見出し画像

【奇譚】赤の連還 11 赤い花弁

赤の連還 11 赤い花弁

 …そういえば、他に、いろいろ変わったところのあるひとだった。サハラ現場への出発の日、まさか、移動の当日まで、部屋からいなくなることはないだろう、そう思って、打合せ通り、週末の早朝、エル・マナールに迎えに行った。
 出発の三十分前にホテルに着いたが、幸い、一行三人は、すでにフロント前で待っていた。営業と技術は、作業服に身を固め、ヘルメットを小脇に抱えてトランクに腰掛けている。いつでも現場にいけるぞ、というスタイルだ。足元を見ると、編みあげの安全靴まで履いている。

 団長は、というと、対照的だった。

 ブルーマリンのヴァカンスシューズに麻の上下、頭にはカーキのフェルト帽を載せ、余暇を楽しむ洒落た中年の観光客、といった感じだった。どうも現場という意識に乏しいとみえる。肩に小ぶりの、これもスーツに合わせたカーキ色のリュックを下げていたが、トランクはなかった。

「あれ、団長、荷物は?」
「いや」

 きょとんとして、かれは応える。

「このリュックだけですよ」
「でも、大丈夫ですか、ひょっとしたら、長逗留になるかも、しれないんですが」
「いや、下着二枚とソックス二足、それに洗面用具さえあれば、十分でしょう、あとは、ホテルに預けました、パソコン、ちゃんとリュックに、入れてあります」

 なるほど、本人さえよければ、必需品はそろっているのだ。

「あ、そうそう、それに、これ」

 急に団長が、上着のポケットから小さなものを取りだして、いった。

「これ、大切なトラベルグッズです」

 見ると、手のひら大のサボテンを植え込んだ小さな素焼きの鉢だった。丸いミニチュアサイズのサボテンの丘に、真っ赤な花がポカリ、と花弁を広げている。

「ほ、かわいいじゃ、ないですか、どこで、手に入れたんですか?」
「スタウエリの花屋で買ったんです」
「スタウエリ!そんなとこまで散歩を?」
「そうですよ、このシディ・フレッジの界隈だったら、ね、ほぼ全域、歩き回りましたよ、どこになにがあるか、だいたい、頭に入りましたね、もう、だれが来ても、いつでも案内できますよ」

 やはり、ローマ事務所の職務が、身についているのだろうか。オレは、少々、気の毒になって、いった。

「でも、可愛いですよね、サボテンの花って」
「でしょう、これ、これ一つで、わたし、心が乱れずに、すむんですよ」
「乱れずに?」
「ええ、ほんと、可愛いですよ…」

 そしてかれは、慈しむように、赤い花弁を何度か指先で撫でたあと、また上着のポケットに、そっと仕舞いこんだ。
 現場への移動は空路を用いると、予めきめていた。アルジェと、六百キロ南下した北サハラの都市ガルダイアを、フォッカーの双発機が、週二回の定期便でつないでいる。オレたちの現場は、そこから、さらに百キロ南下したところにあった。
 いつものことだが、離陸は三時間遅れだった。午前中には宿舎に到着する予定だったが、午後も五時近くになって、やっと辿りついた。
  宿舎は、数基のコンテナをユニット連結し、各部屋を用途に応じて改造した、冷房完備の住まいだった。土漠と砂漠のなかを、ひたすら、砂埃と土煙を巻き上げ、走りつづけた交渉団の四人にとって、なによりの環境を提供してくれる設備だった。
 現場主任と団長は、まるで旧知の友のような親しさで握手を交わし、二言三言、言葉をかけあった。ただ、それだけだった。その後、二人の間には、仕事のはなし以外、なんの疎通もなかった。
 オレたち交渉団にあてがわれたテーブルに着き、冷えたビールで喉を潤したあと、タイ人コックの塩辛い料理をほおばっているとき、脇の席から、白髪の老人がいきなり声をかけ、ビールを勧めてきた。訊くと、拘留中のトビ職人の雇い主だという。

「いや、いや、本当に、誠に、ご迷惑、おかけしとります、よろしく、よろしく、お願いします…」

 老人は、何度も頭を下げ、謝辞を述べ、ビールを注いだ。この老人に、オレはなんの義理もなかったが、少々、気の毒になった。だから、何度目かのビールを受けたあと、急に、かれを慰めてやりたくなった。

「不運でしたね、今回は、まさに、不可抗力ですものね、仕方ありませんよ、あなたの責任じゃない…」

 実際、だれも予測しなかった大統領の死が、法執行のすべてを中断してしまったのだ。肝心のトビの有罪は、明らかだった。だから、出来るだけ早く服役させ、あわよくば国外追放で帰国させる、その交渉と段取りで、交渉団は派遣されたはずだった。それが、なにもできないでいる。これも、いってみれば、交渉団の責任ではない。かといって、なにもしないわけにはいかない、なんとかしなければならないのだ。

「とにかく、いま、できることを、全力で、やりましょう」

 最後に五人で檄を飛ばし、乾杯した。
 週明けは、一行の現場見学から始まった。水曜日に、憲兵隊地区連隊の連隊長とのアポイントはあったが、実現するかどうかは、まだ定かではなかった。
 アルジェリア全体の電力供給網は、大規模工業施設群が点在する北部に集中し、南部に配給される電力は、一割にも満たなかった。そのわずかな電力を受電し、さらに南部に配給する、いわばエネルギーの生命線を延長するための、基幹の中継施設を建設するのが、社が請負った事業だった。
 まず見学したのは、受電給電の要となる変電所の建設現場だった。優にテニスコート十面は確保できる敷地に、巨大な柱廊が三基、鉄骨の枠組みに支えられ均等に並んでいる。その下に、変電設備が三基、並列に配置され、柱廊から下ろす無数のケーブルと繋がっていた。この変電設備を動かす管理棟が、現在建設中の建物だった。

 見学半ばから、団長の顔つきが、変わり始めた。支給された作業服はサイズが合わず、だぶだぶ、白地に緑の十字が入ったヘルメットも、ぶかぶか、だった。そもそも、その不格好な様そのものに、本人は、かなり不満だったらしいが、なお不幸なことに、どこで、なにを見ても、砂漠と土漠、鉄骨とコンクリートの塊しか目に入らない光景だった。

 不満がつのって不機嫌になっても、理解できないわけではない。
 しかし、それが現場というものだろ、と一言、いってやりたかったが、かれの落ち込んだ様子をみていると、その気にもなれなかった。ただ、自分の格好の悪さと、景色が気に食わないというだけで、そんなに気落ちするものだろうか。シディ・フレッジの海に、古代の抒情詩を映して歓喜していた、ジェラルダの杜の、神秘の誘惑に駆られて彷徨した、あの目を輝かせてワクワクしていた団長は、どこへ行ってしまったのだ?
 奇異に感じたオレは、なにか他に、人知れぬ事情があるのかもしれない、とおもった。

「どうか、しましたか、団長」

 夕食時、向かいに座った団長に、オレは訊いた・

「元気ありませんね、どこか、具合でも?」
「いや…」

 うつむいて、肩肘ついて背を丸め、グラスの底でテーブルをコツコツ叩いている。

「かなり、お疲れのようで」
「いや…」
「さぁ、ビールでも呑んで、元気だしてくださいよ」
「あ、いや…」
「いかがでした、ご覧になって、サハラの現場は?」
「ああ、しかし…」

 いいながら、団長は、両肘を付いて、前のめりになった。

「…とにかく…」
「とにかく?」
「とにかく所長、なにも、ないですね、ここは?」
「なにも、ないって?」
「そうじゃないですか、あるのは、ケーブルと、コンクリと、ショベルカーやランクルや、なんやかやばかりで」
「なんやかや?」
「つまり、ひとの造ったもの、ばかりですよ」
「でも、工事現場ですから」
「わたしにも、現場経験、ありますよ、一昨年、シチリア山間部の発電所検収で、社の技師さんたちに同行しましたけど、おなじ土漠といっても、ここまではねぇ」
「ここまでは?」
「あそこには、密度は低いけど、まだオリーブが茂っていて、潅木も偏在していて、緑があって、なによりも、海が見えますからねぇ」
「そりゃ、そうですよ、団長、ここはサハラですよ、内陸も内陸、海なんか、見えるわけ、ないじゃないですか、それこそ、ないものねだり、というもんですよ」
「所長、それも、よく、わかってます、けど、文化というものが、ない、ひとが生きて、血の通う手で、造り上げた文化、が、見えない、その痕跡すら、どこにも見えてこない…」

 その団長の気持ち、オレは、よく理解できた。オマエも、そうだったとおもうが、オレも、最初にこの国に来たときは、心底、なにもないところだと、おもった。そして、すぐにでも帰ろうとおもった。
 しかし、契約期間の三か月、我慢して耐え抜いた。結果、気が付いたことが一つ、あった。それは、なにもないのではなく、なにも見ていなかった、ということだった。

