、どうすることもできない日々を送ることになった。

赤の連還 14 赤い嫉妬 完 15 赤い月 につづく


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