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【奇譚】赤の連還 9 赤い貫頭衣

赤の連還 9 赤い貫頭衣

 また雨期が近づいた。レイラがきてから四度目の雨期だった。
 オレから大金をうけとり、胴に巻きつけて持ち帰った日から、レイラは一度も姿をみせなかった。あの次の日に手術を受け、二、三日大事をふんで休養したとしても、一週間もすれば元気になるはずなのに、もう十日もたった。だが、いまだに姿をみせないばかりか、なんの連絡もよこさない。

「いったい、どうしたというのだ」

 あの日、銀行の帰りに、スークでレイラに服を買った。カビリーの山岳民族が着る、伝統的な赤い貫頭衣だった。
 彼女に渡すカネは、札束で五つあった。危険なカスバの中を、しかも日が暮れて小女ひとり、どうやってその大金を運ぶのか。心配だった。いろいろ考えるうち、フロシキで胴に巻きつけ、服の下に隠して運ぶという名案を思いついた。それには太めのワンピースがいる。
 ちょうど港をみおろすスークの大通りに、さしかかったところだった。すぐに車を止め、妊婦でも着られそうなダブダブの貫頭衣を、屋台でひとつ、買い求めたのだった。
 だが、レイラは着るのをいやがった。

「赤い色は好きだけど、あたいはカビールじゃない、トアレグだよ、だから、着るのはいやだよ」

と主張した。そして、

「カスバは、ダンナ様が考えているほど用心のわるいところじゃないから、安心していいよ」

と、何度も強調した。
 レイラがトアレグの血を引く娘だったとは、その時まで知らなかった。

「オマエの謄本の、どこにも、そんなことは書いていないぞ、なぜ、自分がトアレグだって、分かるんだ?」
「バアちゃんが、教えてくれたよ」
「トアレグとは、キャラバンを組んで砂漠を往復する、あのトアレグ族のことか?」
「そうだよ、そのとおりだよ」

 怪訝な表情をくずさないオレに、祖母がカスバに住みついた経緯を、説明してくれた。
 祖母は、ある高貴なトアレグ族の家系の、十三番目の子として生まれた。八才のとき、族長だった父が、オアシスで行き会った白人の商人から、アニス酒を一本譲り受けるため、交換条件として、七人いた娘の末っ子の彼女をさしだした。商人は、大喜びでアニス酒をわたし、代わりに彼女を女中として、首都の邸宅につれ帰った。
 男の盛りだった商人は、女中が成長すると、毎晩、部屋に通うようになった。彼女は、なんとかしてその境遇から抜け出そうと考えた。というのも、そこで雇われていたおなじ年ごろの下男と、すでに親しくなっていたからだ。そしてある晩、二人は、申し合わせて駆落ちし、カスバに逃げ込んで住み着いた。そこでレイラの母親が生まれ、自分が生まれた、というのだ。

「だからあたいは、トアレグの血を引く娘だよ」

 レイラは自慢げに鼻をふくらませた。
 はたして老婆が、ほんとうに族長の娘だったのか、奴隷の一人だったのか、実のところはわからない。ただ、実の子であれ、奴隷の子であれ、生身の人間を酒ビン一本と交換するとは、なんとも酷な話だとおもった。酒瓶一本で売られる娘の姿が、あわれで同情の言葉もない。しかも、そこに白人の植民者がからむと、事態は悲惨の度を増してくる。
 オレは、半信半疑できいていたが、老婆の境遇とレイラのそれが奇妙にかさなりあい、同情を感じてつい、胸を熱くしてしまったのだった。

 四年まえ、羊祭りの翌日、仕事を求めてやってきたレイラに、オレは少なからず重い気分を味わった。幼く教育の足りないわりには、生きる才覚をしっかりと身に着けた陰気な小女を、うまく使っていけるかどうか、自信がなかった。考えただけでも、億劫だった。それがいま、小女のいない欠乏感に、日夜、さいなまれている。

「いったい、レイラは、どうしてしまったのか…」

 手術が失敗して、取返しのつかないことになったのではないか。いや、それはない。もしそうなら、兄のホッシンが報復にやってくるだろう。ナイフを振りかざして脅しにくるか、法外な慰謝料を要求しにくるか、また予測もつかない別の手でおしかけてくるか、なにがあっても、おかしくない。

 夕食時、仔羊の漬け焼でワインをすすりながら、あらぬ憶測に、ひとり鬱々と、頭を悩ませる日々が、続いた。
 そんなある日、遠くの方で、ライが流れていることに、ふと、気がついた。

「そういえば…」

 このところ、朝でも昼でも夜半でも、なにかの拍子でわれに返ると、そこには必ず、ライが聴こえていた。ということは、いつもなにかに気をとられて、このせっかくの、激情溢れる流行歌も、自分の耳に、まともに届いていなかった、ということなのだ。
 この土地では、隣近所に気兼ねせず、ラジオ、ラジカセ、テレビでも、好きな音楽ともなれば、のべつ幕なしの大音量、耳栓でもしなければ、とても平穏無事には暮らせない、といった非常時が、日常になっていた。

「非常識!」

 そんな毎日に、赴任当初は、がまんできなかった。中庭に飛びだして、向こう三軒両隣に、大声だして怒鳴りもした。が、いつのまにか慣らされた。非常識の攻勢が、あまりの日常性で繰りかえされると、いつのまにか、常識感覚が磨耗してしまうのだ。
 というよりも、常軌を逸した騒音から身を守るために、聴覚が一生懸命に学習して、鼓膜への音量調節技能を、進化しつづけてきたのかもしれない。
 だが、そのせっかくの技能進化も、われに返れば再起動されて、もとの聴覚機能にもどってしまう。そして一旦もどると、機能は、もちまえの繊細さに初期化され、虫の息でも聞き分けようと、また懸命に、働くようにできているのだ。
 事実、いつも流れるあのライが、いま、ワイン漬けの脳と共鳴し、まるで過敏症の耳鳴りのように、頭の内側から聞こえてくる。
 
荒地に花が咲いている、
まっ赤な花が咲いている、
枯れた土、硬い石、
雨の恵みに見放され、
サソリも住みはしないのに、
ヘビさえ見向きもしないのに、
ほら、あそこにも、こちらにも、
その向こうにも、あそこにも、
サッバールの花、赤い花、
レイラは月か、月がレイラか、
血塗られし殉教の真っ只中、
これからというときに、
レイラは崖から身をなげた、
 
昔も花が咲いていた、
まっ赤な花が咲いていた、
枯れた土、硬い石、
雨の恵みに見放され、
サソリも住みはしないのに、
ヘビさえ見向きもしないのに、
ほら、あそこにも、こちらにも、
その向こうにも、あそこにも、
サッバールの針、尖った先、
レイラか月か、月かレイラか、
血塗られし殉教の真っ只中、
これからというときに、
レイラは海から月を見た、
 
いま、サッバールは生き返る、
不屈の垣根が蘇る、
枯れた土、硬い石、
雨の恵みに見放され、
サソリも住みはしないのに、
ヘビさえ見向きもしないのに、
ほら、あそこにも、こちらにも、
その向こうにも、あそこにも、
サッバールの垣根、不屈の城、
レイラか月か、月かレイラか、
血塗られし殉教の真っ只中、
これからというときに、
レイラは月からぼくを見る…
レイラか月か、月かレイラか、
血塗られし殉教の真っ只中、
これからというときに、
レイラは崖から身をなげた…
 
「ああ、レイラ…」

 あのときレイラは、オレの差しだす十ディナール札を握りしめ、ライにあわせて踊りだした。四肢五体が躍動し、はち切れんばかりの嬉しさが、オレの心を解きほぐし、内から暖めてくれたのだ。速いリズムも手伝って、日ごろの惰性が狂いだし、血肉の通った実像に、オレを追いたててくれたのだ。

 レイラは月か、月はレイラか…、

「レイラは、もちろん、両方に、きまってるじゃないか…」

 ライとワインに身をまかせ、オレはひとりで納得した。

「レイラは月、オレの心を照らす小女、同時に、その小女は、オレに生を吹きこむレイラ自身…」

 それなのに、

「なぜ崖から身をなげる?…」

 血塗られし殉教の只中で、しかもこれからというときに、なぜレイラは身をなげなければ、ならないのだ?…

「そういえば」

 いつかアライシア・アベスがいっていた。

「血塗られし殉教、というのは、侵略者との闘いのことなんです、いくら根絶やしにされても、サッバールの根は、必ず生き残るんですよ、だから、いくら根こそぎ浚っても、必ずいつかは、よみがえるんです、その破壊と再生の只中で、レイラは<ぼく>のために身を投げ、最後には、月になって、その<ぼく>を、見守ってくれるんですよ」