「団長、その気持ち、よくわかりますよ」

 オレはいった。

「わたしも最初、そうでした、三か月もつかどうか、自分でも心配になるくらいでした、でも、ランクルでサハラを縦断してるとき、そう、もっと南の事業計画のときだったんですけど、不思議な体験をしたんですよ」
「不思議な?」
「ガルダイアから、まだ四百キロ南のサイトだったんですが、とにかく、行けども、行けども、土漠、砂漠しか目に入ってこないんです、ところが、その広大な、なにもない砂漠の、ずーと向こうの方に、ですよ、人影がみえたんですよ、十数人のひとが、こう、なにもないところから、不意に現れて、ゆるゆると、歩いてるんです」
「蜃気楼ですか?」
「いや、そうじゃないんです、実際の、ひとの姿なんです、それが、ね、こう、じーと見ていると、ですね、不意に、フッと、いなくなるんですよ」
「いなくなる?」
「砂の中に、消えてしまうんです」
「そんな…砂丘の、ほら、砂丘の波うつ陰に、隠れたんでしょう?」
「いや、たしかに、波うってましたけど、ただの平たい砂の丘、でしたから、隠れるようなところは皆無でした」
「では、どこへ?」
「わかりません、ただ、狐につままれたような気持ちで、そのまま走ってたんですけど、しばらくすると、今度は、反対側の窓の、向こうの方に、やっぱり十数人の人が、これも、フッと、砂丘の上に現れて、そして、また、フッと、消えてしまうんですよ」
「それ、夢でも、見てたんでしょう?」
「いや、しっかりハンドル、握ってましたからね、夢じゃないですよ」
「すると…なんか、砂の精、でも、見えたんですかね」

 団長は、麻紐の結び目がほどけるように、椅子の背にもたれかかった。

「砂の精、ね…団長らしい見方、ですね」
「で、蜃気楼でもない、夢でもない、砂の精でもない、とすると、実際は、なんだったんですか?」
「砂漠の民、です」
「サバクのタミ?ですか…」

 団長は、深いため息をついた。なんのため息か、オレには見当もつかなかったが、砂漠の民への共鳴、とまではいかないまでも、どこか親和感を覚えるなにかを探しながら、記憶のなかを彷徨っているように、オレには見えた。

「そうか…」

 ふと、おっもった。

「サバクって、ウミと似てますよね、団長」
「いや、所長、わたし、まさに、そのことを、考えていたんですよ」

 いいながら、団長は、乗り出してきた。

「海は、光と風と水、ですよね、そして、光で水は輝き、風で水は波打つ、航路は舵手の選ぶ一本だけ、二度とおなじ航路は描けない、それを辿って突っ走る、はるか先には島が、島があれば緑が萌え、水が湧き、漁民が集う、海の民だ…どうです?」
「すごいっすね、団長、あなた、大詩人ですよ!」

 オレの相槌に、団長も乗ってきた。

「いや、それはないな、ただ、いまの台詞の、海を砂漠に、水を砂に置き換えると、どうなりますかね?」
「そっくり、そのまま、砂漠になりますね、団長」
「そう、なりますよね」

 いうと、かれは、今しがた詠った自分の台詞を、くり返した。

「砂漠は、光と風と砂、光で砂は輝き、風で砂は波打つ、航路は舵手の選ぶ一本だけ、二度とおなじ航路は描けない、それを辿って突っ走る、はるか先にはオアシスが、オアシスがあれば緑が萌え、水が湧き、民が集う、砂漠の民だ…どうです?」
「いや、バッチシですよ!」

 二人して、ハイタッチで喜んだ。

「サハラとエーゲが、まるで合わせ鏡で投影されるみたいに、すごくダイナミックで、立体的な世界が、くっきりと、見えてきますよ!」

 それから、毎晩、夕食は賑やかになった。団長は、よく喋り、よく呑み、よく食べた。色がわるい、などといって避けていたナツメヤシの実も、旨い、美味いと、食べはじめた。
 はなしは、エーゲ海とサハラ砂漠の間を、行ったり来たりしていたが、そのうち、様々な文明、文化はあるが、西欧の文化のルーツはどこだ、という話題になった。
 オレは、いった。

「無から何も生じないでしょう、何事にもルーツはあるはずですよね、日本だって、ロシアだって、アメリカだって、それぞれの文化にルーツとなる源泉は、あるはずですよね、とすれば、たとえば、欧州のルーツは、どこなんでしょうかね?」
「それは、ギリシャですよ」

 すかさず、団長がいった。当然の反応だった。

「人類という観点からいいますと、ね」

 かれは続けた。

「二十万年まえ、いや、一説には、四十万年まえに遡るらしいんですけど、そのころ、あの一帯で、すでに、ヒトとしての活動が、あったらしいですね、その後、ながーい石器時代があって、それを経て、紀元前三千年ごろ、ですかね、石器時代から青銅器時代を迎えるんですけど、だいたい、そのころが、古代ギリシャの始まりで、やがて」

 そこでかれは、カップのビールをグイと飲み干した。

「やがて、紀元前千年ごろに、ミケーネ文明を経て、メソポタミアとエジプトという、二大文化圏との交流を機に、ですね、ギリシャ独自の文化を開花させていくんですね」
「いや、そこまで詳しいはなし、じゃ、ないんですが」

 オレは、少々、面倒くさくなって、いった。

「その辺は、世界中、どこだって、おなじですよね、日本だって、紀元前何万年というオーダーの遺跡が、あちこちで、無数に見つかってるくらいですから、学者さんには、たまんないでしょうけど、きりがありませんよ」
「しかし、その辺から話さないと、全体が、よく見えてこないでしょう?」
「いや、ここで、みな、いってるのは、ですね、欧州人というヒトのルーツじゃなくて、欧州文化のルーツ、なんですよね、団長は、ギリシャだとおっしゃる、とすれば、ですね、じゃあギリシャ文化のルーツはどこだ、ということに、なりませんか、ルーツを探せば、きりがなくて、だいいち、大本の水源にたどりつけるかどうかすら、だれにも分からないわけでしょう?」
「そうですよ、だからこそ、ヒトのルーツが必要になってくるんですよ」

 かれは、あくまで、知識のひとだった。感性で知識を展開してみよう、という気風は、あまり感じられなかった。そんなひとと、オペラとの相性はどうなのだろうか…などと余計な心配をしたが、強引に話を誘導して、それを払いのけようと、オレはおもった。

「さっき、いみじくも、団長、おっしゃったじゃないですか、古代ギリシャは、ミケーネ文明を経て、メソポタミアとエジプトという、二大文化圏との交流を機に、独自の文化を開花させていった、て」
「まさに、そのとおりですが」
「じゃあ、独断と偏見を恐れずに、申し上げますと、ですね、わたし、おもうに、ギリシャ文化のルーツは、エジプトにあると、おもうんですよ」
「ほー…」

 団長を除き、いつのまにか会話に加わっていたトビ職の雇い主も入れて、ほぼ全員が、オレの意見に感心した。

「…エジプトですかぁ…」
「どうしてかと、いいますと、ですね」

 オレは、座り直し、語気を強めて、いった。

「さっき、団長もおっしゃった、青銅の時代、ね、あのころのギリシャって、農村の集合体みたいなもので、さして文化と呼べるようなものはなくて、せいぜい、土器の壺とか、青銅の農具とか、そんなものしか、造ってない集落だったんですよね」
「ほー…」
「ナイルのエジプトは、穀倉地帯だったから、オリーブとかブドウとかの特産品以外に、わざわざギリシアから輸入するものなんて、なにも、なかったんですよ、ただ一つを除いて、はね」
「ただ一つを?」
「そうです」
「それ、なんですか?」

 全員が聞きたがった。

「それは、ね、青銅の人、なんです」
「青銅の人?」
「青銅製の鎧兜で身を包んだ兵士、ですよ、つまり傭兵です」
「ほー…」

 このときも、団長は、みなと一線を画していた。かまわず、オレは続けた。

「農家って、どこもおなじで、後継ぎは、長男坊、なんですよね、次男から以下は、実家の田畑を継げないんです、だから、どっかに食い扶持を探しにいかなければならない、そんなかれらに、できることといえば?」
「そやな、わしやったら、海賊やって一攫千金、やわな」

 雇い主が、笑いながらいった。

「や、まさに、そのとおりなんですよ」
「へー、ほんまでっか?」
「エジプトはね、そのころ、初代ファラオが王位について間もないころ、これがまた、弱いファラオでね、政敵にやられっぱなしだったんですが、あるとき、ギリシャの海賊がナイルのデルタ地帯に漂着、略奪を繰りかえすという事態に至って、ですね、それを好機ととらえたファラオが、この海賊に大枚払い、味方に取り込んで、政敵を追っ払って、勝利するんですよ」
「ほー、それが、傭兵の始まり、でっか?」
「実は、そうなんです」
「その海賊、なんで、青銅の人、いうんですかね?」
「海賊だから、鎧兜で身を固めてるでしょう、その鎧兜が青銅でできてたんですよ、エジプトにはなかったスタイルの武具だったんです」
「ほー…」

 感心する雇い主を尻目に、団長が、口を挟んできた。

「おもしろい、おもしろい、歴史としても、物語としてもね、でも、所長、その青銅の人と、ギリシャ文化のルーツと、どうつながるんでしょうかね?」
「その、海賊が漂着したデルタ地帯というのは、当時、地中海交易の重要拠点だったらしいんですね、ファラオは、その一角にあるナウクラティスという都市に、戦果として、海賊ルーツの傭兵に、植民を許可するんです、つまり、ギリシャの植民都市が誕生するんですよね」
「たしかに、そうなんですが」

