ハンセン病国賠訴訟(熊本地裁2001年平成13年5月11日)

 日本では、1907年(明治40年)に「らい予防ニ関スル件」という規定を作り、ハンセン病の「隔離政策」を始めました。
 また、病原が遺伝的に伝わるという考え方も残っていたため、患者には子どもを産ませない、もし妊娠しても中絶させるという、断種政策までもがとられるようになっていきます。
 当時は、感染の予防も治療も難しいとされていましたが、やがて効果のある治療法なども発見され、1956年(昭和31年)には隔離政策をやめようという宣言も出されるようになり、世界的には隔離せずに治療する方向へと変わって行きました。
 しかし日本では、まるで断種政策を受けた収容者が死に絶えるのを待つかのように、1996年まで厳しい隔離政策が続きました。
 1995年(平成7年)に、ある入所者が九州弁護士会に手紙を送り、訴訟を提起しました。
 1996年(平成8年)に「らい予防法」は廃止されましたが、ハンセン病の危険性が低いことや隔離の必要がないということはその何十年も前からわかっていたことで、1996年までの間、法律を廃止せずそのままにしていたということは立法不作為(法律を廃止しなかった国会議員と行政に責任がある)ということを国に対して問う、という裁判でした。
 裁判所は、国側に賠償を命じる判決を言い渡しました。その後、その判決に後押しされるように、ハンセン病患者に対するさまざまな救済が現実に進むようになりました。
 ハンセン病国賠訴訟の裁判を通じて、その問題の存在を日本人に知らしめ、「感染予防対策による政策すなわち隔離や断種などが、人権の侵害や非人道的な差別ではないか」との問題提起がされたことで、日本人を変えていった。