そして彼は、こう補足した。

「サッバールは命、<ぼく>はベルベルの民、そしてレイラはイスラムの守護神、ジハードの象徴ですよ」
「いや、それは、ちょっとちがうな」

オレは直ちに反論した。

「サッバールは命、これは了解だ、<ぼく>がベルベルの民、これも納得する、しかし、レイラは違う、レイラは、ジハードの象徴、などではないよ」
「では、なんだと思うんですか?」
「レイラこそ神だ、あまねく下界を照らし、優しく民を導く神の愛だ」
「それは、キリスト教徒の考え方、ですね」
「愛にセクトはないよ、世界は一つだ、だからイスラムは一神教で、かつ、多神教を禁じてるじゃないか、守護神がいること自体、矛盾するんじゃないのか」

 いいながらオレは、言葉の虚しさを、痛感していた。多神教を駆逐した末に、唯一絶対神を守るための守護神を考え出すとは、どこまでご都合主義な考え方なのか。
 オレは義憤を感じたが、世俗の宗教とはこうしたものと、思わないわけでもなかった。定理、原理はまともでも、その布教となると恣意、方便も出てこよう。自分が納得すればそれでいい。それですべては完結する。言の葉を器用に操って、いろはの順序さえ入れかえれば、好みの言説はすぐにでも、でき上がってしまうものだ、根も葉もないたわごとが。

「要は、実態を掴むことだ」

 そうだ。まさに、実が何かを把握することだ。

「いま、オレのレイラはいない」

 これが実態だ。オレの前からいなくなった。そして戻ってこない。消えてしまったのか。そんなはずはない。どうしてこうなったのか。もしや月になったのでは? いや、まだまだ詩の世界には早すぎる。では実態は何なのだ? オレから大金とり立てて、カスバのどこかに逃げたのか?

「逃げた?…」

 なぜ逃げる? 逃げると思う心の方が、俗悪だ。オマエは小女をかどわかしたのか? 拉致した上に、監禁したとでも、いうのか?

「バカな…」

 鬱々とワインは進む。正体なく酔ったオレは、胸のつかえが下りないまま、また鬱々と飲み続ける…。
 いくら悩んでも仕方がなかった。向こうの状態が分からない以上、こちらでどうすることもできない。まず、実態を確かめる必要が、あった。
 二週間目に入っても、小女は現れなかった。
 いよいよ心配になったオレは、直接、家にいって確かめてみようと、思った。
 ホッシンから事情を聞くことも考えたが、知り合ってからもう四年、彼もそろそろ十六才だ。男の誇りに目覚める年ごろだ。万一ということを考えると、気が怯んだ。

 その日、一気に、カスバへの階段を、駆け下りた。 
 夕刻だというのに、小女の家には、鍵がかかっていた。念のため、ドアをたたいたが、応答はなかった。中庭から、小窓をのぞいてみようと思ったが、そうする自分の格好を想像しただけで、いやになった。
 こぶし大に丸めたビニール袋をボール代わりに、路上サッカーに興じる子どもの群れがあった。何人かをつかまえて、たずねてみた。

「ここに住んでいる、レイラという小女に、会いにきたんだけど、留守でいないんだ、どこへ出かけたか、だれか、知らないか?」

 オレをとり巻いた子どもの数人が、

「万引きしてつかまったよ」
「海におちて死んだよ」
「家賃が払えなくて、大家に追い出されたよ」

などと、思い思いの作り話をならべたて、互いに顔を見合わせては、ヘラヘラと笑う。どこへ行っても悪童どもに変わりはない。他人は好きなだけからかうものと、決めているのだ。
 それから毎日、事務所の帰りに、小女の家にたちよった。だが、いつも空だった。となり近所のチャドルに身を包んだ女たちにもきいてみたが、たしかな返事は返ってこなかった。
 オレの不安は増大した。

「なにかあったにちがいない」

 手術がうまくいかなかったのだ。失敗したのだ。
 どんな器具を使うのか、知るよしもなかった。だが、どうせ非衛生的で、野蛮な処置にきまっている。むかし、貧農の女たちは、木の枝をさしこんで、胎児の処理をしたというではないか。たまに失敗して、破傷風で死んでしまうケースも、少なくなかったという。膣に自ら木の枝を挿入し、ささくれた異物を辛抱づよく体内に呑み込んでゆく。先端が胎児の頭部を破れば成功だ。想像するだけで恐ろしい。まさかレイラが、破傷風にかかるとは思えないが、絶対にないと、言い切る保証はどこにもない。 

 不安は日に日に大きくなり、妄想に変わっていった。レイラはもうこの世にいないのでは、とさえ思った。自責の念で、胸が潰れそうになった。

「なぜ、彼女を、とめなかったのだ…」

 なぜ、安易にカネを、渡してしまったのだ…カネがなければ、手術はできない。手術をしなければ、こんなことにはならずに、済んだのだ。
汚れた闇の手に、レイラを引き渡すべきではなかった。私生児を産み、カスバを追われ、陸橋から身投げをしなければならないのなら、そうならないようにしてやるべきだった。あの小さな体から、重い荷物をとり除いてやるべきだった。それができたのも、そうすべきだったのも、このオレを除いて、他にだれがいたというのか。

「オレは心底、小女の力になるつもりだった」

 蹂躪されるひ弱な小女を援助し、不幸な境遇から彼女を救い出したいと、願った。そしてその通り、してきたつもりだった。
 だが、実際には、彼女に恩を売り、庇護をうける境遇をさげすみ、利己の求めるままに、利用した。懸命に生きようとする当人を蹂躪した。それから小女を守ってやろうと決めた当の相手に、いつのまにか、自分がなり下がっていたのだ。
 しかもそのことに、いまのいままで気づかなかった。

「なんて、愚かだったのだ」

 すぐにでもレイラを養女にし、妻にしなければならない。許されるなら、たったいまこの腕に小女を抱き、自分のしてきたことのすべてを詫びて、許しをこわなければならない。
 その夜も、いつものように、ライの歌とリズムに身をあずけ、ひとり鬱々とワインを飲んでいた。帰りにたちよった小女の家は、やはり空のままだった。
 午後になって降りだした雨は、いつしか本降りになり、夜に入って、強風をともなう雨期特有の嵐になった。
 風にあおられた大粒の雨が、厨房の窓に当たって破裂し、無数の水流を描いて落ちてゆく。寒々とした気分でその様をながめていたオレは、なぜかふと、いまをのがせば二度と小女にあえなくなると、確信に近い予感をいだいた。
 後悔と呵責の念は頂点に達し、瞬間、ワインの色が、レイラの流す生々しい血の色に見えた。

 オレは、家をとびだした。
 夢中でカスバにかけ下りた。

 じっとしていられなかった。重苦しい空気が胸を圧迫する。動けば不吉な予感も消えるだろう。小女の家に行けば、それが叶うと思った。
 ずぶ濡れでたどりついた家の、赤い扉から、はたして、ほんのりと、一条の明かりがもれていた。耳をすますと、わずかに人の気配がする。

「よかった! たすかった…」

 あの不吉な予感は、やはり、誤りだったのだ。
 はやる気持ちをおさえた。乱れた呼吸をととのえ、冷静になってドアをたたいた。

 いや、たたこうとした。
 そのときだった。
 ドアの向こうから、いきなり女の笑い声が、きこえてきた。
 それは、たしかに、レイラの声だった。

 だが、耳なれない奇異な抑揚が、そこにあった。常軌を逸した生々しい感情の弾みが、あった。傷つき、うちひしがれたはずの本人からは、想像もできない、けたたましい笑い声だった。
 虚を突かれたオレは、その場に身をかがめ、じっと中の様子をうかがった。
 小女は、ひとりではなかった。別の、もう一人の息使いが、そこにあった。呼気の太さから、それは確実に、男のものだった。