 団長が同調して注釈した。

「ただ、エジプトでのギリシャ人の活動を記録した最古の文献、ヘロドトスの『歴史』、という古書がありましてね、そこに、いろいろ、詳しく書いてありますよ」

 いろいろ、細かい指摘があるようだが、いいそびれたのか、気を使ったのか、深入りをさけたのか、団長は、そこで、プッツリ、口をつぐんでしまった。オレは一気に、持論を展開した。

「歴史は記憶ですよね、さっき団長がおっしゃった『歴史』は、ヘロドトスという古代ギリシャの歴史家が著した最古の歴史書なんですけど、当時の出来事を文字に記した記憶の集大成ですよ」

「ほー…」

 みなに、あまり反応はなかった。

「歴史は記憶ですよね、その記憶を文字に起こしたのが文献とか古書の類ですよね、としたらですよ、その記憶を形に起こしたもの、つまり建物や絵、彫刻が、歴史の証、となるはずですよね」
「なるほど」
「でしょう、だから、歴史の見える化、記憶の見える化、が重要なんですよ」
「ほー、記憶の見える化、ねぇ」

 少なからず、みな、興をそそられたようだった。すかさずオレは、本題に入った。

「まず建物で見える化していきましょうか、最初に、なにが、見えますかね?」
「それやったら、なんちゅうても、ピラミッド、やな」
「ですよね、まず、ピラミッド、エジプトですね、それから?」
「バベルの塔」
「や、あれは、旧約聖書の創成期に出てくる塔で、実在したのか、神話なのか、よく、分からないですよね」
「もし、神話やったら?」
「現物が見られないので、この際、見える化できない、ということで」
「なるほど」
「ほかには?」
「オベリスク、やな」
「さすが、ナポレオンが略奪したと、いわれてますよね、これも、エジプトです」
「それから、スフィンクスですな」
「あれは、建物というより彫刻、彫像の類に入れた方が、いいんじゃないでしょうか」
「そら、おかしいで、あれ、岩盤を削って造ったもんやから、左官の目からしたら、建物の一部になるんとちゃいますか、よう知らんけど」
「ええ、でも、あきらかに、あれは、巨大な彫刻、ですよね」
「そんなこというたら、ギリシャの神殿なんかは、どうなるんやろね」
「どうなるって?」
「神殿の大伽藍を頭で支えてる柱、あれ、みな、巨大な彫刻とちゃいますか、いろんな顔が、あっち向いたり、こっち向いたり、してまっせ」
「社長のいうとおりですよ」

 団長が割って入ってきた。

「たとえば、アテネのバルてノン神殿ですよね、美しい美の女神たちが、神話の彫刻を刻んだ大理石の大伽藍を、こう、支えてますよね、そう、あれこそ、ギリシャ文化の源、大理石の彫刻ですよね」
「ほんま、ギリシャゆうたら、ギリシャ彫刻やもんね」

 オレは意外だった。団長が巨石文化のルーツを知らないわけがない。だから、オレの顔を立てて、言を譲ってくれたとばかりおもって、いろいろ知ったかぶりで喋っていたのだが、ひょっとして、かれのアタマは、地中海の北側止まりなのか? 南側に想いを馳せたことはなかったのか…。
 おれは訊いた。

「団長、でも、スフィンクスやピラミッドと、アテネのバルテノン神殿と、なんらかのつながりがあると、おもいませんか?」
「ファラオのピラミッドにまつわる神話に、イシス、オシリス、なんかが出てきますけど、バルテノンとどう関係するか、わたし、知りません、でも、あの、オペラ魔的ね、モーツアルトの魔的に、イシスとオシリスが、主題の神々として歌われていますから、欧州とエジプトにつながりがあるといえば、あるでしょうね」
「あるんです、しっかりとした、つながりが、それも、ギリシャだけではなくて、ですね、ユーラシア大陸を西から東に横断して、インド、中国、そして日本にまでおよぶ、ながーい繋がりが、あるんですよ」

 そこでオレは、フランスや英国や、宗主国としてアフリカを荒らしまわった欧州各国の目ではなく、自分が生まれ育った、アフリカから遠く離れた、極東の日本の目から見たピラミッドについて、日ごろおもっていることを話した。
 一通り話し終わったところで、団長がいった。

「なるほどね、時間軸を縦に辿っていくと、そういうことが見えてくるかも、しれませんね」
「そうなんですよ」

 おれは強調した。

「それこそ、記憶の見える化、なんですよ、ここで、建物を離れて彫像にいきますとね、たとえば、日本の仏像のルーツはどこですか、中国大陸ですよね、では、中国大陸の仏像のルーツは、どこですか、そうです、インドです、それでは、インドの仏像のルーツは、どこですか?」
「お釈迦さんの生地やから、インドが発祥の源と、ちゃいますんやろか?」

 社長がポカンとして訊いた。

「わたしも、ごく最近まで、そう、おもってたんです」
「ということは、ちゃいますんやな?」
「違うんです、インドから、さらに西、パキスタンのペシャワール、そして、となりのアフガニスタンのガンダーラにまで、さかのぼるんです」
「さかのぼる?」
「といいますのは、ね、仏教がインドを出てペシャワールに伝わったころ、仏教は修行であって、釈迦自身を崇拝することを禁じてたんです、だから、教えを説く経典はあっても、偶像崇拝は忌避されてたんですよね、したがって、仏像はまだなかった」
「ほー」
「それが、となりのアフガニスタンのガンダーラに伝わるころ、アレキサンダー大王の東進とともに伝わって来た、あのギリシャ彫刻に代表されるヘレニズム文化、ね、あれと触れ合うことによって、ですね、お釈迦さんの彫像、仏陀像、が生まれたんですよ」
「ほー、ほんなら、仏像のルーツというのは、ギリシャ彫刻、ということに、なりますなぁ」
「そういうことなんですが、そうなると、ですね、今度は、ギリシャ彫刻のルーツはどこなんだ、てことに、なりませんか?」
「そりゃ、そうやな、はーん、そこで、エジプトやな、ピラミッドが出てきよる分けや」
「そのとおりです」
「どう、つながるんですか?」

 団長が、鼻を膨らませて、訊いた。

「巨石文化です、ファラオの傭兵として、ナイルの上流域、下流域に渡って、外敵と戦いつづけたギリシャ兵たちは、戦地の方々で、巨大なピラミッドやスフィンクスを目にして、その、天をも突く超現実的な、抗いようもない尊厳や威風さえ漂わせる建造物や彫像に、兵士たちは、度肝を抜かれたんじゃ、ないですかね、そして、生死の境を乗りこえた記憶に、深く刻み込まれていったと、おもうんですよね」
「なるほど」
「やがて、年期が明けて、かれらは帰国する、そのとき、もう兵士じゃない、農民ですよ、兜のかわりに手拭いをまき、鎧の代わりに貫頭衣、そして槍の代わりに鍬や釜を握って、田畑を耕すんです」
「しかし」

 団長が後をつづけた。

「戦地で見聞きしたもの、見たものを、命がけで記憶に刻み込んだものを、忘れるわけがない、よね」
「そのとおり、なんです、田畑を耕すかたわら、ピラミッドやスフィンクスの記憶を、細かく、深く、掘り起こして、かれらの感性が畏怖して震えた、あの巨大な石造りの建物や、巨石の彫り物を、巨大な石の彫を、かれらなりに真似して、造っていくんですよ、それがやがて、石造りの宮殿を生み、荘厳な神殿の建立につながり、大理石の、至宝の、あの彫刻群へと、展開していくんですよね」
「そしてそれが、お釈迦さんになって、はるか東の日本まで、つなかっていく、ちゅう分けやね」
「そうなんです」
「なるほどなー」 

 いうと社長は、残りのビールをのみほすと、すっと立ち上がって、いった。

「ほんなら、明日も、早いんで、これで失礼しますわ、えらいタメになるハナシ、きかしてもうて、ほんま、ご馳走さんでした、お疲れ様」

 みな、その機を窺っていたのか、団長も含め、一斉に席を立って、いなくなった。オレは、少なからず満たされない気持ちで、ひとり、とり残された。これから本題に入るところだったのに、肩透かしをくったような気がした。団長くらいは居残ってくれてもよかったとおもったが、無理もないという気も、しないではなかった。お喋りじゃない、みな、仕事に来ているのだ。

 翌日、地区連隊の駐屯所から連絡が入った。明日、連隊長が会うという。交渉団には吉報だった。
 団長は、急にそわそわしだし、落ち着きがなくなった。頭を掻いたり、両手で頬をこすっては鼻をつまみ、不意に拳で肩を叩いたり、とりとめのない挙動を繰りかえした。使命達成の入り口にやっとさしかかったという意気ごみから、そうなっているとは、とてもおもえない。むしろ目が上滑りして、虚ろにさえみる。オレは、すこし、心配になった。昨夜のハナシがよくなかったのか…きのうのオレは、たしかに挑発的だった。なにかにつけ、砂漠を揶揄するような団長に、同情はするものの、一言いっておきたいことがあったのだ。

