日本国憲法 第二十一条 二項 検閲は、これをしてはならない。

考えが人間の偉大さをつくる。
人間はひとくきの葦(アシ)にすぎない。
自然のなかで最も弱いものである。
だが、それは考える葦である。
彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。
蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。
だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。
なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。
宇宙は何も知らない。
だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。

 以上、17世紀フランスの思想家パスカルの代表作『パンセ』の有名な断章の冒頭から。

 尊厳を知らない知ろうとしない、人間を考えない考えようとしない、宇宙ならびに自然よりも、人間が偉大であるためには、「尊厳や人間とは何か」を知るために考え続けなければならない。

 人間は自分が直接見聞きした時ばかりでなく、言葉や文字や絵などを使った、さまざまな情報伝達手段によって、喜び怒り悲しみ、そして自らの生きる意味を考えている。

 人間は、情報によって自分の心を動かし、自分を変革する。
 変革した人間によって人間の心が動かされ、社会は変革される。
 つまり、情報は人間の心を動かし社会を変革する力をもっている
 それゆえ人類の歴史において、時の権力者は情報の内容と情報の伝達をコントロールしようとした。
 明治憲法下においては、治安維持法、治安警察法、出版法、新聞紙法、映画法など、思想警察すなわち内務省下特別高等警察によって、表現の自由は抑圧され、情報は憑依的にコントロールされた。
 この悲壮な思想弾圧をした歴史的経験の反省が、日本国憲法に反映されている。

日本国憲法 第二十一条
一項、集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
二項、検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

 無人島で行われる演説やデモを想像すればわかるように、表現者の発するメッセージ(情報)を受け取る者があってはじめて表現行為が社会的に意味をもつから、「表現の自由」は、表現の受け手までの連鎖的につながっていく「情報流通の自由」を含んでいると解さなければならない。
 表現の自由を情報流通の自由と捉えると、特定の者・機関に情報が集積し、それを独占して公開しないまたは流通させない場合に、その開示または流通を求める作為請求権、つまり情報公開請求権が構成されるのではないか、あるいは自分が発信したい情報をマスメディアがとりあげる作為義務を課す権利、つまり反論権を含む情報公開(流通)請求権が構成されるのではないか、という問題がある。
 また、表現の自由は、表現の「送り手」のみの見地から捉えるのではなく、表現の「受け手」の側の問題としてのアプローチが必要となり、知る自由または知る権利が論じられることになった。
 情報を受領する自由権は、情報の受け手の「知る権利」と呼ぶことができる。そして、この自由に関係する明文の規定として21条2項の検閲の禁止規定をあげることができる。これが「知る自由」を直接保証する根拠である。
 検閲の定義には含まれないが、表現行為の事前抑制も、表現の自由のもつ性質・機能の見地から原則として禁止される。

 明治憲法下における、当時の政府ならびに権力機構だけではなく、国民統合と戦争遂行を目的としたプロパガンダにメディアは加担した、"お国のため"と称して個人犠牲を目的とした相互監視を国民は行った。恐らく大半は、当時そうすることが「正しいのだと思った」または思考停止したからである。

 現在、コロナ対策禍と修飾mRNAワクチン接種禍が深刻である、という状況判断に立脚した場合、大日本帝国やナチスドイツなど国民統合と総力戦を目的とした情報統制とプロパガンダと凡庸な悪の歴史から、学ぶことは多そうである。
 コロナウイルスと修飾mRNAワクチンなどに関する情報を、マスメディア・SNS(YouTube、Twitter、Facebook、ブログ)・インターネットなどにおいて、事前抑制を含む検閲することを肯定するような世論が優勢であるように感じる。
 正しいと思われる情報を取捨選択して単純化し繰り返し流布する、正しいと思われない情報を無視または陰謀論などとして封殺嘲笑する、それはいつか来た道に思える。
 検閲の正当化として戦争遂行からコロナ対策遂行になった。

 コロナ対策至上主義(ワクチンは手段)による、個人の自由の制限を容易に可能にする正当化は、社会の広範囲で強力に機能している。
 ワクチン接種(あるいはマスク着用)は、周囲の人を守る・大切な人のため・社会のため、このような"お国のため"の復活は、驚異の影響力を放っている。

 すべての人権は公共の福祉による制限を受ける。
 しかし、「公共の福祉」という言葉には、私たち国民は細心の注意を払う必要があります。
 なぜなら、個人の人権が公共の福祉によって制限され得ることを、逆からいうと、「国家は公共の福祉を根拠にすれば、国民の人権を好きなように制限することができる」という結論につながりかねない。
 国家は「公共の福祉」という聞こえのよい言葉を表向きの理由として、本当は政府に都合のいいように国民の人権を侵害できてしまいかねない。