「ウッ…だれだ?…」

 オレは、扉に耳を、押しあてた。
 赤い木質の扉をへだてて、小女の柔らかい呼吸が、伝わってきた。ゆっくりと優しく、満ち足りたリズムで、それはくりかえされる。オレとの生活で、小女がこれほど無防備な息づかいをしたことが、あっただろうか。元気なレイラを喜ぶ一方で、あてのない嫉妬が、頭をもたげはじめた。
 レイラが、こんな夜更けに男といる。しかも、喜々として楽しげに…。

「ム…許せない」

 いったいだれだ。父親はとっくに死んだ。親代わりの身内はいない。

「兄のホッシンか?」

 そんなばかな。レイラ自身、その存在をあれほど忌み嫌っていたではないか。

「いったい、だれなのだ?…」

 また、笑い声がきこえた。木の軋む音がした。とっさにオレは、部屋の構造を思い浮かべた。粗末なテーブルが一つに台所がわりの流し、床は鮮やかなモザイクタイルで、軒の高さに小窓がある。その斜め下にベッドが一つ、壁にくっ付けて置いてあった。それらはみな、四年前の羊祭りの日、老婆を訪ねたときに目にしたものだった。

「軋んだのは、あのベッドか…」

 オレは直感した。たしか上には、カビリー模様の覆いがかけてあった。日に晒された朱色の地が、古びた室内とぴったり釣り合っていた。スプリングは萎え、中央部はひと一人分、きれいにへこんでいた。
 突然、あらぬ連想で心が乱れた。もつれ合ってベッドに倒れこむ小女とみしらぬ男…。

「ばかな…」

 第一、彼女は術後の身だ。回復もしない体で、そんなことができるわけがない…オレは自分を納得させようとした。だが、一度抱いた疑惑は、容易に払いのけることはできなかった。
 現にオレの耳に、小女の満ち足りた息づかいの、徐々にうわずっていくのが、聞こえてきた。それにつれて男の呼吸も、次第に荒くなっていく。それは明らかに、鬱積した性の、あからさまな発露を想像させた。
  反射的に、交尾期の禽獣を連想したオレは、確信した。

「二人は抱き合っている」

 怒りが込み上げてきた。あれだけ面倒をみたオレの前で、あろうことか、ほかの男に身をまかせるとは。

「裏切りだ…」

 なぜだ。あの無垢なかいがいしさは、どこへいった。胸ふくらませて約束した養女への夢は、どこへいったのだ。あれもこれも、口先だけのウソだったのか。
 オレはドアを離れ、中庭に走った。裏切りか、誤解か、オレの勝手な妄想か、たったいま、確かめてやる。裏切りが事実なら、しかとこの目で、見とどけなければならない。
 中庭の木戸は開いていた。すぐ左手に大きなゴミ箱が、いくつか並べてある。その一つに足をかけ、雨水のたれる瞼を拭い、小窓にしがみついた。
 流しのうす暗い裸電球の下で、はたしてオレの妄想は、ただちに実証された。
 直観どおり、カビリー模様の覆いの上で、胸をはだけたレイラが、みしらぬ男の下になっていた。
 上半身をあらわにした男は、青いズボンの下半身で小女をまたぎ、筋肉の盛り上がった腕を、彼女の首に回していた。
 男の頭が、小麦色の小女の肌を求め、右に左に動く。それを両手に抱え、レイラはいじらしそうに頬で撫で、唇を押しつけた。むつまじく交わる二つの肉体…それを目の当たりにしてオレは、息が止まるほどの衝撃を、覚えた。
 嵐がひどくなった。風雨が渦を巻いてふきあれる。びしょ濡れのジャンパーを頭からかぶり、オレは窓にしがみついた。
 怒りはレイラに集中した。

「裏切りは許さない、断罪しなければならない…」

 二人の体は、次第に躍動しはじめた。肉と肉が揉み合う弾力が、伝わってくる。目をそらせたい気持ちをおさえ、オレは、揺れる二人を凝視した。

「だれだ?…」

 男が、レイラの服を脱がせはじめた。両手を上げ、上体をしならせ、小女は男の手の動きに従った。裸体の小女の上で、こんどは男がズボンを脱ぎはじめた。口で乳首を吸い、左手でベルトをはずす。ズボンを下にずらすとき、レイラは男を挟んだ両脚で、それを手伝った。
 眼下の二人は全裸で重なった。
 揉み合い絡み合う肢体を見ながら、オレは、嫉妬と怒りで気が遠くなった。男は小女の胸の上で、股間の間で、身をくねらせ、腰を突き上げた。
 曇って見えにくくなったガラスを拭こうと、一瞬、窓から離れたとき、オレは思わず、叫んだ。男の右脚が、左脚より、短いのが見えたのだ。息をのんで窓に鼻をこすりつけ、もう一度オレは見た。短い太股が、ほそく変形している。
 男は奇形だった。
 それはほかでもない、あのホッシンの脚そのものだったのだ。

 オレは、はじかれたように、窓からとびのいた。
 
 実際、オレはそれまで、服を着たホッシンしか見ていなかった。
 脚が不自由ゆえに、あれほど腕の筋肉が発達していたことも、分厚い胸が野性的な体毛におおわれていたことも、知らなかった。ただ貧相で醜悪な、ダブダブの青い作業服に身を包んだ少年としか、見ていなかったのだ。
 オレは、ほとんど転がるように表にまわり、入り口の赤い扉をけ破って、中に突入した。

「ワッ!」

 不意を突かれた二人は、ベッドの上で抱き合ったまま、異様な叫び声をあげた。かまわずオレは、まっしぐらに男に襲いかかった。恐怖にひきつったその顔は、思ったとおり、ホッシンのそれだった。毛深い胸から肩にかけ、たくましい筋肉が盛り上がっている。だが、醜くゆがんだ表情は、幼い少年そのものだった。その不一致が、また極度にオレをいらだたせた。
 オレは、少年をレイラから引き離し、力まかせに突きとばした。のけぞったはずみで少年は、流しに後頭部をぶつけ、タラタラと体液をもらしながら、その場に崩れ落ちて気絶した。

「ホッシン!」

 レイラが、金切り声をあげ、少年に抱きついた。それをつかまえ、平手で二、三度なぐりつけ、鷲づかみにして、ベッドに放り投げた。そして、あお向けに転がったところを両股で抑えつけ、首を絞めてねじ伏せた。

「ウッー、やめて!」

 爪を立て、手足をばたつかせ、つまった喉を押し開き、小女は叫ぶ。その悲壮なさまが、憎らしい。オレはかまわず、折れそうな首を容赦なくしめ上げて、叫んだ。

「この、ウソつきめ! 親身になって、助けた恩人を、オマエは、あっさり、裏切った!」

 小女は、しかし、出ない声をふりしぼり、額に青筋を立て、わめいた。

「なによ、あたいはわるくないよ、ちゃんと働いたよ、掃除もしたし、ダンナ様のすきな料理も、つくったよ、クルしいよ、ハナしてよ!」

オレはますます逆上した。

「生意気いうな! ろくな教育もないくせに、屁理屈だけはたいしたもんだ、働いた、だと? 働いたからカネをもらった、だと? 冗談じゃない、オマエを雇ったのは、婆さんに頼まれたからだ、でなきゃ、だれがオマエなど使ってやる、このおおウソつきが」

 小女は必死でもがいていた。

「いやだ、きらいだといいながら、その実どうだ、あの片輪の下衆ヤロウのいいなりだ、犬畜生でも身内同志はサカらないぞ、オマエらは、血を分けた兄妹だろ、それが、なんだ、なんてヤツらだ、そんなヤツを、だれが雇う、そんな恩しらずを、だれが使う…」

 気がつくと、手中の重みが消え、生身の感触もなくなっていた。小女は目を閉じ、裸体は萎えてぐったりしている。二、三度ゆすったが、反応がなかった。
 オレはゾッとした。

「レイラ!」

 名前を呼んだ。平手でたたいた。やっぱり反応がない。オレは後悔した。悲嘆にくれた。大変なことをしてしまった。どうしよう…。

「レイラがいなくなる!」

 そう思っただけで、たえられなかった。他のなんだって、受け入れることができると、思った。裏切りだって、近親相姦だって、もう、なんでもいい、どうでもいい、大切なのは、レイラが、生身の体で、オレの傍に、いることなのだ。
 オレは、流しに走った。ホッシンをけとばし、棚からバケツをとると、水を汲んでベッドにかけもどった。
 頭から水を浴びて、レイラはやっと気がついた。