 実はオレも、おなじように、砂漠に偏見をもっていた。北の上から目線でしか、南のアフリカをみていなかったのだ。

 宗主国欧州からアフリカを見ていた自分が、極東の日本からエジプトのスフィンクスまで、縦軸に時間を遡る体験をしたことで、世の中の時間と、自分が母体で生を得てからの時間が、ぴたりと一致したようにおもった。そのときから、自分の記憶のなかに、人類の記憶が、同軸で刻み込まれている実感を得た。そして、その実感を、おなじように、アフリカにまで広げていこうと考えた。以来、アルジェリアの見方も、がらりと変わったのだ。
昨夜、オレが、盛んに喋ったのは、多分、横軸の欧州文化圏からしかアルジェリアを見ていないだろう団長の挙動を目にして、その実感を、かれに伝えたいとおもってのことだった。

 地区連隊の駐屯所に向かう車中で、オレは謝意を伝えようとおもった。

「団長、すみませんでした、昨晩は、自分一人で、好きなことばっかり、喋っちゃって」
「いや、いや…」

 よほど気をわるくしたのか、気落ちしたのか、上目遣いにオレを見るともなく見ると、そのまま目線を上滑りさせ、窓外に目を移した。砂丘と土漠とブッシュが、素早く、そして緩慢に、過ぎ去ってゆく。団長は、そのまま、また、黙りこくってしまった。
 連隊長との協議も、精彩がなかった。恰幅のいい壮年の軍人の前で、ダブダブの作業服に包まれた、しなびたアスパラみたいな団長は、どうみても見劣りがした。協議にしても、当然、通訳はオレがしたのだが、ほとんどはオレの創作だった。言葉でも迫力でも、とてもアルジェリアの官憲相手に、やりあう能力はなかった。

 ただ、幸いなことに、二人が意気投合する一致点が、ひとつ、あったのだ。意外にも、それはオペラだった。

 協議の途中、一瞬沈黙が支配し、手持無沙汰をもてあましていたとき、連隊長が、助け舟をだしてくれたのだ。

「ところで、団長は、趣味はなんですか?」
「え、趣味、ですか?」

 きょとんとして、かれは応えた。

「わたしは、オペラを専門に勉強しました、ローマで」
「オー! オペラ!」

 いきなり連隊長が、破れ鐘のような大声で、ニコニコしながら、いった。

「本官も、オペラに親しみましたよ」
「ヘッ!…」

 団長は、豆を摘まみ損ねたハトのように、口をパクパクさせた。いかつい口髭のアラブ人から、よもやオペラの話を聞こうなどと、おもいも及ばなかったのだろう。

「た、た、隊長が、オペラ、を?」

 相手の驚きを愉快そうに受け止めながら、連隊長が応じた。

「そうです、ここでは、めったに話題にならないんだが、実は、本官、ソビエト連邦の士官学校に留学しましてね、モスクワに三年、住んでたので、ボリショイオペラには、よく、通いましたね」
「へー…」 

 団長は、驚愕症状から抜け出せないかにみえたが、やっと一息つくと、こう尋ねた。

「で、隊長は、モスクワで、どんな演目、御覧になりました?」
「いろいろ鑑賞しましたねぇ…」

 さも愛おしそうに、連隊長は応えた。

「かなり昔のことで、詳しいことは覚えてないが、いまでも心に残っている演目としては、さて、まずチャイコフスキーの《マゼッパ》ですね、コサックの英雄と裏切りと悲恋、人間社会の真実そのものですね、それから御国を舞台にした、これも悲劇だが、プッチーニの《蝶々夫人》、それから、まあ、なんといっても、もっとも楽しくて、感動したのは、モーツァルトの《魔笛》ですかね、ワーグナーはぜひ鑑賞したかったんだが、縁がなかったのか、いついっても満員で、切符がとれませんでした、それから…」

 通訳しながら、オレも、いまさらながら驚いた。北アフリカの白いパリ、アルジェ、から八百キロ南に下った砂漠で、ボリショイオペラの演目について解説を聞こうとは。

 協議は対談の要素を呈した。かれこれ三十分、通訳を入れて正味十五分はオペラ談義に費やした。土地の有力者、連隊長の親戚との接触を図るのが、今回派遣団の任務ではなかったのか。どこで軌道修正するか、タイミングを窺っていた矢先、連隊長がいきなり立ち上がっていった。

「それでは、来週の今日、木曜日、わが家に来てください、団長、経理さん、技師さん、所長さん、それに現場主任さんも一緒に、どうぞ、クースクースでも食べましょう、では、職務が控えてますので、わたしはこれで」

 そして、笑顔をたやすことなく、それぞれと握手を交わし、執務室のドアを開け、オレたちの自主的な退出を暗に促した。交渉団との対話を、総じて受け入れる用意がある旨の、意思表示だった。

「大した教養人だ…」

 本人の言ではないが、アルジェから八百キロ南の砂漠の地で、その見識と教養をつまびらかにできる機会は、そう頻繁にはないだろう。実際、一年まえ、とび職殺人事件の円滑な事後処理のため、社から派遣された本部長に同伴し、アリ・アフメドに紹介された当の連隊長に会いにいったとき、そんな素振りは一切、みせなかった。それも教養のひとつといえなくもないが、オペラ歌手だった団長との面会が、功を奏したことに疑う余地はない。
 団長は、さぞ満足しているだろう、とおもいきや、なぜか、その反対だった。急に元気がなくなり、帰りの車中でも、頭を掻いたり、頬を叩いたり、焦燥感ただよう挙動が目立った。自信喪失のスパイラルに落ち込んでいくように見えた。 

「団長、さすがですね!」

 その日、夕食の席で、オレは、かれを元気づけるつもりで、連隊長との会談結果は団長の手柄だと、好意的な評価をつたえようとしたが、意外な、というより奇妙な反応が、返ってきた。

「いや、オレ、なんか、そうとは、おもうんだけどさ…」

 自分のことを、わたし、ではなく、いきなり、オレ、といいだしたのだ。しかも、いつから忍ばせていたのか、作業着の懐から赤い花のサボテンを取りだすと、愛しそうに眺めだした。どうなっているのか。

 心配になって、オレは訊いた。

「団長、なにか、あったんですか?」
「いや、なにも…」

 団長は、口ごもりながら、サボテンの赤い花を、ひと撫でして、いった。

「今日はさ、オレ、仮面を剝がされたオペラ座の怪人、みたいな気に、なっちゃったんだよな…」

 なれなれしい喋り方だった。

「仮面、て?」
「オレさ、大阪は東の外れのさ、もろ下町生まれ、なんだよね、文房具屋の次男坊でね、小学校の門前に開けた、けっこうデカい商店街の店だったんだけど、小っちゃいころから、商店街中、走り回って育った、ワルガキだったんだよね」
「へー、そうは、見えませんがねぇ」
「それが、音楽の先生に、すごく熱心なひとがいてさ、とくにクラシックが好きでさ、今どきの小学校はどうか、オレ、よく知らないけど、あのころって、放課後、音楽室に音楽好きの子供集めてさ、ピアノひいたり、歌ったり、協奏曲や、交響曲や、室内楽や、オペラや、いろんな話をしてくれたんだ」
「そこで、オペラに興味を持った、というわけですね」
「そう、その先生がさ、最初に歌ってくれた楽曲、これがね、マドリガーレだったんだよな」
「マドリガーレ?」
「そう、リュート奏でながらさ、綿々と心の内を打ち明けるアレね、あのなかの、素敵な羊飼い、を歌ってくれたんだけどさ、それに、オレ、ガキのくせに、すっかり魅了されてしまってね」
「へー」
「そっからだね、洋楽、といっても、歌う方に興味をもったのは」
「小学校の何年生?」
「四年のときだったかな」
「十歳ですか、へー、早熟だったんですね」
「オレ自身も、驚いたね、だって、まわりにあるのは、もろ日本だろ、八百屋、魚屋、乾物屋、酒屋、駄菓子屋、寿司屋、うどん屋、蕎麦屋、豆腐屋、お好み焼屋、聞こえてくるのは浪花節、歌謡曲、てな具合にね」
「聞いただけで、商店街の活気が、伝わってきますよ」
「活気なんて、そんなもんじゃないよ、夏、夏だよ、あの夏の、だんじり祭りの活気、そりゃ、すごいもんだよ」
「岸和田のは、聞いたことありますけど」
「あそこまで、大規模じゃないけどさ、東、西、南、北の山車四台はもちろん、立派な祭りの道具や装置は、全部、揃ってたんだよね」
「東西南北?」
「オレたちの下町は城東区といってね、大阪城の東にあったんだ、さらにその区を東西南北の四つの町区に分けてさ、町区共同体の象徴として、ね、それぞれに一台づつ、だんじりを持たせたんだよ」
「東のだんじり、西のだんじり、みたいに?」
「そうだよ、オレの町区は西のだんじりだったね、二階建てのデカい山車の脇や飾り屋根に、一升瓶担いだ十数人のお兄さん衆が乗り込んでさ、天神囃子にあわせて、こうやって、音頭とってさ、引っぱってるヤツとか見物人を、ガンガン煽るんだな、追いて歩いてるだけで、こう、身体の内側から、熱くなってくいるんだよ、そのうち…」

