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七霊山を繋ぐ

戻ってきて最初に感じたのは、一度カラダをバラバラにされて、もう一度くっつけられたような感覚でした。とにかくしんどかった。その変化は今でも続いているのだけれど。

ここからは山の話ではありません。
私が課題としていたことの検証と反省であります。

戻ってしばらくしてから、七霊山ひと山、ひと山をイメージし、感謝を伝え、繋がるようにイメージしてみました。
すると、なにかが流れるような、喜びと感動が胸に響きました。何かをやり遂げられたと感じられるのは嬉しいものです。

七霊山が響きあうということは、ワタシの内部においても何かが響きあっていることになります。
型共鳴的にも。
なので、すっごくしんどい。
よく眠っているのだけれど、見る夢は暗く深く、ほとんど持ち帰れない。

ワタシのなかでうごめいているものを、まだ上手く言語化できないのだけれど、たくさんの人の言葉と象徴を借りて、なんとかカタチにしようと試みている。
言葉にならないものを言葉にすることは難しい。でも、流れが放出されるきっかけとなるものを探しだせれば、流れを上手く導ければ、半分は成功なんじゃないかな…と思っている。


登山を開始し、休憩場のベンチで先生のYouTubeを聞く。松村先生のYouTube動画。牡羊座25度。

電波は問題なく入る。山からZOOMって出来るのかな?の問いがあって、いくつかの下調べを兼ねていたのだけれど、これより先は電波状態さへ確認できないくらいの始末😅

途中で出会う方々とお話するなかで、ワタシの足取りを見て、上はキツイかも…と声が濁る。石鎚山の有名な鎖場は絶対ダメとのお達しが出た。登っているていの写真を撮ってあげましょうか?と声をかけていただいたのだけれど、余分な動きが出来ずにお断りさせていただく。親切を申し訳ない。天狗さんのようにスイスイと登っていく若人たちも上で出会うと「むちゃくちゃ怖かった」と言っていた。

で、頂上。
弥山の上にワタシ達はいて、天狗岳を望み『ああ、石鎚山!』と思っている。
天狗岳への道は細いけれど、しっかりとした岩の上を歩くこと10分程だそう。

弥山と天狗岳の間を渡ることで、自我移動を理解したかったの。見ているワタシと見られているワタシの逆転。七霊山を意識したなかにグレートセントラルサンをもっと理解したいという思いもあったのだと思う。自分の中に落としこむには、こういう作業が楽である。外と内の共鳴。

高い所が苦手な上に、今日は風が強い。さっき25度のYouTubeを聴いたばかりだし😅、まだ満たしきれていない、結晶化できないワタシはこのミッションを先送りにした。また来ます。
弥山と天狗岳を繋ぐその道は、タロットカードの愚者の絵柄のようで、25度との類似性を感じとった。

七霊山の響きあいもあるが、石鎚山系内での響きあいもある。時と目的または立ち位置によって、役割が交代するような感覚をもつが上手く言えない。

旅に出る前から、『海辺のカフカ』が気になっていた。登場人物や象徴としてのワード。
例えばジョニーウォーカーさん。究極の二極化とその統合を考えたときに、ワンネス💕って果たして喜べるのだろうか?と。否定するものとの一体化は恐怖でしかない。ではいったいジョニーウォーカーさんとは何なのか?の問い。

またこの小説には高知県の森が登場する。迷宮としての森。メタファー。闇とは何か?何かが訴えてきているのに…。

20年以上前に出版されたこの小説を読んで、カフカくんみたいに四国へやって来たことを思い出した。そしてまた再読をはじめた。

それとは別に、帰宅して読んだ本に「トマスの福音書」があった。好奇心で図書館で借りておいてあったもの。
これはナグハマディ文書がベースで、それは1945年にエジプトで発見され、グノーシス思想が色濃く反映されているとあった。
本の内容についてあれこれ語れる知識はないのだけれど、1945年の発見とグノーシスの情報だけで十分な気がした。

ただひとつ、以前から理解できなかった感情の根底にあるものに触れたような文章があったので、メモしておく。

『「当為」(宗教的敬虔)は「覚知」(グノーシス)による「存在」を得るための条件ではない。その限りにおいて、「当為」は批判の対象となる。しかし、「覚知」によって無条件に「恵み」として与えられた「存在」は、人間がなお「肉」にあり、「この世」にある限り「当為」によって保持され続け、「存在」は達成されなければならない。「存在」を守る手段としての「当為」は、覚知者にとってはむしろ「課題」となるのである。』



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