「ホ、よかった!」

 オレは小女に抱きつくと、シーツにくるんで水気をふき取り、言葉を尽くして謝った。そして、

「あれだけ親身になったオレのことを、どうして、あんなに、易々と裏切ったんだ、それも自分の兄と交わるなんて、正気のできることではないぞ、どんな理由で、手違いで、そんな醜いことになったんだ、なぜだ?」

と、問いつめた。レイラは、ブルブル身を震わせがら、

「あたいのせいじゃないよ、大家のせいだよ、みんな、アイツがわるいんだよ」

と、消え入りそうな声で、答えた。

 人はよく、自分のせいではない、という。この地では、だれもが使う常套句だ。まともに聞いたためしはない。だがレイラは、いまはっきりと、名指しで大家のせいだといった。そのことにオレは、妙に引っかかった。

「大家がわるい? どういう意味だ?」

 するとレイラは、目をしばたいて、こう答えた。

「ホッシンは、大家のムスコだよ、バアちゃんが、そういったよ、だから、ホッシンとあたいは、兄妹なんかじゃ、ないよ」
「?…」

 妙だ。大家はホッシンを、レイラの父の兄の息子だといった。それをレイラは、大家の子だという。 

「ン、どういうことだ?」

 小女は首を横にふり、分からないとくりかえした。

「分からないですませられる問題か」

 オレは、レイラの肩を揺すって、問いつめた。

「他に、婆さんから、なにをきいた、なんでもいいから思い出してくれないか、このままだと、分けが…」

 そのとき背後で、太い声がした。ふりむくと、意識をとりもどしたホッシンが、流しにもたれて頭をかかえ、空に向かってなにかいおうと、喘いでいた。

「なんだ、オイ、なにが、いいたいんだ」

 オレは、強引に詰めよった。盛りあがった筋肉と奇形の裸体が、奇異なほど釣りあわない。それだけに、野卑な醜悪さが、際立ってみえる。オレはおもわず、目を逸らせたが、その目線を執拗に追いながら、ホッシンが喘ぎの中で、こう告白した。

「大家が、このオレを、生ませたんだ、レイラのオフクロによ…」
「?…」

 オレはあっけにとられて、二の句がつげなかった。

「なんだって、大家がオマエを?…」

 その意味を咀嚼しようと、気をとられた隙に、レイラは、オレの手を振りはらい、シーツごとホッシンに飛びつくと、二人で包まり、抱きあった。

「ケガは? アタマは? 痛くない?」

 レイラが、さも愛しげに、ホッシンをいたわる。その様子で、オレは、二人が共謀して造り上げた狂言に、自分がまんまと乗せられたのだと、実感した。

「そうか…で、オマエたちの企みは、なんなんだ!」

 いうが速いかオレは、テーブルをずらして入口を塞ぎ、その上に椅子を積みあげ、共謀者が簡単に逃げられないように退路をふさぎ、流しの隅に、二人を追いつめた。

 狂言には台本がいる。台本には筋書きが必要だ。筋書きの素は記憶にある。そこには、当事者の損得勘定にまつわる事実や思惑が、如実に表われるものだ。自分が損をし、相手が得する記憶など、だれも想定しないし、捏造もしない。この際、オレに損をさせ、二人が得する台本の筋書きは、いったい、どんな記憶を素にしているのか。

「さ、じっくり、話を聞こうじゃないか」

 二人は、すっかり、観念したように見えた。どちらからともなく、他人には開示できない密かな、としかみえない記憶を、ポツリ、ポツリと、さも物惜し気な様子で、辿りはじめた。

 記憶とは、いい加減なものだ。他人の記憶は、本人以外には分からない。だから、なんとでも表せる。捏造した記憶も、本人がホンモノだといえば、他人には分からない。ただ本人のみが、虚実を知るばかりだ。それは、しかし、いずれ当人の矛盾として、衆目に曝され、自分に跳ね返ってくることに、なるだけのことなのだ。

 オレは、焦らず、じっくりと、二人の記憶を追った。

 やがて、レイラだけが知ることもあり、ホッシンしか知らないことがあることも、分かった。それらを総合すると、ほぼ、こういうことだった。

 レイラの母ファトマの最初の夫は、レイラの父の兄で、戦争中に獄死した。そして、土地の習わしに遵って、その弟が、ファトマを引き受けることになった。そこまでは、変わりなかった。だが、あとは全部、ちがっていた。

 大家から聞いた話では、兄が投獄される前にホッシンが生まれたことになっていた。だが、実際は、それよりずっと前に、彼は投獄されていたのだ。

 貧農に嫁いだファトマの生活は、赤貧洗うが如しの、ひどいものだった。みかねた老婆が、雇い主の大家に、こう頼んだ。

「娘の働き口を探してくださらんかね」

 大家の答えは、寛大だった。

「ン、心当たりはないが、うちならあと一人くらいは、雇ってもよかろう」

 二人は大いに感謝し、せっせと大家のもとで働いた。

 そのうち、老婆のスキをみて、大家がファトマに手を着けた。何のことはない、初めから、そのつもりだったのだ。そして生まれたのがホッシンだった。

 そこまで聞いて、おおよその察しはついた。大家がホッシンを実家に引きとったのも、敬虔なる宗教心からではなかったのだ。自分が手をつけた女に生ませた実の子だったからだ。

「だが、まてよ、どこかおかしい…」

 ホッシンがこれだけ知っているのに、レイラはなにも知らなかった。どういうことか。

「なぜだ?」

 なぜその時点で、老婆はレイラに、事実を伝えなかったのか。伝えなかったとすれば、何を恐れて、そうしなかったのか。またホッシン自身も、なぜレイラに、そのことを話さなかったのか。

「ホッシン、オマエ、このことを、だれから聞いた?」
「だれからでも、ないよ、耳が、教えてくれたんだよ」
「耳が?」
「ひとの口はふさげないだろが」
「なら、なぜ、レイラは知らないのだ?」

二人は顔を見合わせ、

「分からない」

と答えた。

 たしかに、よく分からない。

 もし、口から耳の内緒話がそこまで真実を伝えるのなら、レイラが実の妹であることくらい、ずっとまえからホッシンの耳にも届いていたはずだ。ところが当の本人も、事務所で縁組承諾書の話をしたとき、初めて知った意外な事実に、目を輝かせて喜んでいたではないか。

「どこかおかしいな…」

 やっぱり、二人は、このオレを、騙そうとしている。

 大家はたしかに強欲で、悪辣な人間かもしれない。社が振り込む家賃は、すべてスイスの銀行口座あて、税務署の申告価格は微々たるものだ。脱税蓄財の典型をいっている。

 だが、オレにウソをついてなにになる。ホッシンがだれの子であれ、オレにはなんの関係もない。それこそ旺盛な性欲の弁解に、自分の股でも指さして、

「コイツがいうことをきかなくてな」

くらいの冗談で、笑いとばせる類の話ではないのか。

 半信半疑のオレを見て、ホッシンはいらだった。

「アンタ、ウソだと、おもってるな?」
「そうだ、信じられない」
「ダンナ、やっぱりアンタは、金持ちの見方だよ」

 彼は吐き捨てるようにいった。

「金持ちはみな信用される、なのに、貧乏人は、どんな正直者でも、相手にされないんだ」
「それは違うぞ」

オレは即座に反論した。

「第一に、大家がオレにウソをつく理由がない、第二に、その話をだれからきいたか、オマエは明らかにしていない、第三に、オマエは金持ちに偏見を持っている、カネを持っているだけで悪者扱いだ、世の中は、それほど甘くはないぞ、カネを持つということは、それだけ、他人にいえない苦労をしている、ということだ、カネは決して、向こうからやって来くるものでは、ないぞ」
「ホント、ダンナは分かってないな」

 ホッシンがさえぎった。

「なにをだ?」
「いまの、いままで、先進国の、ココのまともなお方と、おもっていたのによ」

 いいながらホッシンは、人差し指の先端をこめかみ部分にねじ込む仕草で、オレを嘲弄した。

「ダンナは、頭がおかしいね」
「ふざけるんじゃない!」
「大家にまるめこまれた、あわれなダンナさま、だね」
「なに!」
「アイツがどんなにあくどいヤツか、え、教えてやろうか、ダンナサマよ」