 話に、だんだん、熱を帯びてきた。

「岸和田なんかは、町全体が大きくて、広いから、やりまわし、みたいな、凄わざをみせられるんだけどさ、オレたちのは、小っちゃな町だろ、道路も狭いし、クネクネ曲がってるし、大掛かりな見世物なんか、望めない、だから、そこで、なにを見せるか、ちゅうとね」
「なにを?」
「鉢合わせ、ちゅうのを、見せるんだよ、これがまた、すごいんだな、天下御免の大喧嘩、だよね、一升も二升杯もひっかけて、祭りの熱気に乗りに乗ったお兄いさん衆が、さ、辻々で鉢合わせる東、西、南、北、のだんじり同士で、さ、正面からぶつかって、大喧嘩するわけさ」
「あぶねー、ケガするじゃ、ないですか!」
「とおもうだろ」
「じゃないんですか?」
「そのとおり、あぶねー、でね、ケガ人、続出よ」
「引っぱてる人たちは、どうなるんですか?」
「みんな、よく分かっててね、サッと脇に逸れてさ、見物客に早変わり、てわけさ」
「へー、で、団長は、なにを?」
「もちろん、囃子座で、太鼓叩きよ、こう、脚踏ん張ってね」
「へー、でも、鉢合わせの大喧嘩、恐ろしくなかったですか?」
「とんでもない、ワルガキに、怖がってる暇なんかないよ、ヤッタレー、ヤッタレー、て、こっちも、必死で、大喧嘩の手助けだよ」
「へー…」

 オレが感心したのは、夏の、だんじりの、大喧嘩ではない。その話をするときの、熱中した団長そのものだった。幼少時の記憶を、まるで、きのうのことのように、得意げに、無邪気に、自信たっぷりに、はなしたことだった。たったいま、うなだれてサボテンの赤い花を愛でていた当人との繋がりは、どこにもなかった。
 オレはいった。

「団長、すっかり、童心に返られましたね」
「!…」

 団長は、虚を突かれたように、なにも応えられず、ため息をひとつついてうなだれると、また赤い花を、じっと眺めた。
 そういえば、アルジェ出発の朝、エル・マナールのフロントまえで、おなじように、サボテンの赤い花を愛でながら、こんなことをいったのを、おもいだした。

「大切なトラベルグッズでね、これ一つで、わたし、心が乱れずに、すむんですよ…」

 心が乱れずにすむ、とは、どういうことなのか。しかも、大切なトラベルグッズ、という但し書きまでついている。裏を返せば、旅行中は心が乱れるので、癒しの道具が必須だ、ということになる。

「なにに、心が、乱れるのか?…」

 幼少時はワルガキで、だんじり祭りで大喧嘩し、長じてローマに留学、オペラを学び、そこで富豪のイタリア美人と結ばれ、幸せな家庭を築き、そのまま日本企業の欧州事務所長となった人間は、他に、そうざらにはいない。そんな、順風満帆の人生を送っている人間が、なにに心を乱すのか、実はオレ、自分のことを顧みるにつけ、急に気になりだしたのだ。

 翌週の木曜日、連隊長宅でクースクースをご馳走になったとき、それが、すこし、分かった気がした。

 一般的なアルジェリア人の日本観は、欧米列強相手に果敢に戦争し、完膚なきまでに叩きのめされたにもかかわらず、ゼロから立ち上がって祖国を再建し、世界一の経済大国にまでのし上がった、途上国のリーダー的存在の国、というものだった。ということは、自分たちの同胞、といわないまでも、途上国側の一員として、日本を見ているということになる。

 百三十年間の長期にわたって、宗主国のほしいままに支配され、辛酸をなめつづけた人々の、民族自決と祖国繁栄への飢えが、それを成し遂げた国への羨望と、高い評価につながっているだろうことは、想像に難くない。
 
ただ、二言目には、あんなに勇敢だった日本が、いつまでアメリカのいうなりになっているんだ、といった類の、批判がましい皮肉をいう人は多い。独立戦争でフランスを追いだし、戦後は、なにかにつけ旧宗主国にたてついてきた祖国の誇りが、そうさせるのかもしれないが、現実は、そうあまいものではないことも、よく理解しているようにおもえた。

 地区連隊の隊員宿舎はエルゴレアにあった。現場からニ十キロ北東に遡った、東西大砂丘群の中央部、平坦な土漠の中に位置し、サハラ縦断ルートの重要な補給点になるオアシスだった。
 宿舎は街の中心部にあったが、漆喰二階建ての合同庁舎の一角を占めるだけの、小規模なものだった。連隊長は、純白の貫頭衣にブルーの長い布を肩からかけた姿で、官舎の門まで出迎えてくれた。

「あ、それ…」

 見るなりオレは、反射的に、口走っていた。

「それ、ぐるりと、頭に巻けば、ターバンになりますよね」
「そうだね、巻いてみようか」

 いうと、連隊長は、ブルーの長い布を器用にしごき、実際に、自分の頭にターバンを巻いてみせた。

「あ、ほら、やっぱ、ブルーマンだ、連隊長は、トアレグの出なんですか?」
「うーん…」

 どう応えていいものか、迷っている風情だった。実際、他人の家を訪ねて、いきなり世帯主に出自を問うとは、ずいぶん無礼な振る舞いだといわれても仕方がない。
 オレは、急に恥ずかしくなった。

「すみません、いきなり、失礼なこと、訊いたりして…」
「いや、いや、ま、とにかく、どうぞ、中へ…」

 連隊長は、おおように笑って、みなを、官舎内に招き入れた。
 門扉から十メートルばかり、暗い通路を潜りぬけると、広い中庭に出た。パティオの中央に井戸が切ってあり、まわりに何人か、ひとの動く気配がした。煉瓦製の架台に鋳鉄の手押しポンプが取り付けてあり、これも煉瓦で仕切った水受けの脇から、レモンの木が一本、四角い天空にむかって勢いよく延び、青々と茂った葉が、正午の光を受けて、露出不足の目に眩いばかりの輝きを、放っていた。
 ようやく眩さに慣れた目で、井戸端の様子をうかがっていると、ひとを呼ぶ女の声が、聞こえてきた…アイシャ! ファトマ! レイラ! 手伝って!…娘の名を呼ぶ母親の声だろうか、四方を囲む漆喰の壁に阻まれ、何倍にも増幅されて跳ね返り、パティオいっぱいに響きわたった。
 にわかに井戸端が、賑やかになった。

「アイシャ、ママが呼んでるよ」
「ファトマ、レイラ、あんたたち、ナフキン持って先に行っててよ、残りは、わたしがやっておくから」
「あら、ナフキンのセットは、お姉さんの役でしょ、お姉さん、持ってってよ」
「なにいってんのよ、セットはナフキンだけじゃないでしょ、みんなで、やるのよ」
「レイラ、そこに積んであるナフキン、ぜんぶ、持ってってちょうだい」
「だめだよ、あたい、クースクーシエ洗ってんだから、ファトマが持ってけば、いいじゃない」
「そんなの、いまはいいのよ、あとでどっさり、洗い物でるんだから、さ、レイラ、はやく、ほら、お客さま、もう、いらしてるでし
「どこに? あ…」

 そこにいたオレに、驚いたのか、小女は、ナフキンを顎の下までかかえたまま、ポカンと口をあけ、気をとられたように、しばらくこちらを見ていたが、やがて、はっと、われに返ると、踵を返して駆けだした。

「…レイラ?…まさか、あのレイラ…」

 まさかとおもったが、ここは、アルジェから八百キロはなれたオアシス、あの小女がいるわけがない。それに、オレの中では、すでに過去の記憶の裏に、封印されたままだ。それが、いま、ここで、蘇る術はない。ただ、なにかに気をとられたときの、あの仕草、無垢で邪気のない眼差し、未熟で伸び切らない、それでいて、どこか、そそられる、しなやかな肢体の動きは、やはり、レイラそのものだった。

「ずいぶん、可愛いコだね」

 後ろから歩いてきた団長が、小声でいった。

「わたしの娘と、同い年くらいかな」
「え、お子さん、いらっしゃるんですか?」
「オトコひとりに女ふたり、末っ子が娘でね、ちょうど、あの子くらいですよ」
「可愛いでしょ」
「ええ、可愛いですよ」
「はやく帰りたいでしょ、ローマに」
「いや、そんなじゃぁ…」

 いいながら、少しテレて、こういい足した。

「しかし、あの娘たち、なんであんなに、白いんですかね」
「白い?」
「わたしの妻はオーストリア系の白人で、ラテン系の白人とは、ちょっと肌の感じが違うんですが」
「へー、そんなもんですか」
「あの娘たち、とくに上のふたりね、どちらかというと、生粋の白人系の肌、してるんですよね、なぜでしょうね、こんなサハラのど真ん中にいて」
「ハー、で、末っ子は?」
「レイラ、とかいってましたね、あの子は、メラニン色素がつよいのか、日焼けしてるのか、ブロンズがかってますよね」
「ヘー、わたしには、みな、おなじに見えますけど、どこで見るんですか、肌の色感というのは?」
「ここですよ」

 いいながら団長は、耳たぶの後ろからうなじにかけて、人差し指の腹をあて、何度か滑らせてみせた。

「ここ、ここを見れば、肌の色や全体の質感が、わかるんですよ、ただ」
「ただ?」
「ただ、あの子たち、みな、ここ、おなじ場所に、痣というか、タトゥーというか、似たような《しるし》が…ほら、あれ、なんでしょうね?」
「!…」

 オレは一瞬、ぞくっとした。レイラのうなじの、赤い痣が、脳裏によみがえったからだ。他人に気取られるわけにいかない隠し事を、のぞき見されたような気がした。

「ま、とにかく、行きますか…」

 オレは、無関心を装い、団長を促して、連隊長の後を追った。
 応接室の丸テーブルはクースクースの山だった。客人ひとりひとりの大皿に連隊長が盛り付け、煮汁と具をたっぷりとかける。円卓の宴は、オレにとって、長期滞在で間延びした生活感覚をみなおす、いい機会となった。

 レイラと出逢うちょっとまえ、テル・アトラスの領袖ジュルジュラ山系の山岳都市にあるベニエニという山村で、クースクースを食べた。残雪と霧の険しい山道を、夏タイヤでそろそろ、寒さと飢えと、崖から転落する恐怖に怯えながら、やっと辿りついたオレには、涙が出るほど美味かった。どんぶり大の器で出された子羊と野菜のスープを、別皿にこんもり盛り上げたスムールに好きなだけかけ、アルミのスプーンで掬って食べる。豊潤で濃厚な煮汁が、多彩な香料の香りとともに、固蒸しのスムールと混ざり合って、するすると喉を通りぬけ、どんどん胃に運ばれていく。あとで膨らむことは、よく知っていたが、その日のオレは、あまりに疲れていたので、後先を考える余裕がなかった。夜中に目が覚め、膨れ上がった腹をかかえて、後の祭りと後悔したが、肝心の味だけは、忘れなかった。

 連隊長宅での料理も、連隊長直々のもてなしも、勝るとも劣らず刺激的で、感動的で、美味かった。オレは、そのことを、ぜひ伝えておきたいと、おもった。

「あの、ベニエニのクースクース、山岳村まで行くのは大変だったけど、味は、ホントに美味かったんですが、それより、もっと美味しいですよ、ここの、砂漠のど真ん中の、連隊長のクースクースも、ホントに、刺激的で、美味い、うまいですよ」
 連隊長は、満足そうに微笑みながら、こう応えた。

「そえはよかった、おなじベルベルの血が流れてるんだから、美味くないはずはないでしょうけどね」
「え、ベルベルの血?」

 すぐに反応したのは、団長だった。

「ベルベルの血、て、なんですか?」

 連隊長は、それに慇懃に、応じた。

「団長は、タッシリ・ナジェールのこと、ご存じかな?」
「タッシリ・ナジェール?」
「ロックペインティングで有名なところですが」
「ああ、雑誌で読んだことがあります、サハラ砂漠に忽然と出現する宇宙人、とかと、面白く報道されていましたけど、随分古いものなんでしょうね」
「一万二千年まえから、継続して描かれた壁画群といわれているものです」
「岩山の壁画なんですか、それとも、ラスコーみたいな、洞窟の壁画なんですか?」
「岩山の岩壁ですよ、それも、ほとんどが砂岩でできた台地状の山脈でしてね、絵は、その砂岩の壁に描いてあるんです、それが、延々、五百キロのはばで、砂漠の中央に広がっているんですよ」
「すごいスケールだなあ、で、標高は?」
「高いところで、二千メートル以上は、ありますかね」
「雑誌には、キリンや象、カバみたいな動物、羊、牛、馬、いろんな生き物の絵が掲載されてましたけど、そんなところに、実際、生きていけたんですかね?」
「現在は砂漠になってますから、とても動物たちが生きていける環境ではない、という疑問がわくのも当然ですが、実際に生きていたからこそ、絵に描かれているわけで、ということは、古代のタッシリ・ナジェールは、水や緑が豊かな土地だった、ということでしょうね」
「この、なにもない砂漠が、緑豊かな台地、だったと?」

 連隊長はスプーンを置き、腕組みして、続けた。

「ええ、その証拠に、タッシリ・ナジェールというのは、先住民の言葉で、河川の台地、とか、水流の多い大地、とか、川の流れる楽園、とかという意味でしてね、かつては湿潤な雨の多い土地だったようです」
「信じられませんね」
「近々、世界遺産にも登録される予定ですよ」
「それは、すごい、で、その先住民というのは?」
「それが、さっき話した、ベルベル人のこと、ですよ」
「あ、なるほど」

 やっと飲み込めた、と、いわんばかりに、団長はうなずいた。

「ということは、つまり、ベニエニの住民も、ここエルゴレアの住民も、一万二千年まえから住んでいるベルベルの子孫、というわけなんですね」
「そういうことです」
「でも、ベニエニはカビリー地方でしょう、ここはサハラのど真ん中、ちょっと離れすぎてるような気も、しないではありませんが?」
「もっともですが、タッシリはここからまだ千キロ南ですよ、ですから、地中海から二千キロ奥地に入った内陸です、そしてざっと1万年まえに、その内陸から地中海までの二千キロが、緑豊かな雨の降る台地だったわけですから、その全域に、つまりですね、アルジェリア、ニジェール、チュニジア、リビア、モロッコ、モーリタニア、そこら中、場所を選ばず、先住民が広く分布していたとしても、不思議ではないんじゃないかな、でしょう、団長さん?」
「いや、おっしゃるとおりですね」

 団長はおおきく頷いて、口いっぱいにスムールを頬張った。オレは、団長の好奇心に、一味添えてやろうとおもった。

「ベニエニってね、団長、彫銀で有名なとこなんですよ、とくに銀とサンゴを組み合わせたアクセサリーが、とてもいいんですよ」
「銀とサンゴ?」
「腕輪、指輪、ネックレス、ブローチ、イヤリング、ピアス、いろいろ、ありましてね、それぞれに、こまかな彫銀細工が施してあって、そこに、いろんな形状のサンゴ、しかも朱色のね、それがアレンジしてあるんですよ、きれいですよ、お土産にひとつ、いかがですか」
「ホー、そういえば、シディ・フレッジのブーティックで、いくつか見かけましたが、あれですね」
「ほんとはね、現場で実際に見て、買ったほうがいいんですけどね」
「そうしたいけど、やめとくよ、遊びに来てるわけじゃないしね」

 会話の中身を察知したのか、連隊長が割って入った。

「わたしが、いい店、紹介しよう」
「え?」
「アルジェの地下街に一軒、まともな土産物屋がある、店主はトゥアレグ人でね、おなじベルベルです、そこなら安心して、いい買い物ができますよ」

 そういうと、連隊長は、いきなり、レイラ、レイラ! と大声で末っ子の名を呼び、そのあと、これも大声で、何度か、繰り返し、何事かを叫んだ。
 しばらくして、レイラが、応接室に入って来た。憎らしいほど、カスバのレイラに似ている。食卓に近づくと、父親になにか、銀色の鎖のようなものを、手渡した。連隊長は、それを受け取ると、レイラの首にまわし、留め金をかけ、そして優しく、いった。

「さ、みなさんに、見てもらいなさい、ベニエニのネックレスを」

 レイラは、顔を真っ赤にして、目を伏せ、そのまま、身動きができなくなった。連隊長は、その様子を、愛しそうにながめていたが、すぐに、首飾りで窮屈そうになった娘の首筋を、ゆっくり撫でてやりながら、説明をはじめた。

「この首飾りは、さきほどいった、アルジェの地下街にあるトゥアレグ人の店で買ったものでね、店主がベニエニでみつけた骨董品です、おそらく著名な、権力のあるひとたち、だったんでしょうね、いろんなひとの肖像が、コイン大の銀板に彫り込んであるでしょう、それに、短冊形に切りそろえた朱色のサンゴと幾何学的に組み合わせて、孔雀が銀と朱色の羽を広げたような、優雅な扇型に仕立て上げてますよね、しかも、ほら、これ、この、ちょっと大きめのメダル、何だとおもいますか?」

 みな、クースクースを食べるのを止め、レイラの首に巻いた首飾りのメダルを、のぞきこんだ。

「これはね」

 鼻を膨らませ、連隊長はいった。

「ナポレオン銀貨なんですよ」
「ナポレオン銀貨!」

 みな、一様に驚いた。

「そうなんです」

 連隊長がつづけた。

「ナポレオン一世は、みなさん、よくご存じですよね、コルシカ出身で、フランス革命を潰そうとした欧州諸国と戦った天才的軍人で、イギリスとロシアを除いて、一度は全土を支配したのですが、最終的には、負けて、南大西洋の英領セントヘレナで死んでしまったフランスの英雄、ですよね、その弟に男の子がいましてね、その甥っこが、後にナポレオン三世として、19世紀なかフランス皇帝となるんですが、その時代に発行された5フランの銀貨があるんですよ、それがこれです」
「ホー、ナポレオン時代の骨董品なんですね」

 みな、異口同音に、感心した。

「いや、ナポレオン三世時代のものです、もちろん、ナポレオン一世の時代にも、五フラン銀貨は流通していたのですが、アフリカまではまだ届いていなかった、しかし、フランスのアルジェリア侵略は千九百三十年ですから、ちょうど三世の世の中のものは、野心的な領土拡張の時代でもあったので、アジアや北、西アフリカまで、しっかり流通していたんですね」
「モスクワにはなかったんですか?」

 団長が訊ねた。

「ローマの蚤の市にいけば、ナポレオン金貨も銀貨も、探せば、けっこう見つかるそうですよ、もちろん、ポナパルトとシャルル・ルイの両王朝のものですが」
「それはそうでしょう、欧州の、どこへいっても、あるでしょうね、一時期は、全土の支配者だったわけだから」