 ホッシンが、にわかに勢いづいた。

「いいか、レイラの家に住み着いて、オマエから立ち退き料をとったヤツ、あいつは大家の相棒なんだぜ」
「!?」

「もともと、アレは、大家が仕組んだ計画なんだぜ、そのために、カネで雇った相棒なんだぜ、オレとレイラも、無理やりそれに、使われてんだよ」「?…」
「分かったか、え、ダンナサマ、アイツがどんなにウソつきか、アンタがどんなに、マヌケかがよ」

 オレは息をのんだ。そんなことは、あり得ない。あり得て、なるものか。

「あの屠殺屋が大家の相棒だと!…」

 ばかな。デタラメにきまっている。もしそれが事実なら、あのときの、あのレイラの憔悴は、いったいなんだったのだ。

 彼女は心底、こまりはてていた。住む家を奪われ、目がひきつり、頬はこけていた。

 ラマダンだけのせいではない。もしあれが演技なら、レイラは天才的な役者といえる。あの無垢で哀れな、いじらしい顔の下で、バカなヤツだとこのオレを、あざ笑っていたとでもいうのか。こんな年端もいかない小娘に、そんな手の込んだ芸当が、できるとでもいうのか。

 オレは否定した。

「オレの理解が正しいか、オマエのいうことが本当か、実際のところは分からない、だとすれば、オレはレイラを信用するぞ、オマエみたいに、人の悪口ばかりたたいているヤツに、ろくなモノはいないからな」

 ホッシンは、なにやらアラブ語で、怒鳴りだした。その開き直りには、むきだしの敵意が込められていた。レイラが懸命に、なだめる。なだめながら、自分への信頼を顕にしたオレに、なんとか礼をいおうとした。だが、おびえた口からは、なんの言葉も、媚びる知恵も、出てこなかった。

 目の前で抱かれるレイラを目撃したとき、殺してやりたいほど憎かった。だが、オレにレイラをしばる権利はない。彼女はまだオレの養女でもなければ、妻になったわけでもない。貞節を要求する権利が、いったいオレのどこにある。

 いま、小女は、異常な出来事と、その暴力的な展開に、裸のまま心底怯えきっている。そんな存在が、急に哀れになった。

 些事を乗りこえ、寛大になろうと思った。

 小女は、まるで水溜まりに落ちた雛のように、痛ましかった。それでも自分の生を、懸命に生きようとしている。オレがもし、ほんとうに彼女を愛しているのなら、すべてを許してやるべきではないのか。でなければ、だれが彼女を救えるというのか。
 オレは笑顔をつくり、ありったけの誠意をこめ、優しくいった。

「もういいよ、レイラ、些事はこれまでにしよう」

 そして、小女の両手を掌で包み、心底、慰めるつもりで、こういったのだ。

「それより、本当は、オマエの体が、心配なんだよ、手術は、さぞ、こわかっただろうね、でも、もう大丈夫だよ、あんな思いは二度とさせないからね、約束するよ、術後の具合がどうなのか、それが、とても心配だったんだよ、そもそもオレがここにきたのも、それを確かめるためだけだったんだ、他意はない、オマエの体のことを、気づかえばこそだったんだよ…」 

             ~~~ 

「それが、つまずきのもとだった、と、いうんだね」
「まさしく、そうだった、なまじ寛容になろうと、大きくなろうとしたばかりに、前後の見境をなくしてしまったんだよ」
「前後の見境?」
「そうなんだ、あの二人の記憶と、オレの記憶が、錯綜してしまったんだよ」
「錯綜? どういうことか、よく分からないね」
「オレは、あの時点で、二人がオレを騙そうとしてることに、まったく、気づいていなかったんだよ」
「そりゃ、そうだろう、一見して、しごく単純な三角関係、とおもうのが、普通だからね」
「そうなんだ、それが、だ、レイラの心変わりを、目の前で、ありありと見せつけられて、前後の見境もなく、嫉妬に狂ってしまったんだよ、オレは、だから、ほとんど反射的に、入口の赤い扉をしめ切って、二度と開けられないように、椅子や家具や、なんやかやを、その前につみあげて、二人が部屋から逃げられないように、締め切ったんだ」
「そのようだね、さっき、聞きながら、けっこう乱暴なやり方だ、とは、おもったがね」
「それが」
「それが?」
「それが、だ、あのとき、動かしたベットの下から、カビリー模様の、ダブダブの、あの赤い貫頭衣が、ちらっと、見えたんだよ」
「貫頭衣、て、レイラに、札束持って帰らせた、あの貫頭衣のことだね」「そうだ」
「でも、どうして、それが、ベットの下から?」
「レイラは、ね、モノを隠すのに、ベットの下を、よく使ってたんだよ」「ホー」
「あの、赤いマグレブ寓話集がなくなったときだって、そうだったんだ、ベットの下に隠してたんだよ、きっと」
「なるほど、で、今回は、なにを、隠してたんだ?」
「あの札束だよ」
「ああ、カスバの産婆のために、用意したカネのことだね」
「産婆じゃない、堕し屋ババア、だ」
「ま、それはそれで、いいとして、でも、おかしいいじゃ、ないか、そのカネって、もうカスバの婆さんに、渡したんだろう、レイラは」
「オマエも、そう、おもうだろ?」
「当然じゃないか、そのために、苦労してかき集めたカネなんだから、キミの記憶が正しければ」
「そこなんだ、レイラの記憶と、オレのが、錯綜してるというのは」
「どういう、ことだ?」
「レイラは、カネなんかもらってない、て、いうんだよ」
「もらってない?」
「そうだ、だから、オレは、カネを渡したまでの経緯を、懇切丁寧に、説明してやんたんだが」
「説明したが?」
「まるっきりの作り話だ、ていうんだよ」
「それ、ウソもいいとこじゃないか」
「オレもそう思うんだが、しかし、あれだけ、あっけらかんとウソつかれると、こちらの理性というか悟性というか、倫理とまではいかなくても」
「それもいうなら、知性だな、自分の中で何を優先するか、を割りだす知的な記憶装置だね」
「そう、その知性とかというヤツが、壊れてしまって、ひょっとしたら、レイラの記憶の方が、正しいんじゃないか、て、おもってしまったんだね」「しかし、確認すればすむことじゃないか、ベットの下から貫頭衣を引っ張り出して、札束が出てきたら、キミが正しいってことが、一目瞭然じゃないのか」
「それが、そうしきれなかったのが、よくなかったんだ」
「しきれなかった?」
「白黒、つけたくなかったんだ」
「なぜだ?」
「なぜって、札束が出てきたら、レイラがオレをダマしたって、もろバレちゃうじゃないか、あの、ホッシンの目の前で、そんなことが、できるとおもうか?」
「しかし、それは、やるべき、だったね、キミ自身のためにも、ね」
「ン、そうだ、オマエのいうとおりだ、ただ…」
「ただ?」
「運が、わるかったんだよ、運が」
「運が、わるかった?…」

               ~~~

  …そう、ただ、運がわるかったのだ。

 実際、オレが、手術のことに触れたとき、レイラの顔色が、サッと変わったのだ。そしてホッシンは、目ざとくそれを、見逃さなかった。

「おい、なんだ、それ、なんの手術だよ」

 目をつり上げて詰問するホッシンを、彼女は、いつになくつよい口調で、突っぱねた。その様子が、逆にホッシンの疑念を、煽ったのだ。彼は矛先をオレに向けた。

「アンタ、レイラになにをしたんだよ!」

と叫び、目を吊り上げて、凄んだ。

「ダンナにいったはずだぜ、レイラになにかあったら、ただではすまない、すませない、ってね」

 オレは、一瞬、喉をつまらせた。

 事実をいえば彼は激高する。なにをするか分からない。だが、隠せば先に禍根を残すことになる。なにしろ彼は小女の身内だ。ああそうですかで済む話ではない。あとで破局を迎えるより、いま話しておいた方がよいのではないか。要は、責任をどうとるか、はっきりさせてやることだ。兄として、面子を保てるように、してやることだ。

「いいか、ホッシン!」

 オレは、毅然としていった。

「レイラとオレは、男と女として、愛し合っている、その愛が過剰なあまり、レイラはオレの子を身ごもった、オレは、彼女を妻にしたい、心からそう願っている、まず兄のオマエに、許しをこわなければならなかったが、オマエが兄だと分かるまえに、二人は出会い、愛し合った、ここは兄として、ぜひ、二人の幸せを考え、縁組の承諾をしてもらいたい、了解が得られれば、紳士として…」

 いい終わるか終わらないうちに、レイラが急にわめきだした。

「ウソだよ! デタラメだよ、あんなウソ、信じちゃだめだよ、あたいは、あのヒトのこと、好きでもないし、愛し合ってもいないよ、とんでもない言いがかりだよ、だから子どもなんか、できるわけ、ないじゃないか!」

 アラブ語まじりのフランス語で、彼女は泣き泣き、兄に訴える。シーツの下で小さな胸を、フイゴのようにせわしなく膨らませ、萎ませ、所在なげに腕を振りあげ、いたたまれない様子で、足をばたつかせた。 

「ウソつきは、きさま、ダンナの方だ!」

 いきなりホッシンが、シーツをすて、飛びかかってきた。

「レイラが、ダンナのいいなりにだって? へん、子どもができただって? へん、イスラムの女が、異教徒の子を生むだと、冗談じゃないぜ、レイラはオレのオンナだ、ふざけるな!」

 見え透いた虚勢をはり、高慢に鼻を膨らませ、これみよがしに、大見栄を切った。

「ひとり暮らしの慰めに、妹をたぶらかそうたって、そうはいくもんか、ダンナに妹をやるくらいなら、悪魔にくれてやる方が、まだましだぜ!」

 いきり立った毛深い全裸の体から、異様な悪臭が発散する。オレは吐き気をおさえ、相手をつき飛ばして、怒鳴りつけた。

「ふざけるな! オレはレイラを愛しているんだ、本当なんだ、レイラを自分のものにしたい、これも本当なんだ、それにはレイラを娘にする、妻にする、これもウソじゃない、なにもかも本当なんだ、レイラも、オレを慕っているんだ、だからオレの子を宿したんだ、しかし、事情があって生めなかった、それが、オレの、唯一の、心残りだ、国籍や手続なんか、どうでもよかったのに、ばかのことをしてしまった、生むべきだったんだ、生めばなんとかなったんだ、どこの馬の骨とも分からないババアの手に、わざわざ高いカネを払って、レイラを委ねるべきではなかったんだ」
「ン、カネを払った?」

 ホッシンが怪訝な顔で反応した。

「そうだ」

 オレは、レイラにカネをわたすまでの経緯を説明しようとした。

 が、突然、レイラがわめきだした。

 「ウソだよ、そんなこと、まともにきいちゃ、だめだよ、あたいとこのヒト、なんの関係もないよ、なにもないのに、子どもなんか、できるわけ、ないじゃないか、カネをもらう理由なんか、どこにも、ないじゃないか!」

 オレは面食らった。目と耳を疑った。どうなってしまったのだ。これがあの、かいがいしくも親身でオレの面倒をみてくれた、おなじ小女のレイラなのか。あれほどむつまじく肌触れあった男の前で、なぜ恥ずかしげもなくウソをつく。一人の小女が、これほど豹変しなければならない理由が、いったいどこにあるというのだ。

 ホッシンも疑心を隠さなかった。膝をついて立ち上がると、小女の腕をギュッとつかんだ。

「オマエ、カネをもらったのか?」
「ノン、ノン、ノン!…」

 レイラは、はげしく首を横にふった。ひきつった顔は蒼白だった。体は否定しても、それが声にならなかった。そこに相手の猜疑を否定しきれない、曖昧さが残った。
 その曖昧さに、ホッシンは鋭く、つけ込んだ。
 グイと彼女を引き寄せると、執拗に、何度もおなじ質問をくりかえした。うす笑いをうかべ、小女をにらむ。骨太の手に力が入り、指の間から腕の肉が盛り上がり、はみ出した。レイラは正体もなく震え、息をのんで硬直した。
 レイラの頬が鳴った。ホッシンが、平手で小女をせめたてたのだ。

「おい!どこにかくしたんだ、そのカネを」
「しらないよ!」
「いえ、このウソつきが!」

 また頬がなる。

「そうか、オマエ、ひとり占めにするつもりだな、妹のくせに、兄のオレを出し抜くつもりか? クソッ、思い知らしてやる!」

 オレはわけも分からず、二人の間に割って入った。

 あのときもそうだった。レイラを知って間もなく、スークで二人が口論する場面に、いきあった。わずかなカネで子どもどうしが言い争う。そのあさましい光景を見るにしのびず、少年にカネをにぎらせ、やめさせたのだった。
 だが、今度は違っていた。カネはカネでも、はした金ではない。しかもホッシンが、その所有権を主張する。ひとり占めにさせる、させないと、さかんに息巻くありさまだ。
 オレはいった。

「冗談じゃないぞ、ホッシン、そのカネは、レイラの体のために、このオレが、苦労してつくったカネだ、それがオマエに、なんの関係があるんだ、身のほど知らずも、いいとこだ!」

 オレは、ホッシンの腕からレイラをもぎとりざま、靴の裏で思い切り彼をけとばした。造作もなく崩れ落ちたホッシンは、憎々しげにこちらを見上げ、声を殺して歯を噛んだ。

「オマエは、あわれな先進国の、バカ殿サマよ!」
「なんだと!…」

 怒りがこみ上げた。もう一度、蹴とばしてやろうとおもった。が、ふと、彼の吐いた侮蔑の言葉に、ひっかかった。
 実際、ずっと気になっていたのだ。ホッシンの憤りといい、レイラの怯えといい、オレの理解できないなにかが、そこにあった。オレの知らない回転軸で、二人は回っていたのだ。

「オレは、やっぱり、だまされているのか…」

 頭をもたげる疑惑を打ち消そうと、オレは声をあらげて憤慨した。

「バカ殿サマで結構だ、オマエみたいに他人をだますことしか知らなんヤツよりは、よっぽど価値ある存在だ、レイラが、このオレをだましただって? そんなことが、あってなるもんか、レイラはオレを信頼してるんだ、オレもレイラを、心から信じてるんだぞ」

 ホッシンは、これ見よがしに、せせら笑った。そして、オレの腰にしがみついて震えるレイラを指差し、

「ダンナは、まるっきりの、脳ナシだぜ」

と、あざ笑った。

「コイツは、とんでもない小悪魔だぜ、知ってるか、養子縁組の承諾金、もとを正せば、コイツがせしめようって、いいだしたんだぜ、そんなメス猫を、心から、信じてるだって、アンタ、バカか、本気で、コイツを、信用する気なのか、え、ダンナさまよ」

 心臓が、音をたてて落ちた。全身が、カーと熱くなり、息がつまった。

「ホッシン! オレは、ウソはゆるさない!」
「ヘン、ウソなものか!」
「やめろ! これ以上わめくなら、その口、羊の皮糸で縫い合わせてやるぞ!」
「へん、縫い合わせるのは、レイラの口だ!」
「キサマは、兄のくせに、妹を犯す犬畜生にも劣るヤツだ、それでも足りずに、オレとレイラの仲を、割こうするのか、卑劣で邪悪な、ユダヤ野朗め!」

 ホッシンは、しかし、怯むどころか、ますます声高にまくしたてた。

「コイツは最初から、ダンナをカモにするつもりだったんだぜ、オレが血を分けた兄ってことも、口止めしたのはコイツだぜ、最初から、オレの承諾権をエサに、カネをせしめる魂胆だったんだぜ、金額をつりあげたのも、すぐにウンといわせなかったのも」
「うるさい! やめろ!」
「だれが、やめるか、よく聞け、ウンといわせなかったのも、やっぱりコイツだぜ、このメス猫のしたたかさ、え、ダンナ、あんたは、まるで分かっちゃいないぜ、ハハハ、なにもわかっちゃ、いない、ハハハ、傑作だぜー!」

 ホッシンは、大仰に体を反らせ、笑った。

 そのとき、腰にしがみついたレイラの手が、そっと離れようとした。オレは咄嗟にその手をつかみ、グイと自分にひきよせた。

「さすがにダンナは、交渉上手だよ、最初は無関心なフリしてて、ここというときに、攻めたてるんだ」

 ホッシンはしゃべり続けた。

「オレも商売うまいけど、財布はダンナの懐の中、分かっていても、正直、こっちは焦るさ、そのうち、ダンナはサハラに行った、オレは心配になったよ、ダンナがレイラを見限ったのか、てね、そこで、留守をねらって、書類を調べにいったのさ、ダンナの部屋にね、そしたら、書類は全部そろってたんだ、ただし、オレの承諾書は、別だったけどね、それでオレは、ホッとしたんだよ、これで最後に折れるのは、ダンナの方だって、確信したんだよ」「…」
「ところがさ、コイツが、チャチを入れやがったんだ、ダンナは払わない、て、コイツはいうんだぜ、なぜか?」
「なぜだ?」