 いいながら、連隊長は、レイラから首飾りを外し、両の手に持たせ、厨房に戻るよう促してから、いった。

「ただ、わたしが銀貨を手に入れたのは、植民支配の証として、記憶にとどめておきたかったからで、骨董趣味からではないんですよね、団長さん」

 団長は、すこし誤解を招いたような、ばつの悪そうな笑顔を浮かべたが、気をとりなおして、はなしを本題に振った。

「連隊長の親戚の、伯父さんに当たるかた、ですが、この地域で、とても力をもっておられる、有力者と聞いております、さぞ、広大な土地を所有してらっしゃるんでしょうね」

 連隊長は、微笑みながら、それを軽くいなした。

「誤解のないように、伯父は、なにも所有してはいません」
「?!…でも、伯父さんは、砂漠化防止計画の重要な関係者で、実際に給水設備の建設で、実績を上げてらっしゃるでしょう?」
「それは、そのとおりですが、多分、私たちの所有形態に関わる誤解だとおもうのですが、父方の伯父であれ、母方の叔父であれ、男系の親戚には、財の所有権はないんですよ」
「はぁ?」

 ぽかんとした団長をよそに、笑みを絶やさず、連隊長はつづけた。

「わたしたちの場合、一族の財は、これ、全部、女が受けつぐんですよ、男は、その運用には携われますが、所有する、つまり、自分の物にすることは、できないんです」
「すると、こういうことですか」

オレは、割って入って、訊いた。

「例の砂漠化防止対策に供された土地の件ですけど、対象になった土地というのは、どなたの所有地だったんですか?」
「あれは、わたしの母の財産なんです」
「つまり、連隊長のお母さんが、自分の広大な土地の運用を、兄の、つまり伯父さんに任された、ということですね」
「本当をいいますと、母の相手、わたしの父が、その役割を担うはずだったのですが、カビリーの山岳地帯で戦死してしまいましてね」
「戦死!…」

 招待客のだれもが絶句した。

「そんなわけで、父の兄が、土地運用を引き継いだわけですが、ほら、男は一旦、外にでれば、いつ帰るかの保証はないでしょう、土地運用には交代要員がいればすむことですが、一族の財となると、話しは違う、継承者には交代要員はいませんのでね」
 そういって連隊長は、冷静に、土地の話を打ち切ろうとした。しかし、オレの気持ちは、すこしばかり、高揚していた。生きた人間の口から、直接、戦死という言葉を聞いたのは、はじめてだったからだ。

「すごいですね、お父さんは、革命戦士、だったんですね!」
「ええ」

 連隊長は、頬を赤らめ、応えた。

「五十四年十一月一日、独立戦争の火ぶたが切られたオーレス山地の蜂起で、反乱軍、すなわち民族解放戦線の指揮をとっていました」
「革命の英雄ですね!」
「ありがとう、わたしにとっても、母にとっても、一族にとっても、祖国独立に殉じた、偉大な英雄です」
「いつ、お亡くなりに?」
「定かではありませんが、残された資料から、独立戦争終盤、アルジェの戦いに入るまえ、セティフ東部の森林地帯に展開していた父の指揮下の数部隊が、ナパーム弾で全滅したことがわかりました、真っ黒な灰しか残っていなかったそうです」

「真っ黒な灰…ですか…」

そこで、また、みな、絶句するしか、なかった
 
       ~~~~~~~~~~~~~~~~
 
「突然、人の死をしらされる、それも、尋常でない、不条理な、傷ましい死、そんなときって、いうべき言葉がなくて、困らないか」
「さすがのキミも、やはり、そうなのかね」
「ご立派です、なんていえないし、尊い犠牲です、なんて上から目線は禁物だし、ご本人もどれだけ悔しかったかと察せられます、なんて、見え透いた偽善も許せないし、オレたちが聞きなれた、ご愁傷さまです、なんていうのも、いかにも他人事みたいで、場違いな気もするし」
「人の死を悼む、弔う、そんなときって、どこの国にだって、似たような言葉があるものだよ、ただ、身内でもないものが、部外者として、他意のない誠意を露わそうとしたって、しっくりいくときもあれば、そうはいかない場合だって、あるんじゃないか」
「だから、難しいんだな」
「悲しいとか、悔しいとか、いたましいとか、遺族へのいたわりとか、勇気づけとか、故人の功績への賛辞とか、死を巡る言動には、多様な選択肢はあるけど、どれがいいかとなると、基準はないね」
「だから、とまどってしまうんだ、皮肉な見方すると、だね、追悼の言辞には、人の死を無駄にしないための、残されたものが繰り出す詭弁、みたいな側面もあると、オレ、おもうんだな」
「詭弁というより、宗教とか理想とか理念とか、だろうね、それは」
「そこなんだ、詭弁であるかぎりは、それでいいんだよ、悔し紛れの言辞は、本人さえ納得すれば、それで解決なんだ、他人に危害はくわえない、しかし、」
「しかし?」
「そこに宗教とか理念とか理想とかがからんでくると、厄介なことになる、とオレは、おもう」
「厄介な?」
「たとえば、殉教という概念だよ」
「それが、どうして、厄介なんだろうか、人のために身を犠牲にして死にいたる、尊い行いじゃないか」
「オマエも、単純なヤツだな、いいか、元来、人の死は、すべて、平等なんだ、ただいなくなるだけ、そこに価値なんて、ないんだよ、たしかに人の死は悲しい、とくに身内の突然の死なんて、取り返しのつかないおもいで、気が狂いそうになるのもわかる、しかし、生が途絶えたときの、虚しさや、悲しみは、虚無と正対したときの生の慄きであって、さ、いわば、彼岸に辿りつけない側の、負け惜しみみたいなものじゃないのか」
「負け惜しみ?」
「そう、負けて悔しいから、なんやかやと、意味をつけたがるが、それって、まっとうな人間の、ありのままの心情の、自然な発露だと、オレは、おもうがね」
「すると、キミがさっきいった、あの、厄介な死、殉教、というのは、なんなんだ?」
「まさに、人の死に、殉教という価値を与えて礼賛するのは、まっとうな人間の、ありのままの人情が辿りつく、自然な発露ではない、ということだよ」
「つまり、キミの言をいいかえれば、だね、まっとうでない人間が、他意をもって、恣意的に考え出した、根も葉もない価値観、ということになるんじゃないのか」
「まさに、そのとおりだよ」
「そりゃ、ないよ、そんな風におもわれたんじゃ、死んだヤツは、死んでも死にきれないじゃないか」
「いいか、誤解のないように、してくれよ、人の死を、たとえば、連隊長の父親みたいな人の死を、だね、オレみたいに、革命の英雄、などと礼賛するのは、まだ、まっとうな人間の、ありのままの心情の、自然な発露だ、と、いってるんだよ」
「よく、分からないね」
「つまり、だね、死者の遺業を礼賛する、これって、とてもまっとうな考えじゃないか、そうだろ、しかし、だよ、生が消滅するという、純粋にして単純な自然現象である死に対して、だよ、殉教などという手前勝手な価値観を編みだして、あろうことか、それを全うすべく邁進すべし、などと、まだ生の半分もしらない若者を焚きつけて死に至らしめるような考えがあるとしたら、それこそ、言語道断の邪悪な思想だ、と、オレは、いってるんだ」
「ま、そう怒るなよ、キミらしくもないじゃないか、人間の歴史って、そういうものじゃないのか」
「冗談言っちゃ、いけないね、いったい、人間のどこに、そんな自滅を奨励するような機能が、備わっているっていうんだ」
「人間には心というものがある、情念というものがあるんだよ」
「情念?」
「そうさ、ヒト類にしか与えれれていない究極の、激越なる欲望の発露、だよ」
「なんだ、それ?」
「キミの団長の、エーゲ海の攻防なんて、その最たるものじゃないか」
「あの、アテネとスパルタの戦いのことか?」
「そうだよ、覇権を護りたいスパルタ側のポリス連合と、覇権を奪いたいアテネのポリス連合の、いわば覇権争いじゃないか」
「そのとおりだが、そのどこに、ヒト類にしか与えれていない究極の、激越なる欲望の発露、なるものが、あるというんだ?」
「世界を支配したい、という激越なる欲望から、ポリス連合は殺し合うことになった、それこそ、まさに、情念の最たる発露じゃないのか」
「オマエって、ヘンなヤツだな」
「ん、急に、どうしたんだ?」
「情念の究極の発露は殺し合い、てことか?」
「そんなこと、だれも、いってやしない、ただ、ヒトが、そういった歴史を歩んできたことは、たしかだよ」
「オレは、そうは、おもわんね」
「じゃあ、あの、連隊長の父親の戦死は、どうなんだ、キミは、革命の英雄、とかなんとかいって、持ち上げてたじゃないか」
「あれは、たしかに、情念だな、民族独立という、激越なる情念の発露だよ」
「そら、みろ」
「しかし、それは、生きたい、という欲望の発露だよ、覇権とは、おのずと違う」
「それはそうだが、おなじ欲望に変わりないじゃないか」
「いや、百八十度、違うね、ヒトの記憶には、生きる情念は保存して継承できるが、殺す情念は保存されないどころか、記憶として承認されないんだよ」
「保存されようと、拒否されようと、どちらも、おなじじゃないのか、殺される前に殺したい、結局、生きるための欲望じゃないか、それには相手を」
「いや、それこそ詭弁というもんだよ、もし、仮にだよ、ヒトの記憶のプラットフォームに、殺したいという情念の記憶が保存され、蓄積され、継承されていくプロセスが仕組まれていたとしたら、だよ、ヒトは、ヒト類は、とっくの昔に、滅んでいたはずだよ」
「それは、偽善的な人道主義者のいう、根も葉もない極論だよ」
「バカいえ、歴史を振り返って、よくみてみろよ、その証拠に、覇権を握ったものは、必ず、滅びてきたじゃないか」
「あれは、支配理念が古くなって、賞味期限が切れて、組織が老朽化して腐敗して、木の実が自然に朽ちて落ちるように、消滅していくからだよ」
「なら、なぜ、そうなるんだ?」
「さあ、人の業、としか、いいようがないが」
「オマエの理解の程度も、せいぜい、そんなとこどまりか、自分の母語と記憶のリンクも認知できず、あちゃらの観念ばかり追っかけてるから、そのていたらくなんだよ」 
「ずいぶん言うじゃないか」
「記憶と体のつながりも知らんヤツが、オレの記憶を助けにきただって、笑わせるぜ、まったく」
「ボクじゃない、援けを呼んだのは、キミのご両親だよ、感謝したまえ」
「なんだ、殺し合う情念を礼賛したとおもったら、今度は親子の愛情か、オマエの記憶装置には、腑分け機能は、ついてないのか?」
「キミは、二言目には記憶、記憶というが」
「あたりまえだろ、記憶があるからオレがいるんだ、記憶がなきゃ、オマエ、ゼロだぞ、その、六十兆の有機細胞を抱えて、日々、二百兆の細菌を持ちあ込んでる宿主にすぎないんだ、単なる有機体のキャリアケースだぞ、オマエは」
「また、そういう極論で、ハナシをごまかす」
「オマエの極論よりは、ましだがな」
「揚げ足取りはよさないか、それより、現実を見たほうがいい、事実から目を逸らすのは、キミのためにはならないよ」
「事実?」
「キミの記憶は錯綜しているんだ」
「錯綜? なにを、たわごとを」
「事実、そうじゃないか、キミは、千歳烏山でレイラを見たといったね」
「ああ、それは事実だ」
「しかし、あの時点で、キミはまだ、アフリカには行っていないんだ、キミがレイラに初めて逢ったのは、アフリカだ、だから、まだアフリカに行ってもいないキミが、レイラを認知することなんて、できやしないんだよ」
「いや、あれは、レイラだった、絶対に、レイラだった!」
「きっと、人違いだったんだよ、人違い」
「人違いだと?」
「そうさ、だって、さっき、自分でいってたじゃないか、連隊長の末っ子の娘さんが、カスバのレイラに瓜二つだって」
「そうだ、そっくりだった」
「だから、千歳烏山のレイラは、アフリカに行く前に、映画とか、雑誌とか、写真集とかで見かけた、レイラそっくりの女だったんだよ、きっと」
「そんなことは、ありえないね、百歩譲って、オマエに一理あるとすれば、だね、千歳烏山のレイラ、カスバのレイラ、そして、エルゴレアのレイラ、この三つのレイラが、オレの記憶のどっかに保存されている、ということになるが」
「まさに、そういうことさ、そして、それだけじゃない、その三つのレイラが、こう、ごちゃごちゃに、錯綜しているんだよ、キミの中でね」
「そこまでいうなら、オレもいわせてもらうがね、さらに百歩譲って、その三つのレイラが、複雑に錯綜しているとすれば、だね、いったいぜんたい、なんでなんだ、その理由は、なんなんだ、いってみろよ」
「なら、いわせて、もらうがね」
「ああ、いって、みろよ」
「刷り込み、という現象があること、キミも知ってるだろう?」
「スリコミ? ああ、あの、鳥類のヒナの、アレだろ」
「そうだよ、目の前で動くものを、自分の親だと学習してしまう、記憶装置の、アレだよ」
「それが、なんなんだ、オレと、どう関係すると、いうんだ」
「さっき、キミは、奇妙なこと、いってたね」
「奇妙なこと?」
「あの、カスバでの修羅場のあと、キミは、レイラをすぐ首にして、裏切られた怨念の裏側に封印した、とか、なんとか」
「そうだ、ヒトの誠意を無茶苦茶コケにしやがって、そんなヤツを、そう簡単に赦してたまるものか」
「赦す、赦さない、はキミの勝手だが、怨念の裏側に封印するって、どういうことなんだ?」
「オレの記憶の表舞台に、二度と出てこれなくしてやったのさ」
「なにも、そこまで、彼女を恨まなくてもいいじゃ、ないか、もともと、小女をかどわかしたのは、キミのう方なんだろう?」
「冗談じゃない、最初から、そう仕組んでたのさ、いいカモが、ネギしょって、のこのこやってくるのをさ、手ぐすね引いて、まってたんだよ」
「だとしたら、恨むのは祖母だろ、いや、元を辿れば、大家じゃないか、なんでそこまで、レイラを恨むんだ」
「アイツが、オレの心を、踏みにじったからだ、あんなに痩せて、ひ弱で、幼くて、健気なのに、理不尽な世間のしがらみを、まるごと背負わされて、あの小さな手と足で、賢明に生きようと、もがいている、そんな不条理な存在に、おもわず手を差し伸べようとしたオレの気持ちを、アイツは、受けいれるどころか、値踏み、しやがったんだ」
「いいじゃないか、キミみたいな、外から来た、とるに足りない、人畜無害の、中年男にだって、賢明に生きたいアフリカの小女にとっては、多少の利用価値があった、てことじゃないか、彼女の肥しになれたんだ、それが分かっただけでも、よかったじゃないのか、え、そうは、考えられないのか、キミともあろうものが」
「オマエは、ヒトを、愛したことは、ないのか?」
「おっと、それだけは、よそう」
「なにが?」
「なんだって、愛憎の心に紐づけしてしまえば、さ、それなりに、理屈は立つものだよ、むかしから、よくいうじゃないか、可愛さ余って憎さ百倍、とかさ、愛すればこそ、裏切られて燃え上がる復習への激情、とかさ」
「三文小説の読みすぎだな、ごまかすんじゃない、オレの訊いたことに、答えろよ、三つのレイラって、どういうことだ、記憶が錯綜してるって、どういうことなんだ?」
「なら、いうが、レイラは、実は、一人しかいない、ほかの二人は、キミの創造物じゃないのか?」
「なにを、バカなことを!」
「キミは、カスバの修羅場でレイラに裏切られた、そして、復讐への激情のあまり、怨念の裏側に封印した、と、たしか、キミ、そう、いったね、いったよね」
「ああ、いったよ、レイラの記憶は、完璧に封印した」
「しかし、キミは、レイラを愛している、心底、愛している、だから、心はレイラへの想いで一杯だ、そうだろ、にもかかわらず、生の記憶の裏側に抹殺しなければ、ならなかった」
「そうだ」
「しかし、そんなこと、できるのかい?」
「できるさ、そう決めたんだから」
「そこが、刷り込みだ、ていうんだよ」
「どういうことだ」
「記憶を抹殺することなんて、できるかい、できるわけないじゃないか、しかし、抹殺したと信じ込む、自分で自分に思いこませる、レイラはいない、と頭に刷り込みをいれる、それは可能だよね」
「だったら、いいじゃないか、それで」
「いや、そこが錯綜の始まりなんだ、頭ではいないと決めたが、そのことを、キミは、とりかえしのつかないことをしたと、心ではおもっている、つまり、刷り込みでいないはずのレイラは、生身の記憶として、厳然と、キミの心のなかに息づいているんだよ」
「バカな!」
「それが、千歳烏山のレイラや、エルゴレアのレイラとなって、架空の不在を補うために、出てくるんだよ、キミの都合のいいときに、前後の文脈にあわせて、ね」
「どこの作り話だ!」
「ボクは、ね、はっきり、わかるね、キミが、これから何を思い出して、どう話そうとしているのか、がね」
「どういうことだ?」
「おそらく、ブルーマンの連隊長とか、イタリアオペラの団長とか、エルゴレアのレイラとか、現場主任とか、そんなだれかに、なにかが起こるんだよ、それも、とっても劇的なこと、がね」
「バカな! 連隊長のお嬢さんだぞ、そんなことがあって、なるものか!」
「ほら、図星だろう、キミは、いま、エルゴレアのレイラにだけ、反応したね、彼女に、なにが起こるんだ、いや、なにが、起こったんだ?」
「冗談じゃない、なにも起こる分け、ないじゃないか、起こるとしたら、アイツだよ、あのヤローだよ」
「だれだい、あのヤロー、って?」
「イタ公のオペラ団長だよ」
「団長? 彼が、どうかしたのか?」
「だいたい、あのヤローが来てから、なにもかも、調子が狂ったんだ」
「あの団長が来てから?」
「そうだ、エーゲ海と、ギリシャ神話と、赤いサボテンの花から、ハナシが、おかしくなりだしたんだ…」

 赤の連還 11 赤い花弁 完 12 赤い殺意 につづく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?