 オレは、知りたかった。

「ダンナは外国人だよ、用が終われば帰るヒトだよ、一人暮らしは女が欲しいよ、でも、帰るときには捨てていくよ…だってさ、お気の毒な、ダンナさまよ!」

 オレの中で、なにかが崩れ落ちた。食い止めようとしたが無駄だった。それは、手や腕や脇から泥になって、ポタポタと、床に流れ落ち、モザイクの上で、たちまち不毛の砂州に、変わっていった。

「そうか!」

 ホッシンが、いきなり飛びあがって、叫んだ。

「そうだったのか! いま分かったぞ、コイツがなぜそういったのか」

 狡猾な目がギョロリと動く。途端にレイラの手がキュッと縮んだ。

「ダンナはともかく、オレにはよく分かるぜ、コイツはダンナを見限ったんだ、養女にならない腹を決めたんだ、だが、それではカネにならない、だから、ダンナを揺すったんだ、赤ん坊でだまし、堕すカネを盗るためによ、ほら、コイツは妊娠なんかしてやしないぜ、その証拠に、ダンナがくれた休暇中、ずっとアレだったぜ、タラタラと、血ばかり流していたぜ、このメス猫は」
「レイラに休暇を?」

とんでもない。レイラが休んだのは、休暇じゃない、手術を受けたからだ。体力回復のために必要な、大切な休養日だったのだ。
 ホッシンはケタケタと、得意げに笑った。

「ほら、ダンナ、アンタはころりとだまされたぜ、先進国の金持ちが、よ、途上国の貧乏娘に、よ、まんまといっぱい、食わされたってわけだ、な、レイラ、そうだろ、そのとおりだろ!」

 青ざめた顔面に、威嚇の形相が走る。にらまれたレイラは、正体もなく震えあがった。

「ピュタン、サロープ! この大ウソつきの売女めが、淫売めが、姦通だけじゃ足りなくて、このオレまで、裏切ろうとは、大した度胸だぜ、舌切って、股縫い合わせて、地中海に投げ込んでやるぞ! サメのエサにくれてやるぞ! 死んで地獄に落ちてしまえ!」

 真っ青のホッシンが、いつの間にかナイフを腰に、真正面から突進してきた。オレは身をかわしざま、レイラをベッドに放り投げると、支えの足を払って彼を床に転がし、馬乗りになって夢中で殴った。肉を打つにぶい音が部屋中に響く。頭蓋が床タイルにぶつかってゴンゴン鳴ったが、かまわずオレは、殴りつづけた。

「やめてよー!…」

 レイラの金切り声が響いた。オレはやっとわれに返った。ホッシンは、だらしなく床に転がったまま、動かずにいる。とっくに、気絶していたのだ。

 萎えて転がる醜悪な肉塊から目を移すと、レイラの哀願する悲壮な顔が、そこにあった。そのとき、理性が音をたててひび割れていく様を、オレは、目の中で、はっきりと見届けた。

 小女をベッドに押し倒し、首をしめ、馬乗りでねじ伏せた。することはただ一つ、ホッシンの言ったことが事実かどうか、本人の口から聞くことだった。

「レイラ!…」

 小女はオレの下で、壊れた仕掛け人形のように手足をばたつかせ、もがいた。もがきながら、かたくなに、ホッシンの言葉を、認めようとしなかった。

「ちがうよ! 全部、大屋とホッシンが、親子で、仕組んだ、ワナだよ!」

 逆に、新説を持ち出して、弁明する。

「この期に及んで、まだウソをつくのか、その調子でオレのことを、いまのいままで、裏切ってきたんだな」

 復讐の炎が、メラメラと燃え上がった。可憐で、華奢で、思わず手を添えたくなる存在だけに、怒りは何倍にも膨れあがった。

「ホッシンがウソついてるってか、だったら、オマエがほんとに手術したかどうか、このオレが確かめてやる!」

 いうやいなや、オレは、右手の指を五本たばね、レイラの股間にねじ込んだ。

「ギャー!」

 小女は、ベッドの上で跳ねあがった。粘膜がひきつり、指がめり込む。オレは構わず力をこめ、容赦なく小女を問い詰めた。

「もう、ウソは、赦さんぞ、真実をいえ、真実を、オマエはオレを、裏切ったんだ、だが、それはもういい、いまさらどうなることでもない、オレはただ、それが、計画的だったかどうか、それを知りたいだけだ」

「イタいよ、クルシイよ!」
「え、どうだ、オレをだますつもりだったのか、カネを巻き上げるために、我慢してオレに仕え、目を閉じてオレに抱かれたのか、え、それとも、ほんの出来心の、いつわりの遊びだったのか!」
「どっちでもないよ…イタイよ」
「いえ、本当のことを、さもないと、コイツを奥の奥までねじ込んで、子宮であれ腸であれ、一切合切、引っぱり出して、目の前にならべてやるぞ!」「ヒー!」

 小女は絶叫した。手を休めずオレは追求した。

「屠殺屋をやとったのはオマエか!」
「ウー、ちがう、あれは、大屋の、計画だよ…」
「なら、縁組のカネは、どうなんだ!」
「縁組料は、ホッシンが、大家の、マネして、おもいついた、計画だよ、ウー…」

 股間に刺さったオレの手を引き抜こうと、手足を懸命にばたつかせ、小女は告白した。
 なんのことはない。大屋の計画が成功し、味をしめたホッシンが、つぎの手を思いついたというわけだ。
 だが、それは成功しなかった。

「なぜかいってやる。オレがホッシンを見限ると、オマエは考えたからだ、な、そうだな、レイラ!」

 小女は、ゴーゴーと、声をだして泣きだした。

「なぜだ、なぜ、ホッシンを見限ると、オマエは思った」

 小女は唸った。萎えた手足を必死でばたつかせ、肺の奥から声をしぼりだして、いった。

「ウー…見限って、ほしかった、からよー!」
「どうしてだ」
「ダンナ様が、出張でいなくなると、いつもホッシンがやってきて、あれを出せ、これを食わせろ、て、家の主人みたいに、威張ったよ、あの日も勝手に、ダンナ様の書斎に入って、書類をパラパラめくって…」

 小女の手足が急にうごかなくなった。体力が尽きたらしい。オレは膣内の指を緩め、続きを話せと命じた。

「あの家は、あたいの仕事場だよ、勝手な態度は、ゆるせない、これでホッシンの、企みがうまくいったら、味をしめて、どんな態度にでるか、心配になったよ、だから、ダンナ様が、あの人を見限ってくれればいいって、思ったよ、それに、ホッシンのおもいどおりになっても、あたいには、一ディナールだって入らない、あたいは、女ひとりで生きていく身、自分の蓄えを持たないと、この国で、生きていけないじゃないか、だから」
「だから、オレをだましていいと、考えたのか」

 小女の喉が、ゼーゼーと鳴った。

「いいとは思わないよ、けれど、自分のカネが欲しかった、だから、赤ん坊のことだけは、自分のおもいつきで、自分のためにだけ、やったよ」

 再び指に力が入った。

「やっぱりそうか…」

 つわりも妊娠も、実は狂言だったのだ。

「なんてことだ!」

 大屋に大枚だましとられ、その息子には、かろうじてコケにされずにすんだと思ったら、結局、妹にかすめとられたってわけだ。なまじ寛大さを志したばかりに、足の先まですくわれた。アフリカ十三年、蓄積したノウハウの集積がこれだとは。なんとお粗末で、無様な男になりさがったことか。なにもかも、この小娘の、あのクミンのにおいが、そうさせたのだ。

 だが、一縷の望みはある。

 まさか事の一から十までが、ウソとワナで仕組まれていたわけでもないだろう。いくらなんでもレイラとは、たとえそれが一時でも、偽りのない愛の交感が成立していたと信じたい。

「オマエといて、オレは、幸せだった」

 オレは確認したかった。

「オマエは、どうだったんだ?」

 小女は、一時、ためらったが、すぐに、こう答えた。

「幸せなときもあったし、辛いときもあったよ」
「オレはオマエを、大切で愛しいい存在だと、おもっていた。オマエは、どうだった?」
「分からないよ」
「オレは、オマエの体に、夢中だった、オマエは、どうだった?」
「ダンナ様が親切にしてくれるから、それに答えようと、一生懸命だったよ、だから、自分はダンナ様を、裏切ったりはしてないよ」

 小女はそこで、引きつった笑顔をつくり、ぎこちなく笑ってみせた。
 ムクムクと、怒りが込み上げてきた。

 長年の積み重ねが、他愛ないこの小娘のために、まるで無意味な形で帰結した。手をさしのべ、支えようとした相手に、裏切られ、揚げ句のはてに、同情までされるとは。しかもその不条理な結末を、当の相手がながめている。情愛の剥離したこの笑いは、非情な嘲笑よりも、悪質だ。これ以上の侮辱が、どこにあるというのか。

 オレは怒りに任せてクビを締め上げ、膣内の手を容赦なく進めた。小女は萎えた手足をばたつかせ、声にもならないうめきを上げた。その必死の様が、悲壮な情況が、また一層、愛しさをつのらせた。オレは、嗜虐と情愛の狭間で、怒り狂う自分をどうすることもできず、ますます小女を締め上げ、手を突き進めた…。

 どれくらい経っただろうか。

 入口の方で、ドンドンドン、と、木戸を叩く音がし、覚えのある男の声が、外からきこえたてきた。 

「オーイ、ホッシン、なにか、あったのかー?」

 それは、他でもない、大家の濁声だった。それは、こう繰り返す。

「ワシじゃ、ワシじゃよ、近所のもんが、ワシに来てくれと、頼んできたんじゃ、ホッシン、どうした、なにか、あったんかの?…」
「チッ!」

 倒れていたホッシンが、床の上で跳ね起きた。

「クソッ、なんで、こんなときに…」

 オレも、焦った。こんな修羅場を、あの大家に、見せるわけにはいかない。レイラは、消え入りそうな息で、痛みを堪えている。オレは、股間から指を引き抜くと、レイラに声を殺して、いった。

「レイラ、大家がきたぞ、どうするんだ、このままじゃ、まずいんじゃないか、二人で、なんとかしろ!」

 勝手に他人の家に乗り込んで、身勝手だとはおもったが、オレにも、レイラにも、またホッシンにしても、大家と会うには、これだけは避けたい事態に、三人そろって、陥っていたのだ。

「レイラ、カバーを被れ、顔を隠せ、病気の振りをしろ!」

 ホッシンが、素早くベットカバーを跳ね上げ、そこにレイラを包みこみ、うつ伏せに寝かせたあと、オレに命令した。

「アンタは下に隠れろ、動くなよ、息もするなよ!」

 なかなかの指揮官だ。人間だれしも、少しは利点があるものだ。オレは、いわれるまま、ベットの下に潜り込んだ。

 当然のことながら、あの、赤い貫頭衣が、目の前にあった。オレが工面してつくった、あのカネだ。レイラが、知恵を絞って、オレから自力でもぎ取った、あのカネだ。そして、ホッシンは、そのことを知らない。もし、ばれるようなことがあれば、大変なことになる。レイラは、それを、極度に恐れていた。

 オレは、内心、ほっとした。

「これで、ホッシンの目の前で、レイラの裏切りに白黒つけることも、なくなった、叩いたカネも、いま、目の前にある、運が悪いとおもったが、落ちた運が、また戻ってきてくれたのだ…」

 ベットの下の、暗闇のなかで、赤い貫頭衣に包まれた札束を掴み、しっかりと脇の下に抱え込むと、オレは、これで勝った、と、おもった…。

              ~~~~~

「落ちた運が、戻ってきた、だって」
「そうさ、さんざん騙された上に、危うく、大枚持ち逃げされるところだったからね、それに」
「それに?」
「オレたち三人とも、大家にとっては、共犯者だったんだ、同じ穴の狢、だったんだよ」
「共犯者?」
「ホッシンは、養子縁組の許諾料、レイラは、カスバの堕し屋婆のカネ、それぞれ、大家に知られちゃまずいウソをついていたんだ、そしてオレだ、このオレは、現に、レイラを傷ものにした、にもかかわらず、だ、その事実を、大家に隠していた、だろ」
「なるほど」
「これで、オレたち、三人とも、ウソという罪を共有する共犯者、みたいなものに、なっていたのさ」
「しかし、現実に、三人とも、あの修羅場を、無事に切り抜けることができてなきゃ、そうはいってられないだろう?」
「そんなこと、いとも簡単さ、三人そろって、軌を一にして、大家をだませばいいだけのことじゃないか」
「どうやって?」
「その点、アイツ、あのホッシンは、なかなか頼りがいがあってね」
「ホッシンが?」
「そうだ」
「変だな、普通なら、キミを悪者にして、大家に取り入ろうと、するんじゃないのか?」
「オマエも、オレに負けず劣らず、先進国のお花畑だな、ホッシンは、そんなアマいヤツじゃないよ」
「お花畑?」
「大家にとって、オレは、金蔓だよ、たとえ、オレがヘマをやらかしても、ヤツには、オレを強請る口実が一つ増えるようなものさ、オレがなにをやろうが、どうなろうが、ヤツの懐にはカネが転がり込む、そうなるように、できてんだよ、世の中は」
「なら、ホッシンは?」
「かりに、大家にオレを売ったとしよう、その途端、ヤツは身ぐるみ剥がれて、放り出されるだけなんだよ」
「なぜだ?」
「金蔓の秘密を握ったからさ」
「秘密を?」
「都合のわるい秘密を知られたら、普通、どうするとおもう?」
「なるほど、消えてもらう、ということか」
「レイラにしても、おなじだよ、大家にオレを売ることはできない、なぜか、売った代償は、本人に跳ね返ってくるからね」
「なるほど…で、ホッシンは、あの修羅場を、どうやって切り抜けたんだ?」
「それなんだよ、まず、オレをベットの下に押し込んだんだ、そして、すぐさま、戸口に積みあげた机や椅子を、わざとガタガタいわせて、片付けはじめたんだ、それも、大声で、どこだ、どこに隠れやがった、出てこい、出てこい!…て叫びながらね」
「やばいじゃないか、やはり、キミを売ろうとしたんじゃないのか!」
「それが、オレのことじゃないんだよ、アイツが探してたのは、ジャッカルなんだよ、ジャッカルの子、なんだよ」
「ジャッカルの子?!」
「そうなんだ、たしかにカスバにはね、密漁者が巣食っていてね、いかもの食いの観光客相手に、けっこう繁盛してたんだよ」
「食料にするのか?」
「シナでは喰うらしいが、欧米ではペットらしいね、日本の駐在員にも、飼ってる家族はいたな、特に子供のいる家庭はね、なにせ、可愛いんだ、可愛いよ、愛嬌のある子ぎつね、て感じでね、耳が大きくて、スリムで、軽快で、ただ、せわしい、うるさい、じっとしてない、しょっちゅう動き回ってるんだよ、それが問題といえば問題だな」
「そのジャッカルが、レイラの家に迷い込んだ、ていって、探し回ったのか、ホッシンは?」
「そうなんだ、しかも、だよ、レイラがびっくりして、倒れて、頭うって、気を失って、寝たままで、心配だ、心配だ、医者を呼んでくれ、薬を買ってくれ、でないと、レイラは、死んでしまう、死んでしまう、レイラを助けられるのは、大家だけだ、お願いだ、後生だ、ご慈悲を、ハッジ、ご慈悲を、ハッジ、ご慈悲を、アッラー・アクバル、ご慈悲を…てな具合に、ポロポロ涙ながして、大家の同情と宗教心を、煽りてるんだな」
「で、大家は?」
「あまりの臨場感に、コロリと、騙されたってわけだ」
「へー、なるほど、それで、三人とも助かったうえに、カネも返ってきて、落ちた運が戻ってきてくれた、てわけなんだ」
「そう、そうなんだよ、だから、あのまま、何事もなく、うまく事が運んでいれば、運が運を呼んで、いまごろオレは、幸せの絶頂にいたかもしれないんだがね、だが…」
「だが、なんだ、なにが、あったんだ?」
「なにがあったもなにも、あのあと、サハラプロジェクトの存続を揺るがす事件が、立て続けに、起きてしまったんだよ」
「事件?…どんな?」 

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赤の連還 9 赤い貫頭衣 完 10 赤いバスタオル につづく



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